あひる WEB Edition



我家の近所にある新選組関係史跡

10期/猪早 逸郎


  「鳥羽伏見戦争と新選組」
          (中村武生/「歴史読本('02/12月号)」“特集:京都新選組1800日戦争”から、P124)

六.淀・八幡・橋本の戦い
  (1868年1月)六日、鳥羽伏見戦争最後の戦いの日である。八幡を通り越して京街道の宿場町橋本へ布陣する。ここには隣接して元治元年(1864)に建設されたばかりの橋本台場(正しくは楠葉台場)があった。橋本に布陣したのはこの台場の存在が大きい。
  その上で新選組は八幡へ出張った。土方らは京街道上の石清水八幡宮の鳥居前に、永倉らは石清水八幡宮のある八幡山(男山)中腹に移動した(永倉手記)。ところが新政府軍もまた楠葉台場を後方の山手から(東側)から襲うため、男山中腹を進軍した。両軍はここで衝突する。
  長州藩の正史「防長回天史」は、この邂逅について「幕兵ノ山中ニ在ルモノ」を「急ニ迫テ之ヲ襲ウ幕軍壊走山下ニ奔ル」とする。おそらくこれが永倉らだったのだろう。加えて淀川対岸の山崎から砲撃が加えられた。そこを守っていた津藩が新政府軍に寝返ったのである。ここに及んで幕軍は戦意を完全に失い、八幡橋本に放火し渡船、淀川を大坂城へ撤兵した。こうして鳥羽伏見の戦争は終わった。

  我々が学校の歴史で習った“鳥羽伏見の戦い”というのは、新選組を含む幕府軍と官軍と称した薩長軍とが、現在の京都市の南方に位置する鳥羽〜伏見近辺で戦い、その結果負けた幕府軍が大坂城へ退去するという内容が一般的であろう。しかし、詳細に歴史を時系列的に辿っていき、この戦いをきちんと表記するならば、“鳥羽・伏見・淀・八幡・橋本の戦い”という事になる。上記に引用した「鳥羽伏見戦争と新選組」の記述は、その間の後半部分の事情を簡潔明瞭に説明している。
  なお参考までに、これまでに刊行されたうちで私の所蔵する各種小説や紀行文などから、“鳥羽伏見の戦い”におけるこの八幡〜橋本エリアでの戦いに関して描写のあるものをピックアップして参考資料として添付した。これ以外にもご存知の方が居られればご教示いただけると大変ありがたい。  (→「新選組:八幡〜橋本での戦い」

  30年来にわたる新選組フリークの私としては、現在私の住んでいるごくごく近辺(京都府八幡市橋本新石)において、この歴史上有名な “鳥羽伏見の戦い” の最後の決戦−−−すなわち、新選組の京都における最後の戦いが行われたという事実は何とも興味深く、かつ胸躍らされる事実である。
  そこで私の住んでいるごく近所にある “鳥羽伏見の戦い” にちなむ新選組関係の史跡を、各種の刊行物やインターネットのホームページなどの記述を参考にして、写真とともに以下に紹介したい。(参考にさせていただいた資料類は文末を参照。)


周辺地図
[出典:「新選組を歩く」 (別冊歴史読本、新人物往来社)]
 



《追記》
最近購入した 「新選組最後の戦士 土方歳三と斉藤一」(洋泉社MOOK) という雑誌の中(P61)において、私の唱える “鳥羽・伏見・淀・八幡・橋本の戦い” という説を明瞭に可視化した図を見つけたので、参考までに追加した。

  (click → 図面が拡大)
  [2013.07.04:追記」

 ● 久修園院 (くしゅうおんいん、くずおんいん)

久修園院 久修園院真言律宗・別格本山・天王山木津寺・久修園院は、行基が五畿内(大和、山城、和泉、河内、摂津の五か国)に建立した49院の1つで、奈良時代の神亀2年(725年)に創建したと伝えられている古刹である。
鳥羽伏見の戦いの際には、新選組を含む幕府軍の本営が置かれた。当時は弾薬庫なども置かれていたが、これは後記する西遊寺に後になって移築された。
(写真左:西側から見た山門、写真右:北東側からみた本堂他)
津藩の攻撃により負傷した幕府軍歩兵指図役頭取の森田寛輔は、24歳の若さでこの寺で自刃した。その時、森田の部下の18歳と19歳の若者が介錯をつとめ、首級を本堂の傍らに埋めた。大正2年(1913年)になって、森田の首級は掘り起こされ、改葬されたとの記録が残っている。

この久修園院のある楠葉中之芝2丁目は、大阪府枚方市域の北西の角地に位置し、その北側は京都府八幡市になる。そして淀川を挟んで、大阪府三島郡島本町、京都府乙訓郡大山崎町とも境界を接している。すなわち、ちょうど大阪府と京都府の県境に位置する事になる。
我家からは徒歩で約10分弱の所にあり、本堂側を左手前方に見ながら毎朝通勤している。我家の車のガソリンを入れているガソリンスタンドの真向かい側が右側の写真であり、休日などは車でその横をよく通る。また京阪電車に乗って楠葉駅から京都方面に向かう場合は、楠葉駅を出てすぐに橋本駅との中間位のところで進行方向右手に、田圃越しに山門(左側の写真)とそれに連なる土壁(上部に看板あり)が目に入る。



 ● 西遊寺 (さいゆうじ)

西遊寺 浄土宗普現山西遊寺といい、鳥羽伏見の戦いの際に久修園院に置かれていた弾薬庫が移築され、現在も庫裏の南に現存して倉庫として使用されているそうであるが、久修園院から西遊寺に移築された経緯は不明。西遊寺の創建は古く、その前身は橋本寺と呼ばれる。行基が淀川に山崎橋をかけた時に、旅人の休息所として橋のたもとに造られた。そのずっと後の元亀元年(1570年)、現在の地に移転されたという。創建以来、単立寺院であったが、明治初年に金戒光明寺の末寺となった。

京阪電車・橋本駅の大阪方面行き改札口にちょうど向かい合う形で山門がある。我家からは徒歩で約10分程度の所にあり、私は毎朝この門を右手に見ながら通勤している。ちなみに同寺は保育園を併設しており、我家の子どもが小さい頃は友達の運動会などの見学を兼ねて中に入ったこともある。



 ● 楠葉砲台跡 (くずはほうだいあと)
楠葉砲台跡
大坂湾から淀川を遡上して京都へ侵入する外国船を想定して、元治元年(1864年)に淀川左岸(下流に向かって)に造られた砲台の跡。同じく淀川を挟んで対岸の右岸の島本町にも高浜砲台が築かれ、淀川の左右両岸から守備にあたった。慶応元年(1865年)にはさらに警備が強化され、双方の砲台近くに楠葉関門や船改め番所も設けられた。鳥羽伏見の戦いでは小浜藩と宮津藩が守備に付いたが、対岸の高浜砲台を守る津藩が裏切り、砲火を浴びせてきた。新選組を含む幕府軍は懸命に応戦したが、やがて砲弾を撃ち尽くし、大砲を破壊して撤退した。
現在では何もない農地の片隅でその一角まで住宅地になっているが、その跡地に、「戊辰役橋本砲臺場跡」と彫った石碑と、1995年に枚方市教育委員会が設置した説明板が立っている。

上の久修園院山門前の田圃道を京阪電車の線路と並行して南下すると、農地と住宅地の境目の小路のそばの一角(個人住宅の駐車場の一角?)に、右の写真のような「戊辰役橋本砲臺場跡」と彫った石碑と、1995年に枚方市教育委員会が設置した説明板が立っているのが、その跡地である。我家からは徒歩で15分位の所にあるが、うっかりすると見落としそうになる。

楠葉砲台跡の説明板 【「楠葉砲台(台場)跡」の説明文】
    (1995年、枚方市教育委員会作成)
元治元(1864)年、徳川幕府は大阪湾から京都に侵入する外国船に備えて、淀川左岸のここ楠葉と右岸の高浜(島本町)に砲台(台場)を築き、翌年には楠葉関門を設けた。
慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いで、薩長軍を中心とした官軍は幕府軍を撃破したが、高浜砲台を守っていた津藩藤堂家は、幕府軍の不利をみて官軍に内応し、小浜藩酒井家が守る楠葉砲台に砲撃を浴びせた。これにより、淀川を挟んで両台場は交戦することとなった。楠葉台場は、伏見、淀から敗走した幕府軍で混乱を極め、台場の守備兵は砲弾を撃ちつくしたのち、砲を破壊して退去した。
久修園院の南西方に砲台跡の土塁が残っていたが、明治末期の京阪電鉄の敷設に伴い土砂は運び去られた。
なお両台場に設置されたのは、カノン砲4門であったと考えられている。

(参考) 「楠葉台場跡の発掘調査現地説明会」 (on 2008/12/20) [2008.12.20:追記」

 ● 石清水八幡宮 (いわしみずはちまんぐう)
石清水八幡宮
日本全国に“八幡”とつく神社は3万ないし4万社を数えるといわれているが、なかでも石清水八幡宮は、九州の宇佐神宮、関東の鶴岡八幡宮とともにわが国の歴史上、極めて重要な地位を占めてきた。その歴史は古く、また神社のある男山は、京都の南西・裏鬼門にあたり、木津・宇治・桂の三川の合流点を挟んで天王山と対峙する交通の要地、政治上の重要な拠点に位置している。

石清水八幡宮の創建は平安時代初めの貞観元(859)年、大安寺の行教という僧が豊前国(今の大分県)の宇佐宮にこもった際、八幡大神様の御託宣(お告げ)を蒙り、同年男山の峯に八幡三所の神霊を奉安したことにはじまる。この年、清和天皇の命令を承けた木工寮権允橘良基は、すぐさま、この地に本殿三宇・礼殿三宇から成る六宇(ろくう)の宝殿を造営し、そこに八幡三所大神が正式に鎮座した。翌年貞観2(860)年4月3日のことである。

石清水八幡宮の社号は、今なお男山の中腹に涌き出ている霊泉“石清水”に因んだもので、そのほとりには、八幡三所大神が男山に鎮座する以前、すでに「石清水寺」という山寺が存在したといわれる。社号は明治初年に“男山八幡宮”と改称されたが、“石清水”の社号が創建以来の由緒深いものであるため、大正7年に再び“石清水八幡宮”と改称された。

源氏をはじめとする全国の武士は、八幡三所大神を武の神、弓矢の神として尊崇し、中でも源頼信にはじまる河内源氏の一族は、源義家が石清水八幡宮で元服して八幡太郎義家と名乗ったことからもうかがわれるように、八幡大神を氏神(一族の守護神)として仰ぎ、勢力の拡大とともに全国に数多くの八幡宮を祀った。さらに厄除けの神様として信仰の歴史は古く、全国屈指の厄除けの神社として、年間を通じ多くの参拝者が訪れている。
[石清水八幡宮のホームページから抜粋]

我が家はちょうどこの石清水八幡宮の南西側麓に位置し、参拝のメインルートである京阪電車・八幡市駅からのケーブル線とは別の、車か徒歩での参拝ルートの脇にある。お正月の初詣の時のみ、このルートは車の乗り入れが禁止され、徒歩での参拝になる。


 ● 橋本宿跡 (はしもとじゅくあと)

橋本宿跡「橋本」の地名の由来は、行基が725年にここに架けたと言われる山崎橋の橋の袂にあるのが地名の由来。しかしこの橋も文禄年間の架橋を最後に橋は架けられておらず、対岸の山崎とは昭和37年まで渡し船で往来していた。橋本は京街道の宿場町であり、さらには淀川対岸との渡し場でもあったので、そこにあった「橋本遊郭」は元禄時代から大いに賑わったとのことである。

現在では京街道の宿場町としての昔の面影はほとんどなく、石清水八幡宮の西側麓を中心に開発されてきた新興住宅街の乗降駅として、京阪電車・橋本駅が朝晩の通勤客で賑わう程度であるのは寂しい限りである。バブルの時期に、京阪電鉄が橋本駅周辺の再開発に取り掛かろうとした名残がみられるが、一住民としてはその再開を切に望みたいものだが....。



 ● 橋本の渡し場跡
橋本の渡し場跡
津藩の裏切りにより戦意を完全に失った幕府軍は、八幡や橋本に放火しこの渡し場などから渡船し、淀川を船で下って大坂城へ撤兵したと思われる。これによって世に名高い鳥羽伏見の戦いは終焉を告げた。
淀川を挟んで対岸の山崎との間に、昭和37年まで渡し舟が往来していたが、現在ではその当時を偲ぶ遺構は何も見当たらない。ただ京阪電車「橋本」駅大坂方面行き改札口前の路傍に、「橋本渡舟場三丁」と彫った石碑がひっそりと立っているのみである。








 ● 高浜砲台跡 (たかはまほうだいあと) 《参考》

高浜砲台跡高浜砲台は外島(淀川河川敷)の広瀬村界にあり、淀川に臨み、高さ八尺(約2.4m)、周囲100間(約180m)の規模であった。淀川改修のためこわされ、今はゴルフ場となっている。
慶応2年(1866年)10月、幕府の淀川制圧のため、高浜と対岸の楠葉に砲台を建設した。同4年正月3日鳥羽伏見の戦いに敗れた幕軍は、八幡、橋本、楠葉に集結し、薩長軍を迎撃しようとしていた。
当時幕命で山崎・高浜が藤堂藩、楠葉は酒井藩が守備していた。5日藤堂藩は勅使四条隆平に説得され帰順に決した。翌6日朝、対岸の幕軍に向かって、高浜砲台の新式四斤山砲は火を噴いた。
楠葉砲台も応戦し、夕刻まで砲戦は続いたが、幕軍は虚をつかれ、撤退していった。
            (島本町教育委員会「史跡をたずねて」より)






関 係 年 表
  年 号 日付    出  来  事
慶応3年
(1867年)
10/03 ・大政奉還の建白書提出
10/13 ・倒幕の密勅が薩摩藩に下る
10/14 ・徳川慶喜、大政奉還を朝廷に奏上
・倒幕の密勅が長州藩に下る
10/15 ・朝廷、大政奉還を許可
12/09 ・王政復古の大号令
慶応4年/明治元年
(1968年)
01/03 ・戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)、鳥羽街道の小枝橋で勃発
・新選組は伏見奉行所にて戦闘するも淀に退去
01/04 ・幕府軍、淀城下から鳥羽伏見へ進撃するも、富森まで撤退
01/05 ・淀川堤千両松付近で激戦
01/06 ・八幡・橋本での戦い、幕府軍は大坂へ退去
01/10 ・徳川慶喜、大坂より船で江戸に帰る
・徳川慶喜追討令
03/13 ・西郷隆盛と勝海舟の会談、江戸城無血開城の了解
03/14 ・5ヶ条の御誓文
04/11 ・江戸城無血開城
07/17 ・江戸を東京と改称
09/08 明治と改元、一世一元制となる



参考資料   「竜馬と新選組の京都」             (武山峯久、創元社)
          「土方歳三 幕末新選組の旅」         (河合敦、光人社)
          「図説・新選組史跡紀行」            (歴史群像シリーズ、学習研究社)
          「新選組を歩く」                  (別冊歴史読本、新人物往来社)
          「新選組大全史」                 (別冊歴史読本、新人物往来社)
          「鳥羽伏見戦争と新選組」           (歴史読本('02/12月号)、新人物往来社)
          「新選組最後の戦士 土方歳三と斉藤一」 (歴史REAL、洋泉社MOOK)
          その他各種の関連するホームページ   ...etc.
[受付:2004.01.03]

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