実は、この論文はある学生さんの論文なんですが、非常に出来がいいので掲載させていただきます。自分がアフガニスタンに2年くらい滞在したら、その中で勉強した事、体験した事などを論文形式に発表したいと思っております。

ソ連介入後のアフガニスタン内戦

〜ムジャヒディン闘争史〜

決して「穏やかな気候」とは言えないだろう。中央アジアの南に位置し、イラン・パキスタンに国境を接しているアフガニスタンは、冬になるとヒンズークシの白峰から吹き下ろす寒風に身をさらすことになる。冬は全ての活動を停止させる。この国の血なまぐさい主導権争いですら、その掟の前には従わざるを得ない、1978年12月、北方から最新近代兵器で武装したソ連軍が侵入、「シルクロード」の要衝として栄えたその地は、激しいゲリラ戦の舞台に様変わりした。そして冷戦終焉間際の1989年2月、約10年間続いたソ連の介入は「撤退」という形で終わる。反ソゲリラの英雄たちはイスラム国家の樹立を夢見て連合政権を発足させるも、失敗。以後、今日まで血で血を洗う内戦が続き、タリバン政権が樹立される。その後の経緯はもう皆さんも良くご存知だと思う。 

目次

·  第一章 地理・民族・歴史

·  第二章 ソ連介入前夜

l         第三章 ムジャヒディン政権誕生

·  第四章 アフガニスタン戦国時代

·  第五章 タリバン登場

·  第六章 パキスタンの孤立と第二次グレートゲーム

·  第七章 「アラブ・アフガン」と「オサマ・ビン・ラディン」

·  終章 アフガンの地に、平和は来るのか。

第一章 地理・民族・歴史    ページ先頭へ

 この章ではまず 1:アフガニスタンの位置と複雑な民族構成 2:現在までの簡単な歴史 を記したいと思う。

 まず位置だが、右の図をご覧いただきたい。北方を旧ソ連の中央アジア諸国、西をイラン、東から南をパキスタンと接しているのがわかると思う。19世紀、アフガニスタンが「グレートゲーム」の舞台、と称された意味がこれでわかるであろう。北方のロシア、南方のイギリスとの争いの地であったからだ(イギリスはインド地方を支配していた)。アフガニスタンはこの二強国との間で翻弄された。ロシアの影響が強くなるとイギリスに近寄り、イギリスの力が増してくるとロシアと手を結ぶ、こうやって右往左往しながらも、アフガニスタンは形の上では独立を守り続けた。

 つぎに複雑な民族構成についてだが、最多の民族はパシュトゥン人である。最多とは言え、その割合は40〜60%くらい(文献により割合が違っているが、だいたいこのくらい)。その他はタジク人、ウズベク人、ハザラ人などである。ここで注目してもらいたいのが、周りの国々と各民族の関係だ。パシュトゥン人が最も多く暮らしているのはアフガニスタンの東南、パキスタンとの国境地域。パキスタンの西部地域にもパシュトゥン人が多い。タジク人、ウズベク人もこれと同じである。これは、近隣国が各民族にとっての本拠地であることを示している。ハザラ人だけは特殊で、主にアフガニスタン中部に多い。ハザラ人はシーア派であるため、イランとの関係が深い。私が思うに、昔はここら辺一帯は各民族が入り混じって(もしくは住み分けして)生活していたのではないだろうか。それを「一民族、一国家」という西洋の概念が浸透してきたため、“複雑な民族構成”と呼ばれる事態になってしまったのだろう。島国日本の我々には想像しにくいかもしれない。これらの民族がこの後登場するムジャヒディン達のバックについている、そしてこの内戦は各民族間の争いである、とする意見もあるが私はそれが本当の原因ではないと思っている。それについては追々書くとして、現在までの略歴に移りたいと思う。

 18世紀後半からその歴史をみていくことにしたい。18世紀後半、北のロシア・東南のイギリス・そして西のペルシアがその触手をアフガンの地に伸ばすようになる。ペルシアはすぐに手を引くことになるが、ロシア・イギリスは互いに譲らず。双方の国に翻弄されながらも、やがてアフガニスタンは独立に至る。しかし、独立したとしてもこの二国の影響はなくならなかった。この状況は第二次大戦後、イギリスがインドから撤退することにより一変する。イギリス撤退はソ連にしてみれば、目の上のたんこぶがとれたも同然。徐々に共産主義勢力をアフガンの地に浸透させていった。

 アフガニスタンは立憲君主制の国だった。ロシア・イギリスの干渉はあったが、形だけは独立していたアフガニスタンは賢明な国王の元で近代化を図る。これには皮肉なことに、ロシア(ソ連)やイギリスの影響を受けて近代化できたのだろう。この王制は73年まで続くことになるが、この年、軍事クーデターが発生して共和制の国に。このクーデターに深く関わったのがアフガニスタン共産党。新政権の閣僚のうち7人は共産党の出身者だった。これ以後、アフガニスタンはソ連の影響を直接的に受けるようになる。

 しかし、ソ連の影響を受けると同時に反ソ運動も起こるようになった。過去の忌まわしい歴史が影響しているのだろう、ソ連もロシアもアフガニスタンに住む人々にとっては名前が変わっただけのこと。よそ者が自分たちの生活を左右することには何らかわらない。反ソ・反共運動が起こったのは当然のことであったと思う。この抵抗運動により、国内の治安は悪化。ソ連はこれに目を付け、1979年12月、「アフガニスタンの治安を回復する」と言う名目で軍事介入。真の狙いは不凍港を求めてインド洋・中東に向かうルートを確保したかったと、いわれている。ソ連は10万人以上の軍隊を率いてアフガニスタンに介入。これに抵抗したのが反ソ運動をしていたイスラム教徒たちであった。

 祖国を救うべく、そしてイスラムを蹂躙するものを排除するために彼らはゲリラ戦でソ連に立ち向かった。また、他のイスラム諸国の教徒たちもイスラムの名の下にアフガンに馳せ参じてゲリラ活動を展開した。このゲリラ活動を支援していたのがアメリカとパキスタンとサウジアラビアである。アメリカは武器とゲリラ戦術を、パキスタンは訓練場を、サウジアラビアはその資金を、それぞれ提供し一流のゲリラを養成した。余談になるが、現在イスラム原理主義としてあちこちで「アラブ・アフガン」と呼ばれる人たちがテロ活動をしている。この人たちは、ソ連介入のときにアフガニスタンに馳せ参じ、ゲリラ養成所で訓練を受けた外国のイスラム教徒たちである。ソ連撤退後、彼らは自分たちの国に帰り反政府活動・反米活動をしている。アメリカがもっとも恐れる人物、「オサマ・ビン・ラディン」もその一人である。

 この抵抗運動と冷戦末期という時期が影響し、ついにソ連は1989年2月に10年近く続いた軍事介入から手を引いた。そしてそれから2年後、後ろ盾を失ったアフガニスタン共産党政権は崩壊、そのあとを引き継ぐ形で、反ソ抵抗運動の指導者たちが連合して政権を発足させることになる。アフガニスタンの人たちは彼らをムジャヒディン(=聖戦士)と呼び賞賛し、また世界の人々もゲリラ活動でソ連を追い出した彼らに期待を寄せた。

「これでアフガニスタンは平和になる」

そう思ったのだ。だが、それも夢の話となる。権力の座を巡ってムジャヒディン同士で仲間割れが発生したのだ。この仲間割れは内戦に発展、これ以後、首都カブールを中心に激しい権力闘争が繰り広げられた。その間、難民は400万とも600万ともいわれパキスタン・イラン・中央アジア諸国に逃れている。

 そんな状況が2年近く続いたあるとき、突如アフガン南部から新興勢力が現れた。これがタリバンである。このタリバン、アッと言う間に各地方の主要都市を抑えることに成功、ムジャヒディンたちはことごとく駆逐されていった。当初、アメリカを初め多くの国々はこのタリバンが内戦に終止符を打つだろう、と思っていたが、このタリバン、コーラン(イスラム教の教典)・シャリーア(イスラム法)を必要以上に過激に解釈しているのか、「超原理主義」と呼ばれる行動にでた。厳しすぎる処刑方法、極端な女性差別、アヘン生産の奨励などなど。こういう情報により、各国のタリバンに対する反応は硬化。タリバン政府を承認している国は、タリバンを支援しているといわれているパキスタン・サウジアラビア・アラブ首長国連邦の三カ国だけである。

 このタリバンは破竹の勢いで各地のムジャヒディン勢力を倒していきアフガンのほぼ全土を手中に収めている、というのが現状だ。この新興勢力に唯一抵抗しているのが「アフガニスタンの英雄」「パンジシールの獅子」といわれるマスード司令官の「北部同盟」だけだ(彼についての詳しい説明は後で)。つまりアフガニスタンの現状は、

タリバン Vs マスード

ということになる。さて話は変わるが、この内戦が長引いた原因の一つに、中央アジアの石油や天然ガスを運ぶ、パイプライン建設問題があった。アフガニスタンを通る予定のパイプラインに、近隣諸国、アメリカ、ロシア、日本の権益が絡んでいる。このパイプライン建設問題とアフガン内戦は複雑に絡み合い、その姿はまさに「国際政治」そのものである。 この状況をパキスタンのジャーナリスト、アハマド・ラシッドは「第二次グレートゲーム」と呼んだ。

 以上がアフガニスタンの地理的状況と略歴である。学術論文とは一般の人向きには書かれていない、だから取っ付きにくいのである。その弊害がないように読みやすく書いてみたが、どうであろうか?(難しい文を書くのは自分としても面白くないし、なによりできない...) 以下の各章では今回の主役たち、ムジャヒディンの闘争の歴史を追いつつ、現在に至るまでの細かい歴史を見ていくことにする。

第二章 ソ連介入前夜    ページ先頭へ

 この章ではソ連が介入するまでのアフガニスタンの歴史をムジャヒディン達の活動を通して見ていくことにする。話は1950年代後半までさかのぼる。このころのアフガニスタンはまだ王制だった。憲法も制定されているので立憲君主制の国である。この国を統治する歴代の王たちはアフガニスタンを徐々に近代化していった。一例を挙げると、

·  女学校を開設(短期間ではあったが)

·  外国語学校を開設

·  エリート養成のためのカブール国立大学を開設

·  イスラム教ではお馴染みの、女性の顔を隠すための黒いベールを脱ぐことを奨励

·  官僚には洋装を強制

などを行った。もちろん、全ての国王が上記のことを行ったわけではないが、いずれにしろ、近代化に向けて進んでいったことは確かである。そのなかでもカブール国立大学は今後のアフガニスタンに大きな影響を与えることになった。この大学は既存の法学部や薬学部などの学部学校を統合した総合大学として誕生した。この大学に1958年、カイロ大学に留学していたグーラム・モハマッド・ニアズィーという人が神学部の講師として就任する。彼は学生や教授たちを中心にした“イスラム団体”を作るために活動を開始し、「イスラム協会」という団体をつくった。さらにこの協会はこのあと「ムスリム青年組織」という過激な組織を創り、60年代中頃から急速に影響力を増してきた共産主義勢力に対抗することになった。このイスラム協会に後の「ムジャヒディン」となる人物たちが顔を合わせることになる。その代表としてブルハヌディン・ラバニグルブディン・ヘクマティアルアハマド・シャー・マスードがいる。

 さて、王制アフガニスタンに突然の軍事クーデターが発生する。1973年7月17日、国王ザヒル・シャーが眼の治療のためイタリアを訪れていた間、彼の甥であるダウド将軍(元アフガン首相)がクーデターを起こし、共和制へ移行させたのである。この新政府の閣僚14人中、7人はアフガニスタン共産党党員であり、また約160人の共産党員が行政官として地方に派遣された。このことからもわかるように、このクーデターには共産党の支援があったのだ。

 ダウド新大統領は体制固めのため、全ての政治グループを禁止した。イスラム協会もその例外ではなかった。クーデターが起こる前、すでにイスラム協会は非合法ではあったが政党として組織されていた。そのため、ダウドにより弾圧のターゲットになったのである。イスラム協会の主要メンバーはその動きを察知し、隣国パキスタンのペシャワールという街に逃げ込んだ(1974年)。前述したラバニ・ヘクマティアル・マスードもここに逃げ込み、さらにこの街にはイスラム協会以外で弾圧のターゲットになった人たちも多数逃げ込むこととなり、やがてこのペシャワールから反政府ゲリラがいくつも組織されることになった。そしてこの反政府ゲリラたちがアフガニスタンに介入したソ連を追い出すべく抵抗運動を繰り広げたのである。つまりペシャワールは「ムジャディン」たちの活動拠点となったのだ。このペシャワールで誕生し、ソ連を追い出すべく活躍した主な団体は以下の通りである。それぞれ詳しい説明があるのでそちらも是非見ていただきたい。

·  イスラム協会

·  イスラム党

·  アフガニスタン・イスラム革命運動

·  アフガニスタン国民救国戦線

·  アフガニスタン・イスラム国民戦線

·  イスラム党ハリス派

·  アフガニスタン解放イスラム連合

 またこれとは別にアフガニスタンの内戦に大きな影響を与える団体として、

·  イスラム団結党(のちのイスラム統一党)

·  イスラム国民運動(ドスタム将軍派)

がある。以上9つの勢力がソ連撤退後のアフガニスタンで権力の座を奪い合った。

 さてアフガニスタンでは、その勢力を拡大していった共産党による「流血の内部抗争」が起きていた。アフガニスタン共産党は1965年に結党したが、革命路線の相違により二つに分裂した。「ハルク(人民)派」と「パルチャム(旗)派」である。まず、1978年4月にダウド大統領がハルク派のクーデターにより暗殺。ハルク派のリーダー、タラキがつぎの大統領になったものの、またも暗殺。彼の後継者アミンもソ連進行時に暗殺され、パルチャム派のカルマルが大統領になった(1979年12月)。この間、わずか20ヶ月くらいの出来事であった。

 次の章ではソ連の侵攻、諸外国の支援、ムジャヒディン政権誕生までを見ていく。

第三章 ムジャヒディン政権誕生    ページ先頭へ

 1978年12月、ついにソ連軍がアフガニスタンの地に進行してきた。その数、10万人。米ソ冷戦・開発競争がもたらした最新式の装備で彼らはやってきた。迎え撃つアフガン人達は、いたって普通の人々だった。大学の教授だった、学生だった、サラリーマンだった。超一流の戦争のプロ相手に、素人達が勝てるはずもなかった。

 二章でも書いたが、共産党の影響力が増すに連れ、アフガン国内・国外(主にペシャワール)で反体制運動、反共運動が盛んになった。ペシャワールでは組織された反体制ゲリラが活動を開始していた。ソ連はこれに眼を付けたのである。「反体制運動により、アフガニスタンの治安は悪化した。これを回復する。」しかし、その本当の目的は

1:冬になっても凍らない港(不凍港)が欲しかったために南下した
2:中東の石油に手を出したかった
3:アメリカの同盟国であるパキスタンをやっつけたかった

などであろう。しかしソ連の南下を黙って見過ごすわけにはいかない、なんとしても南下を阻止しないといけない国があった。それがアメリカ・パキスタン・サウジアラビアである。アメリカはソ連の拡張=共産主義の拡張を阻止したかった。パキスタンは国境を接するアフガニスタンがソ連の完全支配下に入った場合、自国の安全が脅かされると感じた。サウジアラビアの事情はよくわからないが、ソ連が中東の石油に手を伸ばせば、いままで通りの石油ビジネスが思うようにいかなくなるし、また宗教を禁じるソ連はイスラムの敵でもあった。

 この三カ国はアメリカが「武器」と「ゲリラ戦術」を、パキスタンが「軍事施設」を、サウジアラビアが「資金」を、それぞれ惜しみなく提供した。また、パキスタンとサウジアラビアは世界のムスリム(イスラム教徒)に「イスラムの危機」を知らせた。これに呼応した世界中のムスリム達がアフガニスタンに馳せ参じた。このムスリム義勇兵により、「人員」が確保できた。つまりソ連に対抗するための「武器」「戦術」「施設」「資金」「人員」は全てそろったことになった。

 いつしか、このソ連への抵抗は「イスラムを守るための聖戦」、「ジハード」と呼ばれるようになった。そしてアフガンに暮らす普通の人々、大学教授・学生・サラリーマン、さらに世界中から集まった義勇兵たちは米・パ・サウジの援助により、一流とは言えないまでも立派な戦士に成長した。この「イスラムの聖戦を戦う戦士」たちこそが「ムジャヒディン」なのである。その「ムジャヒディン(=イスラム聖戦士)」たちの中でも特に影響力が強かった人々が、二章で各自の組織を作ったリーダー達である。とりわけ、イスラム協会のラバニとマスード、イスラム党のヘクマティアルが重要人物である。

 ムジャヒディンたちは激しいゲリラ戦を展開した。首都カブール北部のパンジシール渓谷は「自然の要塞」になった。そこに立てこもり、抵抗を続けたアハマド・シャー・マスード司令官や、アフガン西部の歴史都市ヘラートでソ連に大いなる痛手を負わせたイスマイル・ハンなどは、「Russian War Hero」(ソ連聖戦の英雄)と呼ばれた。そして彼らは勝った。ジハードは成功し、ソ連は撤退した。(1989年2月)。さらに三年後の1992年には最後の共産党政権、ナジブラ政権を打倒しアフガニスタンから共産主義を追い出したのである。ムジャヒディンたちはカブールに入城し、そしてイスラムに基づく連立政権を発足させた。このムジャヒディン政権は国内から、世界中から期待を集めた。

「これでアフガニスタンは平和になる」

 しかしこの連立は失敗した。不安定要素があまりにも多すぎたのだ。大統領に就任したのはイスラム協会のリーダー、ブルハヌディン・ラバニ。首相に就任したのはイスラム党のリーダー、グルブディン・ヘクマティアル。そして国防相に就任したのはイスラム協会の軍事司令官、アハマド・シャー・マスード。しかし思い出して欲しい。元々ヘクマティアルはラバニたちとは仲が悪く、イスラム協会を脱会してイスラム党を作ったのだ。さらにマスードとヘクマティアルの仲は、ダウド政権に対するクーデター失敗以来、最悪である。国防相のポストを巡ってヘクマティアルは反発し、ラバニは苦渋のすえ、マスードを解任。対ソ聖戦の英雄をカブールから追い出し、パキスタンとの独自のつながりを持つ過激なヘクマティアルを迎え入れる結果になった。

 さらにこの政権はウズベク人勢力のドスタム将軍派とハザラ人勢力(シーア派勢力)を無視した。ドスタム将軍は共産党政権下の軍人だったがナジブラ政権末期に情勢不利と判断し、ムジャヒディンたちに寝返り彼らのカブール入城を助けた功労者であった。しかしそのドスタム将軍には何のポストも与えられなかったため、彼は勝手に北部六州を占拠してしまった。旧政権下の軍事物資を多数抱えているドスタム派はこれから起こる内戦の重要なアクターになる。

 ハザラ人勢力はペシャワールのムジャヒディンたちとは一線を画していた。彼らはイスラム教シーア派で、それぞれイランからの支援を受けてソ連に抵抗していた。このため、パキスタン・サウジアラビアはハザラ人勢力をイランの傀儡とみなし、連立政権の主要なポストには就けなかった。ハザラ人勢力は当然不服に思っていたし、イランも同じであった。後に8つのハザラ人勢力はイランの指導の元、「イスラム統一党」という名で一本化され、ドスタムと同じく今後の内戦の重要なアクターになる。

 しかし最大の失敗要因は、各組織間の不和だと思う。ナジブラを倒しカブールを占拠する際、分割統治を巡って激しい戦闘が起こった。分割統治に参加したのはイスラム協会・イスラム党・シーア派勢力・ドスタム将軍派。ここで多くの犠牲者と以後に渡る怨恨を生んだ。しかしこのような状態になるということは、それ以前から不和はあったのである。イスラム協会とイスラム党の不和、ムジャヒディン勢力と旧政権の軍人との不和、スンニ派とシーア派の不和、パキスタン・サウジとイランとの不和、これでは連立が上手くいくはずもなかった。そしてこれ以後、本格的な内戦が始まるのであった。

第四章 アフガニスタン戦国時代    ページ先頭へ

 ソ連と共産主義を追い出すことに成功したイスラム聖戦士、ムジャヒディン。彼らは一様にイスラムに基づく国家を創ろうとしていた。しかしお互いがお互いを信頼せず、譲り合わず、自らが指導者になることを望み、関係国もそれぞれに息がかかる勢力を支援し、そしてこの国はバラバラになった。

 ムジャヒディンたちは連立政権が無理と判断するや、二つのグループに分かれて対立した。1992年〜94年のことである。一つはイスラム協会、ラバニを中心とするグループ。もう一つはイスラム党、ヘクマティアルを中心とするグループである。主な勢力はこの表の通り。

ラバニ派

反ラバニ派(最高調整評議会)

ラバニ、マスード(イスラム協会)

ヘクマティアル(イスラム党)

サヤフ(イスラム連合)

ドスタム将軍(イスラム国民運動)

イスマイル・ハン(ヘラート知事)

ムジャデディ(国民救国戦線)

アクバリー(イスラム統一党アクバリー派)

マザリー(イスラム統一党マザリー派)

本当はもっと多くの組織が絡んでいるのだが、ここではわかりやすくするために主要な組織だけを記した。このどちらにも属さない中立グループも存在していた。

 彼らは首都カブールだけでなく、全アフガニスタンで激しい戦闘を繰り広げた。この対立は民族間・宗派間の対立だけでなく、同じ民族間・宗派間でも対立するようになった。表を見ていただければわかるが、スンニVsシーアの対立だけでなく、スンニ同士、シーア同士の対立でもあるし、パシュトゥン人同士、ハザラ人同士の対立でもある。さらに反ラバニ派は一応の提携はしているものの、完全にはまとまることはなく、内部分裂も何回か起こしていた。私は

この混沌とした状況をみて「これは民族紛争なんかではない」と思ったのである。「民族間の対立」という判りやすいものではない、もっと複雑で、もっと醜い争いなのである。しかし、「民族間の対立」という側面を完全には否定できない。それは次に述べる近隣諸国の支援を見ればわかるであろう。

 ただでさえ複雑なこの内戦を、もっと複雑に、そして長引かせたのが近隣諸国の無責任な支援である。パキスタンはヘクマティアルを、タジキスタン・インドはラバニを、ウズベキスタンはドスタムを、イランは両勢力のシーア派を、サウジアラビアはヘクマティアルとサヤフを、それぞれ支援していたのだ。

パキスタン

ヘクマティアル

インド

ラバニ・マスード

タジキスタン

ラバニ・マスード

ウズベキスタン

ドスタム

サウジアラビア

ヘクマティアル、サヤフ

イラン

マザリー派、アクバリー派

 この一見無秩序な援助は、各国の利益・安全保障に沿った結果であった。

パキスタンはダウド政権時よりヘクマティアル支援。ヘクマティアルが権力を握れば中央アジア・イランとの貿易ルートを独占できるし、パキスタン最大のライバル、インドとのカシミール紛争もやりやすくなる。

それに対抗するために、インドはヘクマティアル最大のライバル、ラバニ・マスードを支援。

タジキスタンはタジク人のラバニ・マスードを支援し、ウズベキスタンもウズベク人のドスタムを支援。両国の支援は民族的なつながりもそうだが、内戦後のアフガニスタンに与える影響力を確保しておきたかったため、とも考えられる。

サウジアラビアは国教であるイスラム教ワッハーブ派の拡大と、内戦後のアフガニスタンに与える影響力を睨んで、違う陣営に属するヘクマティアルとサヤフを支援。

イランはアフガニスタンでは少数のシーア派を今後も存続させるために、両勢力のシーア派を支援。隣国が完全なスンニ国家になっては困るからだ。

 この各国支援の様子をみると「民族間の対立」という側面も否定できないであろう。しかし、やはりこの内戦は「民族紛争」なんかではない。「民族」というかなりあやふやな概念を口実に、近隣諸国が自らの利益を拡張、または維持しているだけではないだろうか? 各勢力は近隣諸国の「コマ」にすぎないし、近隣諸国は各勢力の「スポンサー」にすぎない。この内戦は「民族紛争」ではなく、一国家内の「権力闘争」であり、それに乗じた近隣諸国の「パワーゲーム」なのである。

 この「権力闘争」と「パワーゲーム」はアフガニスタンの分裂を促し、400万人以上の難民を生んだだけだった。またムジャヒディンたちは、その組織の大小を問わず、略奪や暴行を働き、一般の人々から煙たがられていた。中には落ちぶれて山賊と化したムジャヒディンもいて、地方で暴れ、勝手に通行税を取り、国内経済をマヒさせた。もはやその名に「聖戦士」の面影はなかった。 混沌とした状況を人々が憂い始めていたとき、一つの希望が見えた。この状況を一変する新たな勢力が登場したのである。1994年11月、南部の都市カンダハルにその勢力は現れた。それが「タリバン」だった。

第五章 タリバン登場    ページ先頭へ

 ソ連の介入、その後の内戦。いつ終わるとも知らないこの国の混乱は人々を疲弊させた。なんとかしなければならない状況だが、なんとも出来ない状況だった。そんなとき、人々の鬱積した不満を瞬く間に解消してくれるグループが、突如現れた。人々は彼らに期待し、そして、後悔した。

 連立政権後の内戦は各地に悲惨な爪痕だけを残した。南部の都市カンダハルでは、山賊と化したムジャヒディンが暴行・略奪を繰り返し、法外な通行税をとって私腹を肥やした。この状況に立ち上がった人物がいた。それがカンダハルのイスラム指導者、ムラー・ムハンマド・オマルである。彼は自分の弟子たち30人にわずか16丁の自動小銃を持たせ、ムジャヒディンの基地を襲撃させた。そして彼らを駆逐することに成功した。1994年、春のことだ。

 この勝利のあともムラー・オマルと彼の弟子たちはカンダハル各地の軍閥たちを倒していき、そして武器を手に入れ勢力を拡大していった。この勢力が「タリバン」である。しかしまだ彼らの存在は知られていなかった。それが公になったのは94年11月、パキスタンのトラック部隊拉致事件をタリバンが電撃的に解決したときからだった。この事件を解決し、カンダハル最大の軍閥を追い出し、ついにアフガニスタン第二の都市を占領した。そしてこれ以後、アフガニスタン各地のムジャヒディンたちを倒していく。

 まず95年2月にヘクマティアルに勝利。ヘクマティアルはこれ以後、弱小勢力になる。同年3月にイスラム統一党マザリー派に勝利。党首のマザリーはタリバンに捕まり、護送中にヘリコプターから突き落とされ死亡(タリバンは「暴れて勝手に落ちた」と言っている。マザリーの後任はハリリという人物)。9月にはイスマイル・ハンに勝利、西部の歴史都市ヘラートを占領。反ラバニ連合はタリバンとの接触を試みるも、失敗。「各ムジャヒディン勢力は武器を捨てて投降しろ。協力はしない。」と言い切ったのである。

 皮肉にも、このタリバンの拡大は各ムジャヒディン勢力をまとめることになった。96年5月、弱小勢力になったヘクマティアルはラバニとの関係修復を図り、8月にはドスタム派もまたラバニ派と事実上の停戦に合意。これにより反ラバニ派は瓦解。勢いに乗るラバニ派であったが、タリバンは9月についに首都カブールを制圧。タリバンの急進撃におそれを抱いたムジャヒディン勢力は反タリバン連合「祖国防衛最高評議会」を発足。あのヘクマティアル、ドスタム、イスラム統一党(シーア派勢力)ですら、ラバニやマスードがいるこの連合に参加した。

 タリバンの勢いはまだ止まらない。97年にはドスタムの部下、マリク将軍に働きかけ、ドスタムをトルコに追い出すことに成功。その後、ドスタムは帰還しマリクを引きずり下ろすが、98年の8月にタリバンとの戦闘に敗れ、再びトルコに敗走。北部の要衝マザリ・シャリフがタリバンの手に落ちた。この際、イランの外交官までも殺害してしまい、激怒したイランとの軍事衝突寸前まで緊張状態が高まった。さらに同じ月にはイスラム統一党ハリリ派を倒し、アフガニスタン中部のバーミヤンも手に入れた。 そして現在、各勢力の残兵はマスードが指揮する「北部同盟」の元に集まった。少数精鋭のこの北部同盟だけが、唯一タリバンに抵抗しているグループである。しかし、その支配地域はアフガニスタン全土の5〜10%にすぎない。90%以上をタリバンが支配しているのだ。このタリバン支配の状況により、各国支援の様子も以下のように変わった。

タリバン

マスード(北部同盟)

パキスタン

タジキスタン

(サウジアラビア)

ウズベキスタン

 

イラン

 

インド

 またタリバンは国際的な承認を受けていない。承認しているのはパキスタン・サウジアラビア・アラブ首長国連邦の三カ国のみである。さらに、国土の90%以上を獲得しているにも関わらず、国連の代表権も持っていない。代表権は依然、北部同盟のラバニ大統領が握っている。ではこの「タリバン」とは、一体何者なのだろうか?

 「タリバン」とはイスラム神学生「タリブ」の複数形のこと。彼らのほとんどはジハードのときにパキスタンに逃れた難民、またはその子供たちで、パシュトゥン人で構成されている。その名の通り、マドラサ(イスラムの学校)の生徒たちだ。根拠地は南部の都市カンダハル。このカンダハルという町はソ連侵攻以前から貧しい町で、後進地区だった。教育もあまり十分ではなく、イスラムの教えもパシュトゥン人の掟、「パシュトゥーンワリ」と混ざったモノだ。彼らの指導者はムラー・ムハンマド・オマル。カンダハル近郊の農村のムラー(イスラム指導者)だった。先にも書いたが、長期化する内戦を憂い、弟子たちともに立ち上がった。それが94年春のこと。

 このころパキスタンの対アフガニスタン政策は手詰まりだった。支援してきたヘクマティアルはラバニたちの前に思うように勢力を拡大できず、また権力志向ゆえの傲慢な態度は他の民族だけでなく、同じパシュトゥン人からも距離を置かれるようになってしまった。繰り返し行った首都カブールへのミサイル攻撃により、カブール市民も彼を嫌った。パキスタンとしては彼を支援し続けるか、それともヘクマティアルをおとなしくさせてもう一度連立政権を作らせるか、または別の組織を支援するか、で悩んでいたところだった。そんなときに、カンダハルで勢力を伸ばしつつあったタリバンをパキスタンは見つけ、以後、パキスタンは公然とタリバンを支援している。

 さてこのタリバンなのだが、かなり「変」である。まず彼らのイスラムはアフガニスタンにはそれまで存在していなかった。アフガニスタンには三つのイスラムがあった。一つ目はスンニ派ハナフィイ学派の伝統的イスラム。二つ目はその伝統的イスラムにスーフィズムが影響を与えたイスラム。そして三つ目は1960年代のイスラム急進派である。ラバニやヘクマティアル、マスードはこの急進派に分類される。しかしタリバンはこのどれにも属さない独自解釈のイスラムを信奉し、それ以外のイスラムは間違ったモノと決めつけている。彼らが独自解釈に至った原因は、パシュトゥン人だけの掟「パシュトゥーンワリ」が影響を与えていたことと、貧困による教育不足のために不十分なイスラム知識しか持ち合わせていなかったことがあげられる。その例を二つほど挙げる。

●性犯罪者に対する処刑で彼らは前代未聞の処刑方法を行った。獣姦の罪で死刑を宣告された三人の男性は、土とレンガの巨大な壁の下に連れて行かれ、その壁を戦車が押し倒し、瓦礫の下敷きになって死んだ。タリバン曰く「シャリーア(イスラム法)に基づいた処刑」だそうだ。しかしこんな処刑は他のイスラム国では行われていないし、シャリーアには「壁を崩し、その下敷きにさせて処刑せよ」ということは書いていない。

●タリバンの指導者、ムラー・ムハンマド・オマルは1996年4月4日、あるビルの屋上に預言者ムハンマドの外套を着て現れた。この外套は60年間、聖地から持ち出されたことのないものだった。ムラー・オマルがこの外套を着て屋上に立ち、風に翻させたりすると、下の広場に集まっていたムラー(イスラム指導者)たちは大声で叫んだ「アミール・ウル・モミンイーン!」。この「アミール・ウル・モミンイーン」とは「全世界のムスリムたちの指導者」という意味である。しかしこの行為はアフガニスタン国内のムスリムだけでなく、世界中のムスリムに対する侮辱でもあった。学識もなく、部族的権威もなく、預言者の血筋とも関係のない貧しい村のムラーが、これほど重要な称号を勝手に名乗ったからだ。これは彼らのイスラム知識の無さを大いに示している良い例であろう。

 また女性の存在も否定している。女性は教育を受けてはならず、働いてはならず、町によっては外出すらしてはならない。なぜなら女性は「誘惑により、アラーへの信仰を妨げるもの」だからだ。女性の国連職員ですら活動を禁止され、鞭を打たれた職員もいた。餓えで苦しんでいる人々への食料援助要員ですら、女性という名目で活動を禁止された。アフガニスタンでは内戦・干ばつ・地震により、十分な作物が収穫できず、餓死者が50〜100万人と言われているのに。

 さらに西欧の文化だけでなく、アフガンに暮らす諸民族の文化までも否定している。音楽・踊り・スポーツ、そして凧揚げすら禁止された。1996年12月、カブールで発表された宗教警察総本部の布告には次のように書かれている。

6、凧揚げの禁止。凧を売る店は廃止されなければならない」
「12、結婚式で歌や踊りの禁止。これに違反した場合は家長が逮捕され、罰せられる。」

 さらにさらに、麻薬には反対しているがアヘンには賛成の態度を取っているのだ。イスラム教では麻薬は厳禁だが、彼ら曰く、「アヘンはアフガン人には消費されず、イスラム不信者に消費されるからいいのである。」つまりこれは、海外にアヘンを輸出しているということだ。95年以降、カンダハル一帯はアヘンの生産量が飛躍的に増加した。タリバンがケシ栽培を奨励しているからだ。このアヘンはイラン・中央アジアを通ってロシアやEU、アメリカ、そして全世界に流れ出ている。

 このようなタリバンの偏ったイスラムはアフガニスタンをパシュトゥンと非パシュトゥンに二分してしまった。タリバンは支配地域を拡大させると同時に、その独自のイスラムを諸民族に強制したからだ。そして彼らの文化を破壊していった。各勢力の残兵たちがマスードのもとに集まり、北部同盟を結成する背景にはこういったタリバンの蛮行があったからだ。またアフガンに暮らす普通の人々も彼らを恐れた。ムジャヒディンたちが内戦をしていた時代の方がまだ「自由」はあったのだ。ムジャヒディンたちは「イスラム原理主義」と呼ばれていたが、それでも近代化には前向きだったし、女性の地位も認めていた。しかしタリバンは、反近代的・反西欧的、そして女性を認めなかったのである。

 それではなぜこのタリバンが快進撃を続けることが出来たのであろうか? 次の章ではその原因と、その快進撃がもたらした各国の新たな「グレートゲーム」について記していく。

第六章 パキスタンの孤立と第二次グレートゲーム    ページ先頭へ

 94年11月に姿を現した新勢力「タリバン」。彼らはラバニたちが手を焼いたヘクマティアルを倒し、ヘクマティアルたちが成し遂げられなかった首都カブールを落とし、ソ連が10年かかっても実現できなかったアフガニスタン全土を、わずか4〜5年で手に入れてしまった。武器の扱い方も知らない貧しい村の「タリブ」たちに、なぜこのような偉業ができたのであろうか?

 その理由は三つある。

1 ソ連侵攻・内戦に疲れた人々の支持
2 ヘクマティアルから乗り換えた、パキスタン・サウジアラビアの援助
3 運送マフィアの支援

 まず「1」について。1978年12月に始まったソ連の侵攻、そして1992年から始まったムジャヒディン各派による権力闘争。この十数年間の最大の犠牲者は一般の人々だ。彼らは家を失い難民となり、中央アジア・イラン・パキスタンに逃れた。残った人々も相次ぐ内戦と追い打ちを欠けるような大干ばつ・二度の大地震により生活はどん底だった。難民の数、400万人以上。餓死者の数は年間50〜100万人。アフガニスタンの人々は、もう疲れた。誰がリーダーになっても良いから、最低限の行政活動をして欲しかった。

 タリバンがそれをかなえてくれると思った。彼らは他のムジャヒディンたちと違い、権力欲はなく、「悪」を嫌い、「不正」を憎んだ。そしてその支配地域にはタリバンがもたらした「平和」(=戦闘のない状態)があった。人々はタリバンを熱烈に支持し、歓迎した。そして、後悔することになった。この「人々の支持」が快進撃をもたらした一つの要因である。アフガニスタンに暮らす普通の人々を味方に付けたことは、とても重要だった。「ムジャヒディンよりもタリバンの方が良い」という人々の認識はムジャヒディンたちにとって、彼らの存在そのものを危うくすることになるからだ。

 次に「2」について。前章でも書いたが、タリバンの登場はパキスタン・サウジアラビアの対アフガニスタン政策を変えた。それまで両国はヘクマティアルを支援していた。しかし思うように勢力を拡大できないヘクマティアルとは対照的に、タリバンは南部の各州を瞬く間に押さえてしまった。ヘクマティアルとタリバンを天秤に掛けていた両国は、タリバンを採用し、ヘクマティアルを捨てた。タリバンは、ジハードの時のゲリラ養成施設を使って訓練し、資金はこの両国が提供したのである。

 最後の「3」について。ここでいう「運送マフィア」とはパキスタンからアフガニスタンを通ってイランや中央アジアに麻薬や密輸物資を運ぶ人たちのことである。彼らはパキスタンの軍部や政府に強力なパイプを持ち、タリバン支援を拡大させた。その理由はこうだ。運送マフィアはアフガニスタンを通ってイランや中央アジアに抜ける。しかし、内戦中の各ムジャヒディンたちは至る所で莫大な通行税を要求してくるし、酷いときには密輸品を強奪され、命まで狙われる。一方、タリバンの支配地域でも通行税は要求されるが、ムジャヒディンたちに比べればその額はとても安いし、通行税さえ払えば旅の安全も保障してくれる。つまりタリバンがその支配地域を拡大させることは運送マフィアたちにとっても利益になるし、運送マフィアの通行が盛んになればそれだけ多くの通行税がタリバンに入ってくることになるのだ。タリバンにとってこの運送マフィアとのつながりは、重要な資金源となったのである。

 以上、三つの理由によりタリバンは快進撃を続け、国土の90%以上を手に入れることが出来た。そしてこれは皮肉なことに、パキスタンを近隣諸国から孤立させることになったのである。それではタリバン登場後の近隣諸国、そしてロシア・アメリカの動向を見ていきたいと思う。

パキスタン

パキスタンはタリバン支援。その理由は次の通り。タリバンに政権をとらせることにより、ヘクマティアルに代わるパキスタンの傀儡が生まれる。それにより、中央アジア・イランとの貿易を独占できるし、中央アジア(特にトルクメニスタン)の原油や天然ガスをアフガニスタン経由でパキスタンに導く「パイプライン建設」を有利に進めることが出来る。さらに、インドとのカシミール紛争に投入する兵士の訓練を、タリバンの軍事施設(元々はジハードの時にアメリカとパキスタンが作った施設)で行うことができるし、タリバン兵をカシミールに投入することもできる。アフガニスタンに親パ政権が誕生することは、後方を気にせずに前面のインドとの戦争に集中できるのだ。タリバンはパキスタンにとって、経済の面でも安全保障の面でも重要なのである。

イラン

イランはシーア派ハザラ人を支援していたが、過激なスンニ派タリバンの台頭はシーア派国家イランにとって危険な存在になった。アヘンの増加は国内を混乱させ、運送マフィアによる密輸は国内経済にダメージを与える。さらにタリバンはイラン反体制派に聖域を与えているし、98年にはイランの外交官を殺害している。イランは北部同盟を支援するようになった。
(北部同盟のマスード軍は95年にイスラム統一党マザリ派を虐殺した。このときマザリ派は、前方にマスード軍、後方にタリバン軍との戦闘を強いられていた。このような過去があったにもかかわらず、イランはマスードたちの北部同盟を支援している。タリバンを危険視している現れだ。)

タジキスタン・ウズベキスタン

この両国はそれぞれの国内にイスラム過激派の反体制組織を抱えている。この反体制組織はタリバンとのつながりがあり、アフガニスタンにタリバン政権が出来ることは脅威になる。さらにイランと同様、麻薬と密輸の問題もある。いまは北部同盟支援である。元々、タジキスタンはラバニ・マスードのタジク人グループを、ウズベキスタンはドスタム将軍のウズベク人グループを支援していたので、北部同盟支援には抵抗がなかった。

トルクメニスタン

トルクメニスタンはもともと中立だった。どのグループにもこれといって援助をしていたわけではない。しかし1995年、パキスタン、サウジアラビアの石油会社「デルタ石油」「ニンガルチョ社」、アメリカの石油会社「ユノカル」とのパイプライン建設構想が浮上すると、トルクメニスタンはタリバンよりになった。なぜならば、タリバンこそが一番早くこの内戦の勝者になると考えたからだ。だが、その態度はあくまでも「タリバンより」であって、パキスタンやサウジアラビアのような力の入った援助はしていない。実際、タリバンとも反タリバンとも外交チャンネルを持っている。

 

ロシア

ロシアは中央アジア諸国の安全を守ることにより、ソ連崩壊後のCIS(独立国家共同体)でも指導的な立場をとり続けたいと考えていた。また、チェチェン紛争のイスラム組織はタリバンとのつながりがあった。麻薬と運送マフィアによる密輸の問題もあった。パキスタン、サウジが進めるトルクメニスタンのパイプライン建設は、ロシアにとっては何の利益ももたらすものではなく、見過ごすわけにはいかなかった。以上の理由により、北部同盟支援、とまではいかないものの、タリバンは不支持。

サウジアラビア

この国は、元々はパキスタンとともにヘクマティアルを、次いでタリバンを支援していた。その理由は、1:サウジの国教である、イスラム教ワッハーブ派をアフガニスタンに輸出したいと思っていたこと 2:シーア派のイランに対抗するため(イランのアフガニスタンでの発言力を強めたくなかった) 3:トルクメニスタン、パキスタン、アメリカ「ユノカル社」のパイプライン計画にサウジ王室とのつながりがある「デルタ石油」「ニンガルチョ社」が絡んでいたため、である。しかし988月にタリバンによるサウジ王室への侮辱とサウジ反体制活動家のオサマ・ビン・ラディン問題により、サウジアラビアは激怒し、タリバンから手を引いた。

アメリカ

ソ連撤退後、アメリカはアフガニスタンに関心を示さなかった。近隣諸国による各勢力への身勝手な援助も、気に留めなかった。しかし反イランを表明しているタリバンの台頭は「イラン封じ込め」に使えると判断し、また「ユノカル社」の積極的なロビー活動により、タリバンを支持した。ユノカル社のパイプライン建設は、中央アジアの石油と天然ガスをアフガニスタン経由でパキスタン・インド洋に流すことだが、それは同時にこの地域の資源をイランとロシアには渡さないということでもある。これはアメリカの外交政策に適っていた。
ところが、タリバンの人権侵害や女性に対する迫害が明るみに出ると、アメリカの女性団体、人権団体、そしてヒラリー・クリントンが猛反発し、政府とユノカル社にタリバンから手を引くことを要求。そして988月のケニア・タンザニア米大使館同時爆破事件で、アメリカの政策変更は決定的になった。この事件の首謀者、オサマ・ビン・ラディンをタリバンはかくまっていたのである。以後、アメリカはタリバンを全否定している。

 以上のように、近隣諸国(+アメリカ・ロシア)は反タリバンになり、パキスタンだけが唯一タリバン支援となってしまった。しかしパキスタンはタリバンを傀儡にして、自由に操ることは出来ないだろう。パキスタン国内の反体制組織(イスラム過激派)はタリバンとつながっている。この過激派はタリバン流のイスラム革命をパキスタンでも実行しようとしているのだ。また運送マフィアが運ぶ密輸品はパキスタンの地場産業を破壊し、国内経済にダメージを与えている。大量のアヘンもパキスタンに流れている。『タリバン』の著者、アハマド・ラシッドはパキスタンのことを文中で次のように述べている。

「主人か、それとも、犠牲者か」

 さて、各国の動向で書いた「パイプライン建設」を巡る話だが、これをアハマド・ラシッドは「第二次グレートゲーム」と呼んだ。ロシアと大英帝国が19世紀に争った「グレートゲーム」にちなんでいるのだが、この「第二次グレートゲーム」のプレイヤーは多すぎだ。パキスタン政府、サウジアラビア王室、サウジアラビアの石油会社「デルタ石油」と「ニンガルチョ」、アメリカ政府、アメリカの石油会社「ユノカル」「アモコ」、アルゼンチンの「ブリダス」、日本の「伊藤忠」、韓国の「大宇」、イラン政府、ロシア政府、ロシアの「ガスプロム」、オーストラリアの「BHP石油」、そしてトルクメニスタン政府。私が現在わかっているだけで、これだけのプレイヤーがいた。彼らが奪い合ったのは、トルクメニスタンの原油と天然ガス、そしてそれを運ぶパイプライン建設権である。中でもアメリカの「ユノカル」とアルゼンチンの「ブリダス」が主役だった。

 このパイプライン建設を巡る各国の駆け引きは、まさに「国際政治」である。しかもその主体は国家ではなく、民間企業だ。民間企業が国家を動かし、国家が相手国を動かす。または民間企業が相手国そのものを動かしたりする。この混沌とした状況を巧みに利用し、最大の利益を獲得したのがタリバンだった。ユノカルグループとブリダスグループ(各プレイヤーはこの二つを中心に動いていたので、便宜上このように呼ぶ。)を同時に交渉の相手にし、一方を蹴落としたかと思うと、他方を裏切った。そうやって値を釣り上げていったのだ。このゲームはオサマ・ビン・ラディン問題でタリバンと断絶しなければならない状況に追い込まれたユノカルグループの敗北で終わったが、ブリダスグループが勝ったわけでもない。なぜなら、その工事はいまだ着工されておらず、その予定も決まっていないからだ。

第七章 アラブ・アフガンとオサマ・ビン・ラディン    ページ先頭へ

 アメリカの国際政治学者、サミュエル・ハンチントンはその著書『文明の衝突』の中で、アフガニスタン戦争を次のように述べている。

「この戦争のあとに残ったものは、イスラム教徒の不気味な連合で、全ての非イスラム教徒軍に対してイスラムの大義を主張しようとしていた。また、技術を持つ経験に富んだ戦士、駐屯地、訓練施設、兵站設備、全イスラムを結んで入念に作られた個人と組織のネットワークも残された。また大量 の兵器が残され、300基から500基のスティンガー・ミサイルの所在が不明である。そして特に重要なのは、自分たちが成し遂げたことから生まれる力と自信に満ちた高揚感と、さらに勝利をおさめたいという突き上げるような願望だった。」 アメリカをはじめとする西側諸国は、ソ連撤退によりアフガニスタンを捨てた。共産主義さえなくなればこの地は用済みなのである。しかしそれは大いなる誤算であった。その誤算に気づいたとき、彼らは自身の身をもってその代償を払わなければならなかった。「イスラムテロ」である。

 前章までが論文のメイン、「ソ連介入後のアフガニスタン内戦」についてである。前章までで終わりにしても良いのだが、せっかくアフガニスタンをやったからには、次の二つの問題を忘れてはならない。「アラブ・アフガン」と「オサマ・ビン・ラディン」である。この二つの問題は今日の世界を、そのなかでも特にアメリカを悩ませ、激怒させている問題である。 「アラブ・アフガン」とは、ジハードの時に世界からやってきたイスラム義勇兵たちのことである。彼らはアフガニスタンで武器の扱いとゲリラ戦術を身につけ、世界中にムスリムの仲間を作った。ソ連の撤退後、彼らは母国にもどり、政治の腐敗や貧富の差を憂えた。そして行動を起こした。反体制活動である。彼らは武力を持ってこの状況を作り上げた現体制、現政権を打倒すべきと考えたのだ。それはまさに「ジハード」である。やがてこの活動は母国だけにとどまらず、各国の「ジハード」に参加していった。さらに湾岸戦争以後は反米的になった。イラクに対するアメリカの攻撃を「ユダヤと十字軍によるイスラムへの攻撃」とみなしたのだ。またアメリカ的自由経済は母国の貧富の差を生んだ原因である、と決めつけた。 アラブ・アフガンたちがこのような考えを抱いたのには理由がある。ムジャヒディンがソ連を追い出した二年後、ソ連は崩壊した。これを彼らは「ソ連を倒したのは自分たちだ!」と認識したのだ。ソ連が撤退した理由は、一つにはムジャヒディンたちの抵抗があったからなのだが、それよりも、戦線の維持ができないほど困窮していたソ連国内の経済が破綻寸前だったからだ。そしてソ連が崩壊したのは外的要因ではなく、破綻寸前の経済とゴルバチョフのグラスノスチ(情報公開)・ペレストロイカの結果 、つまりは内的要因であった。アラブ・アフガンたちはこの現実を都合良く無視し、間違った認識と誇りを自らに植え付け、自国の政府やもう一方の超大国に挑んでいる。以下に記しているのが、彼らの起こしたテロ事件や関わりがあるとされる紛争である。

スーダン

カシミール(印・パ)

チェチェン(ロシア)

タジキスタン

アルジェリア

 

ルクソール観光客殺害事件 (エジプト)

日本人鉱山技師拉致事件(キルギス・ウズベク)

 

世界貿易センタービル爆破事件(アメリカ)

 世界各地からやってきた「イスラム義勇兵」は、世界各地に「アラブ・アフガン」として散らばり、世界各地で「イスラムテロ組織」として恐れられている。そのアラブ・アフガンの中でもアメリカがもっとも恐れている人物がいる。それが、オサマ・ビン・ラディンだ(写真の人物)。

 1998年8月7日、ケニアとタンザニアのアメリカ大使館が同時に爆破された。220人の死者を出したこの爆破テロにアメリカは激怒し、13日後の20日、スーダンとアフガニスタンの施設を空爆した。この事件の黒幕でアメリカを激怒させた人物こそ、オサマ・ビン・ラディンである。彼はサウジアラビアの建設会社社長、モハメド・ビン・ラディンがつくった57人の子供の17番目の子として生まれた。大学で経営学とイスラム神学を学び、サウジ王室とのつながりもある。彼は1980年、アフガン戦争にイスラム義勇兵として参加している。彼の仕事は、医療センター・軍事施設・武器貯蔵庫を作ったり、諸外国からの寄付金を集めることを主にしていた。ちなみにこの軍事施設や武器貯蔵庫の建設にはアメリカの資金も入っている。

 彼は多くのアラブ・アフガン同様、アフガニスタンで世界各国のイスラム指導者たちと親交を深めた。93年に起こった世界貿易センタービル爆破事件の首謀者で、エジプトのイスラム過激派「イスラム団」のリーダーでもあるアブデル・ラーマン(現在服役中)とも出会い、彼を師と仰いでいた。アフガン戦争後、ビン・ラディンはムジャヒディンたちの内戦に幻滅して母国サウジアラビアに帰り、家業の手伝いをしていたが、91年の湾岸戦争でのサウジ王室の政策(サウジにアメリカ軍を駐留させ、イラク攻撃の支援をする)に激怒、王室を公然と批判した。これ以後、反政府活動を展開し、92年には王室から「ペルソナ・ノングラータ(好ましからざる人物)」と宣告され国外追放になった。

 そして向かった先がスーダンだった(1994年)。ここでカリスマ的なイスラム指導者ハッサン・トゥラビと出会い、行動を共にした。96年、アメリカやサウジアラビアの圧力によりスーダン当局はビン・ラディンに出国を要請し、彼は部下や家族を引き連れ再びアフガニスタンに戻った。そしてパキスタンの仲介でタリバンと出会い親交を深めていき、タリバン指導者たちに反米思想を植え付けた。このころには、世界中のイスラム過激派に対する最大資金提供者としてCIAから眼を付けられていた。

 そして1998年2月、ジハードの時にアメリカの資金で作った彼の軍事施設に世界中から仲間を集めて会合を開き、「ユダヤ人と十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線」を結成。「軍人、民間人を問わず、アメリカ人とその同盟者を殺すという決定は、どの国で実行できるかを問わず、ムスリム一人一人に与えられた個人的な義務である」という宗教命令「ファトゥ」を発令した。そしてその半年後、大使館が爆破されたのだ。以後、アメリカはビン・ラディンを捕まえた者に500万ドルの懸賞金を出すと宣言し、いまもその行方を追っている。

終章 アフガンの地に平和は来るのか。    ページ先頭へ

 これまでごらん頂いたように、20年以上続いているアフガニスタンの混乱は肯定的なものを何も残さなかった。残ったのは瓦礫の山と厳しすぎる生活、女性の迫害、アヘンの増加、密輸の横行、イスラムテロ、そして関係国のエゴだけだ。この国が本来の姿に、20年以上前の姿に戻ったとき、初めて「平和」になったといえるであろう。だが、まずは戦闘をなくすことが先決である。ではどうすれば戦闘はなくなり、「平和」への第一歩を踏み出せるだろうか。以下は今回もっとも参考にした文献『タリバン』の最終章を自分なりにまとめてみた。

 まずはタリバン・マスードの両勢力に流れている各国の武器援助をやめさせることだ。なによりもこれが一番重要である。そして同時に、アフガニスタンに「平和」が戻ることは、近隣諸国にとって利益になる、ということを理解させなくてはならない。「平和」になり安定した政権が出来れば、麻薬の流入、運送マフィアによる密輸、イスラム過激派の流入を阻止できる。中央アジアは最短距離で、しかも安全確実にパイプラインを海につなげることが出来る。

 さらにタリバンとマスードに分割統治と合同政府を樹立させることだ。もはやマスードがアフガニスタン全土を支配することは不可能だし、またタリバンが全土支配に成功してもマスードたちは反政府ゲリラになるだけだ。となると、いまの支配地域を彼らに統治させ、互いの代表が集まって合同政府を樹立する以外に道はない。これを実現するためにも武器の禁輸と近隣諸国に対するアフガン政策の見直しが必要なのである。

 このイニシアチブを取れるのは、日本しかいない。もちろんアメリカやロシア、EU諸国の協力なくしては各国を説得するのは無理だと思うが、米・露・欧はジハードの時に介入しすぎた。さらにこれらの国々はタリバンやビン・ラディンとの関係が悪すぎる。その点日本はまだ中立だし、経済的な影響力を使えば近隣諸国や各勢力に働きかけることはできないか? もちろん、日・米・欧にとってもこの地域の安定はそれなりの利益をもたらす。アメリカとEUは麻薬とイスラムテロに困っているし、日本は中央アジアの経済開発により、天然資源を手に入れるチャンスなのだ。

 とはいうものの、これはかなり楽観的な考察である。数年でどうにかなる話ではない。アメリカは相変わらずビン・ラディンに固執しているし、近隣諸国は目先の「恐怖」にとらわれすぎている。しかし、例え現実がそうであろうとも、これら先進諸国、そして日本は関係国とともにこの問題に積極的に取り組むべきなのである。なにも取り組まずに、このまま放置して好き勝手にやらしてしまったときの代償は、そうとう高くつくだろうから。

この後、緒方貞子さんがアフガニスタン復興会議で議長をして、各国の援助を取り付け、日本の援助資金もかなりな額に及んでいるのですが、日本は情報開示責任や諸手続き書式の煩雑さによって復興援助の詳細決定の決断が遅く、次々と決定と実行力の速さで勝るアメリカに予定していた援助案件を先取りされていっています。もっとも、それが幸いして、首都であるカブール周辺の社会資本の復興がアメリカに先取りされて、日本はカンダハル周辺の援助に重きを置く事になってしまったのですが、カブールは国連軍が開放する前にアフガニスタン同盟軍の将軍達によって分割統治されてしまったので、未だに、その主導権争いによる治安の悪さに悩んでいるのに比べ、カンダハルはいち早く国連軍が抑えたので、実に治安が安定しているのですが。 それにしても、日本の復興援助の実施の遅さは目に余るものがあり、その解決のためにも、私が乗り込んで、動員の早いローカルジェネコンを使って、簡単な復旧工事を国際基準に従った入札から契約、復興工事までをいち早く行う必要があるのです。そしてその為に、赴任する事になった訳です。私の活躍によって、その復興工事を早めに行い、おっとり刀で開始する日本の建設業者が担当する高度の技術力の必要な工区がアメリカの援助プロジェクトに侵略されるのを防ぐ事にもなり、この論文で言う所の、日本がイニシアチブを取るための布石となる逆転劇の始まりとなるのです。

皆さん、どうか応援をしていて下さい。 

3−5牧野                         ページ先頭へ