HOME「福良学教室」の概要活動の記録
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付録資料
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27年度活動の記録


第1回 4月 福良の寺々
第2回 5月 現地巡り(「道の駅福良」の観光体験と防災学習)
第3回 8月 福良の人々(政治・経済編)
第4回 10月 福良の人々(文化・技術編)
第5回 12月 現地巡り(西国三十三ヵ所観音霊場巡りなど)
第6回 2月 福良の神々

<※各項目をクリックすると、資料に飛びます。>






  

瀬戸の潮みず交流広場(福良地区県民交流広場)
福良公民館 〒656-0501 南あわじ市福良甲512-2
TEL:0799-50-3048  FAX:0799-50-3068






















「福良の寺々」 


平成27年4月9日
慈眼寺住職 南岳 利英
福聚山 慈眼寺

宗派:


創建:
縁起:

高野山真言宗(戦前は大覚寺派)  本尊:阿弥陀如来
淡路四国八十八ヶ所霊場第十八番   
淡路四十九薬師霊場第十三番
淡路廃帝(淳仁天皇)、天平宝字年中(757〜765)草創(淡路草)
「昔年、福良浦、福聚山慈眼寺の監司の僧宥智、霊夢を得たり。観世音、光を放ちていわく、われ鳴門の上に在りと。よあけ天明に鳴門の磯にゆきて見れば、十一面の尊像、厳然として石の上に立ちたもう。乃ち、宥智、拝念し抱え来りて供養す。」(淡国通記)

・仁治 4年(1243)

・寛永14年(1637)


・明治 4年(1871)
・明治17年(1884)

・明治28年(1895)
・平成 9年(1997)

高野山道範上人・・・「讃州へ配流の時 暴風に阻まれて三日福良浦に滞宿」
(淡路草)
嵯峨宮二品尊性親王法・・・「鳴門御遊覧の時 阿州に下向し給ひて住僧宥弘御宮に謁し当寺の濫觴を告げて奉るより 末寺号の令旨を賜る 此時改めて福聚山慈眼寺と号す」(淡路国名所図絵) 
廃仏毀釈により神宮寺廃寺。本尊阿弥陀如来を慈眼寺へ遷座。
弁天仮堂より出火。諸堂焼失。法輪蔵(享保3年1718建立)        
法界塔(享保12年1729建立、,第48世の銘)・観音堂は残る。
志知村庄屋,広川氏旧宅を移築して庫裡とし、本堂も再建される。
現本堂落成。




↑明治の大火以前の慈眼寺境内図






福良大綱引き(昭和十一年) ↑
 廻り弁天春季大祭にて
 (淡路こぼれ話HPより)

法輪蔵(五所車)→
当時七千巻のお経
 が納められた



法界塔(享保十二年)建造


能書家
 薮華蔵・竹水親子の墓



儒学者
山口吉十郎の墓





成信揮毫の扁額   (阿万 神宮寺)




※その他

・永禄の頃(1558〜70)、慈眼寺下で大綱引きが始まる。
・芭蕉翁(1644〜94)阿波からの帰り福良に立ち寄り、慈眼寺の庭を観て一句
    「雁なくや 萩さわがしき 浦の寺」(淡路に芭蕉来島の事実なし)
・福良の盆踊りの濫觴として、味地草などに「戯文(おどり)風俗」の記載がある。    
(慈眼寺を境として東組・西組に分け、踊り場をつくり、音頭に合わせて踊る。三日間行われるお盆の精霊会。)
・昭和15年(1940) 薬師堂再建。大阪酸素・鈴木合金KK鈴木彦次郎寄進。
・安政2年(1855)、明治29年、明治44年、昭和10年、昭和34年、平成24年 に廻り弁天奉迎の記録あり。
・儒学者・文人、山口吉十郎(1784〜1846)夫妻の逆修墓
・能書家、藪華蔵・竹水親子の墓(華蔵は慈眼寺住職の成信に書を習う)



■智光山 報身寺
宗派本尊:浄土宗鎮西派 本尊:阿弥陀如来
創建:開祖 伝誉和尚(文禄元年1592寂)
※前本堂は文政9年(1826)落成(第十世:秀音和尚) 
※現本堂は平成26年11月落成


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本堂前石灯籠


「南無阿弥陀仏」の名号石碑


※古書に、鎮守菅神(菅原道真)、金毘羅尊を祭る、とある。また、「味地草」の三院之図には、境内東に池があり、弁天祠が記載されている。
※境内南側の地蔵堂は寛政9年(1797)の落成。堂内には柳谷の観音さん(北向 観音)も祭祀。柳谷観音は眼病平癒の仏で、7月16日が縁日。
※本堂前の石灯籠は、往時の豪商山形屋の寄進。(天保11年1840)
※境内の「南無阿弥陀仏」の名号石碑は、徳本上人が建立。



■聽潮山 真光寺
宗派:浄土真宗本願寺派(西本願寺) 本尊:阿弥陀如来
創建:開祖 順祖(万治中1658〜1661寂) 
※元文中(1736〜1741)火失して其時古記も灰燼に帰す。
※昭和13年、重恩寺無住により、重恩寺の檀家を引き継 ぐ。
※墓地入口にある総骨塔は、第5 世唯可建立。(延享元年:1744)
※墓地無縁仏の中に「瞽女小冬碑」 (天保13年:1842)がある。

  

  左:瞽女小冬碑       右:總骨塔



■南林山 重恩寺
宗派:真宗大谷派(東本願寺) 本尊:阿弥陀如来
創建:開祖 岡田直之助
 慶長年中(1596〜1614)讃岐国城主、岡田直之助が世の無常を儚んで、当地へ落ちて来て入道し、
ここに一堂を建立したのが当寺。(福良むかしむかし) 
※昭和13年、無住になり、重恩寺の檀務を真光寺が引き継ぐ。



史書に見るお堂(現在は廃堂)
○地蔵堂・・・「荒神森の南にして原田川の端にあり」(味地草 三院之図)
○念仏堂・・・「十軒家の西にして海際にあり 草庵巽行 十王堂あり 本尊阿弥陀 春日仏工の作にして立像 長二尺餘 誓願寺本尊と同木にして 元文辰年 讃州香西浦より出現と云 同所西並に三昧あり」(味地草)
○禅海庵・・・「中ノ谷 海浜松林の中にあり 南向(中略)地蔵堂石像立(中略)大師堂(中略)弘法大師像を按措す」 
「草庵には薬師座像を安す(中略)此庵は享保中 西路浦国清庵主勝算 師の再創にして爰に寓居す」
○紅蓮寺・・・「寺あり 摩尼山紅蓮寺と云へり 摩尼は島の形を取り 紅蓮は敦盛の法号なり 紅蓮寺の本尊観音 今は神宮寺に安ず」(淡路草)
「宝永の頃 津波に流滅す 今尚煉瓦残れり。此時の津浪に蛇の鰭より洲崎へ続ける部分切れ去りたり」(福良町誌)
○神宮寺・・・「万年山照雲院 八幡神境の西にあり 寺家午未に向ふ 本尊阿弥陀如来 享保の頃までは和光山と号せしが 此山号鐘銘に見えたり 万年山とは中世改号せしものならん」(味地草)
   ※ 神宮寺所蔵の大般若経六百巻は、現在、薬王寺(筒井)の什物。


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↑念仏堂・十三堂(味地草)



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↑禅海庵(味地草)



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↑神宮寺(味地草)





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福良学教室現地巡り(道の駅の観光体験と防災学習)の記録



日時:平成27年5月30日(土)9時10分頃〜
集合:9時/淡路人形座階下ピロティ

1. 趣旨・目的
  福良の古図などを片手に、観光気分で福良の誇る「うずしおクルーズ」を体験し、「道の駅」にて遊ぶ。 また、古からの先人たちの海との闘いを知り、高潮と津波に対する「最新の防災」を学び、福良を再発見しよう。



2. 概略行程
  「淡路人形座」9:10発⇒9:20乗船「うずしおクルーズ」10:30下船⇒10:30着「福良港第2排水機場」11:00発⇒11:00着「福良港津波防災ステーション」11:15発⇒11:15着「道の駅福良」11:30発(解散)⇒11:30着「福良マルシェ」(買い物等自由行動)



3. 施設の紹介  ( )内は、施設の用途名、設置主体名(管理主体名)を表す。

 「淡路人形座(道の駅施設、南あわじ市(人形協会))」



   

  500年の伝統を受け継ぐ「淡路人形浄瑠璃(国指定重要無形民俗文化財)」を上演する常設館(平成24年8月竣工、座席数179席+補助席、延床面積1,894u、津波時の一時避難施設となる。)。 利用者数は、年間65,215人(平成26年度実績)。 設計は、世界的に著名の遠藤秀平氏。



 



「なないろ館(道の駅施設、南あわじ市)」




 

  福良港の港湾整備(埋め立て)に合わせ、言わば「福良の観光センター」として、整備された(平成11年4月竣工、鉄骨造4階建、延床面積1,932.24u)。 平成25年3月に「道の駅福良」が登録認可されましたが、「なないろ館」はその中核施設であり、館内には、うずしおクルーズ、地場産品販売店、レストラン、観光案内所などがあります。





「うずしおクルーズ(道の駅施設、ジョイポート南淡路梶j」




    

  ジョイポート社は、世界遺産登録を目指す「鳴門の渦潮」の観潮船(遊覧所要時間は約1時間)を運営しています。 観潮は、「咸臨丸」と「日本丸」の2隻の大型クルージング船を使用し、運航されています。 本便は、「咸臨丸」でした。



 



「福良港第2排水機場(港湾施設、兵庫県、(南あわじ市)」




   

  台風などによる高潮対策事業施設で、主として築地川水系の強制排水機能を担っています。(平成11年10月完成) 詳細は、別添資料のとおり







 「福良港津波防災ステーション(港湾(防災・学習)施設、兵庫県)」




   

  「津波減災学習」を目的に、高潮対策事業で建設されました(事業費約6億5千万円、平成22年9月完成)。 設計は、世界的に著名な遠藤秀平氏で、ユニークな鉄骨鋼板構造となっています。


 




「足湯・うずの湯(道の駅施設、南あわじ市(観光協会))」


   

  本施設は、うずしお足浴、たこ壺足浴、対面足浴、片面足浴、手浴、更衣室などを備えており、憩いと寛ぎの足湯施設です。 温泉は、潮崎温泉(阿万)から運ばれています。







「岩木躑躅句碑(道の駅施設、兵庫県(南あわじ市)」




   

  「鳴門見て 早き泊りや 桜鯛」 
  作者は、「岩木躑躅(1881〜1971)」生穂生まれの俳人で 正岡子規の弟子である高浜虚子の一番弟子として活躍しました。 




 


「福良マルシェ(産直施設、ジョイポート南淡路梶j」



   

 マルシェは、フランス語で市場の意味で、「御食国淡路(福良)のとれとれの食材」が揃っていますので、是非、お買い物を!



 


4. 携行資料

@ 道の駅福良概要書

A 福良港平面図(現況)

B 米軍航空写真(昭和22年4月12日撮影)

C 福良の古図(天保6年作)

D 福良字限大図(明治初期)

E 淡路国名所図絵(福良八幡宮、住吉社)

F 淡路国名所図絵(福良浦渡海場)

G 淡路国名所図絵(能登守射切石)

H 淡路国名所図絵(潜岩)

I 淡路国名所図絵(鳴戸崎(1))

J 淡路国名所図絵(鳴戸崎(2))

K 淡路国名所図絵(鳴戸崎(3))

L 淡路国名所図絵(鳴戸崎(4))

M 「暮らしを守る排水機場(仕組みの図解)」

N 施設状況付属図(福良港第2排水機場平面図)

O 「福良港海岸高潮対策排水機場(一覧表)」

P 福良小学校校歌(楽譜付)

Q 福良小(中)学校校歌・福良小学校運動唱歌の歌詞





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福良の人々(政治・経済編)〜福良で育った偉人たち




講   師   徳 田 壽 春
資料収集   太 田 良 一
資料収集   南 岳 利 英



 

【桐原刑部】

  福良中山峠の山住小社の祭神は桐原刑部とする。 刑部は志知城主加藤嘉明の家老職であったが、文禄4年7月、加藤氏が四国伊予へ転封の折、その職を辞し、淡路に残り、その後、福良の浦長になった。 それは、刑部が豊臣秀吉の朝鮮の役、高麗の陣で戦死した人たちの供養のため淡路に残ったと説く。

  豊臣、徳川が不和となり、慶長5年関ヶ原合戦の折、大坂城の石垣補修のため、福良浦に対し石の供出を命ぜられたが、浦長の桐原刑部はこれを拒絶した。 理由は、この作業は採掘、運搬、補修など全て無報酬で、民力の及ぶ処でないということと、当時、旧主加藤氏が既に徳川氏に心を寄せていたからともいう。 そのため、刑部は大阪方の命を等閑にしたという罪で、福良中山八幡(今はない)境内で磔刑に処せられたので、その地に慰霊のために山住社として祀ったと伝える。

  また、刑部については、その後諸説があって、福良の豪商十一屋桐原家の祖であるという。 全盛時代、寛文元年(1661)十一屋一軒で諭鶴羽神社の頭を賄ったという豪勢な話もある。 今も慈眼寺の墓地に桐原家十一屋のたくさんの墓石があって、現在も山住神社の祭礼は桐原家当主が主催する。



山住社 桐原家墓碑(慈眼寺)






【坂東半左衛門】

  通称塩浜、坂東家は足利末裔を称し、阿波美馬郡脇町猪ノ尻で武士または帯刀する郷士であったという。 足利氏の紋所は丸に二の字で、坂東家はこれにあやかって、丸に×の紋所としている。

  正親町天皇の永禄年の始め、福良へ移住し、初代半左衛門宗喜、二代目孫左衛門宗盛、三代治太夫宗入で、四代半左衛門了空が初めて元禄8年、阿波藩公の許可を得て、海浜の埋立をし、元禄14年、塩田1万2千坪を完工し、藩公より賞詞と銀札並びに物品の援助を受けた。 この埋立の土は遠く阿波から船で運び、初めは撫養の専門者を雇い、後に福良の人々を使役して大いに業を伝習せしめたと記録にある。 ところが、了空は元禄14年没とあるから、工事完了してやれやれというところで、悲壮感に打たれる。 半左衛門は福良の里正も務めた。 了空とは妙に僧名くさく、恐らく晩年、仏に帰依して僧籍に入ったのかも知れぬ。 

  その後、製塩業210年、製塩従業員として浜人夫、燃料の伐採運搬、附帯資材や仕事で、随分地元を潤した。 明治43年、塩業整備法により閉田。 翌44年、塩業設備は政府買い上げとなった。

  戦後、塩田は埋立され、向谷の一部となり、旧南淡町庁舎、福良地区公民館、福良財産区駐車場等の現状となった。

  最近まであった見事な富士山型の「塩浜の松」は蜂須賀6代綱矩の時代、阿波脇
町猪ノ尻の坂東家旧宅から松の苗木を移植したものという。





埋立の後、造られた塩田(白い区域)  福良浦分間絵図(天保6年)より

  




【井筒屋・渡辺家の人々】

  井筒屋の祖は弥左衛門で、江戸初期当福良浦の漁業の元締であった。 九州佐伯領主の特別の許可を受けて、九州戎浦出漁許可の官券を賜った。 毎年、当浦から船団を組んで出漁し、戎浦の戎神を福良へ勧請し、今に洲崎で祀る。

  その後代、井筒屋弥次右衛門は寛永15年出生、同家の中興の祖という。 徳島藩の命により、当浦漁業の卸(五)分一所の帖元を命ぜられる。 これは漁獲高の五分の一を徴収し、その半分を藩に上納し、残り半分を建置銀として井筒屋が保管し、漁具の共同購入、漁港の改修整備、不時の貸出金や、時には祭礼などの費用にも充てた。 今に同家のことを「分一」(ぶんいち)また「ブンニチ」と呼ぶ。 この制度は明治8年廃止されるまで、当家がその職を代々世襲した。

  明和元年、未曽有の豊漁で、銀94貫の魚利を得た。 井筒屋は漁業のほか、回漕
 業にも手を拡げ、全盛時代は千石船を3艘持って活躍し、海上運送業のみならず、諸国物産を往復かけて売買した。 弥次右衛門は天和2年3月没、法名を観智道証居士、通称重助。彼の時、徳島藩より渡辺姓を許される。

  幕末、井筒屋の主人は渡辺重治という。 文化13年生まれで、彼は幾多の工夫と犠牲によって、いろいろ漁業振興に努め、彼の考案による漁労法の研究改良も行われた。 今にも、その時の改良漁法が残っているという。 彼の時代、既に回漕業をやめて、その持船を全部手離して漁業の網元の他、問屋業に専念したが、いずれにしても幕末期、当地漁業水産業の恩人である。 明治初年、名東県第10小区與頭、福良浦伍長職を務めた。 
  同家には今に、有名な「慶安2年福良浦棟数人数船数御改帖」を初め、福良浦関係、その他貴重な古文書が家蔵されている。 明治32年4月没、法名を法雲慈栖居士という。




現在の井筒屋・渡辺家宅






      

【福浦元吉】

  文政12年(1829)、福良備前町下町、桶屋の次男として生まれた。 生誕地の福良浦から福浦を姓として、福浦元吉を称した。 長じて元吉は洲本幸町の穀物商中屋家の養子となり、傍ら洲本福良間の飛脚業にも従事した。 縁あって津井村の大庄屋古東領左衛門の男衆となって、隅々招いた阿波の剣客梶浦四方助について熱心に剣術を学び、相当の腕前になったが、学問に興味はなく、猪突猛進型の勇士であった。

  当時、領左衛門は島内外の学者及び勤王の志士と交友が多く、その中に藤本鉄石があった。 特に領左衛門は鉄石とは刎頸の交わりを結び、天誅組の兵站部を一手に引受け、先祖代々の田畑山林全財産はおろか、彼自身の命も投げ出した。

  文久3年8月17日、大和五条において天誅組は義旗を翻した。 元吉は領左衛門の命により鉄石に従い、河内の観心寺にて天誅組に合流して、五条に入った。 かくて十津川の合戦。 最後に鷲家の死闘となって、二人は数十人の紀州勢に囲まれ、双刀を水車のように振り回し、遂に数兵の突き出す群槍に刺し殺されて斃死した。 この時、元吉は35歳。

  一方、領左衛門も京都三条木屋町の寓居で、鉄石の妻を大阪に逃がし、平野国臣と共に、幕吏に襲われ縛についた。 在獄三十数名の勤皇の志士と共に悉く斬刑に処せられた。 享年46歳。

  元吉、遺体の懐中から、金子8両3分1朱と、破調であるが歌一種があった。
  「誰がため わが身捨つるか ますらおの 行く道遠し 秋の暮(かな)」

  明治24年、領左衛門、元吉は朝廷より忠節を嘉賞されて、靖国神社に合祀され、その後、領左衛門には正五位、元吉には従五位を追頌されて、共に京都の東山の霊山に墓がある。

  また、地元奈良県東吉野村でも、鉄石・元吉は懇ろに葬られ、今も同村天誅組顕彰会によって守られている。 なお、元吉は戦後、福良八幡神社に護国神社が創祀されて、福良では国に殉じた戦死者第一号として祀られている。




護国神社






        

【泉 甚五郎】

  泉家の本家は寛永年度より家系図を持つ旧家で、報身寺の著名な檀家として、代々多数の墓石がある。 甚五郎の父、甚之助は本家の泉與右衛門の三男で、文化14年分家して、醤油製造業を創業し、その工場は納屋町下町にあった。

  甚五郎は嘉永2年4月22日、甚之助の長男として出生し、幼名仁助。 太一郎、更に甚五郎と改名した。 明治8年8月、家督を相続し、父創業の醤油製造業を更に拡張し、その製品は「御膳醤油」と称し、徳島藩主蜂須賀公の御膳用に供せられ、徳島及び洲本に於いても販売の特許を得た。

  若年、洲本の田處篤郎に師事し漢学を修業し、その後、伊藤聴秋の門人となり、師の一字を頂き聴潮と号し、能筆詩文をよくした。

  明治4年、徳島藩民政掛より一刀を免され、明治5年、福良浦年番総代役を務めた。 その他、福良浦伍長、町会議員、三原郡会議員、福良町長、福良共同汽船社長、淡路実業銀行取締役、三原郡醤油製造業組合長等々の各種団体の役職を歴任、その他、公共慈善事業等への再々の寄付等による受賞褒章は枚挙にいとまはない。

  没年は昭和6年10月7日。 戒名は韶光院澄誉聴潮居士。 享年83歳。





泉家累代の墓(報身寺)

  





【鈴木彦次郎】

  鈴木彦次郎は明治23年、魚の行商虎次郎の次男として福良で生まれた。 学齢1年前、勝手に学校に行って、入学させてくれと頼んで許されたが、一年早く学校をやめて魚の町売りを始めた。 その後、広く三原郡内に出商売をし、魚の他、衣料・雑貨の注文を取り、反対に帰りは野菜物を仕入れて、福良で売った。

  福良では出世できぬと、明治38年、15歳の時、単身神戸へ行き、三菱造船所の雑役から鋳物工になり、以来、鋳物に対する異常な情熱から猛勉強を続け、大正6年8月、26歳で工員15名の鈴木合金製作所を自営した。 この時、路傍の易者に占ってもらったところ、この金物の事業は必ず大成功すると言われ、断然意を強くした。 昭和2年頃の金融大不況の中も独自の繁栄を続け、40歳で5百万円儲けたと福良で評判になった。 その後、大同酸素工業会社の仲間割れで、別の酸素会社設立の際、彦次郎がその代表者に担がれたのがきっかけで、大阪酸素工業会社を創業する。 時に昭和9年5月であった。

  時運に応じ満州進出を決意し、昭和16年、満州高圧工業会社を設立する。 当時、福良住吉町上町に両親の為に建築費1万円の豪邸を建て、福良小学校へピアノを、福良消防団に消防ポンプを寄贈、菩提寺慈眼寺に大きな木造薬師堂を、また、鉄筋コンクリート造納骨堂を建てた。

  戦時中供出して失われた梵鐘を、新しく彼の死後間もなく、養嗣子金男の名で、父彦次郎の供養のためと寄進するなど、郷土福良への心遣いは枚挙にいとまがない。

  昭和35年1月6日逝去、享年71歳。 法名は本覚院大観円通大居士
  国家に貢献したとして、正六位勲五等雙光旭日章の追賜を受ける。





彦次郎氏寄進の梵鐘・薬師堂・納骨堂(慈眼寺)




     

      

【由井大三郎】

(週刊ダイヤモンド2000.9.16号「新社長紹介」記事を引用)
  《12年ぶりの増収に勝算あり 由井大三郎(ニッカウヰスキー)》

○ 経歴

昭和 8年6月16日 兵庫県三原郡福良町生まれ。
昭和15年 4月 福良小学校入学
昭和21年 4月 旧制洲本中学入学
昭和32年 3月 早稲田大学法学部卒業
昭和32年 4月 アサヒビール入社
昭和63年 9月 アサヒビール飲料社長
平成 4年 3月 アサヒビール常務取締役
平成 5年 3月 専務取締役
平成 8年 3月 副社長営業本部長
平成10年 3月 副社長退任
平成10年 6月 鳥居薬品副会長
平成10年12月 ニッカウヰスキー顧問
平成11年 3月 会長
平成12年 3月 会長兼社長に就任

○ 5種競技 
   酒が好きでアサヒビールに入社したというだけあって酒豪。 晩酌はスーパードライに始まり、ニッカの扱うウイスキー、焼酎にワイン、シードルと続く。 「最近も酒の量は減らない」と笑う。

○ プロ野球
   好きなチームは千葉ロッテマリーンズ。 大映スターズ時代から50年以上も一貫してロッテのファン。 「何事も根気が一番。」

   「ウイスキー業界のスーパードライを目指せ」
   今年3月に社長に就任した由井大三郎の大きな声が社内に響き渡る。 1988年をピークに売り上げ下落を続けてきたニッカウヰスキーは、97年秋に発売した「ブラックニッカ・クリアブレンド」に社運を賭ける。 700ml―910円という価格設定で、これまで手薄だった家庭用市場を狙うのだ。 「バーなど業務用市場のテコ入れも大事だが、目下最大の問題はニッカの営業マンが自信を取り戻すことにある。 それには、家庭用という成長市場で確実に売り上げを伸ばすことだ。」

   由井はもともと親会社のアサヒビール出身。 空前の大ヒット商品となったスーパードライが出る前には、売れない辛さをいやというほど味わってきた。 

  80年代前半には、キリンビールのシェアが80%という広島で支店長を経験したこともある。 酒屋の新店オープン時に、アサヒの名前入りビール用冷蔵庫を持っていっても、1ヵ月も経たないうちにキリンに占領されてしまう。 酒屋には「キリンの指名買いが多いから」と相手にもされない。 
 
  由井はこれでは営業マンのモラルが低下すると、達成可能でかつ誰にでもわかる目標が必要と考えた。 そこで、ターゲットをビールからワインに変え、ワインを多く売った営業マンに高い評点を付けるようにした。 営業マンの目の色が変わってきた。 入社7年目の若手がリーダーとなって「ワイン委員会」を結成し、これまでの常識にとらわれないアイデアを次々に出した。 例えば、1箱(12本)にドイツ、フランスの赤、白ワインを詰め、セットにしたのも業界初の試みだ。

  その結果、広島支店のワインの売り上げは前年比2ケタ増となった。その勢いはビールにも波及、同支店の出荷伸び率はアサヒの全国平均を上回り、キリンの圧倒的シェアのなかで一人気を吐いた。
   土俵を変えてモラルアップを図るなど、由井は「戦略家」タイプである。


                                               
 

由井大三郎氏(上記週刊ダイヤモンド誌より)    ブラックニッカ・クリアブレンドのボトル








【参考文献】
 「南淡町人物誌(南淡町教育委員会 平成12年3月31日発行)」 


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福良の人々(文化・技術編)〜福良で育った偉人たち


福良学教室学級委員
 太 田 良 一

【藪家井筒屋の人々】

  藪 華蔵は、寛延2年(1749)、福良で生まれた。 藪家井筒屋は、代々保命酒という白酒を醸造販売し、井筒屋文之助ともいう。 幼時より慈眼寺住職成信に書を習い、長じて京師に遊び、書家永田観鵞の門に入り、鵞堂門の書法を極め、硯を摺って摺りまくり、硯の裏まで抜いたという。 大変な能書家で弟子も多く、福良の魚売りは郷中の農家で手紙の代筆を頼まれたという。 俳句も堪能で、当時、淡路の多くの俳書・句集にも彼の句が見える。 例えば、慈眼寺の釈一千と共に「かめのかみ」を、また「貫珠篇」にも出句している。 生来、病弱で、出不精で名利に超然として、家に在って字を書き、書を読み、句作をした。 没年は文化6年(1809)で、還暦の歳である。 墓は慈眼寺にあり、碑の撰文の最後に「那波績撰」とある。 那波氏は、当時の徳島藩のお抱え学者で、生前二人は格別の親交があった。

  華蔵の長男、襄八は古書の記述から推定すると、寛政元年(1789)の生まれであろう。 通称襄八または和蔵、名は徴、字は永年、永季、竹水と号す。 能書家の父の名を汚すことのない位、彼も書をよくし、学識もあって、父と同様、大勢の弟子に習字の他、学塾を開き、町の商人・漁師・子ども等を教育した。襄八は生まれつき吃る癖があって、外へ出たがらず、家にあって習字・作歌・書物に親しむ風があった。

  墓石は父華蔵と並べて慈眼寺にある。 碑文は華蔵碑の撰文者那波績の息稀願で、襄八は生前那波希願とも親交があった。 「名書は独りならず、行は郷里を称す。 命はこれ天にあり、一病にして起たず。 寿は避(かえ)らずと雖も、全て無恥に帰す。 賢婦節を守り、遺孤に奉祀す。 嗚呼永年、以て死すべし。」(一部抜き書き、漢文を読み下し分とする。) 襄八の石碑は亀の脊に乗っている。

  藪明山は、大阪長堀にて嘉永6年(1853)、藪長水(画家)の次男として生まれた。 本名は政七で、陶斉、明山を号とする。 7才の時、福良の藪本家の嗣子となり、福良に住む。 長じて伊賀野のa平焼に関わった。 明治初年、大阪に移住。 その後、東京で薩摩焼風の陶画技術を学び、大阪に帰り、陶器描画場を開設する。 細巧緻密な描画が評判となり、明山焼として米国向けの輸出が激増する。その後、パリ万国博、セントルイス万国博、日英博覧会、内国勧業博等々、幾多の展覧会に出品し、その都度数々の受賞が続き、明山自信も再々洋行して活躍した。 彼自身は敬虔なキリスト教徒で、浪花基督教会理事にも就任した。 昭和4年と7年に、昭和天皇の大阪行幸の際、行在所と大阪府立商品陳列所で、天覧を賜った。 昭和9年5月に82年間の生涯を閉じた。



藪 華蔵・襄八の碑(慈眼寺)        藪 明山(大阪歴史博物館HPより)



藪 明山の作品 「富士・藤・孔雀図大花瓶(大阪歴史博物館蔵)」





【山口吉十郎】

  天明4年(1784)福良浦里正(庄屋職)の家に生まれ、父吉兵衛も風雅の人で蘭水また楚調と号す。 通称は吉十郎、名は之謙。 字は君亭、敏樹(俊樹)、睦斉、号は南浦、江亭、藻川、室名は明楽園、聞香舎、寧楽園という。 幕末期、福良の生んだ代表的文人で、和漢の学に通じ、京・大阪にも往来して、広く名流や名家と交わり、また多くの門弟を数えた。 福良の町を歩くとき、横笛を吹きながら歩いたので、子ども達は笛先生と親しんだ。  寛政10年(1798)、洲本学問所が開設され、藤江石亭に就いて学問に励み、文化9年(1812)に頼山陽が来島され、石亭を介して山陽に拝謁して、学問の深さに強く打たれ、山陽もまた吉十郎の向学心を強く感じた。

  その後、石亭の紹介で篠崎小竹にも師事して勉強に励んだ。 また度々、京、大阪と、山陽、小竹の他、本居太平、富樫広蔭、竹内確斉、緒方洪庵、大江広海、大国隆正、加納諸平、萩原広道などの学者の大勢と交流した。

  文化14年(1817)、幕府は全国諸藩に「諸国風俗問状」を発し、これに対して洲本藩庁から「淡路風俗問状の答」の執筆者として、吉十郎が指令を受けて作文提出した。 この時、淡路における他の執筆者は津名郡内田村渡辺弥三右衛門(月石)、同郡安坂村多田包助、三原郡志知村船越与一右衛門(月橋)であった。

  天保11年(1840)、大阪で、家塾聞香舎塾を開き、子弟を教育した。 弘化3年(1846)、いったん福良に帰ったが、その後また思い直して学問大事と大阪へ引き返す等、若干、心がいろいろに乱れた。 安政4年(1857)、再び福良に戻り、聞香舎塾も福良に移し、多くの子弟を教育した。 鈴木重胤にも大変敬慕され、代表的な門人として賀集a平、倉本楽山、久保田南里、武田萬太夫などがある。
 
  福良から湊に居を移し、別荘江亭に住んで自適の生活のあと、安政6年没、享年75歳という説と、慶応年間に再び福良恋しと帰養して、80歳の高齢をもって没したという説もある。
 
  歴代山陵の荒廃を嘆き、修理の道を朝廷に建白をするの他、彼の著を列記すると、「浪華尚歯会記」、「淡路国名所旧跡考」、「神国紺珠或聞」、「聞香舎文集」、「淡路廃帝山陵二所考」などがある。

  慈眼寺に夫婦の墓石があるが、逆修墓(生前、彼自身の建てた墓)で、弘化3年4月16日との刻字がある。






山口吉十郎夫妻の墓(慈眼寺)





【萩原伊平】

  萩原伊平、号を半翠という。 半翠の雅号の由来は福良港に浮かぶ煙島が水面上、半球の翠の景観によるという。 自著によれば、「萩原家の先祖は萩原六之助で志知城主野口家の浪人で、福良に移り、慶長の頃より住す」とある。 また、家伝によれば「鍵屋萩原家は江戸幕府七代将軍家継、正徳年中で、代々伊平を襲名」とある。 本項伊平は文化11年出生。 弘化3年六代目伊平として相続した。

  鍵屋の屋敷は、現在、東一丁目上町の山側南面の西端であるが、昔はこれを含む東一丁目いっぱいの続き屋敷の商家であった。 本項、伊平時代の業種は、綿や紙その他を手広く商い、福良、淡路のみならず兵庫から播州へも出張取引があったという。 生来、好学の人で、趣味も広く多くの文人墨客と交流し、明治19年4月隠居の後は、文字通り福良旦那衆として豊かな生涯を送った。 頼山陽も藤本鉄石も来島されて交わったという。 
  福良は昔から記録の少ない土地という中で、今でいう福良の郷土史家として「福良旧記」「福良古事記」の大著を残された。 いずれも美濃紙に達筆で書かれている。 明治32年10月26日没、戒名は戒誉香禅定門、享年86歳。 

  辞世の歌は「散るものとかねては思い知りながら きょう吹く風のなきと思えば」



  

「福良古事記(複写)」





【平瀬與一郎】

  太子屋平瀬家は諸説あるが、徳島藩蜂須賀候の縁で福良に住し、代々の豪商であった。 父の11代(6代とする説もある。)守一郎は中興の祖で、如舟と号し、福良原田川上町の石造の橋を中心となって架けた。 明治9年架設のため「明九橋」という。

  12代(7代とする説もある。)與一郎は介堂と号し、安政6年生まれで、年少より向学心強く地頭方村の沼田存庵の塾で学び、当時としては新しい学問に励んだ。

  生来、病弱で、明治20年、29歳の時、家業を業種別にそれぞれ有為の使用人に譲り、名医の居る京都に転住した。 京都では豊富な資金で家畜や植物類の他、外国商品の輸入など各種事業を営んだ。 傍ら、存庵塾で学んだ生物学への思い入れから、貝類の研究に没頭することになったが、この決心は明治30年、39歳の時であった。 そのきっかけは、当時同志社大学博物学教授マーシャル・ゲインズとの出会いであった。 新しい貝類の発見も1千種以上にもなるが、学名に「ヒラセ」の名を冠したものも数十種あるという。 その間、論文著作を出し、明治40年、日本最初の「介類雑誌」を発行し、大正2年、集めた貝類数万点の展示公開のため、京都岡崎に「平瀬介館」を新設公開した。 これらの整理の助手をした数名の淡路の青年の中に、福良出身で、後に、京都大学理学博士となる若き黒田徳米がいた。

  当時の皇太子(昭和天皇)の台覧の他、学者名士の来館で賑わったが、その後、第一次世界大戦の経済不況で縮小、続いて閉館となった。 残された標本は、一組は同じ貝類学者となった子息信太郎に、一組は帝国博物館へ、一組はアメリカワシントン国立博物館へ贈られたが、残った標本は全部戦災で焼失した。

  與一郎は大正14年病没、享年67歳。 後年、貝類学研究に多大の功績ありとして、黄綬褒章を受章した。




  上 平瀬介類博物館(Wikipedia)





  左 平瀬與一郎(Wikipedia)





【黒田勝吉】

  明治18年7月11日、福良の魚問屋善平の四男として出生。 明治39年3月、御影師範学校を卒業し、各地小学校教員を歴任。 市、津井、神代の校長を最後に引退して、昭和17年4月、求められてタイル製造の淡陶会社総務担当として入社する。 大阪支店勤務中、タイル販売株式会社旭タイル商店が財務不良のため、これを子会社として取締役支配人となり、やっと軌道に乗せたところで戦災で丸焼けとなり、これを解散し、再び淡陶会社福良工場勤務となる。

  昭和23年3月、同社を円満退職して、福良宮ノ下で悠々自適の隠居生活に入る。 昭和21年創業の長男黒田善一郎社長の黒田電気株式会社の監査役となるも、実質は雑俳人生として余生を送る。 雑排名を白雨という。

  雑俳は江戸時代から淡路に伝わる短詩型文芸であるが、勝吉は堅い教員生活の中でも特に巷間の下条に通じ、人生の機微にも明るい通人で、句作一年で淡路雑俳界のリーダーの貫録を示し、雅交会の選者として宗匠の称号を贈られ、かつまた、子どもたちの親孝行を受けて、幸せな悠々たる人生を送ったのも、彼自信の才能と高潔な性格の賜であろう。 作品の傑作を句碑に残す計画を聞き、これを固く断わり続けたのも、明治の気骨を示した、優れた高潔な人格の故であろう。

  昭和37年、南淡町が全国に先駆けて国民休暇村誘致に成功するや、これを喜び多額の寄付をされて、敷地内に「黒田園」を造られるなど、南淡町に対する再々の物心の郷土愛を町民の範として、南淡町名誉町民に推され、その他紺綬褒章も受けた。

  最後は長男善一郎宅にて、昭和48年12月19日逝去。 戒名は正覚院白雨浄光居士、享年89歳。

 

城一つある 町の落ちつき
裾模様 盲目の母撫で
密航続く日本よいとこ
税務署へ悪い服着て行き
無遠慮に悪友と呼び仲がよい



慈眼寺山門前石碑(黒田善一郎氏寄贈)





【能勢敬三】 

  今、「ダントーHD株式会社」という。 しかし、福良では「淡陶会社」の方が馴染みがよい。 淡路生まれ唯一の1部上場企業である。

  古き良き昭和往時の福良の名物は、何と言っても「淡陶の通勤自転車行列」であった。 毎朝8時前と毎夕5時過ぎには、千台近い通勤自転車が列をなして、福良の狭い道路を占拠(?)していたものであった。

  明治18年、「淡陶社」の設立以来、a平焼の流れを汲んで器物中心の製品から、時代の要請を受け、徐々に内装タイルの生産へと移行していったが、当時は湿式成形で、欧米の製品に比べて難があったが、明治41年に、技術者の能勢敬三が乾式成形製法を不二見タイルの村瀬二郎麿と共に、我が国で最初に開発し、内装タイルの高品質化と量産化の達成を可能ならしめた。 これを受けて、新工場建設の機運が熟し、明治41年、仁尾の陸軍重砲兵隊練兵場跡に能勢敬三を支配人として、建設に着手し、大正7年、タイル専門の福良工場が完成し、自ら工場長となり、北阿万の本社工場と併せて操業することとなった。

  製品の特長は、表面に凹凸のある華やぎのデザインタイルで、好評を博し、国内を始め広く海外まで輸出していた。 これはa平焼の伝統を受け継ぎ、更に進化させたものであり、「エンボスタイル」と呼ばれ、彼のタイルづくりへの情熱の賜であった。

  福良工場の操業は、約千人の雇用となり、福良の町は沸き立つような活気に満ち溢れた。 福良小学校の運動唱歌に、「さては工場に立ち上がる いわきの煙 空をつき 海陸ここに 歩を合わせ 町は富みたり 商工業」と淡陶のことが唄われている。





  

デザインタイルいろいろ



 
東宮殿下(昭和天皇)御台臨写真 能勢敬三
           





【久留米竹平】

  竹平は画号。 滝吉と称し、明治20年10月8日福良で出生し、玄人はだしの絵を描き、能書家で、焼き物、俳句雑俳などの旦那衆雅友と一生風雅の付き合いをした。

  若年に上京、東京電気学校に学び、電気主任技術者試験に8番目の成績で合格し、古河電線株式会社に就職したが、幼児より画才に恵まれ、傍ら日本画家柳田斗墨先生に就いて修行する。 その後、福良出身の鈴木彦次郎が大阪で鈴木合金製作所を創立し、電気技師として迎えられ、大阪へ行く。 大阪でも日本画の大家矢野橋村の門に入門し、ますます日本画に熱中する。 晩年「わしゃ、電気と絵の両方をやったので、どっちつかずになった。」が口癖であった。 福良へ帰り、淡陶会社、次に福良電灯会社の電気技師を経て、電気工事店を開店する。

  忙中閑、益々日本画の腕を上げ、かなりの軸、扁額、色紙、短冊、画帖を残し、求められて現在愛蔵する人も多い。 齠c善九郎氏の主催する忘吾園に誘われて、増田千代松と共に、絵付けは勿論、焼き物にも精を出し、幾多の作品を残した。 これらの中で「福良絵図」の大冊は圧巻として有名である。

  水墨淡彩で、一応これで福良のほとんどの風景が美しく描かれ、その一枚々々に達筆な添え文が素晴らしい。 この説明文は黒田白雨と宮崎正範の教示を受けたと書いている。

  慈眼寺南岳大雲師の「久留米竹平別所図鑑に寄す」というのがあって「・・・功績偉大讃嘆惜まず一言蕪辞を綴ること斯くの如し・・・」という賛辞が添えられている。

  昭和44年5月22日没、享年82才。 戒名は清徳院釈龍圓位という。






久留米電気店(平成27年10月撮影)





【菅井雲樵】

  雲樵は画号で、通称は圭介。 明治22年9月14日、福良で生まれた。
  子どもの頃から絵がうまく、学校の先生に「大きくなったら絵描きになるのか」と聞かれて、「うん」と答えた。
  東京に出て、森脇雲溪の門に入り、日本画を学び、花鳥山水が得意で、師の一字を頂き雲蕉と許された。

  日本美術協会に所属し、戦前、旧満州国皇帝溥儀来日の際、御前揮毫した。 秩父宮殿下が大変彼の絵がお気に召し、再々御殿に伺候し、数点お買い上げ、殿下から兄君、昭和天皇にも献上された。

  「翼よ、あれば巴里の灯だ」の映画で有名なリンドバーグ来日の時、日本政府の名において雲樵の絵を差し上げ、彼が帰米後、サイン入りの写真と礼状を贈られた。 越前永平寺にも、腕を揮った格天井の絵があるという。

  雲樵は郷里福良を懐かしみ、再々帰郷し、旧知と語り合い、たくさんの絵を残した。 慈眼寺庫裏の玄関に大きな衝立があって、表に富士の絵、裏に竹に雀の絵がある。 旧福良公会堂に、それより大きな衝立に勇壮華麗な孔雀の絵があったが、子どもの悪戯で破られ、また、日本間に彼の掛け軸があったが、公会堂解体の時行方不明になった。

  昭和53年3月16日、家族、門弟に看取られながら東京で大往生。 法名を円光院桂山雲樵という。





菅井雲樵の作品 「東海 神岳」(慈眼寺)





【中原清隆】

  中原清隆は明治23年、福良の海産物問屋の長男として生まれた。 生来絵が好きで、両親も了解して京都の関西美術院に入学し、特に鹿子木孟郎に師事した。 その時、陶芸と調理の北大路魯山人とも親しくなった。 その後上京、水彩画会に入り、石井柏亭、白滝幾之助に学ぶ。 学資や生活のため、新聞配達、料亭の下足番、人力車々夫、夜なきそば屋など、割合気楽にアルバイトして勉強した。

  彼の画風は感情や動作を表現するため、当時の自然主義、写生主義に反し、受け入れられなかった。 そんな時、独立美術協会が誕生し、その協会の阿佐ヶ谷研究会の発会式に招待され、以来、里見勝蔵、児島善三郎、林武、三岸好太郎、高島達四郎などと親交を重ね、十数回の独立展に出品して、いよいよ頭角を現す。

  画家の他、余程商才があったのか、生活が豊かで、彼のアトリエを綜合研究所として、常に数人の青年画家の面倒をみた。 こんなことから、他の先生方と協力してできたのが、有名な新制作派協会で、それから順々に、文化美術とか、行動美術と新しい美術運動が出てきた。

  昭和13年、陸軍情報部の委嘱で従軍画家として活躍したが、敗戦により戦災を受け、無一文になり、有縁の人の好意で飛騨高山から、その後夫人の郷里に近い瀬戸市に移住した。 高山時代から彼の主唱する流動美術に熱を入れ、瀬戸市の陶芸家と知り合い、紙やキャンバスによる他、粘土を媒体とする陶磁への新しいジャンルに入り、平面描写から立体的な陶磁による造形へ進展して行く。 しかし、時々彼の頭に去来する郷里福良の山や海、遊んだ幼友達を想い、望郷の念に誘われて、再々福良へ帰った。 そんな中で、「鳴門海峡」「農夫と牛」「灘の娘さん」「漁業風景」「網つくり」「福良の港」「先山遠望」「由良の港」などの作品が生まれた。 福良でも、これら彼の作品を所蔵する人も多い。

  具象より抽象という彼の作品のなかで、先山千光寺にある永田秀次郎先生の肖像画はかなり写実的である。
  昭和37年12月11日、瀬戸市で没した。 享年73才。 法名を流動菴美山是清居士という。



 

中原清隆                 永田秀次郎の肖像画(複写) 



「黒潮の娘」





【鶴澤友路】

  本名は宮崎君子、大正2年12月19日福良で生まれた。 子どもの頃から勝気で、浄瑠璃好きの両親の影響を受け、早くから三味線に魅せられ、5歳の時、淡路人形浄瑠璃上村源之亟、市村六之丞、吉田傳次郎各座の巡業で舞台に出演した。

  大阪に出て野澤吉童師に入門、内弟子となり、竹本東広師、豊澤広助師などの指導を受け、昭和8年、ラジオ徳島に出演した。

  昭和11年、三味線界の宗家、鶴澤友次郎師の内弟子となり、その後は淡路と大阪を往来し修行に努め、竹本小仙師、野澤吉弥師、竹本染登師、鶴澤寛治郎師、竹本綱太夫師にも学び、遂に昭和16年、宗家から「もうお前に教えることはない」と友次郎師匠の一字を頂き、「鶴澤友路」を拝命した。

  その前、昭和15年から福良の自宅でも内弟子をとって大勢の育成に努めた。 昭和26年、大阪四ツ橋文楽座にて竹本三蝶の相三味線を務め、宝塚大劇場、京都南座、大阪旭座、三越劇場、東京国立劇場等で、当時第一人者の相三味線にも出演した。

  昭和28年、弟子の会「友路会」を結成して、淡路素義審査会、日本素義振興会などで活躍をした。 また、福井子供会、市小学校、三原中学校、南淡中学校、三原高等学校などの人形浄瑠璃部での後継者団体の指導や淡路人形座の若手座員の指導にも励み、多くの人材を育て、自らも出演して人気を博した。 昭和47年には天皇皇后両陛下の御前で公演、昭和49年、日本顕彰会の表彰を受けている。 その他、淡路人形座は世界各国への海外公演を毎年のように行って、友路師匠もその殆どに参加し、言葉の違う外国人に多大の感銘を与えた。

 昭和59年、芸能団体半どんの会受賞、兵庫県文化賞受賞、昭和61年重要無形文化財義太夫節保持者に認定された。 更に、平成7年文化庁長官表彰、平成8年伝統文化ポーラ賞特賞を受け、遂に平成10年重要無形文化財義太夫節三味線保持者、いわゆる人間国宝に認定された。

  本年、101才。 今もなお、元気に後継者の育成に励んでおられます。





鶴澤友路




人間国宝認定顕彰碑


 ※本資料は、次の文献資料を参考に、または、その他の資料の提供を受けて、作成しました。 
 ありがとうございました。
 「南淡町人物誌(南淡町教育委員会発行)」、「福良むかしむかし(前田勝一著)」、「ウィキペディア」、「近代日本陶業発展秘史(伊勢本一郎著)」、「日本のタイル文化(淡陶株式会社発行)」「日本のタイル工業史(株式会社INAX発行)」、「ダントーHD所蔵写真」、「木下道子氏所蔵写真」、「南あわじ市滝川記念美術館玉青館所蔵写真」、「淡路人形座所蔵写真」、その他の写真は南岳利英級長の撮影による。





 


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現地巡り(東本町西国三十三ヵ所観音霊場巡りなど)の記録



日時:平成27年12月12日(土)9時40分頃〜
集合:9時30分/福良地区公民館



1. 趣旨・目的

   福良の古絵図などを片手に、福良の信仰や歴史と文化に触れながら楽しく歩き、先人たちが残した夢と願いと志に想いを馳せ、『よいとこ福良!』の再発見をしよう。



2. 概略行程(予定) 全行程距離 約4.0k(うち山道 約0.8k) 

「福良地区公民館(塩田跡)」9:40発 → 9:43「妙見社」 → 9:54「塩浜の松」前 → 10:00「新道橋(築地川)」 → 10:12「三角公園(鏡ヶ渕・馬宿)」 → 10:27馬宿昇り口 →《「西国三十三ヵ所霊場」》→ 11:30赤坂降り口「東本町公会堂(赤坂地蔵堂)」《休憩10分》11:40発 →(「南海道跡」) → 11:54「由良要塞基標」 → 12:00着「櫟神社」《昼食・休憩45分》12:45発 → 12:55「山住社」13:00発 → 13:10福良口交差点 → 13:25着福良地区公民館《13時30分頃全部解散》

※「櫟神社」での休憩については、「創価学会関西淡路研修道場」のトイレを利用します。
※「山住社」からの帰路については、「途中離脱可(途中解散)」とします。








3. 訪問箇所の概要説明

 ●「塩田跡」


   

   延宝3年(1674)、坂東半左衛門了空が徳島藩に願い出て、向谷八反に塩田開発(片上干潟部の干拓、築地川の河川改修、新道の造成などを含む。)を開始し、元禄14年(1699)に完成した。 入浜式塩田で、1万2千坪であったと言われている。 明治43年(1910)塩田整備法によって閉田した。





 ● 「妙見社」



   

   妙見は北極星を神格化したもので、一族やその土地を守護するものであり、元々塩浜坂東家が管理していたが、近年、神社に委譲された。 現在、福良八幡神社例大祭の神輿巡行のお旅所になっており、周辺住民の崇拝を集めている。 祭神は、美武須美(みむすみ)神という。 向って左側には、聖観音堂がある。





 ●「塩浜の松(跡)」





   

   塩浜坂東家に、かつて富士山型の見事に美しい枝ぶりの名松(推定樹齢300年)があったが、平成25年6月に枯れ、伐採された。 蜂須賀6代綱矩の時代に、脇町猪の尻の坂東家旧宅の松の苗木を移植したものと言われている。





 ● 「新道橋(築地川)」



   

   江戸期の塩田開発時の築地川に架かる橋としては、最下流の橋であったと思われる。(築地の埋立と築地橋の築造は昭和初期となる。) 塩田開発によって、築地川の改修と新道の造成が出来上がった。 なお、本地点が岩川との合流点になっている。 
   




 ● 「鏡ヶ渕(三角公園)」



   

   小松谷川、法月川、馬宿川の合流点にほど近いこの場所に、鏡の如く水が澄む渕があった。 平安時代の女流歌人、和泉式部がこの地を訪れ、歌を詠んだとの伝承があり、今もその歌碑が残されている。




 
 ●「馬宿」



   

   奈良時代から淡路南海道の終点である福良宿駅がこの地付近にあったと伝えらており、福良では、「ムマヤド」または「ムマイド」と呼ばれている。 





 ● 「東本町西国三十三ヵ所観音霊場巡り」



   

   観音様のご利益を受け、現世での救済を願う「西国三十三ヵ所霊場」は、全国のあちこちにありますが、福良でも地域の人々によって、福良版の西国三十三観音の石仏がお祀りされています。(明治から大正の頃に、創設されたものと推測される。) なお、霊場札所一覧については、別掲のとおり。





 ● 「赤坂地蔵堂」





   

   赤坂の地名は、水銀の材料である朱砂(硫化水銀)がこの地から採れたことによると言われている。 「味地草(安政4年)」には、「小松谷馬宿谷との間にあり 街道也・・・」と記載され、慈眼寺十四堂庵の一つの赤坂地蔵堂がある。





 ● 「南海道跡」



   

   古代に整備された都と四国を結ぶ官道で、加太→由良→福良→撫養へと続く。 中山の坂道には旧国道に並行して、南海道跡とおぼしき小道がある。





 ● 「由良要塞基標」



   

   明治時代、由良要塞に鳴門要塞司令部が置かれたが、南海道は軍用道としても用いられた。





 ● 「櫟神社」



   

   福良八幡神社例大祭の神輿巡行のお旅所になっており、周辺住民の崇拝を集めている。 祭神は、居神明神と同神で丹生津媛命(にうつひめのみこと)という。 伝承によれば、居神明神が川を遡上して、中山の地に鎮座したのが櫟神社であるという。





 
 ● 「山住社」



   

   伝承によれば、桐原刑部の霊を祀っているとされている。
   山の神・海の神・戦の神である「大山積神」を祭祀する大山祇神社(大三島)の末社とも言われている。
  
 



   現地巡りを終えて、記念写真・・。








 

携行資料
@ 「福良浦分間絵図 天保6年」
A 福良字限大(集成)図(明治初期)
B 「味地草(八幡社地之図)安政4年」
C 「味地草(向谷之図)安政4年」
D 西国三十三観音霊場地図(霊場一覧)
E 「味地草(地蔵堂)安政4年」






 

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福良の神々




福良八幡神社宮司 前川 正延

はじめに
 福良の神々をテーマに頂戴しましたので、明治時代の福良地区の神社調査資料を基本にお話ししたいと存じます。

 以下は、平成8年に三原郡神社総代会設立40周年を記念し、明治35年の郡内神社明細帳の写しを復刻しました。 原書は、亀岡八幡神社前宮司前川重弘氏が戦前戦後の混乱期の中、大切に保管された旧三原郡内の神社の明細帳で、後世に伝えるべき重要書であります。

 明治元年の「神仏分離令」により、神社明細帳作成の旨を神祇省から全国に通達があり、郡役場(三原分局)に保管されていたものを明治35年に写したもので、明治時代の郡内神社の基礎資料となっています。 今般、掲載神社のうち福良地区の神社を抜粋し、往年の様子を公文書から明らかにし、現況への変遷をお伝えしたいと存じます。
















@-1 福良八幡神社
・祭神 誉田別尊(応神天皇・仲哀天皇・神功皇后)
・よみ ほんだわけのみこと(おうじんてんのう・ちゅうあいてんのう・じんぐうこうごう)
・祭主 八幡神社







@-2 八坂神社
・祭神 素戔嗚命
・よみ すさのおのみこと
・祭主 網屋町







@-3 沖津彦神社(荒神社・若宮社・高良社)
・祭神 沖津彦命
・よみ おきつひこのみこと
・祭主 八幡神社







A 櫟神社(中山明神社)
・祭神 丹生津姫命
・よみ にうつひめのみこと
・祭主 中山明神講







B 丹生神社(居神明神社)
・祭神 丹生津姫命
・よみ にうつひめのみこと
・祭主 居神明神講







C 厳島神社
・祭神 厳島姫命(市杵島姫命)
・よみ いちきしまひめのみこと
・祭主 福良漁業協同組合







D 郷殿神社
・祭神 郷殿神
・よみ ごうどののかみ
・祭主 郷殿神社奉賛会(網屋町、谷川町、東十軒家、西十軒家、浜町)







E-1 住吉神社
・祭神 底筒男命・中筒男命・上筒男命
・よみ そこづつのおのみこと・なかつつのおのみこと・うわづつのおのみこと
・祭主 福良漁業協同組合







E-2 金刀比羅神社
・祭神 大物主命
・よみ おおものぬしのみこと
・祭主 福良漁業協同組合







E-3 稲荷神社
・祭神 宇賀魂命
・よみ うがのみたまのみこと
・祭主 福良東稲荷講






F-1 於岐津比古神社
・祭神 沖津彦命
・よみ おきつひこのみこと
・祭主 秋葉神社奉賛会


F-2 秋葉神社
・祭神 味鋤高彦根命
・よみ あぢすきたかひこねのみこと
・祭主 秋葉神社奉賛会








G 蛭子神社  
・祭神 事代主命
・よみ ことしろぬしのみこと
・祭主 福良漁業協同組合



                                          


                       


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