HOME「福良学教室」の概要活動の記録
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付録資料
年表 展示記録 古文書 唱歌
 


25年度活動の記録


第1回 4月 べんてんはん
第2回 5月 現地巡り(小学校〜鶴島など)
第3回 6月 福良の漁業
第4回 7月 福良の淡陶
第5回 9月 福良の自然災害の記録
第6回 10月 現地巡り(仁尾〜刈藻〜鳥取〜笹山など)
第7回 11月 福良の道と川
PDF形式)(PowerPoint形式
第8回 12月 福良の観光
第9回 2月 南淡路ロイヤルホテル

<※各項目をクリックすると、資料に飛びます。>








瀬戸の潮みず交流広場(福良地区県民交流広場)
福良公民館 〒656-0501 南あわじ市福良甲512-2
TEL:0799-50-3048  FAX:0799-50-3068














「福良の漁業今昔」



福良漁業協同組合 元専務理事  多田 繁年

1. 「福良の漁業」の沿革」

  私達の住む福良は、古より京阪神と四国を結ぶ玄関口として海・陸共に栄えてきた。 経済は大阪圏に近く、文化は京文化を受け継ぎ、方言などにも京言葉が多くみられる。 食に於いては、「魚は鳴門物」と称され、高級料亭や有名ホテルなどが先取りといって、市場で競りにかけられる前に高額にて引き取られていった。 農産物についても、豊かな三原平野に囲まれた美味しい米・麦と全国的に有名なレタス・キャベツ、有名ブランドとして名の高い玉葱(別名「淡路玉葱」)があり、これに加えて、奈良の三輪の本家に負けない品質の淡路素麺があり、日本有数の「食材の宝庫」を誇っている。 故に、現在もその味を求めて、多くの観光客が押し寄せている次第です。 

  漁業に至っては、私が子供の頃の漁協の組合員は、500人位だったと思う。 その当時は、1軒の家に1人しか資格が認められず、1軒の家に何人も従事者がいても、代表者1人だけだった。 その他に、船や漁具を持たない舵子(かじこ)・勢子(せこ)と呼ばれる人も100名〜200名いたと思う。 今、当時を推察するに組合員の家族も含めれば2,000〜3,000名の数であったと思われる。

  漁業組合内には、18の「小組」と呼ばれる組織があり、農協のレタス部会・玉葱部会・キャベツ部会などと同じ位置関係にあり、さわら釣組・縄船組などの漁業種別毎に会長・副会長・会計・委員・相談役を選出して、他の「小組」とのトラブルの調整や休漁の取り決めを行っている。 この「小組」が合同して、組合に発展していったと思う。 今は、船曳網・縄船・魚類養殖の三つが水揚げも多く、主体となっていると聞く。

  福良は漁師町であり、その年の好不漁により町全体の景気を左右してきたと言っても過言ではないだろう。 福良の資産家も網元のパトロン(資本提供者) として漁業を支え、某網元のパトロンは、新道の神代家と聞いた。 古くより資産家と網元の密接な繋がりがあったのだろう。 町の商店も漁家をよく支援し、不漁の年は生活費など掛け(帳付けにして、漁があった時にまとめての支払い)にして支えてきたと聞いている。

  しかし、福良に於いては、私が漁業に就労してから後、好景気・豊漁が続き、これに加えて、昭和49年発生の三菱石油水島事業所による燃油流出事故の補償、幾度かの本四公団の架橋補償等により、福良の町全体が盛り上がった事は否めない事実だろう。 だが、現在に目を移し、漁協資料によれば、組合員数も正・准組合員合わせて170名であり、水揚高も約20億円もあったのが6億円弱となっている。 往時を思えば、その衰退振りに驚くばかりです。 第一次産業にみられる『3K』は、「きつい」、「汚い」、「危険」と呼ばれ、若者のサラリーマン化や後継者離れに加え、高齢者の組合脱退等により、平成初期位から漁業者の減少が目立ってきた。 漁業衰退の推移として、ある業種による水揚げ量の増大が原因と思われるが、私の考えとして留めたい。 高齢者による脱退、若者の漁業離れ等により、人員が減少しても、後に残った者にとって、海面の広さ(漁業権)が従来とは何ら変わらないので、最後の勝者となるであろうと思っていた自分の不明を恥じ入るばかりの昨今であります。

  鳴門海峡の中瀬(現在の大鳴門橋の主塔の岩礁)については、明治後期より阿波(鳴門市)と淡路(南あわじ市)による漁業権紛争があり、のちに言う「鳴門戦争」と呼ばれる事件である。 当時は、中瀬以南の浅い岩礁に繁茂する瀬戸貝(通称コカイ) を採る「瀬戸貝採り」や瀬戸延(ばえ)というカサゴやアナゴを採る「延縄(ばえなわ)漁」が行われていた。 瀬戸貝採りでは、福良備前町辺りの漁業者による大熊手漁、戎町・網屋町の漁業者による瀬戸貝採り、イサリ(箱メガネにて魚貝を採る)業者による「ひとつ貝採り」があり、特に、コカイは美味として地元で愛されていた。 ちらし寿司や巻き寿司に入れると絶品となる。 また、吸い物料理の食材としても絶妙であった。

  瀬戸延縄(ばえなわ)は、中瀬の浅瀬以南の水深100m位のところが漁場であり、100mの水深となると、昼間も暗く夜しか採れないカサゴ、アナゴがよく採れた。 旧西淡町丸山の漁師さんも多く従事していた。 福良では、住吉町・五分一町・仁尾の漁業者が従事していた。 鳴門海峡独特の潮流の変化があり、太平洋側より瀬戸内海に流れる潮流(みち潮)を北流、瀬戸内海より太平洋に流れる潮流(干潮)の南流、その転換時による潮止まりをねらって、瀬戸貝採りと延縄とイサリの3業種が短時間の操業を行っていた。


【鳴門戦争】
  俗に言う「中瀬事件」については、只今述べた業種間による紛争と周辺海域の一本釣漁業者も加わっての大きな事件となった。 海のなわ張り争いであり、各々が海の男としての面目をかけての戦いだったと思う。
 
  私が少年の頃は、鳴門市(里浦)の瀬戸貝採りも多数操業していた。 私が幼い頃、古老から聞いた話では、戦闘開始の合図として旗を上げる。 目印として当時、携帯電話とか何の連絡手段もない時代、ゴムの前垂れ、雨ガッパなどを船の帆柱の先に、または手ぬぐいなどを長い棒に取り付け、立てていた。 (他に、船にエンジンの故障や急病などの場合、他船に知らせて救助や応援、乗合などに用いた。) 中瀬事件でも、合図の旗が上がると淡路側(福良・阿那賀・丸山)の漁業者が集まり、気勢を上げた。 その当時、三原郡警察本署は市村(現在の南あわじ市市)にあり、福良には分署が現在の戎町浦瀬医院の土地にあって、福良分署より福良町役場となって現在に至っている。 面白い話として、福良分署の巡査が淡路側の船の先頭に立って、サーベル(洋刀、軍刀と同じ)を抜いて、「進め」と叫んだと聞いた。 福良にとっても、漁業の盛衰は町を左右する大事として重視していたのであろう。 双方の町を挙げての応援により、事件が世間に大々的に報道されるようになり、最終的には、兵庫・徳島の両県の関係者が仲裁に入り、終結したと聞いた。 一人の犠牲者も出なかった事を考えると、双方の海の権利を巡っての意地の張り合いだったと思う。


2.「福良の漁船」の規模・用途

【カンコ船(ぶね)】

長さ 約8m(27尺)
幅  約1.2m(3尺8寸〜9寸)
推進力  1丁櫓

  主に、一本釣り、イサリ、縄舟による漁業を行うが、福良港外から阿万潮崎と鳴門市撫養口の大磯の範囲にて操業。 但し、縄船はハモ縄漁に限っては沼島以西まで出漁。 小型漁船のため、遭難者が出たこともある。

【チョキ船(ぶね)】

長さ  9m
幅   1.5m
推進力 2丁櫓

  地曵網 通称「ひょうたん曵」と言って、福良湾内から阿万小浦の鼻より門崎までの海岸地先にてコナ・新仔・シラス等を採っていた。

【機械船(せん)】
    俗称「無点火(むてんか)船」と言い、焼玉エンジンが動力。 8馬力〜10馬力にて燃油は重油。 当時の大型漁船にてエビ網漁業、ヒラメやメイタカレイを採るチン漕網(チンコギアミ)を操業。 漁場も福良湾口より灘沖まで出漁。 許可期間に限り、西淡町丸山沖まで行っていた。(現在の小型底曵網は、長さ12m 幅2.5m位で、エンジンはディーゼル機関の20馬力です。)


3.「福良の漁業」を支えた造船所
   福良では、第2次世界大戦の戦前・戦中・戦後を通じて、5軒の漁船専門の造船所があった。
  
  ◆橋詰造船所
    備前町にあり、現在の「橋詰水産」の前身で、主に機械(きかい)船(せん)(小型動力漁船)を建造。

  ◆水引造船所
    戎町の浜、昔の広瀬貝ボタン工場の東側にあり、主にカンコ船を建造。

  ◆(べんど)造船所
    網屋町、現在の「ぱくぱく」お好み焼き店の場所にあり、機械船、カンコ船の両方を建造。

  ◆船越造船所・飛田造船所
    東十軒家波戸の浜にて、船越豊蔵さんが主にカンコ船を建造。 
    後に、弟子の飛田尚男氏(現在の飛田造船所)が受け継ぎ、カンコ船、機械船の両方を建造。

  ◆汐崎造船所
    西十軒家にてカンコ船、機械船の両方を建造。 海岸道路が出来ると、
    その地先に作業場を移転したが、現在は廃業し、小林水産が倉庫として使用している。


4.福良の鮮魚の運搬・出荷
  淡路島は関西有数の鮮魚の宝庫として知られ、特に、洲本市由良港と南あわじ市福良港が水揚高も大きく有名であった。 福良では、往年「生(なま)船(せん)」と呼ばれる鮮魚運搬船にて、年間十数日の荒天時を除き、毎日深夜、神戸市中央市場へ出荷していた。 神戸市場を経由して、京都・大阪、遠くは東京まで出荷、全国へ流通していた。 神戸中央市場は「神港魚類」と「神戸海産物」の二つの水産会社があり、大手では「まるは大洋漁業」と「日水」系があり、神戸の神港魚類はまるは系統で、大阪の魚市と提携していた。 神戸海産物は日水系の大阪の「大水」と提携している。 上記2社が日本の水産市場をほぼ傘下に収めている。  又、海上輸送も道路事情の改善、本土への架橋の完成、酸素ポンプの改良等により、トラック輸送へと切り替わっていった。 福良では往時、下記による水産物問屋、商店が各自鮮魚運搬船を所有していた。

  ◆福新水産
  二丁目・浜町 古池春太氏・新一氏による「朝日丸」

  ◆山長(ヤマチョウ)久留米鮮魚卸問屋
  備前町・五分一町 現在の「山長倉庫運輸梶vであり、久留米長七氏・正雄氏による「秀丸」

  ◆岸林
  備前町 岸林太氏・喜志郎氏による「喜志丸」

  ◆(カネチョウ)鮮魚卸問屋
  備前町・仲之町 南長一氏・一美氏による「一丸」

  ◆生長丸水産
  住吉町 隔山三吉氏(旧名 岸定一氏)・泰介氏による「生長丸」

  ◆別所水産
  五分一町 別所利治氏・成治氏による「福栄丸」

  ◆酒部水産
  網屋町 酒部松一氏による「玉丸」

  ◆納水産
  浜町 納勧一氏による「清秀丸」(福良の過半数の魚貝類を出荷)
  以上、8者の業者が競合しての海上輸送にて、国民の食生活に寄与してきた.


5.「福良の漁業」独特の漁法
  かつて、福良で盛んであったが、今、絶滅している福良の特異な漁法について述べたいと考えます。

【えとこすくい漁】
  コナ(新仔)の2年魚、イカナゴをカンコ船にて漁獲する。 その漁法は海スズメと呼ばれる海鳥が海面より浅く潜って、イカナゴが球状になるまで威嚇(いかく)し、海面へ浮き上がらせ捕獲するように、大きなたま(学名たも)で掬う。 その量は5升〜3斗位(9〜54リットル位)であった。 又、3年物と呼ばれるイカナゴの親魚(ふるせ)は、アブ(学名アビ)という海鳥が海中に深く潜り、球状にして浮き上がらせ捕獲するように、1〜4隻位のカンコ船がその回りを取り囲み、「うざわ」を海中へ差したり引いたりして固まらせ、「えとこだま」にて掬い取る。 その量1斗〜最大2石位(18〜360リットル)であった。 なお、掬い取りしたイカナゴは「いりや」と呼ばれる水産加工業者が漁場まで出張して買っていた。 1升桝で量るため山盛りとなり、その余分な量が予想外の収入となる。 当時、1斗(18リットル)も買えば、一家の生計が成り立つと言われたものである。 釜揚げにして京阪神の市場へ出荷し、この食材を各々の調理方法で生かし、食通の人にはその味を堪能したことだろう。

※ アビという海鳥は現在、瀬戸内海西部より九州にかけての豊後(ぶんご)水道で生息していると聞いている。

  ◆うざわ(鵜竿(うざお))
   鵜やアビの疑以竿で、長さ6〜7m、直径3〜4cmの真竹(まだけ)の先に白黒の布を付けて海鳥の代用品とした。




  ◆えとこだま(だも)
  直径約1.5m、全長2.7m程の大きなすくいだまで、大きな黒松の木の枝を切り取り、加工した物で袋網はもじ網と呼ばれる綿製の網6反〜8反を使用。 



  他に、「まて突き漁」と呼ばれ、男児のオチンチンによく似た「まて貝」を採る漁がある。 まて貝を分葱と一緒に和えた酢和え、味噌和え、又、巻き寿司、ちらし寿司に混ぜた味は美味であった。 また、この他鳴門海峡以南でしか操業出来ない「瀬戸延縄」等があった。


6.福良港での養殖
  福良の魚類養殖について述べるには、先ず隔山三吉氏の功績を挙げねばなりません。 隔山三吉氏(別名 岸定一氏)は鮮魚の仲買人をしており、自己所有の生長丸にて神戸中央市場へ連日海上出荷していた。 しかし、年数回の荒天時に、どうしても出荷出来ない為、畜養しなければならなかった。 数日後、天候が回復して、出荷しても魚の目減りが響いて、儲けにならなかった。 偶々、網簀(あみず)と呼ばれる大きな生簀(いけす)に畜養していたハマチに目減りがしないかとイカナゴを放り込んだところ、これを食べた。 これに目を付け、餌として与えていたら重量が増えた。 以後、副業としてハマチ養殖を行い、全国へ広がっていった。 隔山氏こそ、ハマチ養殖の先駆者と言っても過言ではないだろう。 世界でも有名な近大の原田教授が度々隔山氏に教えを請い、博士論文提出の参考にしたとも聞いている。 有名な原田先生が田舎の老人に「先生」と言うのを聞いて、近大の学生が不思議がったと聞いた。 漁業者の中からもハマチ養殖に取り組む者が出て来て、やがて鯛の養殖、フグ養殖と続き、現在有名なブランドとなっている「三年とらふぐ」に繋がっている。


7.鳴門架橋後の「福良の漁業」の流れ
  鳴門架橋により主塔下となっている現在の中瀬岩礁、淡路側の先端にある門崎の橋脚部分などの完成により、海峡の潮流が変わり、潮流の本流が昔より徳島側に移り、淡路側は本流より外れたと漁業関係者が言う。 これが不漁の原因なのかはよく判らないが、詳細な分析が必要となろう。 又、日本近海も、海峡の変化による沿岸部に於いても、潮流の変化が見られ、紀伊水道より北上してくる潮の流れを昔の人は「阿波づけ」、和歌山県へ来る潮の流れを「紀州づけ」と2つの流れに分けていて、本流が徳島県沿岸を通るのを「阿波づけ」、和歌山県沿岸を通るのを「紀州づけ」と呼び、福良のような淡路島南部を漁場とする地域では「阿波づけ」の場合、北上してくる魚類が多くて、豊漁年となった。 和歌山県沿岸へ流れる潮流の「紀州づけ」の場合、淡路の由良、和歌山の加太等が豊漁となり、福良は不漁となる。 古老の話では、近年世界的な潮流の変化なのか「紀州づけ」が多いと言う。 これらの架橋による海峡部の潮流変化、紀州よりの潮流変化など様々な要因が重なっての漁獲減少に繋がっているのだろうと推定される。


8.「福良の漁業」の将来展望
  某漁業種による稚魚の乱獲と今の潮流を考えると、将来における福良の漁業に対する希望の光が見えてこない。 「育てる漁業」の大々的な規模の拡大や規制漁業の更なる操業規制が今後必要となってくるものと思われます。 このまま放置すると、漁業に対する明るい未来はないと思われる。


  国による漁業用燃料の低価格化策や魚価の高価格化に対する保証等、抜本的な支援がなければ、今後共厳しい情勢が続くものと考えられる。






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福 良 の 観 光


〜「淡路島の観光」の視点から福良にズームアップ!

一般社団法人 淡路島観光協会
理事  野 上 春 男


1. 古代から江戸期の淡路
 古来、「御食国」と呼ばれた淡路は、風光明媚・温暖で畿内に近く、多くの歌人や俳人などの文化人に親しまれ、山部赤人、柿本人麻呂、紀貫之、和泉式部、藤原定家、源兼昌、西行法師などの多くの歌人が美しい淡路と愛おしい人を詠んだ。 江戸期には、服部嵐雪などの俳人も輩出し、「四国八十八ヶ所霊場巡り」などの旅人が淡路を訪れることが次第に多くなった。


2.明治期〜戦前の淡路
 維新後、交通手段は飛躍的に発達し、商用や観光で淡路を訪れる人が次第に増え、淡路汽船(明治13年)、おのころ汽船(明治20年代)などが相次いで設立され、遂に、大正3年には、摂陽商船(関西汽船の前身)が兵庫・大阪―洲本直行便を定期運航するに至った。 この時、「淡州丸」、「女神丸」、「此花丸」、「天女丸」、「白銀丸」等が次々に新造された。
 

 大阪朝日・大阪毎日新聞社では、文芸部員を始め、阪神間に在住する文人たちを招待して、雑誌や絵画に力作を発表し、阪神方面の誘客が図られ、淡路でも、これに呼応して、まず洲本商工会が観光事業を取り上げ、案内所や大浜海水浴場を開設したり、土産物の管理行い、積極的な誘客が図られた。

 これに少し遅れて、播淡連絡汽船によって、明石、神戸中心の都会人の岩屋来遊が盛んになり、洲本とは別の繁栄をみせた。 この頃、夏季来游者数が5千人を超える日も珍しくなかったそうである。

 次いで、西浦の観光開発が始まり、船便も増加し、阪神間の学校が競って臨海学校を開設し始めた。 江井、郡家や湊で、次々と観光協会が設立され、西浦各地は阪神間の学校の臨海学校誘致に町を挙げて、競う時代となった。

 船会社は、洲本の宣伝に成功すると、続いて「鳴門観潮」の宣伝に着手し、「鳴門小唄」が生まれた。 また、小説「鳴門秘帳」が毎日新聞に掲載され、鳴門観潮は新しい姿で全国デビューすることとなり、阿淡連絡汽船は観潮船を新造し、運航を始めた(昭和10年頃)。 以前は陰暦3月を最盛期としていたが、この頃から年中の観潮が定着し、「淡路島の観光」は、「鳴門観潮」をしなければ淡路島を語れないとの定評を博したものである。

 かくして、昭和一ケタから昭和10年に至る間は、「淡路観光の黄金時代」で、これに関する多くの出版物も出回り、淡路は天下の観光地としての地位を確立し、淡路県民局も本格手に援助に乗り出し、観光課を設置し、宣伝に大きく乗り出すこととなった。

 これに拍車をかけたのが、洲本市制の施行(昭和8年)で、観光都市洲本の面目を躍如することとなった。 この時、淡路島内の観光協会を統一して、「淡路観光協会」が誕生した。 洲本市・淡路交通・関西汽船が中心となって、神戸・大阪で「淡路観光展」を開き、阪神間居住者の保養地として、定着しかけた時に、第2次世界大戦が勃発し、一切の観光事業が廃止となった。


3.戦後〜昭和30年代前半の淡路
 終戦後、由良・福良の要塞施設が開放され、阪神間との新たな交通も回復し、再び時代の波は観光事業の上に打ち寄せ、「淡路観光協会」も復活し、新時代の観光の幕開けとなった。
これに加え、昭和25年には、念願であった「瀬戸内海国立公園」の追加指定(福良湾から門崎を経て慶野松原に至る海岸区域一帯)を受けたことにより、観光地としてのグレードも上がり、全国版の観光地にのし上がることとなった。


海上交通(昭和23年)  
関西汽船
東浦 神戸〜洲本 4便
東浦 深日〜洲本 2便
西浦 明石〜湊 2便
西浦 明石〜室津 2便
西浦 明石〜江井 2便

別会社(八幡組、丸正汽船など)
東浦 明石〜洲本〜由良 1便
東浦 加太〜由良 1便
西浦 明石〜湊
西浦 明石〜江井
播淡連絡汽船 明石〜岩屋 9便
阿淡連絡汽船 福良〜撫養 3便   別に、観潮船有り
浜本汽船 福良〜沼島


年間利用者数
東浦 約100万人 西浦 約40万人
明石〜岩屋 約80万人 阿淡 約20万人
その他を含め合計 約250万人


陸上交通
鉄道 約230万人 バス 約204万人
タクシー 約2万人
合計 約436万人
(参考)
全島人口 約23万人 うち福良の人口 約1万人

  

4.昭和30年代後半〜現在
 戦後、特に昭和30年代の世の中は、東京オリンピック招致・開催や東海道新幹線及び名神高速道路の開業などを受け、本格的な「高度経済成長」・「大量生産大量消費」の時代となり、海上輸送(船)から陸上輸送(車)へと大きく比重が変わった。 従来からの明石〜岩屋のフェリー輸送に加え、神戸(長田、須磨)〜淡路(浦、大磯)間と鳴門(亀浦)〜淡路(阿那賀)間に、相次いでフェリーが就航し、大型観光バスによる、淡路への直接乗り入れの時代となった。

 一方、時代の要請から、淡路においても、高速道路の整備も計画され、鳴門海峡と明石海峡での架橋工事が始まり、昭和60年に「大鳴門橋」が、平成10年に「明石海峡大橋」が、それぞれに完成し、淡路島が島でなくなり、近い観光地として、脚光を浴びることとなり、受け入れる観光施設や宿泊施設も大型化し、温泉も備え、充実したものとなった。

 ところが、時代も変わり、かつての「団体旅行」から「個人・グループ旅行」が主流となる傾向となっており、観光客は目的の観光が終われば、自由になり、道路事情も良くなったので、島内の色々な施設を観光することができるようになったが、1か所での滞在時間が短くなり、昔のように、観光客で、溢れかえるということが少なくなった。 観潮船発着場周辺でも、観光客がその日の潮時を事前によく調べ、短時間で鳴門観潮を終え、次の目的地に向かうことが多くなっている。


5.これからの「福良の観光」の喫緊の課題
  以上の現状から、観光協会では、今、次の項目に重点的に取り組んでいます。 
 @ 「鳴門の渦潮の世界遺産登録」に向けての推進活動
 A 知名度のある「淡路人形座」の更なる宣伝と誘客活動
 B 「鱧」、「3年とらふぐ」などの特産の食材を生かした料理と水仙郷の宣伝活動
 C 観光客の滞在時間を長くさせる施策の検討と実践 


6.「福良の観光」のまとめ
  「世界遺産に鳴門海峡の渦潮を」との運動が始まり、組織づくりが行われ、会長に、(株)ジョイポート南淡路の社長の就任も決まり、これからの幅広い皆さんのお力添えとご支援を受けて、その実現に努力したいと思っています。 特に、福良の皆様には興味を持っていただき、あわよくば参画もいただき、息の長い、しかも力強い支援が必要であると思っています。 どうか、「鳴門海峡の渦潮を世界遺産に登録」を目指し、格段のご理解と絶大なる応援を切にお願いいたします。 

  また、500年の伝統を誇る「淡路人形浄瑠璃」は、福良の、いや日本の誇りであり、他にない宝物でありますので、特に福良の人がよく鑑賞し、よく知り、他所の人に宣伝(自慢)してほしいと思います。
  そもそも観光は、産業構造に及ぼす裾野も広く、地域の産業全体に波及するものであり、「福良の観光」も地区全体の活性化に必要不可欠と言わざるを得ません。 そこへ、「住民参加の福良の観光」があれば、まさに鬼に金棒!

 「福良の活性化」や「福良の観光」の将来は、他ならぬ福良に住んでいる一人ひとりが握っていると思います。

 
*** 参考資料 ***

年度別島内及び市内入込数












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南淡路ロイヤルホテル開業25年のあゆみ

大和リゾート株式会社
南淡路ロイヤルホテル営業部販売課 阿 部 修 士

1.ホテルの建設

  昭和60年に鳴門海峡を跨ぐ大鳴門橋が開通し、淡路島が四国と陸続きになりました。

  これに伴い、観光客も飛躍的に増え、新しい観光施設も整備が進み、宿泊客を受け入れするための宿泊施設も増えて来ることになります。 南淡路ロイヤルホテルも昭和63年6月にオープンし、昨年で早や25年が経ちました。 この福良学でホテルのことをお話しできる機会を今回頂いたことに大変嬉しく有難いと感じております。 今回、ホテルの運営会社である大和リゾート株式会社の親会社である大和ハウス工業株式会社とのホテル誘致に関わったエピソードを当時の南淡町助役であった木村瑞さんからの話しを紹介しながら振り返ってみたいと思います。

  
  現在、ホテルの立地している高台(山)は、戦時中は軍の管理地(陸軍鳴門要塞)であったと聞いております。 当時、大和ハウス工業は全国の風光明媚な場所にリゾートホテルの新規オープンを進めており、ここ福良にもその建設候補地となる話が来たということです。
  

  大和ハウス工業の創業者であった石橋信夫会長も福良のこの地に来られ、木村助役 (あえて助役さんと言います。)さんが誘致の交渉窓口となり、色々とご苦労されました。当時、大和ハウス工業の本社は大阪の阿波座にあり、数回に渡り訪問されたそうです。  その際の印象として、本社事務所は雑然としていたが、活気に溢れていたそうです。 大和ハウス工業のホテルを担当する観光事業部担当の田中正二郎常務(南淡路ロイヤルホテルオープン時の大和リゾート社長)と実務担当の奥田課長と初対面した際、この二人は以前、登記所に勤めていたそうで、木村助役は税務課業務に長く関わっていたので話が弾み、急接近したそうです。

  それ以来、この二人は数回に渡り、福良に来ては現地を見て回ったそうです。 誘致が決まるまで木村助役が一番心配していた事はお隣の鳴門市も建設地の候補に上がっていたそうで、誘致合戦になるのではないかという事だったそうです。 向こうは土地も広いし、何より水が沢山あり、当時の淡路は水不足が課題で本土からの導水計画を検討していましたが、まだまだ先の計画であり、毎日役場に来る新聞記者の繁田さんに判らないように気を使いながら誘致の話を進めていたそうです。
  

  そんな事をしながら、ある日、大和ハウス工業の石橋信夫会長が現地に来ることになり、 まだ山であった場所にうずしおライン沿いからホテル建設候補地への仮道を造ってもらい案内をしたそうです。 石橋会長は足が不自由にも関わらず、杖を片手に現地まで登り、色々と質問をされたそうです。 その時のやり取りはこんな感じであったそうです。
 
 石橋会長 … ここの地質は?
 木村助役 … 和泉砂岩です。
 石橋会長 … このバイパス(うずしおライン)を造った時に発破をかけましたか?
 木村助役 … ブルのリッパーのみでやりました。
 石橋会長 … 取合道路(うずしおライン進入路)からホテルまでの勾配は?
 (大和ハウスの職員が地形図を出し … 3%です。)
 石橋会長 … 助役さんはどう思いますか?
 木村助役 … 取合道路付近とホテル玄関前はある程度勾配が緩くなるので、距離にもよりますが、
           一部4%位の箇所も出るかも知れません。
 石橋会長 … 私も助役と同じ考えです。
  と、それから土地の所有者数、面積、価格等など質問も核心を突いてきました。 

  その時に感じたのは、さすが一代で大和ハウス工業を1兆円企業までに育てた人、地質や工事の難易度・付帯工事など、いとも簡単に尋ねてきて、すぐに土地造成費の概算がはじき出せ、まさに戦国時代の野武士のようだと感じたそうです。(ちなみに、石橋会長は戦時中に満州方面へ出征して、終戦時はシベリア抑留も経験して、命からがら日本に帰って来たそうです。)
  

  現地を視察後、「やぶ萬旅館」へ行き、当時の江本卓爾町長と一緒に食事をしましたが、前もって田中正二郎常務に石橋会長の好物を尋ねたところ、イワシ料理と聞いていたので女将さんに頼んでありました。 石橋会長も喜んでイワシ料理を食べ、「今日、行った所にホテルを建設する。」と決定してくれました。 「イワシでホテル!」やれやれだが、良かった!万歳!
  

  このホテル誘致には、当時の南淡町観光課の高松課長、同じく奥浜係長などが携わり、他に、主な土地所有者であった福良財産区(当時、鳩崎省吾管理会長)なども関わり、正に「オール福良」の体制が構築され、昭和63年6月にオープンとなりますが、4月に一足先にオープンしたホテルプラザの誘致と建設もあり、本当に忙しい日々だったと思います。



2.ホテルの規模(ハード・ソフト)

  福良の皆さんはホテルにも良く来て頂いており、ご存じの点も多いと思いますが、改めてホテルの概要及び規模等を紹介させて頂きます。

運営会社 大和リゾート株式会社
本社 大阪市中央区備後町1丁目5−2
設立 昭和48年 4月20日
資本金 100億8,400万円 (平成25年10月現在)

  ※ 南淡路ロイヤルホテルは昭和63年6月20日にグループで10番目にオープンしたホテルです。

敷地面積 97,983 u (約29,690坪) ※甲子園球場の約7.5倍
実面積 39,634 u (建物床+駐車場+その他)
階数 地下1階、地上7階
建物高さ 25.2m(最高の高さ)

  ※ 周辺は瀬戸内海国立公園で建築規制を受けており、隣の山頂より高くできません。
  (ホテルの7Fに上がると確認できます。)

標高 約60m

  ※ 津波が来ても、多分大丈夫→地区集約避難所の福良小学校からの3次避難場所になっています。

客室数 329室(和室57、洋室190、和洋室73、スィート9)

  ※ ルームの154室が禁煙ルームになっています。
  ※ 洋室にはキティちゃん、シナモロールのキャラクタールームも含みます。

宿泊定員 1,027名
駐車場収容台数 …普通車263台(無料)
付帯施設

レストラン5、喫茶ラウンジ1、カラオケバー4、ショッピングプラザ1、宴会場20、
会議室10(一部宴会場兼用)結婚式場1、チャペル1、写場1、麻雀ルーム1、
温泉大浴場(男女)、露天風呂、サウナ、リラクゼーション施設2、
ゲームコーナー1、屋外プール1、テニスコート4面、多目的広場

  ※ 温泉は南あわじ温泉郷の「南淡温泉」として、「休暇村南淡路」と同じ泉質です。
    地下約1,000mから温泉を汲み上げ、供給しています。
  ※ 宴会場の最大面積 … 750u(最大収容 着席450席、立食650名)
  ※ 平成26年1月6日から1階エントランス、ロビーフロア、バンケット会場のリニューアル工事を
    実施しており、完成は4月です。(期間中も営業しております。)

従業員数 社員 105名、 パート 116名 (平成26年1月1日現在)

  ※ 夏季など繁忙時は派遣会社の従業員も勤務します。
     雇用の面でも地元の皆様の協力と理解で運営しています。
  ※ オープンして25年、支配人も7名が当地に赴任しています。



3.ホテルの利用者について

   ホテルには年間15万人前後のお客様が利用されており、その内日帰り客が年間   約2万人程度利用されています。(現在の淡路島の人口が約14万人)
  
   過去の利用で最も多かったのは、やはり明石海峡大橋が開通した直後の平成10年  から淡路花博があった平成12年でした。 年間で約20万人が利用され売り上げもホテル営業期間でいまだに最高だったということを覚えています。
  
   当時は毎日が団体昼食と夜は団体宿泊で正に一杯でした。 一日で昼食700名、  宿泊も700名といった利用が実際に続きました。 この規模になると館内の全ての食事可能な会場を使用しての対応でした。 幸いにも全国のグループホテルからの応援スタッフが来てくれていたので非常に助かったという思い出とあっと言う間に時間が過ぎて行ったという記憶があります。
  
   皆さんもご存知のように、明石海峡大橋が開通するまでは淡路島はまったくの島国で、 船を利用しないと行き来できませんでした。 特に夏休み期間中は、阪神からのマイカー利用者がフェリーボート乗り場に集中して、淡路島に来るときは早めに動かれるので、混雑が分散されるのですが、帰る時の混雑と言ったら異常であったと思います。 フェリーの待ち時間が4時間〜6時間なんてザラ!お客さんからは「もう二度と淡路島に行きたくない!」と言った声をよく聞かされました。 ホテルでも何とかしたいと思い、淡路フェリーへ交渉に行き、南淡路ロイヤルホテルに宿泊する方に待ち時間無しで乗船できるように往復予約をして、利用者への利便性を図れるようやり取りして案内していた苦労を憶えています。

   話を戻して、ホテルには年間5,000人〜6,000人くらいの海外からの宿泊客の利用があります。たぶん現在の淡路島では外国人の利用が最も多い施設ではないかと思います。 特に国で言うと、台湾からの利用がその内約80%と圧倒的に多い状況です。

   まだまだ淡路島に海外からの宿泊者を呼び込むには整備が必要と思いますが、商工会でも海外誘致の営業展開を始めるので当ホテルも協力して行きたいと思います。

   また、修学旅行などの学生団体(教育旅行)も増えており、大きな規模の学校だと毎年同じ時期に利用があります。 学生団体は平日に利用してくれるのでサービス業に関わっている者としては大変有難いです。 もちろん宿泊の宿だけ頑張ってもダメです。 淡路島にある色々な観光立ち寄り施設(淡路人形座・うずしお観潮・防災ステーション・北淡震災記念公園・地曳網などの漁業体験や瓦工場や線香工場などの見学etc)や、市の体育施設、グルメなども一緒にPRして、淡路島の魅力を発信しなければなりません。 地域の皆さんと知恵を出しながら利用者を増やして行きたいと思います。

   ここ数年は、インターネットが急速に普及してネット予約の割合が増してきています。
個人客の25%くらいがインターネットからの予約となっています。 (従来の旅行代理店からの予約が減ってきて、ネット予約へシフトしています。)


4.今までの思い出(良かった、苦労した)

  ホテルはサービス業なので、ご存知のように接客をしなければなりません。 人が休む時、お正月やゴールデンウィーク、夏休みなどに仕事が集中します。 もちろんホテルでもどちらかと言うと裏方さん的な仕事もありますが、年中無休で営業をして、幅広いお客様に利用して頂いています。


   過去の利用されたお客様で思い出に残っていること
 お礼のお便りを送ってきてくれたこと、名指しで頂いたりすることもあります。
 毎年のようにリピーターとして利用してくれること
  ホテルではリピーターを増やすことを心がけています。
 一度ホテルを利用した方から色々なお客様を紹介して頂けること
 サービス業なので形の無い物(おもてなし等)を提供するので、お客様が満足して頂くのがすべて…
  当然のことでもあります。
 南淡町の成人式の会場として使って頂いたこと
  毎年1月の成人式には華やかな振袖を着た新成人が大勢集まって熱気に溢れていました。 
  見学するギャラリーも凄かったです。 
 淡路島女子駅伝大会の開催で表彰式の会場提供をしたこと
  親会社の大和ハウスも駅伝チームを設立し、競技に参加して全国大会にも出場できました。 
  参加チームの宿泊利用もあり、淡路の陸上関係者には大変お世話になりました。

  特に苦労した出来事 
 平成6年(1994年)異常な渇水で水をタンクローリーで夜中に運んだこと
当時は明石大橋が開通する前で、町水道がホテルの高台まで上がって来ず、お客様 の水を確保するのに必死でした。 男性スタッフは夕方から朝方まで当番を決めて、水を運搬しました。 本当に大変で夏季シーズン前でもあり、体力がいつまで持つか心配しながら、夏休み直前に解除された時はホッとした記憶があります。
 
阪神淡路大震災(平成7年1月17日)
   神戸市周辺や淡路島内も甚大な被害を受け、アクセスも寸断されてしまい、観光どころでない状態が数年に渡り続きました。 集客の約70%が阪神間からの利用ですから、その影響は仕事が一気になくなったような状態でした。 ホテルのスタッフも我が家が被害を受けたりしましたが、親会社の大和ハウスへ移動して家を売る職務に就いたスタッフもいました。(普通なら仕事が無くなって解雇といった状態になっても不思議ではありませんが、同じグループ会社の中で仕事に従事できたのは幸いだったと思います。)

 南淡町連合婦人会発足40周年記念行事で2,000名の来場があったこと(平成8年2月11日)
   福良出身の上沼恵美子さんと芦川百々子さん(海原千里・万里)を招いての記念行 事で会場を提供したのですが、定員1,000名のところ予想をはるかに超える来場者が殺到してホテルのロビーまで満杯!駐車場に車が収まらず、進入路からダントー工場のあたりまで路上駐車の車で溢れてしまい、大混乱となりました。 

 ・SARS事件(平成15年5月)
   台湾へ帰ったツアー客の中にSARSを発病した方がおり、日本で宿泊したホテルや観光地などが風評被害を受け、当ホテルもその一行が宿泊されていたので影響を受けました。 当時はSARSの対応が未完成で知識不足から誤解や従業員への風評被害が出ました。 オープンして初めて唯一営業を休止することになり、キャンセルなどの影響も多大でしたが、南淡町をはじめ兵庫県や観光業界などの協力で復活イベントを開催してもらった際に、地域の方々に大変お世話になりました。

   主な出来事を紹介しましたが、やはり苦労した事の方が記憶に残っているようです。


5、ホテルの主な年間行事

  ロイヤルホテルでは、1年間を通じて毎年イベントやお客様への楽しい催事などを実施しています。 
  主な内容は次のとおりです。
   1月 … お正月催事  振る舞い酒・琴の演奏・ビンゴゲーム大会・初詣案内等
   2月 … 大衆演劇・ランチバイキング
   3月 … 春休みのバイキング
   4月 … お花見イベント(グルメ企画)
   5月 … グルメ企画・海ホタル観賞会
   6月 … 大衆演劇・ランチバイキング
   7月 … キリンビールまつり(OLD DAYS生バンドによるライブ)
   8月 … 縁日・ビンゴゲーム大会・天体観測・海ホタル観賞会・貯金箱作り体験
        化石発掘・昆虫観察会・サマーバイキング等
   9〜10月 … 観月会(中秋の名月の暦による)
   11月 … 海ホタル観賞会
   12月 … クリスマスディナーショーまたはクリスマス企画 
  今後もスタッフと皆さまに喜ばれるような商品企画を考えていきたいと思います。 


6.ホテルに来られた有名人
  南淡路ロイヤルホテルにはオープン以来、大勢の有名タレントの方々に来て頂き、  ディナーショーなどを開催しました。 ホテルが呼んだ有名タレントでどんな方々が来られたか主な方をまとめてみました。

研ナオコ、堺 正章、コロッケ、八代亜紀、石川さゆり、キム・ヨンジャ、中村美津子、プリンセス天功、綾乃小路きみまろ、デューク更家、日野皓正、加山雄三、小林 圭、都はるみ、天童よしみ、
竹内 力、小林幸子、川中美幸、清水アキラ、栗田貫一、Mrマリック、三船和子、西城秀樹、
郷ひろみ、森山良子、山本譲二、小金沢昇二、長山洋子、岩崎宏美、サーカス、小柳ルミ子、
矢野耀大、赤星慶広、井川 慶、宮根誠司、陳 建一、中村孝明、石鍋 裕

八代亜紀さんについては、趣味である自身制作の絵画作品をホテル7Fのスカイレストラン・ブルージュに掲示させていただいています。

  これだけ大勢の歌手タレントの方々にお越し頂きましたが、仕事で会っていると無事ショーを終了させることができるよう対応に必死なので、感激すると言ったような思いはありません。と言うか何とも思わなくなってしましました。・・・
  

  以上とりとめのない話でしたが、これからも南淡路ロイヤルホテルは地元の皆さんから愛されるホテルとして営業してまいりますので、どうか気軽にご利用頂けますようよろしくお願い申し上げます。






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