現地巡り(郷土史など)の記録


平成24年10月6日(土)9時〜14時45分  天気:晴れ時々曇り

趣旨・目的

 古絵地図(「味地草(安政4年小西友直他刊)」付図)を片手に、住み慣れた「郷土福良」をロマンチックに訪ね歩き、古き良き「郷土福良」を再発見!



実施状況の概要

 未だ行ったことのない「煙島への上陸」を想像し、前夜からワクワク気分で寝られず、集合時間の9時を待たずに、福良八幡神社に26名が集結。

 早速、全員で参拝し、神主さんにお祓いしていただき、神社本殿(県指定文化財)などの説明を受け、福良の町中へ。

 今回の趣向は、煙島を始め、古絵地図を見ながら、随所で説明を聞き、身近な福良の歴史ロマンと福良の秋をたっぷり味わうことでしたが、中身の濃い歴史探索の一日となりました。



行 程

 「福良八幡神社(本町)」≪参拝、お祓い、説明≫ ⇒ 「福良港旧検潮所(東一丁目浜)」 ⇒ 「古波止(備前町浜)」 ⇒ 「溝上渡船(住吉町浜)」≪渡船乗船≫ 〜〜 「厳島神社(煙島)」≪上陸、参拝≫ 〜〜 「溝上渡船」≪渡船下船≫ ⇒ 「分一波止(五分一町浜) ⇒ 「波止の浜(谷川町、東十軒家浜)」
≪昼食、休憩≫ ⇒ 「福良道路標柱(谷川町波止の浜)」 ⇒ 「徳島藩福良浦御屋敷跡(東十軒家)」 ⇒ 「郷殿社(東十軒家)」 ⇒ 「西の荒神の森(東十軒家)」 ⇒ 「円通庵(谷川町柳地蔵)」 ⇒ 「谷川の井戸(谷川町)」 ⇒ 「町割り西界(上町五分一町)」 ⇒ 「旧福良町役場庁舎(上町戎町)」 ⇒ 「戎社跡(上町戎町)」 ⇒ 「御制札場跡(上町戎町)」 ⇒ 「重恩寺(仲之町)」 ⇒ 「明九橋(南納屋町、備前町)」 ⇒ 「神宮寺跡(東一丁目老人憩いの家「ふくら荘」)」 ⇒ 「福良町道路元標(東一丁目宮ノ下)」≪見学後解散≫





携行古絵地図(「味地草」(安政4年小西友直他刊)付図)

 (1) 八幡社地之図(味地草挿絵図)

 (2) 福良市坊方図(味地草挿絵図)

 (3) 三院之図1/2(味地草挿絵図)

 (4) 三院之図2/2(味地草挿絵図

 (5) 牛王殿祠(十軒家)(味地草挿絵図)

 (6) 洲崎及煙島(味地草挿絵図)





行程箇所別概要の紹介

 ●「福良八幡神社(本町)」

 

「社伝二依レバ貞観元年(859)清和天皇ノ勅願二ヨリ奈良大安寺ノ僧行教ガ宇佐八幡宮ノ御分霊ヲ奉ジテ京都男山へ勧請ノ途次 当浦二寄リテ創祀ストイフ 貞応二年(1223)鶴島城主福良義邦ガ社殿ノ大造営ヲナシ云々」とある。
 なお、本殿は県指定文化財である。



本殿の棟木





 
 ●「福良港旧検潮所(東一丁目浜)

 高潮等の対策に必要な港内潮位観測のため、昭和36年に建造設置され、昭和63年に廃止されるまで供用された。
 貴重な「歴史的建造物等」として、観測器材と共に保存されている。 





 
 ●「古波止(備前町浜)」


 淡路南海道の第2番目(第1番目は、向谷潟上。)の四国への福良渡海場で、江戸初期に新波止(波止の浜)が出来るまで、原田川西岸の波止を利用していた。







 ●「厳島神社(煙島)」

 本社は、「味地草」では鶴島城主の源義久の勧請とあるが、諸説(海人族の奉斎説や平重盛が安芸から勧請したとの説など)がある。

 

 脇には、一の谷の合戦で命を落とした平敦盛の首塚や最勝王経碑などもあり、 紅蓮寺もあったと伝えられている。







 ●「分一波止(五分一町浜)



 

この波止付近に海産物市場があり、競市が行われていた。 寛政11年(1799)の徳島藩命により、この市場では漁獲高の2割分を徴収されていた。

 なお、今は五分一町の町名の由来にもなっている。







 ●「波止の浜(谷川町、東十軒家浜)」



 

江戸初期の慶安年中(1648〜51)、「御番手飛田某」によって、石積の突堤が築造された。 古波止に対して新波止と呼ばれ、福良の第3番目の四国への渡海場として賑わった。







 ●「福良道路標柱(谷川町波止の浜)」


 明治35年11月、福良町によって設置され、洲本、岩屋、神戸などへの距離標となっていた。

 






 ●「徳島藩福良浦御屋敷跡(東十軒家)」



 福良浦を治める責任者として、二百石取の有力な徳島藩士が「御番手」として交代赴任していたが、その御用邸であった。 時には、藩主も滞在することもあった。








 ●「郷殿社(東十軒家)」

 戦国時代の天文年間、沼島の梶原氏に追われた阿万城主の郷氏は、「荒神の森」に隠れ潜んだが、浦人の通報によって、悲運の最期を遂げ、哀れんだ浦人によって、慰霊の祠を建て、「郷殿社」として祀った。







 ●「西の荒神の森(東十軒家)」

 郷氏主従11人の墓所との説がある。 また、鎌倉期から室町期に到る鶴島城主の福良氏代々の墓所との説もある。







 ●「円通庵(谷川町柳地蔵)」

 柳の井戸の脇にあり、慈眼寺十四庵の一つである。 20年程前まで毎夏「地蔵盆」で賑わっていた。 なお、更に上方の山は「庵の山」と呼ばれている。







 ●「谷川の井戸(谷川町)」

 柳川の川筋は水勢があり、40年程前までは付近住民の貴重な水洗い場であった。 水源の乏しかった福良では、貴重で今もそのまま残されている。







 ●「町割り西界(上町五分一町、上町網屋町)」



 

福良上町の町割りは、一丁目から五分一町まで行われたので、西端部では、隣の網屋町と道路の食い違いが生じ、今もその形骸が顕著に残っている。







 ●「旧福良町役場庁舎(上町戎町)」

 今は、「浦瀬医院」となっているが、元々はここに「洲本警察福良分署」があり、大正15年に東谷へ「福良警察署」として移転した後、昭和30年の「南淡町合併」までの間の福良町役場庁舎であった。







 ●「戎社跡(上町戎町)」



 

天保6年作の古図には、戎町に戎社が描かれており、「戎町」の町名の由来となっている。 現在、その名のとおり「エビスヤ」となっている。







 ●「御制札場跡(上町戎町)」

 福良の中央部、慈眼寺前上町戎町西角には、主として住民たちの民生安定のための徳島藩の役所があった。







 ●「重恩寺(仲之町)」

 東本願寺の末寺で、慶長年間創建の南林山重恩寺と呼ばれた寺があったが、昭和13年頃から無住となっている。







 ●「明九橋(上町南納屋町、上町備前町)」

 明治9年、太子屋の分かれの6代目、平瀬守一郎氏の寄贈によって、堅牢な石橋に架替建造された。 なお、親柱が児童館敷地内に保管されている。 







 ●「神宮寺跡(上町東一丁目老人憩いの家「ふくら荘」)

 八幡宮別当寺として、和光山神宮寺と称する寺があったが、明治初年に廃寺となった。 今も、「ふくら荘」への坂道や石積み等に往時の面影が残されている。







 ●「福良町道路元標(東一丁目宮ノ下)


 大正9年の道路法改正時に、全国の市町村役場所在地の中心部に建てられたものと言われている。













今回、楽しみにしていたのは、
地元の人でも中々行くことが出来ない煙島上陸です。







煙島から見た洲崎と福良。
何時もとは反対の景色です。





煙島の鳥居の前で。
みんな楽しそうです。

安政4年に作成された昔の絵地図・味地草を片手に
古の時代にロマンを馳せながらの実り多い現地めぐりでした。







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