現地巡り(郷土史など)の記録


日時/平成24.5.12 9時集合
1.状況の概要

前夜からワクワク気分で寝られず、朝早くから弁当と水筒の持参で、南淡公民館のロビーに31名が集結。 

少し肌寒い気温でしたが、歩くには絶好の日和。 随所で説明を聞き、福良の古へのロマンに触れる歴史ウォーキングを堪能、岡の原公園にて眼下の絶景を楽しみながらの昼食タイム。

ゴールの慈眼寺では、甘茶のお接待を受け、各自は家路に、楽しい一日が過ごせました。


2.行程≪出発9時15分頃 ・ 現地解散14時30分頃≫


南淡公民館(向谷八反)〜〜「鷺の森古墳(向谷祖江)」〜〜「居神明神社(向谷居神)」〜〜「玉造工房跡(向谷玉造)」〜≪南淡図書館にてトイレ休憩≫〜「鏡ケ渕(東本町三角公園)」〜〜「馬宿(東本町馬宿)」〜〜「切通(八幡神社裏)」〜〜≪ふくら荘にてトイレ休憩≫〜「岡之城跡(岡の原公園)≪昼食・休憩」」〜〜「宝来湯源泉(二丁目清水)」〜〜「秋葉神社古墳(北納屋町)」〜〜「伊勢明神社跡(備前町原田)」〜〜「福聚山慈眼寺(仲之町)≪見学後解散≫」




3.箇所別概要の紹介


〇「鷺の森古墳(向谷祖江)」

鷺の森古墳

 
 居神明神の祭主となった忌部(印部)氏が葬られていると伝えられている古墳時代後期の円墳で、
須恵器や勾玉などが発掘されている。 広さ30坪余りで、昔は樹木が繁茂し、まさに森であった。




 ○「居神明神社(向谷居神)」

居神明神社


 紀伊の人が16人、神を奉じてこの地に入植し、海端に丹生津媛命を祭神とする福良最古の社を造ったと伝えられている。 この地で朱砂の採掘がなされていたが、大津波で人家80軒が流失したとの伝承がある。


 

○「玉造工房跡(向谷玉造)」

玉造工房跡


 勾玉等の玉造工房のあった地と伝承されている。


 

○「鏡ケ渕(東本町三角公園)」

鏡ケ渕


 小松谷川、法月川、馬宿川の合流点に、鏡のごとく水が澄む渕があった。 平安時代の女流歌人、和泉式部がこの地を訪れ、歌を詠んだとの伝承があり、今もその歌碑が残されている。


 

〇「馬宿(東本町馬宿)」

馬宿


 奈良時代から淡路南海道の終点である福良宿駅がこの地にあったと伝えられており、福良では、「ムマヤド」または「ムマイド」と呼ばれている。 近くの潟(片)上からは、四国撫養行の船便もあった。


 

○「切通(八幡神社裏)」

切通


 江戸時代初めに新道が出来るまでは八幡神社の鳥居前まで海であったので、市街地に入るには、境内裏山を切通した道を本街道として通行していた。


 

○「岡之城跡(岡の原公園)」

岡之城跡


 戦国末期、志知城主の加藤嘉明の家老職を務めていた桐原氏が岡ノ原に岡之城を構えていたが、
主君の伊予松山への転封を機に廃城されたと伝えられている。


 

○「宝来湯源泉(二丁目清水)」

宝来湯源泉


 二丁目と納屋町の間を流れる清水川(現在、大部分は道路暗渠となっている。)源流部に、温泉(冷泉)の源泉があり、南あわじ温泉郷の一つとなっている。




 ○「秋葉神社古墳(北納屋町)

秋葉神社古墳


 東の荒神の森」と呼ばれ、福良の豪族の古墳跡と伝えられている。
 秋葉神社は、後世の明治11年に静岡県春野町の本宮から御分霊を受け、ここに祀られた。


 

○「伊勢明神社跡(備前町原田)」

伊勢明神社跡


 江戸時代の天明の頃、原田の地に伊勢明神社が創建され、原田大明神と呼ばれていたが、明治の末年に、八幡神社境内地の祇園社の西隣に移座された。 本神社が故宮崎宮司旧宅敷地内にあったことから故宮崎宮司家は伊勢屋と呼ばれている。




 ○「福聚山慈眼寺(仲之町)」

福聚山慈眼寺

 創建は定かではないが、淡路草によれば、奈良時代の淳仁天皇勅願によって創建されたとも書かれており、淡路屈指の古い高野山真言宗の名刹である。 江戸時代初期には、嵯峨宮二品尊性法親王(さがのみやにほんそんしょうほうしんのう)から福聚山慈眼寺の寺名を賜った。





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瀬戸の潮みず交流広場(福良地区県民交流広場)
南淡公民館 〒656-0501 南あわじ市福良甲512-2

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