【福寿草】
星一つ見えない灰色の夜空から、真っ白な雪が舞い落ちる。
街中にクリスマス・ソングが溢れ、美しいイルミネーションが暗闇を彩り、誰もが愛しい人の下へと帰り道を急ぎ、
愛しい人を待つ人は暖かな想いを腕に込める。
12月25日 −クリスマス−
クリスチャンでもないのにクリスマスを祝う。
本来の意味とは無関係なイベントだが、大切な人と過ごしたいという思いはきっと。
誰もが暖かで、幸せな気持ちで、世界中に幸せが舞い降る。
――――そんな訳ない。
分かっているのに、まるで世界中が幸せに溢れているかのような気にさせる、クリスマス。
そんな聖夜の空を眺めながら、雪嶺≪ゆきね≫は小さなため息を吐いた。
目の前には星一つ見えない、真っ暗な空。
外と室内の温度差で、拭っても拭っても曇る窓。
何度、何度拭っても曇る窓。
その様に顔を顰めた。
顰めて、俯いては溜息を漏らしていた。
別に窓が曇るのが嫌なわけではない。
曇りが晴れた先の、変化のない視界が、雪嶺の口元から溜息を零させるのだ。
時計はもうすぐ日付を変える。
あと10分で、クリスマスも終える。
そうなったら元来仏教色の強い日本は、お正月へと突き進む。
まるでクリスマスなど存在しなかったかのように、師走の忙しさに聖夜の時間を過去のものとする。
11時50分。
あと10分で、1年に1回のクリスマスは終わる。
そして……雪嶺の恋も、終わる。
「……馬鹿みたい」
無意識にこぼれた呟きが、拭ったばかりの窓を再度曇らせ、視界を妨げる。
それを拭おうと自然に伸びたて手を、雪嶺は寸前で止めた。
曇りを拭って……どうなると言うのだろう。
何度拭ったって、何時間外を眺めたって、彼は……、きっと来ないのに。
考え自嘲的な笑みをこぼした。
「……嘘つき」
新たに漏らした声が、窓を更に曇らせる。
忌々しそうに眉間に皺を寄せ、目を凝らして曇りの向こうの、部屋の前を走る大通りを見つめる。
自分を嘲笑いながらも、そうしてしまうのは諦められないから。
もう無理なのだと思っても、彼は来ないのだと言い聞かせても、この窓から離れられないのは、紛れもなく諦められないから。
本当なら、待ち望んだ聖夜だった。
彼と――――、恋人と過ごすはずった。
恋人の腕の中で、幸せなクリスマスを過ごすはずだった。
けれど、もはやそれが叶えられることはないのだと、雪嶺は赤味を帯びた瞼をそっと伏せた。
「クリスマスには、絶対帰るって言ったのに……、ウソツキ」
呟いて、窓際に置いてある小さな鉢に植えられている葉を一枚むしる。
鉢に植えられている花の名前は”フクジュソウ”
15cm程度の背丈に、緑の葉と小さな黄色い蕾をつけているそれは、12月に入ってすぐに、恋人の陽介から贈られたものだった。
季節柄、この時期に贈る植物といったら大概は”ポイントセチア”だ。
陽介自身も本来なら”ポイントセチア”を贈るつもりだったらしい。
けれど店の外れ、ぽつりと目立たなく置かれていたこの蕾に、『なぜか心引かれた』と、
『目立たない鉢だけど、雪嶺のイメージだと思った』と、まだ蕾の鉢を送って来たのだ。
大柄な体格と小さな植物は少し不似合いだが、陽介はこういった植物が好きな男だった。
マメで何かを育てるのが得意で、相手が植物だと分かっていても、嫉妬を感じてしまうほどに丁寧に愛情を注ぐ恋人。
その陽介が会社から突然の移動命令を言い渡されたのは、春まだ早い3月のころだった。
『離れても愛してる』
『2週間に1度は帰ってくる』
『毎晩電話する』
『毎日メールを送る』
甘いキスと、きつい抱擁で愛を誓い、離れていった6歳年上の恋人。
信じていた。
彼は変わらないと。
愛は永遠だと。
植物に絶え間ない愛情を注げる男が、自分を裏切ったりなどしない、嘘をつくはずがないと、信じ……、願っていた。
けれどその愛が――、約束が守られたのは最初だけだった。
元来忙しい営業の仕事は本社勤務になり、それこそ寝る間もなくなった。
それは離れていても、学生の自分でも理解できた。
深夜、日付が変わるまでの残業などざらだった。
休日ともなれば接待に追われ、休む暇などない。
想像もしなかったハードスケジュールに、陽介を心配しながら、何度も何度も、留守電にメッセージを残した。
返って来ないメールを、何通も何通も送った。
会えないとわかっていても、時間を作っては何度も会いに行った。
そんな雪嶺に陽介はいつも『ごめんな』と謝り、彼自身なんとか連絡を取ろうと試みていたようだが、
慣れぬ土地での一人暮らしと、支店では味わったことのない激務に、連絡が途絶え始めるのに、時間は要らなかった。
硬い約束が果たされたのは最初の2ヶ月だけ。
電話をしてもいつも留守電。
メールを送っても返事が返ってくるのは稀。
2週に1度帰るなんて大嘘。
最後に会ったのだって、お盆に帰ってきた一日だけだ。
いつも『今週は帰るから』とメールが届いては、『ごめん、帰れなくなった』とメールが届く。
文字だけの、まるで電報のようなメールだけの付き合いになってから、すでに4ヶ月以上が過ぎていた。
――――忙しいなんて、本当は嘘なのかもしれない。
そう思うようになるまで、時間は掛からなかった。
本当は『忙しい』を理由に、自然消滅する事を望んでいるのかもしれない。
あんなに誓った約束も、『愛してる』もなくなってしまったのかもしれない。
東京で新しい恋人が出来たのかもしれない。それを陽介は言い出せないだけなのかもしれない。
――――僕が……、『愛してる』と『陽介だけ、愛してる』と、しつこく言い続けてるから。陽介は僕に別れを告げられないのかもしれない。
何度も思っては首を振る。
弱弱しい仕草だった。
本当は……、最初から帰ってくるつもりなんてなかったのかもしれない。
『クリスマスは必ず帰るよ』
そのメッセージと一緒に届けられたのが、この”フクジュソウ”だった。
だけどその約束も果たされることはなかった。
7時過ぎに届いた、一通のメール。
それを開く指が、期待と不安に震えた。
勝ったのは、不安だった。
『ごめん、急遽取引先に呼び出されて帰れなくなった』
それを見た瞬間零れたのは「やっぱり…」と、まるでこうなる事が分かっていたかのような台詞だった。
『明日は絶対に帰るから、定時に上がって絶対帰るから』
その文字に小さなため息を零しながら、二つ折りの携帯をたたみ、机の引き出しの一番奥に放り込んだ。
もう、守れない約束も、見飽きた『ごめん』の3文字も見たくなかった。
むなしい期待も、儚い祈りも、何もかもが嫌だった、何もかもが疲れた。
疲れすぎて涙も出ない。
ショックを受けるはずの心は恐ろしいほどに穏やかで、自分の心の中にあったはずの愛情さえ消えてしまったかのよう。
その証拠に、怒りも涙もない。
昨日に続いて破られるであろう約束を願っても、胸は恐ろしいほど冷ややかだった。
彼の言う約束どおりならば、陽介は10時半に帰ってくるはずだった。
5時半の定時に会社を上がり、6時半の飛行機に乗り、10時半には雪嶺の元へ帰ってくるはずだった。
愛しい胸に飛び込むはずだった。
けれど時計は11時50分。
いや……、先ほどから時間は確実に過ぎている。
今は11時55分。
あと5分でクリスマスも終わる。
あと5分で……、悲しく、寂しい……恋も、終わる。
クリスマスに帰ってこられなかったら、もう止めようと決めていた。
平日のクリスマス。
ただでさえ忙しい陽介に、帰って来いという方が無理難題な話だ。
それを承知で雪嶺は決めていた。
――――クリスマスに、僕の20歳の誕生日に帰ってきてくれなかったら、こんな恋やめよう。
別れたくないと、捨てないでと、愛してると、心が叫んでも、泣いても。
それでも、一生のものと信じたこの恋を捨ててしまおうと思うほど、寂しかった。
誰よりも愛しているから、哀しい。
誰よりも側にいてほしいから、寂しい。
仕事だからしょうがないなんて割り切れる程大人じゃない、泣いて我侭を言えるほど子供でもない。
大人でも子供でもなければ、それと同じように、強くも弱くもない。
「あと4分。あと4分で……終わっちゃうよ」
窓際に置いた黄色い蕾を指先でなぞりながら、ぽつりと独り言を零す。
「あと……4分。それで……、終わ……」
まるで壊れたテープレコーダーのように繰り返される呟きの後を、一滴の思いが後を追った。
雫がぽたりと黄色い蕾の上に零れ落ち、葉を伝い下へと落ちていった。
「あと、3分。3分だよ。3分でっ……終わっ、……っちゃ、馬鹿陽介! どうして、どうして! 帰って来ないんだよ!!
守れない約束なんて……しない、でよ。ウソツキ、ウソツキ…。大うそ、つき」
頬を伝い、蕾を濡らす雫が雪嶺の本心を引きずりだす。
視界に入っているはずの黄色い蕾が徐々に歪んでいき、無数の涙が濃い葉を濡らしていく。
陽介と離れてから、ずっと我慢していた涙が、本音が留まることなく零れていく。
一度こぼしてしまった悲鳴を、あふれてしまった涙を止める事はできなかった。
「帰って、きてよ。……今すぐ、今すぐ! 来てよ…きて……よ。もう、やだ…よ……、寂しい、寂しい、逢いたい、あ……い。――よぅ……、すけぇ」
そして雪嶺は嗚咽を零す口元を押さえながら、その場に崩れ落ちた。
陽介が側にいてくれた時は、こんな気持ちは知らなかった。
離れているだけなのが、こんなに不安にさせるなんて知らなかった。
離れていても大丈夫、離れていても変わらない。だって二人は愛し合ってるから。
二人の愛は、時間や距離なんかじゃ揺るがないほど、強い愛だから。
どうして、そんな風に思う事など出来たのだろうか。
今では何故そう思ったのかさえ分からない・
そんな確証なんて、何処にもないのに。
どんなに強い愛だって、どんなに強い想いだって、受け止めてくれる人がいなきゃ、返してくれる人がいなきゃ、……意味がないのに。
離れていても愛してる、――――そんなのは嘘だ。
離れても変わらない、――――そんなの無理だ。
寂しさは心を凍えさせる。
会えない時間は、愛を不安にさせる。
あんなに信じた言葉も、誓った約束も、愛も言葉も過去も、未来も、全てを疑心暗鬼にさせる。
ねぇ、本当に忙しいの?
電話も、メールも出来ないほど?
1ヶ月に1度も帰れないほど?
今度はいつ会えるの?
今度はいつ声を聞かせてくれるの?
その唇はまだ僕を愛してくれてるの?
その心は、まだ僕を愛してくれてるの?
縋ってしまう弱さを、何度も狭い心に押し込めた。
聞いてしまいそうになる度に、冷たい受話器にキスをした。
不安に駆られるたびに、『あいしてる』と、たった五文字の精一杯の想いを、メールに載せた。
信じられる返事など、返ってこないと知っていながら。
電話のキスじゃ、愛は確かめられない。
”あいしてる”の5文字じゃ、愛は信じられない。
信じたいのに、縋りたいのに、疑心暗鬼に囚われた心は信じるどころか、自分の心を自ら傷つけてしまう。
信じたいのに、何も、信じられない。
こんなはずじゃなかったのにと、何度も思う。
こんな切ないだけの恋に、なるはずじゃなかった。
――こんな想いをするくらいなら、恋などしなければよかった、陽介なんか好きになどならなければよかった。
この恋を後悔する日が来るなんて、思いもしなかった。
「よ……う、すけぇ」
愛しい、もう何度呼んだかわからない、たった一人の男の名前が、勝手に口から零れる。
「帰って、帰って……きてよぅぅ」
たった一つの願いが、もう何度願ったか分からない願いが心を押し破る。
「逢いたい…、逢いたい! 逢いたい!! ……逢いたいよぅ!!! 帰って、帰ってきてよぅ――――っ!!」
多くの事を望んだわけじゃない。
願いはたった一つ。
恋人の愛だけ。
それを吐き出した瞬間だった。
壁に掛けてある、二人で選んだ時計が悲しいタイムリミットを告げた。
二人の時間を刻んで行こうと、この時計と共に過ごしていこうと、そう誓い、二人で選んだ時計が、雪嶺だけに悲しい音を告げた。
「っ……く……、ぅぅ」
計の針は0時Just。
明るい音色が日付変更を知らせる。
優しく、明るい音色が告げる。
夢の終わりを、恋のタイムリミットを、暖かな部屋に、雪嶺一人が取り残された部屋に響かせた。
止めてしまえと、辛く寂しい恋だけなんて止めてしまえと、陽介なんか忘れてしまえと、雪嶺の心に響かせた。
「嘘つき、陽介の嘘つきぃっ! 愛してるって言ったのに!!
ずっと、ずっと愛してる……って、絶対変わらないって、絶対壊れたりしないって…そう言ったのは、陽介の癖にぃっ!
嘘つきっ! 嘘つきっ!……ぅ、っく、うそ……つきぃ」
まるで雪嶺の想いをあざ笑うかのような、明るい音色が粉々に砕けてしまいそうな心を傷つける。
「愛してるのに、愛して……るのに、……陽、やだ、よぅ」
愛してる恋人と選んだ時計が、幸せだった頃をずっと見てきた二人の愛の証が、雪嶺一人の心を傷つける。
痛いと、悲しいと、寂しいと、傷口を繕う方法も知らない、雪嶺の押し潰れてしまいそうな心を、優しく、明るい……残酷な音で。
「このまま……、こ……ままっ、終わっちゃうなんて、やだぁぁ」
そう泣き叫んだ時だった。
『ごめん』
もう何ヶ月も聞いてない、留守録でしか聞けない懐かしい声が雪嶺の耳に届いた。
忘れたいのに忘れられない、声が耳に届いた。
「よぅ……」
飽きるほど呼んだ名前を口にすると、途端冷たい空気が雪嶺をふわりと包んだ。
陽介の、愛しい男の香りが、震える心を優しく抱きとめた。
「間に合わなくて、ごめん」
背後から聞こえる、優しく愛しい声。
「……ごめん、雪」
世界で一番愛しくて、憎い、けれどずっと待っていた愛しい男の声。
その一言に、硬い決心が脆く崩れ去っていく。
あんなに何度も言い聞かせた決心が溶かされていく。
「……よ、ぅ」
あんなに待ってたのに、来たら今までの恨みつらみを言ってやろうと、散々思考をめぐらせていたのに、でてきた言葉は愛しい名前だけだった。
「ようっ、陽……す、けぇ」
愛しい恋人の名前を呼びながら、涙を拭う事も、虚勢を張ることもなく振り返り、雪嶺は愛しい胸へと抱きついた。
「ごめんな。ゆき」
「……あい、たかったよぅ」
「うん。俺も、会いたかった。なのに会えなくてごめん、雪、雪、ごめん」
激しい嗚咽をこぼしながら抱きつく恋人の背を、陽介は何度も何度もなぞりながら、涙に濡れる瞼にそっとキスを落とした。
濡れる睫に、濡れる頬に、震える唇に、そっと優しいキスを落とした。
ずっと聞きたかった、ずっと伝えたかった、たった一つの真実を、たった一言の言葉に託しながら。
距離は二人の心を引きはなす。
会えない時間は、二人の心を脅かす。
それは、きっとこれからも変わらない。
もしかしたら辛いだけの恋かもしれない。
きっと寂しいだけの恋かもしれない。
けれど諦める事なんてできない。
「陽介、愛してる……愛してる」
その心が、この恋を諦めさせてくれない。
「雪、俺も愛してる。本当だ、出来る事なら連れて行ってしまいたいほど、愛してる」
その心が、離してくれない。
愛以外は、この恋人以外は何もいらない。
この腕以外、笑顔以外、温もり以外、力強さ以外、何も、何もいらない。
愛しい恋人以外は、何もいらない。
約束も、言葉も、プレゼントも、何もいらない。
辛くても悲しくても、それでもこの恋を捨てるなんて出来ない。
窓の外は変わらず雪が降っている。
そしてその雪を眺めていた窓際のフクジュソウが、ゆっくりと花弁を開かせ始めた。
黄色い、黄色い小さな花を咲かせ始めた。
ゆっくりと、まるで少しでも長く咲いていられるようにと、ゆっくり可愛らしい花を開かせた。
≪フクジュソウ≫は早春に咲く花。
その花言葉は『幸せを招く』
その花が咲く頃、幸せがやってくるだろう。
今宵、二人に幸せが訪れたように、フクジュソウの花言葉通りに。
Merry Christmas
Fin
2002年12月のTop「ポインセチア」からイメージして 杏佳さまが書いてくださったお話です。
杏佳さまのサイト閉鎖にあたって わがまま言っていただいてしまいました。
そしたら リメイクまでしてくださったの〜
杏佳さま ほんと〜にありがとうございました!! 大事にします!!
福寿草の絵はこちら
|