石光真清(いしみつまきよ)物語
日本会議熊本会員 井上俊輔
石光真清とは
  石光の一生は、身を国家にささげ、報酬を求めず、名誉を求めなかった。
  石光の求めたものは、日本の独立と東洋の安定であった。
  石光は、明治元年、熊本の文教の中心であった本山に生まれ、十歳で西南戦争を目撃した。
  本山小学校・熊本師範附属小学校から、陸軍幼年学校・陸軍士官学校を経て、陸軍士官となって、日清戦争、日露戦争に従軍した。
  石光は、日清戦後、ロシアとの戦争を予想して、ロシア語研修のため自費でシベリアに留学し、予備役に入って対ロシア諜報活動に従事した。ロシア革命に際し、シベリアで革命の実態を体験している。
  石光こそ、二十世紀史の証言者であり、日本文学史上に名を残す自伝四作(城下の人・望郷の歌・曠野の花・誰のために)を残している。
  また、同時に満州・蒙古・中国・ロシアとの真の友好を求め続けた人でもある。
 
石光真清を取り巻く人々
 石光を取り巻く人々は、実に多彩である。
兄真澄 (熊本洋学校から三井物産社員、恵比寿麦酒支配人)
弟真臣 (砲兵、憲兵司令官)
叔父野田ひろみち豁通 (父真民の末弟、函館戦争軍監、青森県初代知事、日清戦争の野戦監督長官、
男爵、 貴族院   議員。明治十八年ドイツ留学。陸軍経理組織の創設者。
後藤新平・斎藤実・柴五郎   などを育てた)
伯父栃原知定 (母の兄、時習館居寮生から江戸昌平黌に学び時習館訓導、
熊本師範学校教諭兼熊本県立中学校長)  
 注。この中学校は、明治三三年創立の熊本中学(現熊本高校)とは別の学校
従兄浮田和民 (法学博士、早大教授、民本主義の理論的先駆者)
従兄林田亀太郎 (衆議院書記官長、代議士)
従兄下村孝太郎 (工学博士、大阪ガス社長)
 神風連の加屋霽堅(かやはるたか)
 徳富蘆花、二葉亭四迷など
 西南戦争の谷干城、村田新八
 陸軍の橘周太、柴五郎、田中義一、森鴎外
 日露戦争でロシア軍に処刑された横川省三
 馬賊の頭領増世策とその女房お君
 シベリア共産政権の中心人物ムーヒン
  注.橘周太(長崎県南高木郡千千石の名家の出、軍神)
 
石光真清の略歴
  石光は、明治元年(一八六七年)、細川藩産物方頭取、石光またみ真民と母守家の次男として、生を受けた(旧熊本市本山町御殿跡六七四、生家は現存している、かつて細川諦了公の屋敷跡であり、お手植えの大きなけやき欅の木が庭にあった)。
  四歳の時、ジフテリアにかかり呼吸困難に陥ったが、のどに詰まった痰を筆の軸で吸い出すという母の機転によって、一命を取り留めた。
  明治九年 神風連の乱(熊本士族のうち、敬神党の人々が、明治新政府の急速な欧化主義に反対して熊本鎮台を襲撃したが、一夜で鎮圧された。石光は、かつて花岡山で偶然出会った加屋霽堅から清正公が熊本城築城の折、この花岡山の防備に一番神経を使ったことなどについて、教えを受けたことがあった)
明治9年 10月 熊本の五福小学校入学。
明治10年  2月 西南の役、薩軍の熊本城攻め
 (父真民は、薩軍の池上四郎から本山鎮撫使を任せられ、真清に「男子十歳になれば逃げかくれしてどうする、お前は留まって手伝いなさい」と言って、真清に自宅を守らせた。この時、真清は花岡山で薩軍の村田新八と出会っている。)
明治10年  9月19日 父真民死去(浄国寺)
明治10年 12月 本山小学校へ転校
 先生に林田亀太郎(衆議院書記官長、代議士)・兄の石光真澄・林田賤夫(外務省会計部長)
   学友に徳富蘆花・嘉悦敏(陸軍中将)・元田亮一(陸軍中将)・鳥居素川(大阪朝日新聞記者)
明治12年 熊本師範附属小学校へ転校
明治13年 附属小卒業、熊本県立中学校入学
明治15年  春 上京
 後の陸軍大将柴五郎宅に下宿
明治16年  9月 陸軍幼年学校入学
   二級上の橘周太(後の軍神)と出会う
明治19年  9月 士官学校入学
明治22年  7月 士官学校卒業
   近衛歩兵第二連隊、橘周太から家宝の銘刀左一文字を卒業祝いに貰う
明治28年  3月 満州、同年五月台湾へ出征後、十一月凱旋し、
ロシア語学習を始める
明治32年  8月 シベリアのブラゴヴェヒチェンスクに語学留学
明治33年  7月16日 ブラゴヴェヒチェンスクの大虐殺
  (清国民間人三千人がロシア軍に殺される)
明治34年  7月 朝鮮行
 (この旅行中、ずっとロシアのスパイである朝鮮人につけまわされる)
明治34年  9月 ハルビンで写真館開業
明治34年 10月  陸軍予備役となる
明治34年 12月 帰熊
  (菩提寺の浄国寺、京町の妻の実家菊地家訪問)
明治35年  2月 ハルビンで菊地写真館開業
 (参謀本部の援助で、諜報活動の拠点)
明治37年  2月 日露戦争勃発
 第二軍司令官の副官(のち第二軍管理部長少佐となる)として、金州城、遼陽の会戦、奉天の会戦などに参戦
明治38年  4月10日 軍神橘周太中佐の慰霊祭
 (祭主として弔辞を読む、祭文は森鴎外起草)
明治38年 12月 凱旋帰国
明治39年  5月 田中義一参謀の要請で再び満州へ
 (しかし、現地の上官と衝突して、直ちに辞職)、海賊海竜丁の顧 問となる)
明治40年 叔父野田男爵との共同事業で渡満事業展開するも、多額の負債を抱えて帰国
明治42年 2月4日 世田谷の三等郵便局長となる、平穏な家庭生活を過ごす
明治43年  7月 歩兵二三連隊(熊本)に応召
 (五週間、妻の実家から通う。最後の帰郷)
大正5年 10月 満蒙貿易公司の錦州支店開設
 毛皮・薬草を取引し、会社の業績あがり、日本人学校を建設
大正3年 第一次大戦勃発
大正6年  3月 ロシア革命
大正6年 12月 参謀本部からの命令を受けシベリアの諜報活動に従事
大正7年 1月15日 ブラゴヴェヒチェンスクで情報収集と邦人保護に当たる
大正7年 3月12日 赤軍がブラゴヴェヒチェンスク市民を襲撃
 (外国人を含む民間人五千人以上殺害、在留日本人三 戦死)
大正7年 9月9日 居留民保護のためブラゴヴェヒチェンスクに日本軍来援
大正8年以降 業績悪化した錦州支店の建て直しに奔走
 (大正8年7〜9月、大正12年9月〜12月一時帰国)
大正10年 8月31日 満55歳
 後備役満期軍嘱託をやめ、機関も解散し、軍界との関係を断った
大正13年 帰国
昭和17年 死去
 
歴史証言者石光真清
一.無言で死んでいった日本兵捕虜の話 
この日本兵は、日清戦争中、清国軍の捕虜となり、身元を明かさないように獄中生活を無言で通していたが、石光の温かい言葉に接し涙して死んでいった。
 石光が日本兵に話し掛けた言葉。
 『君の精神は立派だ。故郷では君が戦死したものだと思っているだろう。君の魂は、もう靖国神社に祭られている。君の病気は重態で最期も近づいている。言葉を止めてからもう六年になるというから、ものを言うのがいやだったら、笑ってくれたまえ。
君の気持ちがわかってくれた日本人がいることを知って笑って死んでくれたまえ。お影で日本は大勝利だった。日本は安泰だ。安心してくれ給え。』
二.ブラゴヴェヒチェンスクの大虐殺
  石光は、日清戦後いち早く、日本の平和を脅かすものがロシアであると気づいてロシア語研究に着手した。そして、私費留学の許しを得て、シベリアの軍都ブラゴヴェヒチェンスクに単身渡った。
そこで、石光は、二十世紀を象徴する大事件を目撃する。
義和団が北京の外国外交団を包囲した、いわゆる北清事変に際し、満州の清国軍がブラゴヴェヒチェンスクを砲撃した。ロシア軍は、いち早く反撃にでて、ブラゴヴェヒチェンスク在住の清国民間人の大量虐殺を行い、三千名といわれる死体は黒龍江に流された。
  この事件は、ロシア軍の満州占領のきっかけとなり、日露戦争の遠因となった。
三.ロシア革命の本質
 石光は、ロシア革命の実態を聞き取り、さまざまな事件を目撃している。
 コザックは、もともと自作農であり、一般の農民も、ケレンスキー政権によって自作農となっていた。従って、資産階級・中産階級を始めとして多くのロシア国民は、革命に反対だった。
 ブラゴヴェヒチェンスク市長アレフセーフスキーの証言
「私も参加した全国施政者会議で、レーニンは、出席者の発言をさえぎって次のように言った。
  『諸君、君たちの発言を許さない。諸君の任務は、革命政府の施政方針をよく聞いて、これを実行することにある。』  
  新たな暴君レーニンに欺かれてはならない。
  レーニンは、同胞数十万人を虐殺し、凶悪犯を監獄から解放し市民生活を脅かしている犯罪人である。ロシアを滅ぼすのは、暴君レーニンである。
  国民の支持をえない少数党のボリシェビキの独裁と実際に則さないレーニン主義には、自己の生命を賭して反対する。」
四.日本への警鐘
 石光は、英米仏の要請に応じて、明確な方針を定めないままシベリア出兵を実施した日本政府と、ロシア軍民を掌握できずに中途半端な軍事行動に終始している日本軍派遣部隊に対し、警鐘を鳴らしている。
 「目的が達せられないで、犠牲を払うことが忠誠であろうか。失敗すれば、最高方針が誤っていたので自分の責任ではない、自分は与えられた責任を立派に果たした・・・そう考えてすむことだろうか、そんな形式主義が官界にも軍界にも蔓延している。
極端な言い方かもしれないが、軍界は昔から絶対服従の世界である。それは必要があり根拠もあってのことで、かつて軍籍にあった私の知らないことではない。だが絶対服従を逆手にとって責任転嫁と自己保身をはかる連中がいないではない」組織が形式主義に陥って老化が進行すると、万事が無責任体制となって、国家の存続さえ危うくなる。石光の抱いたこの心配は、その後の日本の道のりを暗示したものであるといえよう。
石光は、日清戦争以前の家族的な雰囲気を持つ日本陸軍を愛していた。しかし、日本陸軍が本来持っていた家族主義は、日露戦争以降急速に失われ、形式主義・官僚主義に取って代わられたのである。
本来、陸軍にせよ、海軍にせよ、家族主義をその根幹に持たなければ、士気を高く維持できないものであろう。
実際、日露戦争の肉弾戦で、多くの将兵が勇ましく戦った時、次のように、石光は大山元帥の副官川上素一(川上操六大将の子息)と語っている。

 川上「こんな戦闘は、命令や督戦では出来ないことで、兵士一人一人が、この戦争に勝たなければ国が亡びることを自覚して
初めてできるのです。この勝利は、兵士一人一人の力によるものです」
石光「しかも、兵士一人一人がこんな戦いが出来たのも、小隊長・中隊長・大隊長さらに連隊長までが抜刀して先頭に立った
からだよ。」

 この言葉のように石光は、戦う時には指揮官が兵士の先頭に立って突撃し、休む時には兵士を先に休ませるという軍人の大切な生き方を堅持していた。石光のこの考え方は、兄と尊敬する橘周太から受け継いだものに違いあるまい。
橘周太は、陸軍の教育制度について研究し、陸軍将校団教育令も橘の起草したものである。石光は、その橘周太から休みの度に指導を受けていた。
 ある時、石光は、橘の次の文章に目が釘付けになり、手帳に写し、座右の銘とした。
「兵汗を拭わざれば拭うべからず。兵休まざれば休むべからず。兵食わざれば食うべからず。兵と艱苦を同じゅうし、労逸を等しゅうする時は、兵も死を致すものなり。信用は求むるものに非ず、得るものなり。」
橘は、指揮官が兵に先んじて苦労し、兵の休んだ後休む心がけを持てば、将兵一体となった作戦行動がとれて勝利をつかめると考えた。
 石光は、橘について、こう述べている。
「橘こそ、伝来の武士道の厳しさと美しさを、新しい軍律の中に生かした新日本の軍人精神の基礎を築いた人であった。」
勿論、日露戦争の殆どの指揮官もまた、この橘と同じ心がけで指揮を執ったから最後の勝利をつかめたのである。
そして、石光も一生指揮官先頭の心掛けを忘れなかった。
しかし、明治の時代が終わるとともに、日本から「武士道の厳しさと美しさ」が、徐々に失われていったことは、今日の状況を見れば極めて明白な事実であろう。
だからこそ、橘が描き、石光が求めて止まなかった、この明治の軍人精神こそ、古き武士道精神とともに、私たち日本人が思い起こさなければならないものに違いなかろう。
 
参考文献
「城下の人」・「誰のために」・「望郷の歌」・「曠野の花」石光真清、中公文庫

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