日米較差 -情報は耳から-
アメリカに来てすぐに気がつくことは、アメリカにいる研究者達の帰宅がなんと早いことかと(朝は早いが)いうことである。はっきり言って、研究時間は圧倒的に日本にいる日本人の方が長い。ちょっとがんばっている白人は欧州から来ている人であって決してアメリカ人ではない。実験の仕方もあまり綺麗ではないし、方法論にもあまり詳しくないようである。では、なぜ彼等は良い論文をたくさん書け、サイエンスにおいてリーダーに君臨できうるのであろうか?
理由は、主要な論文がアメリカから出版されていること(コネクションがあるということ)、英語が母国語であること等が考えられる。それをもって、「アメリカと日本の差は言語だけである」「日本人の方が優秀であって組織では負けても個人戦では負けていない」などと考え、留学を終えて帰国して良いのだろうか?確かにそのように言える一部の優れた日本人がおられることは認める。しかし、圧倒的多数はアメリカでの仕事をピークに、帰国後、研究の質の低下を余儀なくされ、自分のサイエンス人生を誤魔化している人も多くおられるのではなかろうか?上記理由だけでは決して理由がつかない、アメリカの研究者達がもっている優れた点を理解せずして帰国するのはあまりにもったいない話であると思う。
私が感じた、彼らのこれだけは優れていると思える点は・・・「耳学問による情報収集と交流
」である。
日本人は面倒くさがりの先生が多いのだろうか?下の者が質問をすると上の人は「自分で調べなさい」とよく言われる。聞くことは安易な方法ととられ、多くの人はこのような姿勢に怠惰の烙印を押すようである。耳から得た情報などすぐに消えるもので、しっかり本を読んで確かめてこそ真の知識となると考えているようだが、おそらくそれは間違ってはいないであろう。しかし耳から得た情報を本人が後から本を読むことによって確かめればよいだけならば、聞くというスピードは見るというスピードとほとんど変わらぬ位早く、けっして疎かに出来ぬ情報とも言える。そして、人が口から発する
情報というのは、相手が嘘を言わないことを前提にした場合、こちらが多くの情報から重要ないくつかに絞り込む多大な労力を省略できるほど、選択的で決定的なことが多い。本来、大学での講議や講演はそういう目的のもとに行われているはずである。
一例を挙げるならば、我ボスの場合、私の研究発表が近くなって来ると、「悪いが少しレクチャーしてくれ、15分間ですべての説明をたのむ」と頼んでくることがある。翌日の研究発表会ではあたかも以前からすべてを知っていたかのごとく大演説をふるい、小生のボキャブラリー不足のみならず、すべての解説と研究の将来像までfollowしてもらい感心することがある。また私が敢えて事前の説明で触れずにいたことまでペラペラ話しだし、「そうだろ、ヒロシ?」に、なんて推測力があり読みが正しいのだろうと敬服、感心することもあった。一を聞き十を推測する力は偉大である。
<アメリカ教育>
アメリカの臨床講座ではレジデントが指導者に見解や知識を聞くのは<権利>であり、指導者はそれに答える<義務>がある。もし指導者が質問に答えてくれなければその指導者は最後のアンケート調査できっと多くの不評点を稼ぎ、指導職を解雇されるのである。もちろんその逆もあり、しっかりした仕事をしないレジデントは翌年から希望の部所で研修を受けることが出来なくなってしまう。小生のいる泌尿器科では、毎年30人近いレジデント希望者のインタビューを行い、わずか数人しか採用しないため、争いは熾烈である。そのような熾烈極める中でもレジデントの聞く権利は絶対であり、それらに答えることは指導者に常に求められているわけである。こういう相互評価システムは是非とも、トップダウン評価しかない日本は見習うべきであろう。抄読会などでもレジデントが質問を指導者はすべてに分かりやすく答えねばならぬし、質問者が納得するまで努力を惜しむことはない。また誰も質問する人に冷ややかではない。それはいかなる質問においてでもある。「勉強不足で申し訳ありませんが」というかしこまった姿勢などはレジデント達には全くなく、彼らは「聞いて当然」なのである。こういう教育は実はアメリカの場合幼稚園からもう既に行っており、柔らかい脳を持った子供の段階から「聞く」ことによって事柄を「イメージ」し、「考える」訓練をしているのである。その場その場で討論し考えを構築する教育に、アメリカは小さい子供の頃から多くの時間を費やし、これを教育のプライオリティーにしている。これは「聞く」という情報を決して低くみていないどころか最も大事な位置付けとして扱っていることを意味している。したがい読み書きで思考を構築する教育を受けた日本人などは、聞くことによって思考の構築を図るアメリカ人の感覚を理解するのは難しいことのようである。
<インターネットはサイエンスに必要な情報を満たしてくれているか?>
インターネットによって得る情報は格段に多く、そして早くなった。しかしそれをもって「耳学問」より上であると言えようか?否である。確かに何か調べる時には辞書のごとく、すぐにかつ多くの情報を瞬時に呼び出すことはできる、しかし情報の中から必要なものを選択する労力は決して省略できない。またそのような情報はInformationであってIntelligenceとは言えない。極端に言えば、インターネットは読書量を短時間で増やす程度の効果しかない。所詮は読み書きの世界からは出ていないのである。まだ活字になる前の情報に、科学という創造的な作品の解決のヒントや新しいアイデアなどが含まれてくるものであり、通常、このような情報をIntelligenceという。サイエンスに関わっているとこのスピード感覚は絶対必要であり(実験をするスピードよりも大事である)、多くの場合思考の整理や絞り込みにも大きく影響を与えかねない。
日本人は面倒くさがりが多いから「自分で調べなさい」というのだろうか?それはおそらく違うであろう。理由はきっと、答えられないという事実(つまり、本当は指導者が無知であることを隠すため)と、もう一つは「知っている」ということが依然「教養」のバロメータと考えている人がいまだに多くいるためと思われる。悲しいことだが、教養を大切にする人ほど、書物を読んで苦労して身に付けた知識や情報を武器と考え、そう容易く他人に明け渡すことができずにいる。いわゆる理論武装は知識の武装から始まり、他の多くの意見や知識をバックグランドに多く持つ方が、発言が優位であると思っているようである。しかし、それは明らかに間違っており、人の仕事上での<出来>や<善し悪し>はその人が持つin
putの情報量ではなく out putとしてのアイデアや作品(業績)にあるのは明白である。日本の研究者はこの単なるInformationと宝石のように貴重で、意味のある流通している、Intelligenceの間に区別がつけられずにいて、貴重な情報流通の世界の輪に入らず、脱落しているのである。これは大きな悲劇である。こういうことは実際、アメリカなどの国際舞台に立たずして容易く気付くことはない。
敢えてインターネットの残した成果を挙げるならば、年令と年期に関わらない情報収集の早さにより、個人の持つ知識の量に差がなくなったことであろうか。つまり単なる「知っている」というプライオリティーの格付けを下げることに貢献したことは誉められるべき点である。
<情報はつき合いから>
学会で講演を聴くということは知識を深めるため、或いは最新の学問動向を系統的に理解する上では格好の場である。しかしこれも依然ただのInformationである。日本免疫学会のごとく学会前からすべての抄録を閲覧できるシステムなどあっても、やはり最新情報という点ではいまだにタイムラグを感じる。アメリカの研究者の情報交換の場は多くの大学院講議、あるいはもっと小さな会合などの交流にある。講演後のランチタイム、或いは夕食などでフランクなつき合いをし、既にpublicationした情報のみでなく、現在のホットな話題や「ここだけの話」を聞き出し自分の研究に結び付けていくのである。またグループ討論もその場で多くこなし、専門外の高名な先生から意見をたまわる機会も多くある。自分とは異なる分野のことを聞かれて戸惑ったり、嫌がったりする先生もほとんどおられない。もちろん専門外の先生に意見をたまわるには自分の情報も包み隠さず伝えるという大前提があるのはもちろんである。つまりこういう交流で得られる情報は実験室発の非常にホットなものが多く、時に、未解決で手探り状態の渾沌とした場面からいち早く抜け出すきっかけを与えてくれるようだ。また、新しいアイデアの提供を受けることもしばしばで、ときには共同研究まで話が進むケースも多いようだ。「三人よれば・・」という格言があるがアメリカなどでは「十人寄る」ことがいとも簡単に出来て、日本では疑心暗鬼な多くの研究者たちのおかげで「三人寄る」にも苦労がいる状態なのである。
幸いにも、現在多くの日本の指導者が欧米から学び、そのような有益な交流が日本でもさかんに行われている。しかし、アメリカに来てわかったことは大学院講議における人の集まりに、あまりに差があるということだ。日本人はそういう交流の場へ足を運ぶ人が少ない。かく言う私も人の話を聞くよりも自分の実験の方が大事だと思っていた。反対にこちらアメリカでは日本より圧倒的に広い講堂が、立ち見の人がでるくらいに埋めつくされる。翌日の演者のランチョンセミナーにも多くの学生や若い研究者が自分の実験の相談に訪れる。あまりに忙しいせいなのか、日本はいまだに多くの若い研究者に国際感覚が欠けており、それが集団全体のパワーの底上げの限界につながっているように感じてならない。昔に比べれば海を渡っていった日本人の数は多くなってきているものの、依然、少数派であるのが現状である。したがい、新しい提言は「アメリカかぶれ」として一蹴され、なかなか日本に根付かないようである。
「アメリカ人と日本人の差は言葉の差だけである」はあきらかに間違いであり、「言葉の差」を埋めてこそ真の情報交換も出来、世界の情報流通の世界に加われるのである。留学経験者は強がってみせるのではなく、また帰国後も日本人同士のスモールグループで群れず、言語力を身に付けて貴重な情報を世界から取り寄せなくてはならない。物理的な障害(距離や通信手段)は昔ほどないゆえ、言語を用いた交流は尚更強調されなければならない点であると思う。そうすれば、そこには必ずホットな人間の交流が芽生え、相手に自分の理解をもたらすチャンスも生まれてくる。それらの交流によって将来、もっと多くの「日本発世界向け」のメッセージを生み出す機会が増えてくるのではないかと期待したい。また、帰国後も国際社会を意識するにはいまだに日本は十分に国際化されておらず、それゆえ多くの若い研究者がアメリカに留学することは、言語を上達させ、仲間を増やし、日本にいる多くの若い人に国際化を教える意味でも貴重であることは間違いないように思える。
志を持った、後進の先生方の飛躍を待つ。
2001年.12月5日