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サイエンスの国際評価基準

 ある留学中の日本人がアメリカのボスに「なぜ君はこんなにも共著が多いのに自分の論文は一つしかないのかね?」と真顔で聞かれたという話を聞いたが、これは決して珍しくない話であろう。そこで今回はサイエンス評価の日本基準を、サイエンス王国のアメリカの常識などを参考にして一考してみたい。
  まず最初に上記の論文の連名に関してアメリカ側の常識について触れておく。連名については同じグループだからとか、仲が良いとかの理由で共著として連名することはほとんどないようだ。 仮に連名の条件は?と問われれば、少なくとも図の一つに貢献しなくてはならぬことや、 あるいは多大なアイデアの供給があった場合などに限られる。抗体一つ差し上げた程 度では論文末のacknowledgmentか、文中のMaterials and Methodsにしか載らないようである。誰が論文の仕事に関わったかは部外者でいさめる人がいるわけではないから、ボスが上記の条件を考慮して著名を決めるようだ。もちろん大学院生や客員研究者に実験上での一貫した手伝いをした場合は立場にあまり関係なく、これも常識的には連名せれることになっているようだ。おおよよその立場も考慮され、Research Assistantでも連名される者、されない者など連名基準も大学によってはあるようである。おそらく条件などはもっと複雑であるが、上記のことに関しては一般的なようである。したがい、共著を多く持つのはラボの主催者か共同研究者を多く持つものに限られる。それゆえ、「こんなにも共著が多いのに自分の論文は一つしかないのか?」はアメリカサイドの研究者からすれば当然の疑問ともいえる。
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 ある程度の常識の範囲内で個人が研究業績を積み上げていっている一方で、自分の論文の質と数が評価の最大点であることにかわりはない。個人はメインの仕事で評価を積み重ね、時に他の研究グループと共同研究を行うことによって新しい発展した仕事を構築していく。私はボスから「自分の仕事からできるだけ外れるな、君は膀胱癌 とBCGがメインで今はそれに(アメリカに来て)ケモカインを加えているが、そこから外れては決してだめだ」と釘を打たれたことがある。私が得意になって新しいアイデアをボスの前で披露した時に言われたことである。その後続けてこう言われた「一つのことに集中していれば、また、そこである程度がんばっていれば、いつか君にも世界のどこからか、ある人からお呼びが掛かるし、必要な分野の人間としてチャンスがおとずれるものだ。もしやりたければ日本に帰ってから自分でやるのではなく、他人にやらせなさい」と言われた。そして「そのアイデアは良いものだと思う。論文にもきっとなるだろう。しかし論文の数が増えたって、君の必要性なんかは増えはしないんだよ」と言われた。つまり彼が言ったことがまさにアメリカ発の世界基準なので ある。コンスタントに、ある限られた分野でいいから価値のある仕事をだしてこそ、 人に認知されることをこの物語は端的に示している。共著の数はおろか、自分の領域外の仕事をたとえ多く抱えていても、決して評価に繋がらないのである。
 
<世界に全く通用しない日本基準>

 それでは日本はどうなっているのか?多くの場合この基準を物差しにはしていないようである。グループなどの仲間意識や、感情的なものが連名に大きく影響しているのは周知のごとくである。したがい特に何もしていなくとも連名に参加することになりファースト1報に共著10報以上などの現象が出現する。これは出世レース、学閥、派閥争いに乗じて、必要な点数稼ぎゲームに終始したアカツキの有り様である。もちろん日本のグラント制度にもこれを加速させる理由があるようだが、今回はこの件に関しては割愛する。こういう傾向は何も日本人だけではなくアメリカにいるアジア人ボスにも同じ傾向がみられる点が面白い。アジアの仲間意識がつくり出した代物であるが国際尺度からはかなり外れているようである。突き詰めれば、このようなグループ化は組織の存在感を対外的に見せつけ、内には無言のアメ作戦として展開し、狭い領土の取り合い、サルカニ合戦をしているだけにしかみられない可能性も残し、実際そうみているアメリカ人もいるようだ。それは結果的に、ただ多くの無駄なエネルギーを消耗し、目指すべきベクトルの向きを内にしか向けていないため、国際社会からどんどん孤立していく結果になっていくが、集団のボスはそれどころではないようである。また集団に隠れて一向に個人が見えてこないのがその大きな欠点でもあるはずなのに、日本の大勢の若者は乗り遅れるのを嫌い、大勢派につく傾向にある。それでは外国からどのように思われているのか以下、逸話を二つ程披露する。
  抄読会の時、日本のある有名な泌尿器科の先生が書いた論文が取り上げられた。内容よりも話題になったのはその先生の姿勢であった。まず参考文献であまりに自分の論文を多用している点が行儀悪く映ったようである。そして数多くの単なる適応実験が他の論文にも出されている点が指摘され、品性のなさを指摘され一同が散った。ラボに帰る廊下で歩きながら、伝え聞くその先生の人物像を伝えたら、慎重で冷静なボスが珍しく汚い言葉を一言吐いたのを覚えている。またある時、学会に行くボスの学会抄録を見たところ、同じ講演者に日本で有名な泌尿器科の教授が名を列ねていたので、「◯◯先生を知っているか?」とボスに問うたところ、「ああ、名前は知っているよ、多くの論文を書いているようだが、で、専門は何なのだ?」と逆に聞かれあせったことがある。同じセッションで並んで発表するのに全く相手にしていないのである。 日本では完全に認知されあっちこっちの日本国内の講演で第一の専門家として飛び回っているようだが、多くの論文を出す中、専門領域とされる分野においてはここ数年全く論文も出ていない状態である。日本は人材不足なのかこのような「小山の大将」的な先生が認められているようだが、全く外国からは相手にされていないのは明らかなようである。いずれのケースからも解るように日本国内では充分認知され通用することも諸外国からは全く理解されないばかりか、「お行儀が悪い」人種にしか見られていないようである。
  こういうケースとは逆に、アメリカにいても日本人として誇りに思う日本人学者も数多くおられる。私の免疫領域においては Fas関連のOsaka Univ.のナガタ、IL-18 のHyogo Univ.のオカムラ、TRAIL 関連を含めたJyuntendo Univ.のオクムラ一派などはアメリカ人も尊敬してやまないようだ。もちろんその他私が無知ゆえ名前を存じ上 げなかった方もおられるが割愛する。論文の質はさることながら、専門分野にしっかり腰をおろし、独自の領域にまい進している先生ほど国際的に有名である。

<日本基準のバックグラウンド>

  日本人の多くは論文の質よりスピードと数に一番の関心をもっているようだが、そういう点が全くの日本尺度でしかなく国際尺度でないことを日本にいる人は知っているものの、残念ながら改める気配はないようだ。私もはずかしながら、そのような回りの冷ややかな空気と視線をアメリカに来て初めて知った。毎年コンスタントに論文を出さないと大学にいれない、ボスの業績第一主義が重くのしかかり無言の恐怖政治が敷かれているせいなのだろうか?どうもそれだけではないようである。私が大学院生の頃も、私も多くの論文を出したい欲求に強く駆られたものである。やはり仲間うちにも多くの論文を出すものが優れている認識があったのも事実である。そのため、私を含め数多くの若い先生達が独自性よりも他人のアイデアをまねしたり、新しい方法で実験を積み重ねることに終始し、多くの論文の作成に励んでいた。いわゆる、 他人のやっていることを自分の系に当てはめるだけか、新しい方法を用いて証明したというような研究ばかりなのである。大学院生の時から日本にはそういう空気が流れていた。研究室によっては在籍者をどんどん共著に加え仲間意識を植えつけ、対外的にも大学院生勧誘の目玉にしているところもある。しかしアメリカの研究室でそのようなことをしているところは非常に稀で、大学院生にもそのような考えに同調する者はほとんどいない。時にアジア人ボスがアメムチ経営法でラボの運営をやっているが、 そこにはアジア人しか集まらず、決してアジア人種以外の白人などは集まってはこないようである。
  一方、アメリカの大学院生は平均5年もの歳月をけかけて論文が一報がよいところである。当然、その中で NatureやScienceなどのビッグヒットも出て来る。このあたりで既に、日本とアメリカの較差が相当あることに是非気が付いてもらいたい。上記の日本式方法では決してアメリカ社会では上がれないことを彼らは良く知っているからこそ、決して考え方をアジア式にスイッチすることはしない。また方法論のみで論文を積み重ねることや、 質の低い論文を多く持つことはその人の科学者としての<品性のレベル>を決定してしまうため、夢を追う若い人達は決して初めからそういう<薄利多売>はしない。おおよそ格差というものは平均的なものすべてにおいて差を生んでいるようで、その根は思っている以上に深い。大学院時代に、学生時代から親しくしていた基礎のある教授から直接言われたことだが、「論文の質は絶対ある一 定のレベルに保っておきなさい、数など気にして論文をセッセとつくってはいかん。 いい論文は出ることがあったりなかったりするが、最低、質は保てるわけだからな。 絶対科学者としての品性は落としたらいかんぞ」とたしなめられたことがある。今になって解ることが多いのは、とりもなおさず、私の未熟なところによるわけである (反省!)。
  また、友人から直接聞いた話では、ある日本の基礎の教授自らが高Impact factor 論文一報より低Impact factor論文が多数あることを評価すると公言しているらしい。 英語の論文を書いても日本語の著書と同程度の扱いだから、本人のやる気をそぐのは当たり前である。自由参加の市民大会と厳格な参加基準があるオリンピックのマラソ ンに参加したのとを一緒だと言われるようなものである。セレクションもない日本語著書などは業績評価の対象外に決まっているし、厳しい審査を行う英語論文に優があるのは当然である。これでは組織の下にいるものが論文の質より量に走るのは当然である。
  私の知る日本◯◯科学会は英語版の学会雑誌をおよそ10年前から発行したが、いまだにImpact factorがつかない。世界的に認知されるよう図られた雑誌だが、記載基準が甘く、内容を厳選しなかったのが原因であろう。なぜ最初に海外の高名な先生の Reviewなどの論文記載だけに留めておかなかったのだろうか?発行も年に4回以下で良かったはずだ。一つの理由として、最初に論文を厳選しなかったことが諸外国からの投稿を阻んでいると考えてもよさそうである。無理に投稿した人達には同情を禁じ得ない。すべての失敗は世界基準を知らないで雑誌の発行に走ったことに尽きるといってもよいだろう。数年前、日本免疫学会が発行している雑誌 Internal Immunologyが日本人の付き合いによる論文記載がチラチラ見えて来た頃にガクンとその国際評価を落としたが、これも同じ人種のした業である。国際世論をかるく見たしっぺ返しを受けたのである。一度ついたミソはなかなか消えないものであろうし、私ならそういう雑誌には絶対投稿しないだろう。アメリカに来て解ったことは「どうしてアメリカは極東の島国の出す雑誌に論文を出してこようか?よほどしっかり運営しないでわざわざ論文など投稿すまい」である。

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 「アジア式小グループ化競争理論」は、同じボスの研究室にいてもグループが異なると論文作成に関与がないため、グループ間でのそれぞれに対する関心が薄れるなど弊害が起こる。あるラボではグループボスの対立により、末端において協力したのに名前が載らず、協力していないのに名前が載るなどの妙な現象もつくり出した。前インド人ラボでもボスの一番の関心事業を行う主流派グループには活気があり(私も主流派にいたのだが)、一方で非主流派はどこか日陰的な雰囲気がかい間見れた。これは個人よりもその組織の体系化に原因があるように思えてならない。このように、ボスのグループ間競争意識を駆り立てるという意図に反してやる気を削ぐケースを発生させることもある。少ない人数ならばなおのことグループ枠など取り払うべきであり、共同研究で大きなグラントととり、共同研究を積極的に行うアメリカ方式をもっと学ぶべきだと思う。 本当の意味での仕事上での連名を組まねばならぬことを強調したい。一方で単なるスモールグループにおける身内に対する小さな分け与え作戦は国際感覚から随分外れており、それで個人に実力がつくわけでもないし国際的に評価されるわけでもない。一見それらには害がなさそうだが、実はウイルス感染のごとく瞬く間に広がり、<国際感覚を麻痺させる>という神経障害を起こしている点は是非認識しておかねばならない。解っていてもそうせざるおえない理由は、日本という小さな国で「小山の大将」になりたい人が多くいるためだと思われる。まずは日本で繰り広げられている出世レースに勝つことがもっとも大事だと認識している人が大半なのだろう。利益を共用することは大切だが、それがスモールグループ内で留まらず、社会全体に対するものなら誰も異論を挟まないし批判もしないはずだ。しかし残念なことに多くの人は個人の社会的な地位の達成のみが目的で、全体としての利益の共有や正義感には欠けているようである。くり返すが、集団全体の目が外ではなく常に内にしか向いていないことが、日本の科学研究が国際化されていかない主要な原因となっているのではないかと推測する。
  日本国内のスモールグループにこだわらず、仲間を国際的に増やして行く努力、過程の中で自然と目指す共同、仲間意識ができることを願う。そのためには 母国にも、きちんと価値観を正しく見極め、それを評価するシステムがなければならぬことは言うまでも無い。主要論文に対する共著論文は明らかにバブルであって、ペナルチィーなどは科す必要はなくとも、評価基準から何らかな方法をもって外すなどの工夫を加えなくて我母国がアメリカのように真の科学立国になりえるはずもないだろう。

<何が評価基準の一つになるか?>

  将来において、科学的業績の真の評価はどうすべきか?という議論はアメリカにも存在し、この点に関してははっきりとはしていない。時勢の勢いで良い雑誌に論文が載ることがあるのは充分皆知っているし、良い仕事をしてもなかなか認知されにくい仕事に従事されている人もいるようである。しかし私の感じた印象では熾烈な自由競争の中にも、優れた人を野太れ死にさせない寛容さがアメリカにはあるようだ。たまたまポストがなく教授職につけないなどの不運などは当然あるが、拾って使う人も多くいるようである。しっかりやっていたのに時勢と時代が原因で、また科学者としての「生まれ育ち」の問題から不運にもチャンスが訪れなかったなどという日本式の悲劇も少ないようである。移民の国アメリカには優れた人材を活用することなくして将来の繁栄がないという大前提があるのが何よりも頼もしい。

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  同じ泌尿器科ラボにいる、最近 assistant profになったトムと話をしていた時のことである。彼が大学院時代にScienceの雑誌に論文を載せたことが話題にのぼり「素晴らしい」と私が形容したら、はにかんで彼はこう言った。「 あの論文は特に新しいことをしたわけではなかったんだ、でも長らく疑問とされていた点をきれいに証明してみせたからね」。そしてニッコリしながら、「あの論文は今でも多くの人の論文に引用されているんだよ」と少し誇らし気に付け加えた。およそこれが最も客観的な評価に違いない。
 ゴッホに見られるように、没前の作品評価は人間像が邪魔して主観的にしか評価されなかったが、没後は作品に対する感情移入がなくなり、作品のみの評価になったから客観的に素晴らしい芸術家として彼は評価された。後世に評価される作品を残すという点は芸術家も科学者もそう変わりがないように思う。私も良い仕事をし論文が泌尿器科の代表的な教科書に引用されるような、いわゆる社会還元を主とする科学者になりたいと思っていたが、それは最も厳かな目標であり健全な評価基準になるのかもしれないと思っている。


 oldbook.gif glasses1.gif                       2001年12月12日 記載 



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