アメリカ国内で移籍を体験したが、おそらく順調な留学を経験する人が多い中では異色の出来事なので報告しようと思う。少なからず、私の未熟な部分をも表現することになるという躊躇はあるが、今後留学を考えておられる人達への<わずかな教訓>になればという思いでここに記述することにした。
当初私の留学はテネシー州にある Vanderbilt Universityという全米でもトップクラスの大学に決まっていた。順調な日本での準備と、受入れ先のラボの日本人の先生方の親切な協力もあり、始めてテネシー州のナッシュビルに到着しラボのメンバーに迎えられた時は、無事2年間の予定の留学が進むかと感じていた。実際、翌日からの生活のセットアップも順調に進み、プール付きの別荘のようなアパートもすばらしく、知り合いになった日本人達からもナッシュビルの街が非常に良いと聞いていた。初日の朝、晴れ渡った空がとても青かったことは今でも覚えている。
着いたその翌日にボスが私にこう言った「ヒロシ、お前は2年間の予定だったな、ということはお前には残り1年と365日しかないわけだ」。きっと何か意味のあるジョ−クなんだろうがまだアメリカのユーモアに慣れていないせいと思い、私も「そうだ」といって笑うしかなかった。
さて、詳細を語る前にボスの略歴などに簡単に触れておく。当時のボスはいわゆる二世でもなんでもなく、生まれ育ちも土着のインド人であった。インドの大学を卒業した後、大学院に入るため渡米しその後ポスドクを経てPenn.State
Univ.で Associate Profになった。アメリカ社会で勝ちあがって来た外国人は優秀であるが、彼もそのそのうちの一人であることに間違い無いであろう。アメリカは基本的には移民の国であり、入って来る者を拒まない。しかし、この自由で物に溢れたアメリカでの生活を存続させ、かつアメリカの市民権を得るためには多くの問題をクリアーしなくてはならないため、かなりの努力を要する。実際、アメリカ白人は実に省エネで勝利を獲得し優雅に生活している反面、移民はかれらの数倍の努力なしには同じステータスにはつけないのである。そのようなバックブランドがある当時のボスは、いわゆる日本の時に想像する典型的なアメリカ白人とは全く異なっていた。
そのため、彼が死にものぐるいで勝ちつづけるために身に付けた処世術は大変参考にはなるが、異国の地で同じように生き残りをかけて日本から来たわけではない私にとっては、そのような経験談や考え方には全く関心がなかった。私が学びたかったものは、サイエンスへの取り組む姿勢、思考の構築の仕方、技術、方法論そして仕事の成功である。同時に、私が幼き頃体験したこと、すなわち家族を海外の異文化を体験させてあげることであった。
最初の「お前には残り1年と365日しかないわけだ」という意味が分かるのにそんなに時間はかからなかった。カンファレンスでは感情をあらわに部下を威圧することしばしばであった。デスクの前に座っていると仕事をしていないとみなされ、新しい企画を提示される。夕方6時頃に帰宅することなんかは全く許されなかった。もちろん土日も働いてくれることを望んでいるようだった。そのため、木曜日や金曜日に新しいプランを持ってきて、週明けの月曜日に結果を知らせてくれということもしばしばあった。 カンファレンスの際には「ペーパータオル、キムワイプ一つ無駄にするな」の発言は当然にしろ、「夏休みなど必要ない」、「もしここで仕事を一生懸命しなかったら、大学院生には決して私から良いrecommendation letterを受け取ることは出来ない、その意味は、君達に明るい将来が無いことを意味する」等とても教養の深い人間の発言とは思えなかった。むしろヤクザと一緒で「金、恫喝、拘束」という表現法のみを使い、部下に恐怖心を与える演説を得意気にしていた。おそらくそうすることが自分の今の苦労して築いた地位を守るもっとも良い方法なんだと思っているのだろう。 しかし、創造的な仕事をする研究者を労働者扱いするその手法には到底納得できなかった。「お前らは言われた通りにやっていればよい、頭を使うのは俺だ」という彼の姿勢は研究者を<自分の手>程度にしか見ていなく、それも私を嫌悪させた。運が良かったのか悪かったのか、私は一度もこのようなボスに日本で出会っていない。 残念だが、私の経験不足が災いしたようにも思える。 というのは当時おられた二人の日本人はまだ日本のボスより彼の方がましだと言われたからである。考えてみるに組織の管理運営法は実にアジア的で、そしてボスも間違いなくアジア人であったのである。
事態を飲み込み、「これはまずい」と思うのに3週間かからなかった。それからは毎日研究室に来るのが苦痛以外の何ものでもなかった。どうやって一日を過ごすか考えるのが何より辛かった。赴任当初、主体的な研究などなく、ボスの<あれやれ、これやれ>だけを待つのみだった。例え幾ばくか近い将来に主体的にやることが出来ても、またそれによって良い論文が書けても、そのようなボスについてまっとうする二年間の留学生活がとても幸福になるとは思わなかった。我々サイエンスに携わる者は、仕事の創造性と仕事の完成度及び喜怒哀楽のあるその構築過程に明らかに陶酔しているはずである。そういうバランスを一切認めず、上から下にもの言う姿勢には服従できなかった。その過程で出来た論文などただの「紙(ペーパー)」でしかなく、自分にとっての「論文(ペーパー)」などではないというのが私の価値観である。ようやく生活も軌道にのり、家族もアメリカでの生活がこれから楽しめるという矢先の出来事である。一家の主としては当然迷う。しかし意外にも私の結論は早かった。選択肢は、日本に帰るか、アメリカに最小一年だけ遊びで滞在するか、或いはラボを変えるかであった。つまり、当時のラボに留まってがんばるという選択肢はもう頭から除外されていたわけである。
幸いにも、翌月の5月初旬にはアトランタでアメリカ泌尿器科学会があり、私は演題発表のために行くことが許されていた。正直にいって、これは最初で最後の移籍チャンスと思った。とにかく給料が出なくとも私を取ってくれるボスを見つけたかった。そこで知り合ったのが今のボスのマイクである。退路を既に断っている者には信じられないような積極的なパワーを生み出すものである。よく火事場の馬鹿力というが、選択肢が一つしかないということはかえって判断を天秤にかける余裕がないぶん、率直で力強いのであろう。
学会で知り合って留学の機会を得るケースは実に高確率で成功しているようだ。留学をきめる際に必ずインタビューを行うところが多いが、学会で会うことでそれも兼ねているためこちら側としても実に手っとりはやいのである。何度かメールでマイクにインタビューはいつするんだと尋ねたが、彼が私をpostdoctoral
fellowに採用を決めるまでに我々は一度も会っていない。Vanderbiltのボスのletterすらも必要なかった。これは幸いした。なぜならば、もし私が大学内移籍を試みたならば、きっとそのラボのボスは何らかの方法でその時のボスにコンタクトをとったであろうし、そうでなければletterで私の人物像を知ろうとするであろう。つまりいずれにしろ、かつてのボスの山田評を求めるのが普通なのである。その際、早々とラボを辞め、いくばくかの無駄金を使ったと憤るボスが良いようにletterを書くはずがないのである。こういう点はアジア人であるかどうかは関係ない。
学会ではマイクの出番を抄録から割り出し、発表前に近づいた。若くして有名なマイクには既に多くの先生が取り巻き、とても私の入り込む余地はなかったが、これが最後のチャンスと思い、「あの、実は」と切り出した。幸い、彼もその時の私の演題を注目していたようで「お前が抄録に載っているジャパニーズか?」と問い返され、ほっとしたのを覚えている。用件を言う前にいかに自分があなたに会いたかったかを切々と伝えた。そしてできればあなたと一緒に仕事がしたいと申し出た。彼はその時の私の現状を詳しく聞いてきた(給料、日本からのサポートなど)。しかし夏にボストンからアイオワに移るので非常に困難だと付け加えた。そこで私も一か八かの捨て身の台詞を吐いてしまった。「我々はこれから先、同じ仲間でいる方が良いのかあるいはcompetitor(競争相手)である方が良いのか、どちらだ」とつい口がすべってしまったのである。彼が目を充血させ顔をくっつけんばかりに私に迫ってきたのを今でも覚えている。「なぜ敵対しなければならないんだ、日本では手を組むことより敵対する方が常識なのか?」今はアメリカの文化が分かっているので、これはかなり挑戦的な言葉であったと思う。しかし多忙で世界の多くの人と会合を持つ彼が私を良きにしろ悪きにしろ覚えていてくれたのはその後のメールの反応から容易に推測できた。
<成功のポイント>
その後、ナッシュビルに戻り、すぐにマイクにメールを送った。前もって作ってあった履歴書(CV)をまず送った。次に、ついでと思い、具体的な研究内容と今後の方向を綴った内容のメールを遅れて送った。学会から戻ったマイクからはすぐに返事が返ってきたが
、始めは「残念ながら・・」というのだった。が、遅れて1時間後に「素晴らしい」ときたのである。彼は私の具体的研究内容や考え方に興味を持ち、CVに記載した
私の業績には全く興味を持たなかったことをこれは意味していた。わずかな期待を乗せた私のアメリカでの将来にやや光明が差した思いだった。
その後のメール内容の主なやりとりは省略する。参考になられたいならばいつでも御連絡を。
<アメリカでの移籍の実際>
移籍は実に多くアメリカ国内で行われている。それはボスがドンドン動くのも一つの原因だが、上を目指す若い研究者にとってもキャリアーをつけるために新しい職場を求めて転職する。それが自分の地位を上げることに繋がるのがこちらのシステム。どんなに優秀な大学院生であろうとそのラボに残ることなどなく、またボスもそういう大学院生に次の世話を協力するのが常識のようだ。Prof.を段階的に上がっていく人ならば、Assistant
Prof.からAssociate Prof.へ、Associate Prof.からProf.へと最低二回は大学を変えるのは普通で、永久Prof.になる時も大学を変えることがあるので平均2ー3回は大学を変えるのが普通であろう。加えて医者ならレジデントの場所も数回変え、fellowになっても数回職場を変えていくわけだから、日本のように出身大学に執拗にこだわっていることはアメリカからみたら異常なのであろう。
具体的なポスドクの募集がなくともボスのグラント次第で可能なケースも多く知っている。学内情報でもポスドク募集はいっぱいある。したがい自分がその気になれば移籍する機会はいくらでもあるのである。前述したごとくアメリカは横社会なのでボスと知り合いになることはもっとも移籍を成功させる大きなポイントになっている。多くの場合、グラントさえもっていればchair
manに関係なく人を採用する権利があるから、直接的な関係は言う間でもなく大事である(chair manは事後承諾するだけ)。これは学内移籍でもそうである。しかも日本人は真面目で良く働くのでアメリカ白人は日本人が好きなようである。採用される確率は高いであろう。
<条件>
1. 当たり前のことだが、ポスドクになるには最低PhDが必要である。もちろん給料なしの留学ならHarverd Univ.でもJohns Hopkins
Univ.でも喜んで歓迎してくれる。
2. 意外にも日本人の多くが誤解している点が二つある。どこの大学に留学していたかなどはアメリカでは何の評価にならないこと(卒業しているなら別だが)、それより「誰と仕事を一緒にやったのか」の方が大事ということである。アメリカのように優秀な人ほど、どんどん自分の地位向上に向けて職場を動くようなシステムでは仕事をした場所(大学及び研究所)などは二の次といって良い。とかくブランド志向の依然強い日本の若い人達は「大都会の有名な大学にいけさえすれば」、「ポストはさておき留学することが大事」という考え方に走りがちだが、給料なくして留学すれば、一生懸命仕事をしても論文に名前さえ入れてくれないこともある。しっかりしたポストを確保してこそ留学すべきで、ひいてはそれが留学期間の周囲の人間の接し方にまで影響する。簡単に言えば、ただの腰掛け程度の認識で留学していれば、周囲は手を抜いて接してくること間違いなしである。その点、ポスドク以上ならば周囲の者はある程度敬意を払う。ポスドクは「お客さん」ではなく「即戦力」であるから当然であろう。日本から幾ばくかの援助(地位)があっても、ポスドク以上で留学するべきである。ポスドクは単なる外国人達のための救済処置ではなくアメリカ人達も含めた、りっぱな職業、社会的地位である。ポスドク以下のリサーチフェローはたとえ多少の給料を貰おうが、基本的にはアメリカの大学院生と同等か或いは以下、職業としては無職の扱いである(なぜなら、アメリカの大学院生はボスから経済的援助を受けているのが一般的だからである)。
学位をとってポスドク以上で留学するのがbetterが結論である
。
<注意>
留学した先のボスの命令は絶対である。そのため、仕事内容も含めキャラクターについてもある程度事前に知っておく方がよい。最も大事なのはボスの性格を把握することである。仕事内容もボスの企画をこなすのが通常で、最初から自分のアイデアをさせてくれることは滅多にない。評価されるなかで少しずつ自分の注文を入れれば、うまくいくことが多いようだ。
単に「隣の庭の方が美しいのでは」程度の気持ちでの移籍はやるべきではないと思う。成功するために消耗するエネルギーはやった人でなければ分かり得ないからである。やはり、アメリカ人にとっては珍しいことではないが、我々の留学という限られた時間とチャンスを潰すことにも繋がりかねないからである。
<最後に>
昨年の6月の初旬にVanderbiltを辞めIowaに移るまでの2カ月あまりを休養と引っ越し、そして西部及び南部の膨大な旅行に当てた。そういう意味では結果的には遊びと仕事を両立させることが目標だった私にとっては思いの他、遊びが大半を占めたアメリカ留学前期であった。まるでアメリカに仕事をしにきていたのを忘れ、旅行をした。1カ月以上のプータロウ生活は学生以来のことで毎日朝から晩まで家族と一緒に過ごし、必ずやってくるであろう<明るい未来>に思いを馳せたのを覚えている。自宅と大学の往復ばかりでは決して見えなかったアメリカの文化と生活を見れた貴重な期間にもなった。
以上のことが本当に良かったかどうかは現在の自分の仕事の仕上がりに大きく依存していることは言う間でもないが、こと休暇や遊びに関しては日本を発つ前の予想に反してかなり充実しているようである(笑)。しかしこれはあくまで<予想外>のことであった、ということを最後に付け加えておく。
2001年11月
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