京の町・人・店

 

 1  大 村 し げ さ ん

     三十年もチリ紙交換を続けてこれたのは、たくさんのお得意さんに大事にしても

    らったからだ。 (続けてきたのが胸をはっていうほどのことかどうかは別にして)

    なかでも 大村しげさんにはお世話になり、またいろいろ教えてもらった。

    大村さんは、随筆家、京料理研究家という肩書きで知られ、ファンは全国に多い。

    ふだん接していれば、ふつうの町屋のおばちゃんである。

    親や、さらにその上の世代から「しまつ」をむねとする暮らしを受けついできた、

    古い京都の女である。 

    ただ、大村さんは独特の「京ことば言文一致体町屋の女衆(おなごし)活用」とでも

呼ぶべき、それこそほっこりとさせる文体を創りあげて、自らを含めた京都の庶民

の暮らしぶりをなんの飾りもなく世の人に伝えた。

    それは同じ京都人といっても、杉本秀太郎氏の香り高い文章が教えてくれる、大 

    店の商家の豪華な、そしてはんなりとした生活とはまた別の、京都人のエッセン

    スの一面を見せてくれる。

    

    京都に来て数年、チリ紙交換などという商売をはじめては見たものの、『いちげん

    さんおことわり』で有名な京都のこと、市内では稼ぎにならず、滋賀県ばかり行っ

    ていた頃のこと。

    たまたま「寺町姉小路東入」の大村さんに古紙を出してもらったのが縁で、何やかと

    教えてもらうようになった。 といっても「ああしよし」「こうしたらよろし」などと言っ

    てくれるのではない。

    「うちは、こんなんどすねン」とか「このあたりはみなこうやろかしらン」などと婉曲

    に京都の人の暮らしのディティールを言うてくれはるのだ。

    たとえば、「魚屋さんでも豆腐屋さんでも、いつも決まった時にきちっと来てくれは

    るさかいありがたいわぁ」とか「何買うにしても、一遍こことかこの人とか決めてし

    もたら、よっぽどのことがないかぎり変えたいことおへん」とか。

    「大村さんの言うてはることが京都のおばちゃんらの思ってることなんか」と気がつ

    いてから、京都のお得意様が増えていった。  

    今思えば、大村さんは、「不易の権化」である。 母親に教わったことをきちんとや

    れたことがうれしいて、また誇らしいのである。 そして京都の女子衆の多くもまた、

    不易を生活の柱にしてきたのではないか。 

    

大村さんと知り合うて二十数年、ずっと変わらずお世話になってきた。

    病に倒れはったと聞いた時には後悔の念に胸が痛んだ。

 

    京都ブランドの一面を大村さんが創ったのは間違いないと思う。

    平野神社で行われた「大村しげを偲ぶつどい」には千人以上のファンが参集した。

    平野神社には「しげ桜」という、大村さんが寄せたしだれ桜もある。

    京都にとっては多大な功績があると思うのだが、京都市は見向きもしない。

    京都市は何もわかっていないのである。

    しかし、知る人は知る。 徳は孤ならず。   国立民俗学博物館が、大村さんの

    不易の中心、自宅の台所(はしり)と勝手(キッチンの一部)を、根こそぎ持ってい

    って博物館に忠実に再現し展示している。

    「神は細部に宿る」ということばがあるらしい。

    大村さんの台所(はしり)そのままが国立民俗学博物館に保存されたことは、後世

    のために本当に喜ばしいと思っている。

 

    大村さんのことばの中でもっとも印象に残っていることば、

    「言いたいことは明日(あした)言え」

    京都人のひとつの知恵。

 

    大村さんと知り合えなかったら、チリ紙交換を続けるどころか京都でずっと暮らす

    ことさえできなかったのではないか。 大村さんは一人のチリ紙交換、そして京都

    市民を立派に??育ててくれたのだ。

    もちろん大村さんにとっては、全く何の自慢にもならないことだけれど。

 

    大村しげさんの著作

    「冬の台所」「京のくらしうた」「京都火と水」冬樹社 「しまつとぜいたくの間」偕成

    出版 「京暮らし」 くらしの手帖社 「大村しげの京のおばんざい」中央公論社 

    「バリ島村ぐらし」淡交社 「アユとビビ京おんなのバリ島」新潮社  他 

8月25日

 

      室  町  

    キモノの街 京都。 なかでも和装関連の代表というべき地域が、西陣と室町。

    西陣は「西陣織」で知られる帯で有名。  かたや室町は和装の全国卸問屋、商社

    の立ち並ぶ街として聞こえが高い。

    というのも昔の話。  今ではキモノを着る人がいない。 

    毎年正月には、帰省のため東京駅でわずかの時間を過ごすのだが、ここ二年

    振袖姿の女性を見たことがない。

    破魔矢の先にショールの毛糸がふうわりとまとわりついている娘や、連れの腕に

    手をからませようとしてはたせず、長い袖をうらみがましくふりまわす娘など、正

    月ならではの光景が、以前はいくらでも見られたのに。

    さらに、結婚式や入学、入園式でも和服の女性を見ることがほとんどない。

    京都で和服を見るといえば、お茶会、あるいは大学(高校)の卒業式の袴姿くらい

    になってしまった。

    当然、和装業界の不景気も半端なものではなく、ここ数年二割ずつ販売は減少

    し続けているという。

    

    下の写真を見ていただきたい。

                

 

    がっらがら  

 

    室町通はその名のとおり室町時代にあやかる名前である。 

    だが、室町時代には、室町通よりも一本西の衣棚(ころもだな)通りの方が栄えていたらしい。

    法衣商(僧服や仏飾などを扱う)が何件も店を並べていたという。

    江戸時代には、三井や大丸の創業者もこのあたりに店をもち、その繁栄は

    祇園祭の華美、隆盛の原動力となった。

    しかしそれも、今となっては……

    いくつもの商社、老舗がのれんをおろし、室町から消えていった。

    往時『衣棚の千切屋(ちきりや)か、千切屋の衣棚か』といわれ、名著「老舗の家訓と家業

    経営」(足立政男)のモデルともなった老舗中の老舗「千吉(ちきち)」もそのビルを

    手放してしまった。

    「千総(ちそう)」もホテルで助かっているみたいだし、俺の知っている中では頑張っている

    老舗は「(こん)田屋(だや)」くらいか。

    

    今、室町には呉服問屋の跡に大小のマンションが何棟も建ち、その居住者たちが

    祇園祭の新たな担い手となっているという。

                                                  10月3日

 

     3  吉田さん おつかれさまでした

    吉田満智子さんが亡くなった。 もっともっと活躍してほしい人だった。

    吉田満智子さん(最近は旧姓を用いて佐方満智子としていた)の名を知る人は

    少ないだろう。  彼女は、反トマホーク、反軍事政権、反差別などを訴えて

    平和運動を長く続け、市民団体「蓮塾」を作って活動してきた人である。

    この生き方からは、男何するものぞ、「田島陽子か、土井たか子か」という感じ

    の女性活動家をイメージするだろうが、とんでもハップン、全く違う。

    小柄で細い体に、ひかえめな笑顔がチャーミングで、シャイで、静かな話し方、

ひよわな感じさえする人である。

そんな彼女は、(ミサイルの)トマホーク反対、原子力空母寄港反対、を訴えて、

福岡、佐世保などで、何度もハンストをしてきた。  

かよわい体で、時には病を押して何日もすわり込みを続けるのだからすごい。

その行動力に加えて、「蓮塾」で全国の市民運動グループとネットワークを結び

活動を広げてゆくエネルギーをずっと尊敬してきた。

病を得てからもヘルパーをしたりして、

「細いお体で、うらやましいくらいのバイタリティですね」と言ったら

「そんなこと……」と恥ずかしそうに笑ってはった。  うーーむ

もっと他の言い方できひんかったんか、俺も。

 

吉田さん、あなたのエネルギーは周りの人にたしかに伝わりました。

長い間、本当にお疲れさまでした。  ゆっくりお休みください。

                            6月10日