1938年 
スペイン戦争
爆撃で破壊されたアラゴン前線、テルエル市内のビルの中でフランコ反乱軍の狙撃を警戒する共和国軍兵士。橋と対岸のビルは大きな破壊を免れた。 


1945年 
 「この戦争の最終的な銃を射撃する最後の兵士は、この戦争勃発に最初の銃を撃った兵士と何らの違いも見だせなかった。その写真がニューヨークに着いても、普通の兵士がなんの変哲もない銃を射撃している画面と、誰ひとりふり向きもしなしであろう。その兵士の顔は清潔で、明るくきわだって若々しかった。そして、その銃はナチスを倒しつづけていた。私はバルコニーの上へ出て、2ヤードくらい離れて、彼の顔に焦点を合せた。私はシャッターを切った。その瞬間、私にとって何週間以来の最初のこの写真は、この青年にとって生涯最後の写真となった。声もなく、この銃手の緊張した姿勢から力が抜けた。そしてがっくりと部屋の内側に仰向けに倒れこんだ。彼の眼と眼のあいだに小さな穴が見られた以外には、彼の顔には少しの変化も見られなかった。床に倒れた彼の頭の横には、血が水溜りのようにひろがっていた。彼の脈拍は、鼓動を永遠に止めてしまった。軍曹は彼の手首にさわって見て、彼の死体を跨ぎ超えると、機関銃をひっつかんだ。しかし、彼はもはや射撃の必要はなかった。わが軍の兵隊たちが、すでに橋の向側に無事に着いていたのである。私は戦死する最後の男の写真を撮った。この最後の日、もっとも勇敢なる兵士の数人がなおも死んでいくであろう。生き残ってゆくものは、死んでゆく彼らをすぐ忘れ去るのであろうか。」


「エルマーは彼だけの、ちょっと面白い情報を握っていた。それは、すでに戦場で行動中のアメリカの4つの軍団以外に、第5の、しかも、最初の連合軍混成空挺隊が編成中で、噂によれば、戦争が終結するのはこの空挺部隊が、一気にベルリンへ降下のときだ、というのであった。降下の前日、われわれは次の指令を受けた。"英国の落下傘部隊とともに、ライン河の対岸、ドイツの主要防御線の真ん中に、降下するべし"と。」   


この写真がキャパの最後の写真となった。
「1945年5月25日、ハノイの南方、湿度の高い熱気の中をベトコン討伐のフランス軍に従って、又しても無情な戦禍にあえぐベトナムの農民の中をかき分けてキャパはジープを進めた。飛びかう銃弾は、厚い空気の中、鋭く風を切る。暑い暑いインドシナの水田の提のかげに、突如、すさまじい爆発音がこだまする。北アフリカの戦線で、あれ程要心深く慎重をきわめた行動に徹したキャパが、ベトコンの地雷にふれたのだった。脚をふきとばされ、胸にも深傷をおったキャパは、倒れてもがっちりとカメラを掴んで離さなかった。」


Dデイ

ノルマンディー
 オマハビーチ
「1944年6月6日の今日、ここは世界一、憎むべき海岸だった。海水の冷たさと恐怖に尽瘁しきったまま、われわれは海と鉄条網のあいだの、狭い、湿った砂浜に伏せていた。ぴったりうち伏しているかぎり、われわれは砂の傾斜のおかげで機関銃やライフルの弾から自分の身を守れた。しかし、満ち潮は、時あらば、と敵の鉄砲が待ち構えている鉄条網の方へと、無理矢理にわれわれを押しやろうとする。」

「フィルムのない空っぽのカメラが手の中でふるえていた。予期しない、新たな恐怖が頭のてっぺんから、足のつま先まで私をゆすぶって、顔がゆがんでゆくのが自分にも感じられた。私はシャベルのホックを取りはずすと、せっせと穴を掘った。シャベルに砂の中の石があたった。私は急いで石を取り除いた。まわりの死んだ兵隊たちは、いまは身動き一つもせずに横たわっていた。ただ波打際の死体が打ちよせる波に転がされていた。」

「一週間後、私は"イージー・レッド"の海岸で私が撮った写真が、上陸作戦についてのもっともすぐれたものだったということを知った。しかし残念ながら暗室の助手が興奮のあまり、ネガを乾かす際、過熱のためにフィルムのエマルジョン(乳剤)を溶かして、ロンドン事務所の連中の眼の前ですべてを台なしにしてしまった。106枚うつしたわたしの写真の中で救われたのは、たった8枚きりだった。熱気でぼけた写真には、"キャパの手はふるえていた"と説明してあった。」


(たお)れゆく瞬間の民兵(ミリチア)
1936年 スペイン内戦
報道写真の歴史的古典となった。

かっこの写真の説明文は、
『ちょっとビンぼけ』 
ロバート・キャパ
より抜粋

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