山口県光市室積半島 史跡巡りウォーク「幕末の室積」2011-3-5(土)  





山口県光市室積半島  
史跡巡りウォーク「幕末の室積」の紹介
  2011-3-5(土)) 

 (郷土館歴史講座) 史跡巡りウォーク[幕末の室積]  

 
史跡巡りウォーク「幕末の室積」
 ここ室積は古くから港町として栄え、自然の景観はもとより、歴史に出てくる史跡や事物が多いことで知られています。
 中でも、幕末には第二次長州戦争で活躍をした第二奇兵隊の源流となる南奇兵隊が結成されるなど、 近世に向けて大きく貢献した土地であります。
 これら幕末に視点をおいた史跡を巡りながら、早春の室積半島を散策し、自然と歴史を満喫してください。

講師  尾中辰也さん(室積観光ボランティアの会)
    ..鮎貝真道さん(古文書の会世話人)

(開催日時) 平成23年3月5日(土) 9時〜12時

 (史跡巡りコース)
 (出発点)光ふるさと郷土館 →専光寺 →普賢寺 →長州撫育方室積会所跡 →忠魂碑 →光峨媚山護国神社  →毛利敬親の碑 →煙硝蔵跡(象眼水井戸付近) →室積台場
(主催)光ふるさと郷土館  
   
  室積半島史跡めぐりの場所











 普賢寺今昔市十年市のスナップ写真




光ふるさと郷土館で 館長挨拶



講師紹介 鮎貝真道さん(古文書の会世話人)


講師紹介 尾中辰也さん(室積観光ボランティアの会)



      専 光 寺
 江戸時代に運誉上人が阿弥陀如来を本尊として再興
宗派は浄土宗。毛利氏は、渉外館として利用することもあり、
 幕末諸事件の処理もこの寺で行われた。
 幕末には、この寺を本拠地として奇兵隊が結成された。
 第二奇兵隊で立石を首謀とする脱隊暴動が勃発し、
その隊士の裁判もこの寺でなされた。
「光ふるさと郷土館配布資料」  



 駐車上が昨年整備された。







        燈籠堂   
 元禄15年(1702年)に象鼻ヶ岬(現室積灯台位置)  
 に百姓松村亀松(浦年寄)が父次郎左衛門の遺志  
 (港内の見入りよろしく、夜中にも廻船が出入り  
 できるようにしたい)を継ぎ、自費をもって燈籠  
 堂を建てました。  
 別に油代・人件費などの維持費として米40石(約6t)  
 も寄付しました。  
 このことから、元禄ごろには室積港が諸国廻船の出入  
 りで賑っていたことがうかがえます。  
 山口県内の灯台では最も古いもので、国内でも  
 24番目のものです。  
 みたらい公園にある燈籠堂は、平成3年3月に  
 復元されたものです。  
 
「室積探訪」  






    普賢寺仁王門   
 普賢寺の記録によりますと、木造の金剛力士像が安置されている  
 雄大な仁王門は1798年に建立されたもので、1917年に改修されています。  
 金剛力士像は最初普賢堂に安置されていましたが、  
 拝殿が手狭になったため仁王門を建立し安置しました。  
 像は向かって右側が口を開いた阿形の密迩金剛、左側が口を閉じた  
 吽形の那羅延金剛ですが、仁王にしては珍しく温和な表情をしています。  
 楼上には仏教開祖の釈迦牟尼仏を主尊に、左に光厳童子、右に月蓋長者  
 を脇士にし、その両側に十六羅漢が安置されています。  
 十六羅漢は永く世にあって正法を護持する十六体の阿羅漢で広く信仰されています。
「室積探訪」  





木造の金剛力士像向かって左側が口を閉じた  
 吽形の那羅延金剛、右側が口を開いた阿形の密迩金剛、 






 普賢寺
 空上人が普賢菩薩を大多和羅山(峨媚山)の峰に堂を築き、寛弘3年(1006年)に安置したことに始まる。
 元は天台宗であったが、後に臨済宗となって、
 室町時代に現在地へ移したとされている。
 幕末には、近郊の武士や若者がこの寺と専光弄を中心に
 南奇兵隊を結成した。寺の中の柱や鴨居には
、隊員が撃った銃弾の跡が残っている。
「光ふるさと郷土館配布資料」  





光ふるさと郷土館館長写真で寺の中の柱や鴨居には、
隊員が撃った銃弾の跡の説明





普賢寺住職銃弾の跡の説明。諸説があるが銃弾跡が4箇所あり、
その場所から寺の外から撃たれたようである等説明があった。




維新の志士危機一髪 4箇所の銃弾跡

 弾痕は  高杉晋作と来島又兵衛が同寺院に同宿した時襲撃されてついた
と寺伝されている。弾痕は、この様な大物2人が普賢寺に同宿していた時、
その部屋に誕生したというのですから、まさに天下大変一大事の弾痕といえる。

 高杉晋作(1839,9,27〜1867,5,17)
 奇兵隊を産み、明治維新ではこの人が始まりといえる。  
長州活動期の中心人物で、文久3年9月迄は長州奇兵隊の総督を務めていた。






 
来島又兵衛(1817,2,23〜1864,7,19)
 禁門の変では、京都嵯峨天竜寺方面から進攻して、唯一京都御苑の蛤門
を抜きましたが、武運なく、元治元 年(1864)7月19日その場所
で戦死した長州藩尊王派の勇者である。






 イロハ井戸   
 江戸時代、享保18年(1733年)に「享保の大火」
 と呼ばれた火事があり
「普賢寺の本堂・庫裏・対面の松をはじめ番所1・
 土蔵8・民家 226戸を焼失」しました。
 このような惨禍を再び起こさないため、「山城屋」
 という廻船問屋が火災予防と飲料水を兼ねて 、
 宮ノ脇から江ノ浦にいたる道路沿いに共同井戸
 を10箇所相度掘り、人々に提供しました。  
 これらの井戸は「イロハ井戸」と呼ばれましたが、
その呼称は口伝えであって語源は不明です。  
 その後、井戸は道路整備などで徐々に失われ、
 現存するここのものは貴重な存在となっています。
「室積探訪」  



 


                長州撫育方室積会所跡
 毛利藩は財政改革の一環で撫育方を設置した。
 その資金で室積港を整備し経済活動を行った。室積会所の設置は明和6年(1769年)で、これを契機に室積が発展した
「光ふるさと郷土館配布資料」  



 


                     忠魂碑
 昭和7年に建立。日清・日露戦争の戦没慰霊碑。
 光峨媚山護国神社にお参りするのが石段などで思うにまかせられず、多くの希望により出来た。
「光ふるさと郷土館配布資料」  
 

 


修行大師像 赤い橋を渡り光峨嵋山護国神社へ登る


 

                      光峨媚山護国神社
 明治3年(1870年)峨媚山招魂社として光市周辺の遊撃隊の生存者により建立され、蛤御門の変で活躍した 来島又兵衛(美祢出身)以下戦死者48柱、下関砲撃事件の22柱、第二次長州戦争の9柱の79柱を祀った。
 その後、峨媚山神社、護国神社、と改称され、昭和22年光峨蝿山護国神社となり、1361柱が合祀されている。











来島又兵衛(美祢出身)



         光峨媚山護国神社



        毛利敬親の碑
公の遺徳をたたえ、大正3卑に元士族で
結成された熊毛郡致成会により建立された。



        毛利敬親の碑


先端に室積台場がある


鼓ケ浦 クサフグの産卵場所である。


象眼水井戸 
(この付近に硝煙蔵があった。室積台場で使用する火薬等の保管倉庫)


 

              象眼水井戸   
 室積半島を象の頭部に、そこから海に長く突きだした砂噛を象の鼻と見立てて「象鼻ヶ岬」と名付けています。  
 その象の目に当たる位置から湧き出たので象眼水井戸といわれます。  
 明和年間(1764〜1771年)に湧き出たと伝えられています。  
 弘法大師にまつわる伝説と合わさり、俗に御水とも言われ、大師は浄水で体を清め、自像を刻まれたといいます。  
大師の御霊験でこの水にて目を洗うと、いかなる難病もたちどころに平癒すると、伝えられていました。
「室積探訪」  





御手洗湾






                 室積台場
 弘化4年(1847年)、対外情勢の緊迫につれ、沿岸防備の目的で、長州藩が全国に先がけて自然石を積み上げ築塁した。
 当時は3基築塁され、それぞれに大砲が据え付けられていたようである。
 峨媚山の山頂に遠見番所、象眼水井戸付近に煙硝蔵(火薬庫)を設置。
 それぞれの部署に諸役人を配置し、実弾発砲訓練が行われたようであるが、実戦に使われたという記録は見あたらない。
 その後、昭和19年の台風によって1基が破壊された。(市指定文化財(史跡))
「光ふるさと郷土館配布資料」  

  対外情勢の緊迫とは、中国がアヘン戦争で外国に侵略されたこと等の説明があった。



大砲が据え付けられていたのは自然石を
積み上げた築塁の上でなく の築塁と築塁すき間である。
石積みは弾よけとのことである。





光ふるさと郷土館にある砲台レプリカ





感 想 そ の 他

 講師尾中辰也さん(室積観光ボランティアの会)は幕末の歴史と室積の関係に詳しく勉強しておられ 、日時まで覚えておられ分かり易い説明に感心した。
 天候にも恵まれ良い時間が過ごせた。
             (参加者:15名)



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