山口県光市室積普賢堂・普賢まつり紹介  2009-5-14  





山口県光市室積山普賢堂
普賢堂と普賢寺まつり紹介 
 2009-5-14

普賢寺まつりについて


  毎年5月14日・15日に開催される室積最大の祭りです。農具市に端 を発し、性空上人の命日をとって江戸中期から始まった縁日で、海難 守護の仏として瀬戸内海一円からの参拝船で御手洗湾が埋め尽く されるほどの盛況ぶりであった。現在でも普賢堂境内及び 周辺の沿道に、植木、陶器、雑貨等の露店が300余りも立ち並び、多くの 人出で賑わう。
「室積探訪より」

普賢寺まつりの当日 (2009-5-14)



●普賢寺山門(仁王門)●



  沿道や境内に250の露店が並んだ。 授業を午前中までとした市内の小・中学校もあり、境内のお化け屋敷からは子どもたちの悲鳴が響いていた。 露店の数が減り、かつては沢山あった茶碗の叩き売りは皆無となり寂しい感じがした。 以前とかわりよさこい踊りが行われるようになったが、宣伝不足と有料のため観客は参加者の関係者のみに感じる ぐらい少なかった。 残念であると一生懸命踊っている人に対して感じた。



普賢寺まつり当日のスナップ写真
●木造の金剛力士像●
普賢寺の記録によると、木造の金剛力士像が安置されている 雄大な仁王門は1798年に建立されたもので、1917年に改修されてい ます。金剛力士像は最初普賢堂に安置されていましたが、拝殿が手 狭になったため仁王門を建立し安置しました。像は向かって右側が 口を開いた阿形の密迩金剛、左側が口を閉じた吽形の那羅延金剛 ですが、仁王にしては珍しく温和な表情をしている。 楼上には仏教開祖の釈迦牟尼仏を主尊に、左に光厳童子、右に月 蓋長者を脇士にし、その両側に十六羅漢が安置されている。十六 羅漢は永く世にあって正法を護持する十六体の阿羅漢で広く信仰さ れている。
  



●普賢寺山門(仁王門)●

           

●普賢堂の石橋●
  天然の良港として、潮待ち風待ちの出船入船で往古繁栄をきわめた室積には、  海の菩薩で名高い峨山眉山普賢寺があり、その境内に普賢堂伽藍がある。  石畳の続く参道上に、寛政10年(1798)に建立された重厚な山門がある。  この山門をくぐると本堂の周囲を堀割で囲い、その堀にアーチの石橋が架  かっている。この橋は、寛政元年8月、徳山の石工浜田屋平左衛門が建造し  たものである。その規模は、幅8.9mの堀に、橋面にそっτ長さ9.5m、幅3m、  水面から最も高し、所で3.1mとなっている。
  














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普賢堂(普賢寺はすぐそばにある)




               

●子安観音菩薩堂●
普賢堂境内の子安観音菩薩は今から二百年前宝暦年間(1751〜1764)当山34世象嶽 和尚により安置された。当時名も知れぬ病がはやり幼子が次々にたおれ各家庭で は恐怖のどん底にあえいでいた。元来子供好きな和尚は心痛めなんとかしなけれ ばと日夜心をこめて仏前に祈り続けた。 或る夜、観世音菩薩の夢を見、境内に子安観音を刻んで安置せよとのお告げを戴 いた。早速石工に依頼した和尚は毎日出来上るまで日参し、数十日の後出来た像 を安置した。その後は善男善女の参拝者日に増し多く、香煙の絶ゆる事がない
  



●転法輪(経蔵)●
転法輪(経蔵)は地方稀にみる廻転式の構造で、高さ6m、幅2mの12面 体で中に一切教5,040余巻を収めてあった。建立は不詳であるが、 古老によれば寛政年間と言われる。






●文殊菩薩堂●
文殊菩薩は、釈迦如来の脇士として普賢菩薩と相対して左に接し、智慧を つかさどる菩薩である。 木菩薩は、鎌倉期より普賢営内に紀られたと伝えられ、深信の人は菩薩よ り大書を得、いっさいの罪障が消滅し、求めるところのすべてが成就する といわれ、霊験あらたかなる菩薩として、今日まで多くの人々の信仰を集 めてきました。 大正六年当山第四十二世眉山和尚の代に普賢堂の大改修が行われた折、 開山堂へ安置され、今日に至っでいる。 この文殊菩薩堂は、平成6年2月新生仏教教団秋本日釈遷主発願により、厨子 と須弥壇を備えて建立寄進されたもので、ここに新たに文殊菩薩をお祈り しでいる




                 


          










              

           






 








●開山堂●
開山堂は性空上人・薬師如来像が安置されている。 性空上人は、姓は橘氏で、性室はその諱(いみな)である.平安時代(784〜1185) 中期の僧侶で、歌人でもあった。播磨の国(兵庫県)の書写山円教寺の開山である。 延喜10年910)京都に生まれ十歳にして既に法華経を誦し、天慶8年(945)36歳の とき比叡山で剃髪して僧侶となり天台宗を修めた。 のち、日向の国(宮崎県)に行って霧島で庵居を営み、さらに筑前の国(福岡県)の 背振山に登って修業し、康保三年(966)四方遊歴の途に上り、書写山に至って丹 教寺を創建した。 晩年播磨の国(兵庫県で)で通賓山弥勒寺を創したが、終焉の地となり、寛弘4年 (1007)に没した。享年98歳であった。 故事によると、性空上人が仏の導きによって、この室積の地で、普賢菩薩に出会 った。そして、寛弘4年80歳で没し、この他に葬られたという。

                 







ヨサコイ踊り(光ふるさと郷土館)


ヨサコイ踊り(光ふるさと郷土館)


山口県光市室積普賢寺・室積海商通りの場所





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