生涯

生誕
the Birth

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〜カール12世の生まれた状況〜その生誕〜
〜夫婦の暮らし〜幼年期の風景〜


 西暦1682年6月17日土曜日、午前6時45分。まだ夜も明けきらぬ肌寒い朝に、カール12世は生まれた。一般に流布されている伝説では、その時ストックホルムの空に神秘的な印が現れたことになっている。回想録を残しているKlingsor(1665-1742)は、その栄光ある、しかし血にまみれた治世は、大地と空とに現れた痕跡と兆しから容易に読みとることが出来たと書き、その情景を、 生まれたその時、東の天空に輝く星が昇り、[…]その手の血をぬぐっていると、宮廷の中庭に猛烈な風が巻き起こり、屋根の一部[…]を吹き飛ばし地面へと叩き付けたと描いた。
 彼は更に続けて、異常なる力がこの誕生に及んだのだと、宮廷にいる我々は考えたのであるとも記している。(1)
 もっとも実際には、それらが起きたという証拠はないとする意見が主流である。ハットンなどは、それらは英雄の誕生に相応しく、且つ劇的で大衆受けするように誰かが言い始めた与太話にすぎないとしてこの伝説を否定し、カールの子供時代について調べるのならこのようなものには、常に注意を払う必要があると、警告を発している。(2)
 しかし、彼が全国民の期待を担って生まれたのは確かなことであった。また、その誕生は、ヨーロッパの政治関係者の関心事でもあった。当時スウェーデンにいたイギリスの外交官Warwickは、多くの外交文書の中で、ウルリカ王妃の妊娠状況とスウェーデン国内の様子を本国に報告しており、その中には常に王子誕生への期待が国内に存在していると言うことが記されている。(3)
 それらを考えると、生まれた日のストックホルムにおける喧噪は、当然の帰結とも言えた。この日の出来事をKlingsorは、次のように回想している。
私はあの日のこと、特に夕暮れの頃をよく覚えている。あの午後、私は馬に乗り王宮に向かっていた。そしてその時、私の心は今日の出来事で一杯だった。にもかかわらず、市民たちは何の祝いごともしていなかった。しかし日が暮れて、私が公務を終え王宮から歩いて外に出ると、眼前には祝賀の喧噪が広がっていた。私は昼間の静けさが、喜びのバカ騒ぎに変わり果てたのを見た。その当時、私はまだ戦争というものに参加したことはなく、それ故に軍による都市の掠奪の光景も見てはいなかった(最も今はどういう物であるかよく知っている)。しかし最初に市場を見下ろした時、私は敵によって町が掠奪され燃やされているかのようだと感じた。そこでは、あらゆる道が市場の広場に向けて開かれ、人々が群がり、誰もが何かを持っていた。まるで略奪品か家財道具を持った人々が、逃げまどっているような光景だった。多くの人々は、中央に作られ、既に周囲の家のひさしと同じぐらいの高さにまでなっていた大かがり火の為の燃料を、抱えていた。またその他の人々は、赤ワインや白ワインの入った樽を転がしていた。それらは直ぐさま開けられ、瞬く間に歌と踊りと歓声の中で空になっていった。あらゆる教会の前や貴族の屋敷の前にも樽は置かれており、群衆はその回りに幾重もの輪を作って、その中で、ワインがあろうとなかろうと、倒れるまで踊った。大砲や銃はまるで戦争のように鳴り響き、明かりがあらゆる所を照らしていた。あの日、あの場所には喜びが満ちていた
 他の当時の資料にも、その日の喧噪の記録が残されており、そこにはストックホルムの住民が騒ぎ酔っぱらい、誰も眠らなかったと記されている。もっとも、おそらくは、これらにも誇張が含まれているのだろう。しかし当時の雰囲気、王子誕生への期待と誕生の喜び、を知る良い手がかりである。(4)

 一方、父から見てもカールは昨年に生まれたヘードヴィク・ソフィアに続く第2子であり、王冠を受け継ぐことが期待された待望の長男であった。父カール11世は、その日の日記に書き記している。
17日土曜日の午前6時45分、私の妻が運ばれ、息子を生んだ。神に永遠の感謝と祝福を。そして再び妻を助け、彼女を健康にせんことを。私の息子カールが6時45分に生まれたのだ(5)
カール12世の揺りかご  こうして待ち望んだ男児誕生の報に国が沸く中、次に関心を集めたのは赤ん坊の名前であった。国民は偉大なるグスタヴの名を望んでいたと、当時の記録は残している。
 しかし父王は、自分たちはヴァーサの者ではなく新たなる王家の人間であると考えており、自分の息子には、その証でもあるカールという名を与えることを望んでいた。その結果、父王の望みを受けて、赤ん坊はカールと名付けられた。(6)
 ただし、生まれたその日のカール11世の日記にカールの名が載っていることから、この問題が、かなり以前に決着していたことをうかがわせている。(7)
 次の問題は、カールの教父と教母の選出であった。それは外交問題とも絡んでおり、極めて微妙な問題だった。ストックホルムにいる全ての外交官らが、その人選に注目した。
 最終的に教父3人、教母4人が選出された。教父は、デンマーク王子ゲオルグ、ホルシュタイン公爵、そしてユーティンの大監督。 教母はクリスティナ・アレクサンドラ(先々代のスウェーデン王クリスティナ)とデンマーク王妃、そしてヘッセン伯令嬢とホルスタイン公女ドロシアである。(8)
 ここで注目されるのが、クリスティナ・アレクサンドラの存在である。当時ローマにあってカトリックに改宗していた彼女が、ルター派プロテスタントの祝福を受ける赤子の教母として、選ばれたからである。想像であるが、これは、カール11世が宗教上の対立より、現実に差し迫ったホルシュタイン派とデンマーク派の対立激化の問題を重視したためと思われる。この人選を見れば双方の均衡を第1としていることが読み取れるからである。
 洗礼式は、生まれてから1ヶ月後の7月12日に行われた。これにより、後にヴォルテールがこの世に生を受けた人間の内、恐らく最も異常な性格の持ち主と謳った赤子に、正式な洗礼名「カール」が与えられた。
 記録では、この素晴らしい洗礼式の日、祝砲が打ち鳴らされ、近衛兵が宮殿に集合したとされている。そして、王妃への祝辞を述べに来たすべての客人には、ワインと砂糖菓子が振る舞われたと記されている。

2歳の時のカール12世。作.エーレンシュトラール

 こうして世に生まれ出でたカールには、幸せが約束されていた。安全な家、両親からの期待と愛情、彼は王朝を継ぐ資格を持って生まれた初めての男児であった。
 ベングトソンは言う。
三つの権威のみが彼を服従させる。一つは神、一つは己の良心、そして最後は---当面なのだが---父、である(9)
 カールは、生まれながらの王であった。そして彼は、他のヨーロッパの王室ではあり得ないほど、両親の世話を受けて育てられることとなった。その地位にもかかわらず国王カール11世と王妃ウルリカは、子供との会話や子供との遊びを楽しむ普通の親であった。
 カール11世と王妃ウルリカは、小さな習慣に律せられた簡素な生活を好み、フランスのような仰々しく派手な宮廷を好まなかった。そのため彼らは、ほとんど毎日の夜を、子供たちと共に過ごす自由な時間として用いたのである。また、王は巡察の旅に出ている時の他は、夕食の時間を家族ととも過ごした。家族とは妻、母親、そしてヘードヴィク・ソフィアとカールであり、そして後にはそこに、小さなウルリカが加わった。
カール12世の歩行器  王妃はしつけの細部に到るまで管理し、小守や召使いの選定には多大な注意を払った。彼女は、周囲に侍る人々が子供たちに与える影響を良く理解していた。そのため、ウルリカは、神へ信仰と正直さ、丁寧さ、そして心の穏やかさと言ったものを基準として、使用人を慎重に選んだ。そして、注目すべきことに、彼女は出来うる限り子供らと過ごそうと努力した。王妃は子供たちを世話する自分自身の部屋を持っていると、当時の外交文書は記している。また、王妃自身も素晴らしい人間であり、且つそうであろうと努力し続けた人であった。彼女のその高潔さと優しさ、敬虔さは後世にも伝わっており、当時にあっても国の模範と讃えられていた。幼い王子は彼女から、徳と正義と慈悲とを学んだと言われている。(10)
 しかし1683年から87年の間の弟たちとの別れと王妃の健康悪化は、幼いカールとその一家に暗い影を落とした。ウルリカ・エレオノーラの誕生は、それを多少ぬぐい去ったが、結局の所、王妃ウルリカの健康は回復せず、彼女の死によって、幸せな時代は終焉を告げられるのである。(11)

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この頁の注

  1. れらは、[C.G.Klingsor Translated J.A.Gade "Charles the Twelfth King of Sweden"]のp16を参照のこと。また、[Oscar Browning "Charles XII of Sweden"]ではストックホルム全体で嵐が起きたという伝承が書いてある。
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  2. れらは、[R.M.Hatton "Charles XII of Sweden"]、[Browning, op.cit.,]等の見解である。
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  3. れらは、[Hatton, op.cit.,]p23-24を参照のこと。
    彼は断続的にこの問題についての報告を為しており、あらゆる外交官の関心が集まっていたことを伺わせる。そして彼は6月8日の報告で、「私たちはもう待たなくてもよいだろう。あと3日程度ではないかと見込まれている。王子への祈りが滞りなく行われ、あらゆる瞬間が期待されている」と書いており、また、生まれた日には、「閣下、私は公爵夫人にスウェーデンで成し遂げられたように、このような知らせを欧州に響き渡らせることを望んでおります。王子は寒い朝の6時45分に生まれました。王妃は1時間と30分の間、出産に苦しみました。あらゆる公職者がこの朝、王の下を訪れました。私が想像するに皆、王にこの吉事への公式なお祝いを言上していたのでしょう。王は大変満足しているように見受けられます」とコンウェイ伯に書き送っている。
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  4. れらは、[Klingsor, op.cit.,]のp17、および[Hatton, op.cit.,]などを参照のこと。
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  5. れらは、[Hatton, op.cit.,]p24を参照のこと。また、[Klingsor, op.cit.,]では、「今日、土曜の朝、私の妻は私に息子を授けてくれた。妻を助けたもうた神に永久の賛美と栄光あれ。そして同様に彼女の健康を回復させ給え。なんとなれば、我が王国には更なる相続者が必要なのだから」と日記を引用している。すこし内容が違うが大意は同じである。
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  6. れらは、[Hatton, op.cit.,]p24を参照のこと。
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  7. れは、前記注(5)のKlingsor氏の引用文から考えると成り立たない可能性もある。日記の原文を読んだことがないので、真実は不明である。ちなみにKlingsor氏はカール11世の死後に日記の一部を回想録のために写させてもらったと回想録に記している。
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  8. れらは、[Hatton, op.cit.,p25を参照。この元は、イギリスの外交官、Warwickが1682,6/21にコンウェイ伯に送った書状である。また、本HPの[瑞典王族>家系図]も参照。
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  9. れは、[F.G.Bengtsson "THE LIFE OF CHARLES XII"]p6を参照。
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  10. らゆる歴史家、Bain,Hatton,Bengtsson,Browning,などが彼女のことを賞賛している。
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  11. れは本HP[瑞典王族>失われた王子達]に詳述。
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この頁の画像説明

「カール12世の揺りかご」と「カール12世の歩行器」は[Klingsor, op.cit.,]から
「2歳のときのカール12世」は[Hatton, op.cit.,]からです。

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