瑞典国内状況
17世紀末から18世紀初めのスウェーデン国内事情



ストックホルムについて

 カールの生まれたストックホルムの町はスウェーデンの首都だった。この町はバルト帝国で最も大きな町の一つで、横柄なヨーロッパの旅行者が言うには「スウェーデンで唯一の本当の町」でありスウェーデンが強大になると共に大きくなっていった。

事実1620年には一万の人口が1674年には五万五千となったのだ(これは当時のスウェーデン本国の人口が百五十万、帝国全体で二百五十万から三百万だったことから考えると大変な比率である)。

故にストックホルムは活発な町だった。カールが少年の時にはもう既に以前より水兵や船大工の数は減っていたが、(1680年に主力艦隊は、新たに作られたカールスクローナの海軍基地に移転していた。これは1675年の戦争の教訓から艦隊はより帝国の中心に近い場所へに集中していた方が良いと考えられたからである)依然として沢山の兵士が其処にはいた。彼らはカール11世が作った近衛隊やストックホルムの守備隊、もしくは新陸軍の中核たる王宮近くに駐留する部隊であった。

また、ストックホルムは常に忙しい商業都市であった。様々なな土地から多くの船が訪れていた、しかし、その中で最も多いのはイギリス、オランダからの船だった。彼らは人気の高いスウェーデン産の鉄や銅、フィンランド産のタールなどを欲しがっていた。

そしてそこにはスウェーデンの商人やストックホルムに留まった分遣艦隊のための造船所や修理屋があった。活気のある市場では鉄や銅などがその場で取引された。外国人の仲介者も住んでおり、銀行や商人の家などもあった。特にストックホルムが宮廷と行政の中心になり、その二者が宮廷を中心になるように活動するとますます盛んな町となった。

何故ならかつての王は宮廷をいつも動かし、道に沿った倉庫の食料を食べて過ごしていたのだ。しかしクリスティナ女王の時代にそれはあらためられ宮廷と公共の大学は基本的にストックホルムに置かれることになったのである。
このようにしてストックホルムは同じように忙しい他と同じくらいの大きさの町になった。が、とても急速に発展したため、近くの群島を浸食し整然とはいえなかった。また、町中もゴミや汚物で汚かったそうである。しかし立派な銅製の教会の尖塔や大きな建物の屋根は遠くからよく見え、さらに近づけば、市街から少し離れた所に見下ろすような王宮や、沢山の立派な宮殿と家が見ることが出来、外観は良かった。それは貴族の町での住居で、三十年戦争の戦利品や獲得品で立てられたから、時々「ドイツ人の金で作られた」といわれた。つまるところ彼らは「ドイツ人の金」で荘園(支配する土地)の素晴らしい宮殿だけでなく、町での生活の中心としての立派な屋敷を作っていたのである。これは、ストックホルムを強国に相応しい町にすることと、貴族たちを王国の行政機械にすることを望んでいたアクセル・オクセンシェルナが貴族たちに行わせたものだった。

カールが生まれた時にはそれら宮殿群は完成しており、貴族たちは皆国家の公僕となり、官僚か、軍人かになっていた 貴族の土地の力は減退し、ただ一人で土地を管理する者を見つけるのは困難なことになっていた。さらに貴族は国家への奉仕を拒否する権利も持っていなかった。しかしながら、田舎とのつながりは依然として強く残った。彼らは故郷に深く根を張っており、またその生活を愛しており、例えもし、妻へ注意が欠けても、故郷の親族たちへ注意は欠かさなかった。また貴族の官僚はしばしば故郷の家に逃げ出す、それも首都での義務に差し支えない限り長い期間、傾向があった。
またそれとは別に王がストックホルムを離れる時は、それが仕事であれ遊びであれ、普通は合図を「全ての人」(町に残る)に出していた。それは外国の外交官が取り残された時無益な不平を言うからである。彼らはよく旅行に付き合った。

ストックホルムでの生活は訪れた者を、贅沢さやヨーロッパのそれにとても近いファッションや芸術の流行や雰囲気で驚かした。それらはヨーロッパからスウェーデンに運ばれた本、絵画、彫刻の宝物が物語っている。例えば美しく、且つ改良された室内の装飾や家具、多くの馬車や召使い、そして簡単に手に入れることの出来るイタリアの香水やフランス、イギリスの流行の品物などである。それらは明白で目に付く消費の要素であった。

しかしながらストックホルムでの生活はヨーロッパ風の雰囲気と外観をもっているにもかかわらず、特有のものがあった。それはストックホルムが大陸からとても遠く離れた北にあるということから来ている。冬の気候はひどく、外国人はそれに苦しめられた(またその寒さはもう既に務め終えてスウェーデンに帰国した中年の外交官も苦しめた。彼らは冬の前に戻ることを嘆願していた。「何故ならもうこの気候に耐えることが出来ないから」とは、自分の時代が終わったと思った人物の書いた言葉である)しかしながら其処で生まれた人間はたいてい、例え海外の温暖な気候で暮らしていても、それを巧みに処理できた。彼らの生活スタイルはその寒さと身を切るような風に対処することが出来た。冬の食事や服はそれに最適化されていたし、家はストーブで暖められ、公共であれ個人であれ彼らは風呂、通常はサウナタイプ、を持っており、それらは彼らを健康に保たせた。

しかし孤立に思うことを克服することは困難だった。そこはヨーロッパの中心から離れすぎていた。だから彼らは手紙によって海外と連絡を頻繁にとっていた。連絡を取る場所は、自分が学んだ場所(普通イギリスかイタリア)であったり、士官や外交官として働いたところ(通常フランスかオランダかドイツ)であった。しかし旅行をしたことがない者もたくさんいた。彼らにとって外国は非常に遠く感じられた。一例を挙げればカールの姉妹ヘードヴィク・ソフィアとウルリカ・エレオノーラは王宮の庭園をデンマークの大使夫妻と散歩している時に「南」についてとても沢山の質問をしたそうである。

最後に交通などだが、初冬の頃に南に旅をするならソリを使って雪の積もった道や凍った湖を行った。夏に旅行するなら、コーチかカーゴで汚い道に沿っていった。ストックホルムからゴーテンブルク間は普通2から3.5週間かかった。郵便は理想的条件下ならスウェーデンのドイツの領地や東バルト州群まで1週間でとどいた。

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