瑞典国内状況
17世紀末から18世紀初めのスウェーデン国内事情



スウェーデンの農民事情

スウェーデンは、農村社会であった。フランスでは、人口の70%が農耕従事者もしくは農民であったが、スウェーデンにおいては、それは95%にも上った。さらに、スウェーデンは少ない人口が広大な国土に散らばっていた。そして貨幣の普及率は低く、現物経済が主流であった。この経済状況の中、典型的な村落は3〜6の農地とその周辺にある農民の住居から成り、そこに農業労働者や使用人らも居住した。

スウェーデンには基本的に、3つの種類の土地が存在した。
それは、
貴族によって所有された土地(frälsejord =貴族の土地)
王家(政府)によって所有された土地(kronojord =王領地)
農民によって所有された土地(skattejord - 課税された土地)
である。
グスタヴ・ヴァーサ王以前にはそこに教会の土地が存在した。しかし1527年、教会の土地は政府に没収され、王領地に組み込まれている。

「貴族の土地」を耕す農民は、土地を所有する貴族に税を支払った。また、「王領地」と「課税された土地」を耕す農民は政府(王家)に税を支払った。

スウェーデンの農民はたいていの場合、土地を保有していた(借りるという形であるにせよ)。つまり農奴ではなかった。そしてその保有権には、やはり3つの形態があった。これは土地の種類に応じていた形を取っていた。
つまり、「王領地」を耕す農民は「王家の農民(kronobönder)」。「課税された土地」を耕す農民は「課税農民(skattebönder)」。「貴族の土地」を耕す農民は「貴族の農民(frälsebönder)」。
と言った具合である。

「課税農民」は自身の土地を所有したが、もし耕作できなくなったり、税が支払えなくなったら、その所有権を失った。その場合、その土地の所有権は政府に移り「王領地」となった。また、彼らは借地人を使い土地を耕すことも出来なかった。

貴族のみが自身の土地を耕すために借地人を使用することが出来た。一般の人々は1800年代はじめになるまでその権利を有さなかった。

そして「課税された土地」を耕す農民はその土地を任意の誰かに直ちに売り払うことは出来なかった。農民がその土地を売る場合、その要求はまず彼の家族に出されねばならなかった。そして家族の中で土地を買う人間が一人もいなかった場合にのみ、その農民は土地を外部の誰かに売ることが出来たのである。 これは土地の保有権を家族内で保持するための制度で、この制度は法律によって保証されていた。もっともこの法律は1863年に破棄されている。

つまるところ、「課税農民」は事実上、土地の自由保有権を持っており、政府に対する限り保有権は保護され、またそれを売ることや、抵当に入れることも出来、かつ新たに土地を借りることも出来たのである。さらに彼らを自身の農地から法的に追い出すには、3年連続の義務不履行(抵当に入っていた場合は借金の返済滞納、それ以外の場合では税の未払い等)が必要だった。

彼らは農民人口の約3分の1程度であった。彼らにとって有利な状態が続いたため、他の種類の農民より、その農地は大きくなりかつ裕福になる傾向にあった。また彼らは地方の指導者層でもあり、農民社会の代表者や、公務員、陪審員などを輩出した。

「貴族の土地」と「王領地」の農民は、自らが住む土地を耕す権利を保有した。また、彼らは子孫に土地を渡す権利、言い換えれば借地権を子孫に渡す権利を保有した。つまり勝手に土地を取り上げることは出来なかったのである(原理的には。実際はもう少し複雑であったろう)。

とは言え、彼らは王領地を借用しているか、貴族たちの領地を借用しており、金、もしくは収穫、あるいは労役によって借地代を支払わねばならなかった。更に言えば、彼らは地主による(貴族や政府による)、さらなる搾取にさらされる可能性があった(領主裁判権などはその一例であろう)。

しかし、それはスウェーデン社会が持つその他の側面によって束縛されていた。経済状況から考えると、地主たちにはその領地を農園化する利点はなかった。生産可能な土地のほとんどは農民の農地主に貸し出されていた。おまけにスウェーデンの人口は非常に少なく、1600年では100万、1700年では200万弱でしかなかった。そのため慢性的に労働力が不足しており、また農民の多くが法的に自由な人間であったため、地主や雇い主に対して、相対的に有利な交渉をすることが出来たのである(その他のヨーロッパの国々に比べて、である)。

また、借地人とは言え「貴族の土地」の農民たちは、自らの住居を保有していた。彼らに課せられていた問題は、借地代だけであったのである(これら借地代をはじめとする負担は、だいたい「課税農民」や「王家の農民」の水準の半分くらいだったそうである)。前述のように借地代は様々な形で支払われる可能性があった。しかし一般的に、彼らは地主に対して借地代として、毎年決まった量の「労役」を提供していた。「労役」とは、借地代のために地主の土地や領地で一年間に一定量働くと言うことを意味した。つまりお金で借地代を払う代わりに借地人は労働力を提供したのである。これをスウェーデン語では、[dagsverken]と言うそうである。

労役は、ほとんど一般的に、建物の建設もしくは輸送の仕事だったが、地主が直営経営している農地の補強的働きも期待された。この制度は、広大な領地を保全し管理する労働力を得るための手段であった。小作地(「貴族の農民」が耕す農地)は領地の中に設けられた。また、地主(たいていの場合貴族)の立場から見ても、労働者を雇う安上がりな方法だった。またこの借地人もしくは小作人(「貴族の農民」)には国家からの税が免除された。

また、繰り返すが、借地の使用権と収穫権、そしてその住居は子孫に相続された。つまり借地人の子供もそこで生活し、その土地を借りる権利を保有したのである。
結局のところ、「貴族の農民」は一区画の土地に小さな農地と家を持ち生活している借地人であり、その借地代は、現金の代わりに労働力であった。そしてその借用は相続可能だったのである。

「王領地」の農民においても状況は「貴族の農民」とだいたい同じだった。ただし彼らは後に、「彼らの耕している」土地を買うことが許されるようになった。その場合、彼らは「課税農民」となったのである。また、「王家の農民」は「貴族の農民」とは違い、税を国家に支払う義務があり(王家に対し借地代を支払う義務とは別に税を支払う義務があった)、その負担は「課税農民」と同程度であった。そして税負担は「課税農民」と同じなのに、彼らは地方や国政の身分制議会に参加する権利を持たなかった。つまり総合的に見れば(「貴族の農民」の慢性的に不安定な地位を考えなければ)、この「王家の農民」が一番重い負担を課せられていた。しかし、彼らは王家の土地で働くと言うことに対し一種の名誉を感じており、気分から言えば「貴族の農民」などよりも上の身分であると考えていたようである。

また、唯一貴族だけが土地から租税を徴収することが出来た。

ともかく、「王家の農民」と「課税農民」の全員が「インデルニング制」に組み込まれ、それらすべてが[rotar]に分割された。「貴族の土地」で暮らす「貴族の農民」は、貴族も[rotar]から免除されていたため、彼らもまたそれらの負担から免除された。そしてまた、彼らはすべての「インデルニング制」から免除された。もちろんのこと、「貴族の農民」には参政権はなかった。

これらの負担が免除されたその他の集団としては、[rusthållare]すなわち騎兵を政府に提供した裕福な農民、警官、宿屋の主人、屋敷の使用人、郵便局員、聖職者たち、である。彼らはその他の特別な政府のための仕事も免除された。

つまり、基本的に軍隊に兵士を供給する役目を負ったのは、「王家の農民」と「課税農民」だった。

このように、ヨーロッパにおける人口爆発は、スウェーデンにおいては限定的な影響しか与えなかった。政府の公文書には頻繁に、賃借されていない(空いている)農地や、あらゆる種類の雇用者が常に持つ雇用契約のもめ事に関する不満が記録され、一般の人々が公正な取引立場を持っていると強く示唆している。

つまるところ、スウェーデンの農民は国家の自由なる臣民たる地位を補強していった。アクセル・オクセンシェルナは1642年、「スウェーデンにおいて、農民は生まれもって自由であり、それ故にその息子も同じ名誉を受け継ぐ」と述べているし、彼に匹敵する実力者であるクリステル・ボンデは1652年、「あの者たちは、神が我らに奉仕させるために創られた者であるにもかかわらず、自由であると見なされている。奇妙なことだ」と不満を述べている。かくしてスウェーデンの諸制度は、一般の人々、つまり農民(特に「課税農民」)に、統治政策における積極的な役割を任せていたのである。

もちろん、30年戦争後、貴族の力が飛躍的に増し、国土の72%を所有し、王家と農民がわずかに残った国土の28%を所有すると言う時代には、農民たちの生活はかなり圧迫され、自由な農民の存在が脅かされた。

しかしながら、農民の権利を維持することは、国策であった。王家の威信まで脅かす力を持つ大貴族たちは国家を危険にさらすからである。何事も均衡が大事であるというわけだ。カール11世は、大貴族の力をそぐ大改革を行った。世に言う[redicution]である。農民の権利の保護を旗印にカール11世は4身分議会において農民層を取り込み、その他力を失っていた聖職者、圧迫されている市民ら、中小貴族も味方にして、大貴族たちが王家からの恩賞としてもらった領地の大部分を取り戻した。

この結果、王は国土の35.6%を領有し、貴族たちは国土の32.9%、「課税農民」たちの所有地は31.5%となり、勢力の均衡が戻ったのである。カール11世はこの他に「インデルニング制」を設け、農民と国家との間の問題を再定義した。

カール11世は、州総督たちに宛てた訓令の中で、「諸君らは常に人々の不平を聞く努力を絶え間なく行うべきであり、正義を守るため彼らを助けなければならない。そうすれば、正しいことにも実行できることにも従わないし助力もしない不満を持つ者たちは、いなくなるでしょう」と述べている。カール11世には「灰色外套」というあだ名とそれにまつわるエピソードが残っているが、それらは農民のために力を尽くすいわばスウェーデン版「水戸黄門」のような話しである。そのためか、カール11世は「百姓王」の異名も奉られている。史上まれに見る名君であろう。

かくして、この危機をカール11世の手腕によって乗り切ったスウェーデンは、自由にして自立した農民たちによる精強な軍をカール12世に与えたのである。もっとも彼が息子に与えた財政基盤は、平時もしくは短期戦においてのみ成り立つものであった。

カール11世とカール12世。「百姓王」と「流星王」全く相反する評価が親子にはついている。しかしどちらも農民に支持されていたのは間違いない。

このページのトップに戻る