瑞典国内状況
17世紀末から18世紀初めのスウェーデン国内事情



民間レベルでの外国との関係

大陸との関係は最初、17世紀の初期、国が活発に拡張していた時に結ばれた。そのころスウェーデンは主に軍隊の行動を通して、とは言ってもそれだけではなかった、ポーランドやドイツに押し入っておりそのため大変多くの外国人をスウェーデンに引き抜いていた。(そして結局彼らは其処に定住してしまった)。オランダ人(南も北も)、ドイツ人フランス人の鉱山業の専門家、財政家、工業家、らをこれを機会に求めたのだ。スコットランド人の専門兵士やドイツ人の行政の専門家らは彼らの中でよりよいと求められた。また政治的、宗教的亡命者へはルター派の正統国として慎重で、それでいて礼儀正しい、受け入れ姿勢をとっていた。外国の要素の増加はドイツ語を話す臣民の増加を意味し、彼らはバルト沿海州(複)からまたは新たにスウェーデンが獲得した土地から、ある理由やその他の決心でスウェーデンに家を持とうと考えた人たちであった。

富んでいる時、または軍隊や行政が成功を収めている時、外国人の定住者はすぐにスウェーデンの貴族にとけ込んでいった。それは結婚であったり、国家への奉仕に対する叙勲であったりと言った方法でである。1700年のスウェーデンの貴族家族の全登録から、父方の非スウェーデン人の遺伝的比率は半分以上で、母方の方も同じくらいの高い比率だった。その結果、幾人かの歴史家は、スウェーデンの貴族は血で見るならばドイツ人または他の外国人と見なした。しかし、彼らは典型的なスウェーデンのプライドを待っていた。

ヨーロッパにいるスウェーデン人は普通、一族を維持し、自分たちの故郷と連絡を取り合っていた。また若い(高位であれ低位であれ)スウェーデン人の貴族(または普通貴族階級の人間が無視するような国家への奉仕でも良いと思いそれを熱望する者)はその青年時代を海外で過ごした。彼らは大陸の陸軍や海軍(イギリスを含む)で経験を得るために奉仕(入隊)したり、もし彼らの両親が裕福だったならグランドツアーと呼ばれるドイツの一部やオランダ、フランスイギリスを旅する見聞旅行にいったり(ただしそれほど幸運でない若者も家庭教師や友達としてそれらに加わって旅行した)、無償で海外のスウェーデン大使館の秘書官として働いたり、またはもし科学者や芸術家の才能がある者だったなら王室、または高位の貴族をパトロンとして海外で勉強するための資金を融通して貰えたであろう(特にフランスやイタリア)。最も一般的な社会的高位に昇るための階段は、それが才能ある農民の子ならウプラサ大学(普通は神学)に行かせるか、適した教育を受けた子供なら行政の事務所で働かせるか、充分に裕福な商人だったなら、娘を然るべき所に嫁がせることだった(最も傑出した例では、ストックホルムの中産階級だったオーラフ・ハッソンが娘の内一人をピーペル伯爵に、もう一人をアルヴィド・ホルンに、さらに三人目はマルデフェルトに嫁がせた)。

この背景に対して見ると都会のスウェーデン人のヨーロッパとの綿密な接触はそれほど驚くべきことではなくなっている。最初の宝物の幾つかは価値のある写本か彫刻の欠片だった。それらは戦争によって安く獲得(略奪)できたが、コレクションは普通お金(調達するするのは普通簡単ではない)をともなった貿易で加えられた。 多くの一族が自分の土地を抵当にして、息子をヨーロッパに行かせたり、コレクターの熱情を甘やかせるために、さらには家具や服を流行の物と取り替えるために(オークに変わってクルミ材のを、新しい寝室用タンスやイギリス製の椅子を、フランス製の金箔の家具、中国の陶磁器にオランダのデルフトのウエアー、イタリアとドイツのグラスやカーペットやゴブリン織り、スペインから運ばれた銀や金の壁紙、高価なリネンや銀の机やトイレ、豊富な資料に時計や宝石を)さらに子供の遊び道具として高価なおもちゃをライプツィヒやニューンベルクから買うために、入れていた。

「彼は建物と家の家具で破産した」は1680年代のスウェーデンの貴族の関係として別段珍しい習慣ではなかった。他の破産の共通した原因はやりすぎた歓待による負債というのがある。それは国を代表して海外にいる時やまたは故郷で噂を気にして外国の客人に見栄を張ったやりすぎの派手な歓待の結果である。大きな宴会では床や壁にグラスが叩きつけられ壊された(それは礼儀正しい習慣で、必ずしも酔っぱらっているサインではない)が、それは17世紀のスウェーデンの生活を観察する外国人に誤った評価をさせてしまった。別の農耕社会と同じように北の習慣は客人をもてなすために上等な食事を要求したり、結婚式や葬式のような特別な儀式のときには大きな料理を要求した。しかし、日々の暮らしは簡素で、スウェーデン人が感動させることを望んだ海外からの重要な訪問者や外交官はおそらくそれを見落としていたのだろう。

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