軍隊と兵器
◆歩兵と騎兵◆

成る程。貴卿の疑念もわからぬではない。しかしだ。余にはこの八千の勇敢な者どもで、八万のロシア軍を撃破出来ぬとでもいうのか
- Karl XII -

1.歩兵の編制と戦術
2.騎兵の編制と戦術
3.ドラバント隊
4.歩兵の装備
5.小火器の性能表

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歩兵の編制と戦術

 スウェーデン軍の歩兵は、カール11世による軍政改革により、30年戦争期やカール10世グスタヴの時代の姿から新たな形へと再編された。平時において彼らは、22個の地域(州)"Indelta"歩兵連隊と、14個の志願"Värvade"歩兵連隊の計36個(イェムトラント竜騎兵連隊を含む)の歩兵連隊を編成し、これに各諸都市などに存在した市民武装部隊を加えて、各地域に振り分けられた。歩兵連隊の定数は、多少の前後はあったが、おおむね1,200名程度であり(例えばネルケ・ヴェルムラント州連隊の定数は1,674名、その他にも多くの例外が存在した)、陸軍の基幹として各戦場で主要な役割を果たした。

1.兵種 Arms

銃兵 Musketerare
 銃兵(マスケット兵)はその名の通り、燧石式マスケット(銃)と長さ90cmの歩兵剣を装備した歩兵である。また、大北方戦争直前に、従来の銃口に差し込むプラグ式銃剣の代わりに70cmの長さを持つソケット式銃剣が支給され、銃剣を付けたままの射撃が可能となっていた。
 彼らは銃剣を付けたまま敵の至近距離まで前進し、一斉射撃を行うことにより敵戦列に大打撃を与え、そのまま射撃戦をせずに敵の混乱に乗じて突撃した。歩兵部隊の2/3を占める彼らは、まさに主戦力と言える。また、彼ら銃兵の装備をすべて調えるには60dsmあまりが必要であったとされている。

槍兵 Pikenerare
 槍兵は、4.5〜5mの長さの長槍と90cmの歩兵剣で武装した歩兵である。長槍は17世紀後半まで歩兵部隊の主力武器として「兵器の女王」とも呼ばれていた。しかし、銃剣の発明と火器の発達により、槍兵は各国陸軍から次第に姿を消し、1700年代中頃に入ると槍兵を保有している国の方が珍しくなっていった。
 そんな中、スウェーデンにおいて槍兵は、依然として重要な地位を与えられていた。1721年においても、歩兵連隊の20%は依然として槍兵だったことからも、スウェーデン軍が槍の効用に拘っていたことが伺える。これは、スウェーデン歩兵の戦術が非常に攻撃的で、突撃と白兵戦を重視していたためである。この歩兵戦術において槍兵は決定的役割を果たした。また、ロシア軍のコサックを始めとする不正規騎兵やポーランド騎兵には多くの長槍騎兵が存在し、槍兵による防護が必要であったことも、スウェーデン軍が槍兵を廃止しなかった理由の1つと考えられる。
 槍の有用性については、火器の効果を良く理解していたフランスのサックス元帥が18世紀中頃、再び軍に採用しようとしていたことからも、防衛戦や白兵戦における利点が依然として残っていたことは、確かである。

擲弾兵 Grenadjärer
 擲弾兵はマスケット(銃)と手榴弾、あるいは迫撃銃[Mortar gun]で装備された歩兵である。彼らは精鋭として、背の高い司教冠型帽(司教帽)と呼ばれる擲弾帽を被り、他の歩兵と区別され、戦闘に際しては、1.5〜2kg程の重さの擲弾を約30m投擲することが出来たと言われる。
 彼らは他のヨーロッパ各国陸軍とは違い、独立した中隊を基本的に組まず、歩兵中隊ごとに分散して配置され、例外は多数存在したが、基本隊形では、中隊横隊や大隊横隊の両側面を防護した。また、指揮官の護衛隊として利用されることもあった。しかし要塞や野戦陣地に突撃する際には、集結して独立した部隊を編組し、作戦に使用された。
 このように一般的にスウェーデン陸軍では、擲弾兵のみの独立した大隊や中隊を編成・編組しなかったが、唯一近衛歩兵連隊だけは、常に戦場において、歩兵3個大隊とは別に400名強の擲弾兵大隊を編組し、平時においても擲弾兵のみの中隊を編制の上でも保有していた。

2.編制あるいは編組 Organization or Composition

連隊 Regemente
 通常スウェーデン歩兵は編制に従い、8個歩兵中隊、1,200名からなる連隊を編成していた。連隊には連隊長を務め、また大佐中隊(親衛中隊"Livkompaniet")の中隊長も兼任する大佐と、副連隊長兼中佐中隊の中隊長を務める中佐、そして少佐中隊の中隊長である少佐、加えて佐官あるいは上級の尉官がその役に付いた連隊兵站監がおり、彼ら士官が連隊を運営した。特に少佐は、決められた役職名こそ存在しないが、連隊の規律などの監視と維持という重要な役割を担っていた。また連隊兵站監は野営地の設営、輜重の管理と維持に責任を負った。
 そして、それ以外に連隊の司令部には、従軍牧師(3名程度)、連隊書記官、軍医、軍医補佐(3名程度)、憲兵隊等が存在していた。但し、これらの人員は極めて不定であり、連隊長の自由裁量が認められていたと考えられている。

大隊 Bataljon
 当時において、歩兵大隊は戦術単位として戦場で使用されたが、その実態は戦闘に際して編組されるものに過ぎなかった。そのため少なくとも平時において、編制単位としての歩兵大隊というものは、通常連隊の中に事実上存在していない(市民武装大隊は平時にも存在する)。歩兵大隊は、戦場において戦闘序列を定める際、連隊内に2つ編組され、第1大隊の指揮を大佐が、第2大隊の指揮を中佐が執った。また、まれに第3大隊が編組される場合、その指揮は少佐が執ることとなった(例えば近衛歩兵連隊などは、戦闘に際し通例に従えば、3個歩兵大隊と1個擲弾兵大隊を編組していた)。
 但し、大北方戦争が勃発すると、主に貴族が自らの領地で兵士を募り、独立大隊を編成して軍に加わった。それら大隊は、貴族の姓を冠して呼ばれた。このような例は、バルト沿海諸州において多数存在している。1700年に編成されたNieroth大隊、Liewen大隊などがその一例である。また、前述したが、都市や地域で編成されていた市民武装隊の一部は、その都市・地域の名を冠せられた大隊である場合があった。

中隊 Kompani
 大隊の代わりに編制上においても連隊の核となっていたのが、各連隊に8個存在した歩兵中隊である。当時、歩兵中隊は連隊の次に来る編制であり、戦闘単位として非常に重要視されていた。
 歩兵中隊は通常25名からなる小隊(伍"Korpralskap")6個、約150名で構成されていた。その内訳は、銃兵82〜86名程度、槍兵42〜48名程度、擲弾兵12〜16名程度、全兵卒合計約144名となっていた。これに各兵卒の指揮官である伍長が6人加わり、約150名の中隊を形作った。
 そしてこれらの兵員以外に歩兵中隊には、その指揮を執る人員として、大尉1名、中尉1名、旗手1名の中隊付き士官と、曹長兼給養掛1名、軍曹1名、中隊書記官1名、旗手補佐1名、給養糧秣担当1名、武器管理担当1名からなる中隊付き下士官が配属され、また中隊軍楽隊として鼓手2名、吹手1名からなる3名が配属された。当然、大尉が中隊の指揮を執ったが、大佐中隊、中佐中隊、少佐中隊の3つの中隊においては、大尉の代わりに大佐・中佐・少佐が中隊の指揮を執った(この場合、中隊は佐官1名・中尉1名・旗手1名の士官で構成されることになる)。もっとも、大佐中隊では、大佐が連隊の指揮に時間が取られ、中隊の面倒を満足に見ることが出来ないため、中隊長代理が設置され、中尉が大尉勤務として中隊長代理職を務めた。
 但しこれは目安であり、兵員の欠乏等、多くの例外が存在したことを忘れてはならない。現代のように固定的な人員配置を行うような時代ではなかったからである。またOSPLAYの「Poltava」を始めとする多くの、主に英語圏の資料において、小隊(伍)が50名とされており、歩兵中隊の編制には上記に記したような異論が存在していることを明記しておく。

小隊 Korpralskap
 小隊は一般的には、兵卒24名、伍長1名からなっていたと言われる。その基本編制は、槍兵8名、銃兵16名であったとされている。しかし前述したように、様々な例外や、50名編制であったとする異論が存在する。50名編制であった場合、小隊の指揮を執る伍長は、伍長勤務を含めて、3名程度おり、小隊長は先任の伍長が執ったのではないかと推測される。

3.隊形 Formations

基本隊形 Basic Formation
 戦場において歩兵連隊は通常2つの大隊、4個中隊600名、に分けられ横隊を組んだ。横隊は4列の縦深と約150名の幅を持ち、中央に槍兵約200名、両翼に銃兵を同じく約200名ずつ配置した。おそらく中隊ごと1列に並び、それを縦に連ねたと考えられる。また擲弾兵は各中隊から分離され、大隊横隊の最左翼と最右翼に配置されたと思われる。最終的にこの横隊は、130mの長さになった。
 各中隊の中隊旗は一纏めにされて、各中隊から選抜された護衛隊(軍旗隊"fanpluton")と伴に、中央2列目と3列目の間に配置され、軍楽隊はその後方に付随した。また、士官らは、それぞれの部署の最前列左側に配置され、軍曹や曹長など下士官は、横隊の後ろに立ち、横隊の乱れを正し、士官らが戦死した場合はその穴を素早く埋めることが求められた。


大隊の基本隊形模式図(縮尺は正しくない)

応用隊形 Other Formations
 カール11世により1680年、操典[Royal Drill-Book]が定められ、これを1701年カール12世が改訂したが、そこには様々な状況に際して取るべき隊形(戦術)が50あまりも定められていた。例えば、騎兵突撃に対しては方陣を組むべきである、というものである。
 このように、当時のスウェーデン軍は様々な隊形を取ることが出来た。横隊にしても、槍兵を中央に一纏めにするのではなく、中隊ごと横隊を組み、それぞれの中隊横隊の中央に槍兵を配して、大隊横列全体としては4箇所に槍兵が配されているような隊形も存在した。また、"späckad"と呼ばれる前2列をすべて銃兵とする隊形や、縦深を6列にして、中2列を槍兵、前後2列ずつを銃兵とする隊形もあった。"späckad"や方陣を組む際には、擲弾兵部隊は両翼ではなく大隊中央に集められ擲弾を敵横隊中央部に投擲したとされている。
 また、中隊が独立して横隊を組む際には、6列や3列といった縦深を持つ横隊隊形も取られていたとする資料もある。

4.戦術 Tactics

基本戦術 Basic Tactic
 スウェーデン歩兵は、極めて迅速で攻撃的な戦術を採用していた。17世紀後半から18世紀にかけて小銃の性能が格段に向上し、槍兵が姿を消して行く中で、ヨーロッパ各国の陸軍は3〜4列の横隊が一定距離を保ったまま、銃撃戦を繰り広げるという戦闘方式を採用していた。しかし、これは両軍ともに損害が大きくなる戦術だった。これに対しスウェーデン軍は、突撃を重視し、敵戦列を突破して潰走させることを目指し、独特の戦術を採用するようになった。
 スウェーデン歩兵は前進の命令が下されると、静かに歩き始めるのが通例だった。当時は戦闘前や戦闘の最中においても、兵卒間で私語が交わされることもしばしばだったが、彼らはほとんど口をつぐみ、喊声すら上げなかった。ただ聞こえるのは、鼓手の奏でる一定の音律と幾千もの軍靴が地を踏みならす音、装具と銃そして剣が擦れ合う鉄の響きであったと言われている。この敵前における静寂の前進は、軍律が保たれている証拠として良く言及されるが、その一方で相手を怯ませ恐れさせる効果も見込まれていたと言われる。
 この前進は、敵の横隊との距離が70歩になるまで続いた。そしてこの距離になると、スウェーデン軍の4列の横隊の内、後ろ2列が少し前に進み出て、横列間の距離を縮め、一方で前の2列は身をかがめた。そしてその直後、後ろ2列が一斉射撃を行い抜剣、前2列も姿勢を正し足並みをそろえて前進を再開し、自らが作った白い硝煙を抜けて、敵との距離が30歩になるまで、整然と進んだ。そして敵間距離30歩で再び停止したスウェーデン歩兵の前2列は水平に銃を構えて一斉射撃を行った。この前進においてスウェーデン軍歩兵は繰り返し「銃剣が敵に届くまで」あるいは「敵兵の白目を識別できるまで」近付かなければならないと教え込まれており、驚くべき事に、良く訓練されたスウェーデン歩兵は、列を乱さずにそれを忠実に実行出来た。そしてこの至近距離からの規律を保った一斉射撃に耐えられる敵は、当時ほとんど存在しなかった。
 至近からの銃撃は、敵の戦列を大きく乱したと推測される。これに対しスウェーデン歩兵は士官からの"Gå På!" [fall on!]との命令を受けるや、突撃を開始。槍兵は槍を前に倒し、銃兵のある者は剣を抜き、あるいは銃剣を付けたマスケットを構えて、混乱する敵の横隊を突破し、これを壊乱させた。
 もちろん、すべての戦いがこのように上手くいったわけではない。しかし、この戦術は多くの戦闘で数の劣っていたスウェーデン軍に勝利をもたらした。この戦術の利点は、戦いが素早く終わり、成功すれば、味方の損害が少ないことが見込まれた点である。スウェーデン軍はこの戦術のために槍兵を相当数、常に保有し、最後の突撃における衝撃力を増大させた。

考察 Examination
 現代の多くの人々は、中央に前時代的な槍兵が残るスウェーデン軍の歩兵戦列を見て、旧式の軍隊であると言う印象を受けるかも知れない。しかしその軍隊が、新式と一般には思われているマスケットとソケット式銃剣で装備され、槍兵を廃した3列横隊の軍隊を打ち破る合理性を保有していたことは間違いない事実である。それはスウェーデン軍が勝利した数多の戦闘でも明らかである。
 また、敵がロシア軍のような、同じく旧式の軍隊であったから、スウェーデン軍の突撃戦術は効果を発揮したのだという指摘もあるが、そのような反論に対しては、17世紀から18世紀前半において、このスウェーデンと同様の突撃戦術を唯一採用していたスコットランドの高地地方兵が、しばしば「高地地方突撃[Highland Charge]」と呼ばれる突撃を実施して、数で勝るイギリス軍を打ち破っていた事実を指摘すればその回答になるだろう。高地地方兵は銃と剣で武装しており、敵に近付くや攻撃と煙幕効果の双方を目的とした一斉射撃を行い、それから剣を引き抜き、小盾をかざし、銃を地にうち捨てて、楔型隊形を組んで突撃した。これに対するイギリス軍は3列横隊の射撃で応戦したが、多くの戦いで高地地方兵の突撃を許し、戦列を突破され潰走している。
 この高地地方突撃は、高地地方兵のポルタヴァとも言える1746年のカローデンの戦いで、遂にイギリス軍により撃退され惨敗したが、しかしそれにもかかわらず、その13年後の1759年のエイブラハム高地において、この突撃戦術は、フランス軍に対して勝利を収めている。ポルタヴァとカローデンの敗北は、突撃戦術が万能ではない証拠ではあるが、劣っているという証拠ではないことは、以上の事実からも明らかである。
 加えて、スウェーデン軍の主敵が旧式陸軍であったという指摘自体も間違いである。ロシア軍は急速に近代化していたし、ポーランドでしばしば大敗を喫したのは、ドイツのザクセン軍を主力とする軍であった。そして、既に槍兵を廃止していたデンマーク軍もヘルシングボリィやガーデブッシュでスウェーデン軍に大敗を喫している。結局、どのような戦術も使い方次第であったのである。
 面白い話しとして、あるいはほとんど冗談として、「戦争の起源」を著したアーサー・フェリルは、その最後の章で、もしアレキサンドロスの軍がワーテルローでウェリントン指揮するイギリス軍に対峙していたら、古代の将兵が大砲や銃火器に馴れていればという前提付きではあったが、勝利することが出来たのではないかと考察している。このような話し(冗談)は、射撃戦、あるいは速射戦術を重視していなかったスウェーデン軍の思考を考える上で興味深いと思われる。

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騎兵の編制と戦術

 グスタヴ2世アドルフによって改革されたスウェーデン騎兵は、この時代においても整った編制と優れた技量を保有していた。彼らもまた、歩兵と同じく地域(州)"Indelta"騎兵連隊と志願"Värrvade"騎兵連隊に分けられる。連隊の定数はおよそ1,030〜1,060名であったが、やはり歩兵と同じように多くの例外があり、例えば本国貴族騎兵隊(Adelsfanan i Sverige och Finland)の定数は約600名であり近衛騎兵連隊(Livregement till häst)の定数は1,505名であった。戦場における騎兵の価値は、燧発式小銃と環付き銃剣の登場によりゆっくりと低下しつつあったが、全面的な技術革命はまだ先であり、この時代においては依然として決戦兵科として勝利に貢献した。特にスウェーデン軍は欧州諸国の中でも騎兵を重要視しており、当時の全体に占める騎兵の平均的な比率が30%前後であったにも関わらず、スウェーデンにおけるそれは40〜55%であり、非常に多くの騎兵を含んだ編成をとった。

1.兵種 Arms

騎兵 kavaller
 18世紀初頭の欧州においては、騎兵は後の時代ほど細分化されていなかった。しかし大まかに分けて三つの兵種に分けることが出来る。騎兵と竜騎兵、そして軽騎兵である。この中で騎兵と称される兵種はその言葉が示す通り包括的すぎる役割を負っていたが、これは当時の騎兵という「兵科」が、騎兵という一つの「兵種」のみで殆どが成立していたからに他ならない。彼らは偵察から突撃までの幅広い任務を受け持った。しかし大北方戦争期のスウェーデン騎兵は、軽騎兵的任務にそれほど拘束されはしなかった。相当数のポーランド式騎兵によってスウェーデン騎兵は、自由に広大なポーランドの平原を疾駆することが出来たからである。そのため彼らは、敵主力との戦闘に専念し、突撃、追撃、主力への奇襲などの任務において輝かしい成功を収めた。
 騎兵は歩兵と殆ど変わらぬ軍服を着用した。主な違いは騎兵用の黒い革製の重たい乗馬靴であるが、その他には、三角帽の縁取りが異なり、騎兵の場合は大抵、白色であった。また、カール11世の時代まで着用されていた胸甲は、カール12世の時代には既に廃止され、それ以上に速度の重要性を強調するようになっていた。
 騎兵の武装は幅広の直剣と2挺の短銃であり、直剣の長さは96pで歩兵のものよりも長く、柄も艶出しされて光沢を放っており、歩兵の黒色の柄とは異なった。この剣は上衣(コート)の上に締められたバフ革のベルトに吊された。また、2挺の短銃は鞍にあるホルスターに納められた。一方、この時代の欧州騎兵がしばしば使用する騎兵銃(カービン銃)をスウェーデン騎兵が装備することは非常にまれであった。これはスウェーデンにおいては抜剣突撃が重要視され、戦闘時の射撃が禁じられる場合が多かったためである。騎兵銃を装備する場合は、黒色の革製弾薬帯の後ろに吊り下げられた。

竜騎兵 Dragoner
 竜騎兵は17世紀の機動歩兵であり、歩兵用のマスケット銃と銃剣を装備したが、それ以外の武装や服装は通常の騎兵に準じた。18世紀初頭においては既に馬上戦闘を行うことが大幅に増加していたが、それでも正規騎兵に比べて柔軟な運用が可能であったため、当時、欧州においてその数を大きく増やし、その特性を重要視していたピョートル大帝は、ロシア騎兵の殆ど全てを竜騎兵として下馬戦闘から乗馬突撃までの幅広い用途で利用している。
 しかしスウェーデン軍における竜騎兵は補助兵種にとどまり続けた。スウェーデン軍の用兵思想は下馬戦闘を騎兵の本来の任務と見なしていなかったし、馬上射撃も騎兵本来の突撃力を失うとして極力避ける傾向があったからである。そのためイェムトラント竜騎兵連隊などは、当時において既に歩兵と見なされていた。この竜騎兵連隊の騎乗部隊は1個中隊のみであり、連隊に所属する2個大隊は戦列歩兵としての訓練を受けた。唯一の騎乗中隊は連隊の予備でしかなかった。
 このようにスウェーデンでは竜騎兵を重要視しておらず、平時における建制部隊としては、ボーフスレン竜騎兵大隊とフィンランド諸州竜騎兵大隊(カレリア郷土竜騎兵大隊)の2個部隊しか存在しなかった。1699年になってようやく海外地方であるブレーメンに竜騎兵連隊が建制部隊として設立され、開戦後、近衛竜騎兵連隊やウップランド地方竜騎兵連隊、スコーネ地方竜騎兵連隊、フィンランド地方竜騎兵大隊などが本国で設立されたが、それ以外の部隊はすべてドイツなどの海外地方で設立されており、決して主力部隊としてその地位を獲得することはなかった。
 しかしそれでもスウェーデン軍において彼らは、軽騎兵的任務を受け持ちながらも、会戦時には抜剣突撃を行い、騎兵に劣らぬ突撃力を発揮した。

軽騎兵
 18世紀初頭の軽騎兵とは、重武装の騎兵に対して軽装で軽快な騎兵であるという意味の軽騎兵ではない。この時代においては、かつてのそういった軽武装の騎兵が頻繁に受け持っていた任務、つまり偵察や長距離襲撃などの不正規戦闘を受け持つ騎兵のことを総称して軽騎兵と呼んだ。この世紀の代表的な軽騎兵はハンガリー騎兵とコサック騎兵である。
 あらゆる時代において、騎兵という兵科から軽騎兵的任務が消え失せたことはなかったが、17世紀の欧州においては、正規軍に軽騎兵と冠される部隊はほとんど存在しなかった。偵察や掠奪行、伏撃などの任務は竜騎兵の役割であり、時には突撃兵種である胸甲を付けた騎兵ですらそれらの作戦行動に参加した。
 しかし戦場が拡大し、長きに渡る攻城戦が定常化するにつれ、東欧で独自に進化を遂げていた軽快で自由奔放な騎兵の有用性は次第に西欧諸国において認識されるようになった。事実、彼らは卓越した斥候であり有能な襲撃者であった。そのため、自らもしばしばその強襲に悩まされたフランス軍は、ハンガリー騎兵を蛮人と蔑みながらも、1692年に敵からの脱走兵を集めて最初の軽騎兵連隊を編制している。この連隊は5年後に一旦解体されているが、1701年には別の連隊が編制されており軽騎兵は着実にその存在感を増すようになっていた。
 ロシアにおいても事情は同じであった。ピョートルのロシア軍は配下のコサックを利用してこの種の任務に当たらせていたが、正規編制の一部に軽騎兵を加える試みも同時に行われた。1707年にピョートルは300名からなる軽騎兵をマジャールやセルビヤ、モルダヴィア、ワラキアから徴集して軽騎兵部隊を編制し、3年の内に8個連隊に規模を拡大させている(もっともその後、その規模は再び縮小した)。
 一方、スウェーデンは開戦当初、このような軽騎兵を保有していなかった。そのため、海外領土から戦時徴集して規模を拡大させた竜騎兵に、この種の任務を割り当てていた。しかしそれだけでは不十分であることは明らかだった。そしてポーランド戦役における絶え間ないポーランド騎兵との小競り合いは、スウェーデン軍にこの種の軽騎兵の有用性を認識させるのには充分すぎた。本国から遠く離れて自給自足の作戦行動をしなければならないスウェーデン軍にとって、前方に進出して偵察を行い、騎哨として周囲を絶え間なく巡回し、離れた村落や街を襲撃して補給物資を調達するポーランド式軽騎兵は極めて重要な部隊であった。このため1702年クリソフ会戦に勝利してクラカウを占領したスウェーデン軍は、ステンボック将軍によってポーランド式の騎兵を初めて正規部隊に組み入れ自由中隊(free companies)として活用した。彼らはTavarich,TovarshesあるいはVallacker(Wallachian)などと呼ばれ、ポーランド=リトアニアの親スウェーデン派貴族や市民、名前の由来の通りワラキアなど東欧諸国から呼び集めた騎兵によって構成され、徐々にその数を増していった。そして1706年には、これら自由中隊は、一つの連隊(Vallacker regementet)に纏められた。Vallacker連隊はロシア遠征にも参加し、ポルタヴァにおいてスウェーデン軍が壊滅の後も、その生き残りを基幹としてベンデリでNiesterska竜騎兵連隊として1712年に再編されている。この部隊はストラールズント攻囲戦に参加し、この戦いでほぼ全戦力を失いつつも、100名程度は尚もスウェーデン軍にとどまり、ポーランド騎兵連隊を編制して1718年のノルウェー戦役に参加した。
 また、これらの他にも直接スウェーデン軍に雇用されてはいないが、彼らを支援する親レシチンスキ派の部隊も、この種の軽騎兵的任務を受け持ち、ポーランド戦役におけるスウェーデン軍騎兵の負担を軽減させ、彼らが自由にポーランドを闊歩する基盤となった。この他、ロシア遠征ではマゼッパ指揮下のコサック騎兵も軽騎兵としてスウェーデン軍に貢献している。
 彼らの武装や編制を詳述することは困難である。自由中隊とも呼ばれるように各部隊の規模は様々であった。武装についても一部は煌びやかな羽を装備してフサール”有翼”の名残を残していただろうし、一部はハンガリー騎兵などと同じような格好をしていただろう。サーベルで武装している者もいれば槍とチェーンメイルで武装している者もいたと思われる。
 このように部隊を構成する騎兵数もまちまちであり、武装も不揃いであったことから、彼らは決して正規の戦闘では役に立たなかった。主要な会戦だけを追っていくと、彼らの存在は得てして無いもののように映る。しかし彼らは軍の作戦行動になくてはならない存在であった。

2.騎兵馬 höst
 スウェーデンは騎馬国家でなく、その国土は北辺に位置していたことから、良質の馬を獲得することは困難であり、グスタヴ2世アドルフの時代の記録によれば、騎兵馬の肩までの平均長は幹部クラスの馬で143cm、一般の騎兵では112〜133cmでしかなかった(時代が下ると馬は肩ではなく背峰までの高さで測るようになり数インチ高くなる場合もある)。
 大北方戦争においても状況は変わらなかった。そのため要求される馬の水準は低く、許容最低限の騎兵馬の背丈は鞍下139cmでしかなかった。鞍下139cmとは、おおよそ現代の馬の身長の測定法(背峰までの高さ)に換算すると、146cm相当の背丈となる。今日の基準に従えば、ポニーと馬の境目は背峰までの高さ148cmであるから、現代の感覚に従えば、スウェーデン騎兵はポニーに等しい馬に乗っていたことになる。しかしその代わりにスウェーデンの馬は非常に頑健であったとも言われており、カール12世がしばしば要求した激しい運用に馬たちはよく耐えた。当時の記録には馬たちはよく頑張ったと書かれているものも残っており、例えばプルツスクの騎兵戦に参加した北スコーネ騎兵連隊のニルス・ユーレンステルナ中佐は、最後に「すべてが終わったとき、ほとんどの騎兵は徒歩で帰路につく必要があった」と付け加えながらも、「我々の馬には驚嘆させられた。我々は55マイルの距離を馬で疾駆し、一昼夜に渡り餌を与えることもなかったが、馬の状態は作戦行動中きわめて良好であり、立ち向かってきた敵は、我らの進軍から逃れることが出来なかった」とスウェーデン騎兵馬の頑健さを誇らしげに書き記している。
 一方、馬の色については、黒から様々な種類の褐色までの暗い色が好まれたと推定されている。黄色や栗葦毛、白馬、明るい色の尻尾を持つ鹿毛馬などは、当時、暗い色の馬の方が強靱であると思われていたことから、軍馬として不的確とされた。しかし、戦時徴集された地方竜騎兵隊(Ståndsdragoner)や戦時編制連隊用の馬、荷馬車馬などには騎兵馬よりもさらに小ぶりな農耕馬などがあてがわれ、この場合は色なども考慮されなかった。また戦いが長く激しくなれば、戦時編制部隊でなくても馬の色にこだわることは出来ず、この場合の基準は馬の体格がより最低基準に近いか否かであった。このような小柄な農耕馬に乗った戦時編制連隊がヘルシングボリィ会戦で馬格の良いデンマーク近衛騎兵と戦ったとき、彼らはこの大柄な馬の腹をくぐることができるかのようであったと伝わっている。しかしそれでもなお、全速力で突進する彼らの能力は非常に高く、それがためにスウェーデン騎兵は恐れられた。

3.編制あるいは編組 Organization or Composition
 騎兵中隊は約125名で構成され、騎兵大尉の指揮下に置かれた。戦術単位は騎兵大隊(Skvadron)であり、これは通常の場合、2個騎兵中隊で編成された。しかし歩兵と同じく、通常の場合は例外を除き、騎兵大隊は平時の管理単位とはならず、基本的に戦闘時に臨時に編組される単位であった。また、騎兵大隊が管理編制の単位である場合は、4個中隊で大隊が構成されることも多かった。これら連隊・大隊を構成する騎兵中隊の編制は以下の通りで、およそ125名程度を定員とした。
  • 騎兵大尉(Ryttmästere)1人
  • 騎兵中尉(Löjtnant)1人
  • 乗馬旗手 (現在での少尉に相当)(Kornett)1人
  • 補給将校(Kvartermästare) 1人
  • 伍長(Korpral)3人
  • トランペット奏者(Trumpetare) 1人
  • 一般兵(Gemena)c120人
 連隊を構成する中隊の数は地域(州)"Indelta"騎兵連隊の場合は8個であり、連隊定員は約1,030〜1,060名であった。これには当然のことながら連隊司令部を構成する大佐、中佐、少佐、鼓手、連隊兵站監、そして種々雑多な管理スタッフが含まれる。また、そこに士官候補生などが戦役開始時には臨時に配属された。
 一方、王の親衛隊であるドラバントや主要各州の貴族騎兵を集めた貴族騎兵隊(Adelsfanan)などの志願"Värrvade"騎兵あるいは常備騎兵隊は、2〜3個中隊で編制されIndeltaに比べて部隊は小規模であった。ドイツ地方やバルト地方で徴集された騎兵も多数存在し、非常に優秀であったが、やはり部隊規模は小さかった。逆にもっとも大規模な部隊は近衛騎兵連隊で、この連隊は12個中隊で編制され定員1,505名であった。
 またスウェーデン軍は、1718年のノルウェー戦役開始直前に軍の再編を行っており、これにより2〜3個の騎兵連隊から編制される騎兵旅団が誕生している。

4.隊形 Formations
 戦場において騎兵連隊は通常2つの中隊からなる騎兵大隊に分けられ横隊を組んだ。各騎兵大隊は、縦深2列あるいは3列の横隊を作り、乗馬旗手(少尉)がその中央最前列で中隊旗を掲げた。横隊は、「膝の横に膝」を接するような直線隊形である場合も多かったが、突撃の際にはしばしば「膝の後ろに膝」を接するように騎兵を配置して、旗手をその頂点にして左右に大きく開いた楔隊形を組む場合もあった。そしてどちらの隊形を採るにせよ彼らは膝と膝が接するほど密集して突撃した。特に楔隊形による突撃は、中央に位置する旗手の損害を極めて高くしたと批判されながらも、多大な戦術的優位をスウェーデン騎兵に与え、とりわけ密集した目標に対して絶大な優位を発揮したと言われている。
 馬を疾駆させながらこのような密集隊形を維持して突撃することが可能であるかどうかについては、しばしば論争の種となった。しかしこの問題は、戦場となる地形を無視して一般化することはできない。また、仮に彼らが密集隊形を維持し続けられない場合があったとしても、幾つもの証拠から、カールの騎兵が隊形にこだわることなく襲歩(gallop)で痛烈な突撃を行ったことは明らかとなっている。


スウェーデン騎兵中隊の隊形(左:2列直線横隊 右:2列楔隊形)


スウェーデン騎兵(3列直線横隊)

5.戦術 Tactics
 スウェーデン騎兵は、非常に攻撃的な集団抜剣突撃戦術を採用していた。基本戦術単位は騎兵大隊であり、多くの場合、楔隊形を組んだ。彼らは剣の刃を用いて敵をなぎ払うよりも、長い直剣を水平に突き出して切っ先を用いて敵を突き刺すよう訓練を受けた。カール12世は竜騎兵と軽騎兵を除き、騎哨任務以外で騎兵が火器を使用することを禁じ、騎兵銃や短銃を撃つ暇を彼らに与えなかった。このことは、1710年のステンボックによる戦闘教範にも高らかに謳われており、騎兵は「剣を手に」突撃し、「カラコール機動を行うことや騎兵銃や短銃を用いることを」禁ずると記載されていた。そのため、当時における欧州の騎兵とは異なり、スウェーデン騎兵は滅多に騎兵銃を携帯しなかった。

 カールの騎兵にはどんな障害物であれ突破することが期待された。そして彼の指導の下、当時のヨーロッパ諸国軍ではこれまで到底為しえないとされていた迅速な機動を行うための訓練が行われた。そしてひとたび突撃を始めると、スウェーデン騎兵隊は速歩で前進し、150ヤードほどまで敵戦列に迫ると、襲歩に移って襲いかかった。突撃においては速度が最も重要視され、そのためスウェーデン騎兵は胸甲すら装備していなかった。カール12世自身も繰り返し、速度こそが騎兵戦術における最も重要な要素であると強調した。1707年には閲兵中のカールが2頭の馬を乗りつぶし死なせてしまったことが知られており、もっとも熟練した騎兵ですら、この躍動的な指揮官について行くことは難しかった。
 同時代、同じように名声を獲得していたマールバラのイギリス騎兵との違いはこの速度にあった。同じく突撃する騎兵に短銃の使用を禁じて剣での白兵攻撃を行っうよう指導していたマールバラであったが、彼は大抵の場合、騎兵の隊列の間に銃兵隊を混合し、速度を犠牲にして火力を増強して攻撃を行ったため、その前進速度は速歩が限界であった。しかし騎兵戦術の特性は、速度とそこから生まれる衝撃力であり、スウェーデン方式の突撃戦術はドイツ諸国に模倣され、フリードリヒ大王のプロイセン騎兵へと継承された。
 実際、適切に集団抜剣突撃戦術が行われた場合、この形式の攻撃を防ぐことは難しかった。スウェーデン騎兵隊の技術と機動性はおそらく当時において最も優れた部隊のひとつであり、それはスウェーデン人以外の軍事史家ですら認めている。また実際に、スウェーデン騎兵の能力は、プルツスク、フラウスタットを含む幾つかの戦いを決定づける行動で立証されており、これらの戦いで彼らは何度となく望むとおりに敵騎兵の戦列を切り裂いている。
 結局の所ポルタヴァに至るまで、カールと彼の騎兵部隊は無敵であった。ポーランド軍、ザクセン軍、ロシア軍は、猛烈でしかも規律の取れたスウェーデン騎兵の前に屈服させられた。クリッソフ会戦では、21個のスウェーデン騎兵大隊が、抜剣突撃により、短銃を使用したザクセン軍31個騎兵大隊に勝利した。
 フラウスタットにおいては、レーンスケルドが両翼の騎兵を用いて、万全の準備を整えていた約2倍(歩兵戦力では約3倍)のシューレンベルク軍を二重包囲した。襲歩で突撃したスウェーデン騎兵は、両翼のザクセン騎兵を追い払い、連合軍の歩兵によって構成される中央を圧迫し、この連合軍歩兵隊を殲滅した。
 このように対騎兵戦や動揺する歩兵部隊に対して、この戦術は疑いようもなく大きな優位を与えた。しかし、方陣などを組んだ堅固な歩兵に対しては、この戦術は幾つかの戦例が示すように、欠点を露わにしていることも忘れてはならない。例えば1704年の追撃戦の過程で、スウェーデン騎兵はシューレンブルクの強固な方陣を打ち崩すことができなかった。また、戦争が長引くにつれスウェーデン騎兵の質は徐々に低下し、この時代の終わり頃になると、初期の頃の能力は失われてしまった。
 一方で、騎兵の迅速な機動性は戦場外追撃においても発揮された。クラウゼウィッツがいみじくも述べたように、カール12世はしばしば勝利確定後に、敗北した敵に回復の猶予を与えず強力な追撃を実行した。1704年の追撃戦で、彼は敗走する敵にも追撃する味方にも、全く休息を与えなかった。スウェーデン騎兵は9日間、一度も馬の轡を外さずザクセン軍を追撃し、結果として殆ど完全にザクセン軍から戦闘力を奪った。もっとも追撃戦は常に思った通りに行えたわけではなかった。ナルヴァ会戦の後、カールは更なる勝利の追求を求めたが、騎兵も歩兵も疲弊しきって彼はそれを諦めなければならなかった。ドヴィナ渡河においても、強風により浮橋の設置に失敗したため、騎兵戦力を渡河させて撤退する敵の追撃を行うことが出来なかった。グロノドから撤退するロシア軍を追撃した時も、雪解けによる河川の氾濫から、途中で切り上げざるを得なかった。しかし完全な成功がなくとも、カールは常に勝利の後の追撃を考えており、その念頭には優れた騎兵の機動性があったことは疑いない。そのために彼と彼の騎兵は、時に、ナポレオンとミュラの騎兵と比べても遜色ないと評価する軍事史家すらいるのである。

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Drabantkåren〜ドラバント隊〜

Drabantkåren、即ちドラバント隊は王の忠実な盾であり、ある種の伝説めいた部隊である。

その名称はドイツ語のトラバント(親衛隊)から来ているとされているが、部隊としてのドラバントの起源は歩兵親衛隊(Livgardet till fot)と同じく1521年に創設されたグスタヴ・ヴァーサのボディガードとFotgångarfänikaである。

当時、スウェーデンはデンマークからの独立戦争の最中にあり、その指導者であったグスタヴ・ヴァーサは戦場のみならずあらゆる場所で命の危険に見舞われていた。そこで彼はダーラナの民を中心とする護衛隊を創設したのである。 そして1523年、グスタヴ・ヴァーサが王になると、彼らは必然的に国王直属の部隊となったのである。

そのためか、当初彼らの仕事は近衛と親衛隊を取り混ぜた役目を担うことになる。つまり国王の身辺警護と王城及び首都の防衛である。

その後、これを是正するために彼らは近衛と親衛隊に分割され、幾つかの名称と幾つかの形態を取りつつ(Gårdsfänikan→Hovregementet→Gula regementet(王宮連隊及び黄色連隊))最終的にカール11世の時代、Kunglig Majestäts Livegarde till häst och fot、つまり「国王歩騎兵親衛隊」と言う組織に落ち着いた。

しかし、歩兵と騎兵が混じり合ったこの部隊は、戦場を激しく動き回る国王に付いていけないと判断された。そこでカール12世はこれを歩兵と騎兵に分離し、1700年に騎兵のみで編成される特別部隊としてドラバント隊を創設した。

個々のドラバントは近衛騎兵連隊(Livregementet till häst)大尉の階級を持ち、部隊の指揮官には国王自身が就任した。そして部隊は通常、隊長代理である少将の位を持った将校が指揮し、ドラバント中尉(drabantlötnant)には大佐の、伍長には少佐の位を持った士官が就任した。

部隊の定員は最終的には200名となったが大抵は150名程度で構成されるように試みられ、実際その程度であった。1700年の開戦時、ドラバント隊147名は王に従ってスウェーデンを後にしている。

このように厳選された最精鋭であるドラバント隊は、カール12世が参加したあらゆる戦役に参加し、自ら先頭に立つ王を守るべく激しい戦場を駆け抜けた。

特に、ポルタヴァにおいてはカールの載った担架を守り続け、敗色濃厚となった終盤戦では捕虜になりかけたカールを逃がし、自らは剣を抜き払って敵に突入するという決死の活躍をした。彼らは見事に「忠実なる盾」という役目を果たしたのである。

もっともその代償は大きく、事実上この戦いでドラバントは消滅した。

後に1715年、国王がスウェーデンに帰還するとドラバントは再編成され、1716年Kunglig Majestäts Drabanter och Livskvadoronとなった。この時、生き残っていたドラバント隊員は僅か14名であった。

新設されたドラバント隊には、この奇跡的に生き残っていた旧ドラバントの隊員はもちろん、近衛騎兵連隊、Östgöta、Norra and Södra Skånska騎兵連隊からも隊員が選抜された。 そして旧ドラバント隊同様に新たなる隊もそれぞれ3部隊からなる2中隊で編成され、新たな隊の総員は1718年の時点で349名であった。

彼らは旧ドラバントと同じく王に従いノルウェーへの遠征に参加し、カールがフレドリックスハルトで悲運に倒れたときもすぐそばにいることとなる。

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歩兵の装備

 槍兵および小銃兵は1685年式の歩兵剣を装備していた。これは長さ90pの直剣で、柄は黒色の真鍮製であった。剣は通常、ベルトの左手側に吊された革製の黒い鞘に入れられた。士官の剣も、ほぼ同様のものであったが、様々な装飾が施されている点で兵卒の物と区別された。
 一方、騎兵用の直剣は長さ96pであり、薙ぎ払うよりは、突撃の際に突きかかることを目的としていた。
 これら軍用剣は常に耐久検査を受けて兵士に支給されており、スウェーデン軍がこのような兵器を重要視していた現れであると考えられている。

 小銃兵の持つ銃剣はソケット式あるいはリング式とも言われているが長さ45.7pで、剣と同じく、鞘に通常は納められていた。

 槍兵の槍は5.2〜5.8mの長さであった。

 下士官は鉾槍と半分の長さの槍を持ち、士官はその地位を示すために半矛を持っていた。これら武器は、戦うための物と言うより、地位を示す道具であった。

 小銃兵はpatronvaskaと呼ばれる黒いモミ革製の薬包箱を持ち運び、通常は左の肩から襷に掛けられた幅の広い淡黄色の肩帯に下げられていた。

 擲弾兵はgranatvaskaと呼ばれる小銃兵よりも大きな薬包箱の中に手榴弾を入れていた。残存しているものの1つは、黒い革製のもので、王室の花押に飾られている。


 すべての歩兵は真鍮の留金具の付いたモミ革のベルトをコートの上から締め、剣および銃剣(槍兵は剣のみ)を吊り下げていた。

 雑嚢は外を毛皮で覆った革製で、行軍時は右肩から吊るされた。また、全兵士には厳しい気候に耐えるため革の手袋が支給された。

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火器性能表

(当時の主要小銃性能対照表)
名称形式年口径銃身長全長銃剣の長さ重量(銃剣含む)
イギリスの前装火縄式滑空銃169020.32mm116.8cm157.5cm53.3cm(plug)5.7kg
スウェーデンの前装燧発式滑空銃169017.02mm不明152.4cm不明(plug or ring)5.4kg
ウィリアム3世時代の前装燧発式滑空銃1696 21.59mm108.0cm152.4cm53.3cm(plug)5.2kg
スウェーデンの前装燧発式滑空銃169617.17mm(20.04mm説も)111.8cm152.4cm45.7cm(plug or ring)4.7kg
フランスの前装燧発式滑空銃170317.27mm111.8cm152.4cm55.9cm(ring)5.4kg
ブラウン・ベス172019.05mm55.9cm157.5cm43.2cm(socket)5.4kg

この時代の最大射距離はだいたい220〜230mであるが、その距離から狙った標的に当てるのは事実上不可能であり、敵に弾を当てるにはより近づくか、隊列を整えて一斉に射撃するかしなければならない。

カール12世指揮下の軍隊では上記小銃の内、スウェーデン製の1690年に採用された物と1696年に採用された物が使用された。1696年製の物は最新式で、近衛擲弾兵連隊から装備が開始され、戦争中に全歩兵が装備するようになる。
また、ピョートルがナルヴァの敗戦以降装備した小銃はフランス製の1703年に制定された物とほぼ同程度の性能を持った物であった。

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