軍隊と兵器
◆スウェーデン砲兵◆

そなたらの欲しがっている以上の砲を明日、手に入れてやろう
- Karl XII -

1.砲兵 <総論>
2.野戦砲兵隊の規模について
3.瑞典野戦砲の性能
4.砲兵隊の階級と職種
5.砲兵人物略歴

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砲兵 <総論>

王立砲兵連隊は初期のヴァーサ朝の王による「Bysseskyttar och Byxmästeri」がその起源であり、グスタヴ・アドルフU世の時代に常設組織として編成し直された。そしてカール11世の平和な治世下において、それらは44の編成組織と42の守備隊所在地に分けられ編成し直された。砲兵隊は一つの国民兵連隊(インデルタ)ごとに付けられ。そしてその地位はLivgardet以下、通常連隊以上であった。Generalfalttygmästaren[砲兵総監]または兵站総監はすべての砲兵隊の包括的な指揮官であるばかりでなく、王国に存在するすべての、兵器庫や弾薬庫、そして砲兵に関係するあらゆる装備品について、また、戦場において再編される砲兵隊についても同様に、責任を負った。彼の下に実質的な砲兵の長として、砲兵大佐(Översten vid artilleriet)が置かれた。

砲兵大佐(Översten vid artilleriet):
J.Siöblad 1680, A.T.Falkenhielm 1693, E.J.Meck 1697, M.Granatenhielm 1702,
R von Bünau 1706, C.G.Appleman1710, C.Cronstedt1716.

大北方戦争の時代においては、砲兵隊は以下の編制となっていた。

スウェーデン本国およびフィンランド
Stockholm,(DalaröとVaxholmを含む)砲兵隊
Göteborg,(BohusとMaestrandを含む)砲兵隊
Skåne & Halland(MalmöとLandskronaとHalmstadとVarbergを含む)砲兵隊
Kalmar & Blekinge(Kalmar & Karlskrona等)砲兵隊
Jönköping砲兵隊
Noeelamd & Finland(Sundsvall, Frösö, Åbo, Nyslott, Viborgを含む)砲兵隊

バルト諸州
Ingermanland砲兵隊
Estland砲兵隊
Livland(Kobron,Kokenhousen,Dünamünde等)砲兵隊

ドイツ諸州
Pomerania(Stettin,Stralsund等)砲兵隊
Wismar砲兵隊
Bremen-Verden(Stade等)砲兵隊

総計 1888名、3742門

大北方戦争が始まると、各野戦軍ごとに野戦砲兵隊が守備隊組織から動員され編成された。それは幕僚。中隊職員、薬包技術者(弾薬職員)、工兵、火工技術者(補給職員)、熟練工、馬丁などで構成された。種々の野戦砲兵隊編制は、古くからカール12世についての論文や小説に書かれている物事にもかかわらず、バルト諸州やポーランド、ロシアの戦場で活発な役割を担った。

有名なフランシュタッド会戦においてですら(と言うのもこの会戦でスウェーデンは砲兵隊なしで勝利したと通常思われている)多くの軽砲つまり「ピケット砲(連隊砲)」として知られる砲が存在したのである。ポルタヴァの敗戦の後においても、野戦砲兵隊は2つの偉大な勝利に貢献している。つまり1710年のヘルシングボリと1712年のガーデブッシュである。そこにおいてスウェーデン人は神に次いで「クロンステッドと彼の砲に勝利への感謝」を捧げている。もっとも常に勝利とはいかず、フィンランドの砲兵においては、勇敢なる奮闘にもかかわらず、PälkäneとStorkyroにおいて敗北している。カール12世は最後のノルウェー戦役を前に砲兵隊を再編成している。それは要塞砲兵隊と野戦砲兵隊から成った。後者は幕僚、火薬師、工兵、そして5個の砲兵中隊に編制され侵攻作戦のすべてを担った。

付け加えると、Jämtlandのアルムフェルト軍にはフィンランドの砲兵中隊が随行した。要塞攻囲用の重砲の多くは、Bohuslanへのスウェーデン軍の退却のときに失われた。しかしアルムフェルト軍の4つの3ポンド野戦砲はしっかりと生き残った砲兵隊員自らの手によって牽引されスウェーデンに無事退却した。これはおそらく砲兵とその砲の間に存在する余人には奇妙にしか思えない愛情関係を示す一例である。一方、ペロヴォロチナで捕虜となった砲兵大佐Bünauは、7月4日に術後の熱によって死んだことに公式にはなっている。がしかし、彼の愛する砲がロシア軍の手に落ちて見ることも叶わなくなったため、極めて単純に、悲嘆のあまり死んでしまったというのが、真相であるらしい。

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野戦砲兵隊の規模について<

OSPREYの「POLTAVA 1709」にスウェーデン軍砲兵隊の記述があるが、それによると、ロシア遠征に付き従った野戦砲兵「連隊」は、リガ・ヨーテボリ・ストックホルムの砲兵隊を元にして構成され、「小規模」であるが近代的な中・軽量級の砲で編成されていたと書かれている。また、装備されていた砲は、12ポンド砲と6ポンド砲を中核とし、「4ポンド」連隊砲や榴弾砲がこれに付属していたとしている。

しかし、野戦砲兵隊は歩兵連隊のような固定の「連隊」ではないと言う点は注意しなければならない。その意味で、私自身は、野戦砲兵隊と言うのが適切である思う。そして、連隊砲は「4ポンド」ではなく、3ポンドが正しいと考えられる。これは、グスタヴ・アドルフの連隊砲が3〜4ポンドの砲弾を撃てたが、どちらかと問えば3ポンド砲と呼ぶに相応しいといわれていることにも起因するが、その他の資料を見ても、カール12世の時代の連隊砲も3ポンドとして扱われているからである。

また、「小規模」という評価についても問題がある。この点について考えてみる。ロシア遠征初期の会戦で、カール12世が見事な砲兵戦術を駆使したホロウツィンでは、6ポンド砲18門、12ポンド砲8門、榴弾砲2門、計28門が砲兵隊として主力軍を支援している(OSPREY「POLTAVA 1709」の編成表に記載)。しかしこれには、もっとも機動力のある3ポンド連隊砲が含まれていない。同じくOSPREY「POLTAVA 1709」にはレースナヤ会戦におけるレーヴェンハウプト軍所属の野戦砲兵隊の編成も載っているが、そこには、「4ポンド」(真実は3ポンド)連隊砲11門、6ポンド砲6門が、レーヴェンハウプト軍を支援したと載っている。そして、この連隊砲は、野戦軍所属の10個の歩兵大隊に、1門ずつ配備された。このことから考えると、少なくとも各歩兵大隊には常に、初期の編成ではと言う注釈が付くが、連隊砲1門が配属されるようになっていたと考えるのが妥当である。

これは、グスタヴ・アドルフの連隊砲運用と同様であるし、砲兵力がほとんどなかったと思われているフランシュタッド会戦においても連隊砲がその威力を発揮したという事実からも、おおむね正しい推測であると見なせる。つまり、ホロウツィン会戦では、28門の砲とは別に、第1陣6個歩兵大隊、および援軍6個歩兵大隊の連隊砲12門程度が、存在していたと考えるのが妥当であるはずである。

しかし問題はこれが多いのか少ないのかである。そこで、これを、砲兵力の妥当性を考える上で時折使用される1,000人あたりの砲門数で見てみることにする。

まず、この会戦に参加した砲兵力は計40門(最大値、それ以下もあり得る)。そしてスウェーデン軍の総兵力、13,000(歩兵7000、騎兵6000。但し書類上。実際は10,000以下であったはずである)。これを計算すると、40÷13より、1,000人あたりの砲門数の比率を見ると、3.08と求まる。これを、当時の大会戦であるブレンハイムの値と比較すると、マールバラ軍1.15、フランス軍1.61(共にD.Chandlerの計算)であり、比率上スウェーデン軍の砲兵力は大規模であることが分かる。ブレンハイム会戦以外にも目を転じてみても、スペイン継承戦争における平均は1〜2であり、値が3以上の場合は、ナルヴァ会戦におけるスウェーデン軍の3.70(D.Chandlerの計算)のみであることが分かる。また、先ほど参考にしたレースナヤ会戦におけるレーヴェンハウプト軍の値は、1.38であり、同時代の比率から見ても遜色ない値である。

以上のことより、確かに砲門数だけ見ればブレンハイムにおけるマールバラ軍の60門やラミーユ会戦の120門(比率1.93)に大幅に劣ると言えるが、総兵力を含めて比率で考えると、スウェーデン軍は兵力の割に大規模な野戦砲兵隊を持っていたと言うことが出来るのである。もっとも、ポルタヴァにおいては、ロシアでの長く辛い行軍のためその砲兵隊はやせ衰え、連隊砲4門のみ(比率0.18)の支援で戦わざるを得なかったことは、忘れてはならない。

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スウェーデン軍野戦砲の性能〜ドラバント隊〜


(射程距離はクロンステッドのカートリッジを使用と思われる)
カノン砲内径[cm]砲弾重量[kg]砲重量[kg]射程距離[m]
(1690年)
射程距離[m]
(1700年)
射程距離[m]
(1707年)
射程距離[m]
(1720年)
24ポンド砲15.511.93,126----
18ポンド砲14.19.02,440----
12ポンド砲12.2 6.01,700525-600525-600600-675750
6ポンド砲9.63.0910375450-525525600
3ポンド砲7.71.5460225-300-410-450375
3ポンド連隊砲----225-300-225-300

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砲兵隊の階級と職種

瑞典語英語日本語
Generalfälttygmästare[-]砲兵総監
Översten vid artilleriet[Colonel For Artillery]砲兵大佐
Överstelöjtnant[Lieutenant-Colonel]中佐
Major[Major]少佐
Kapten[Capten]大尉
Löjtnant[Lieutenant]中尉
Fänrik[Ensign
or
Second-Liutenant]
少尉
Styckjunkare[Sergent-Major]曹長
(fyrverkare)[pyrotechnist
or
ammunition]
火工技術者
(minörer)[miner](地雷)工兵
Sergeant[Sergent]軍曹
(kardusbindare)[cartridge maker]薬包技術者
Konstapel[gunner]砲手
(under fyrverkare)[junior pyrotechnist]火工技術者補佐
(minörgesäller)[apprentice miner]見習い(地雷)工兵
Lärkonstapel[apprentice gunner]見習い砲手
Hantlangare[-]一般砲兵

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砲兵人物略歴

Johan Siöblad[1644-1710]
1644年同じく砲兵将校だったCarl Siöbladの息子として生まれる。カール11世治下、戦争学校(これ何のことだか分からない)に入り、1662年Jönköping 砲兵隊に砲手として入隊。1666年ストックホルム砲兵隊の少尉となり、1668年大尉に昇進、1674年少佐、1678年中佐、1680年には実質的な砲兵隊の指揮官である砲兵大佐に昇進する(1680 - 1693)。そして1693年generalfälttygmästare[砲兵総監]に選ばれ、砲兵隊の全体責任者になる(兵站総監の着任履歴を見ると、同年兵站総監(1693-1700)にも就任している)。1700年〜1704年まで、カール12世指揮下の野戦軍で野戦砲兵隊の指揮を任され、ナルヴァ会戦やドヴィナ渡河会戦で活躍した。1710年、死亡。

Amund Torstensson Falkenhielm[?-1697]
ブレーメンにて生誕。1663年、砲兵隊少尉。1673年、大尉。1679年、ストックホルム砲兵隊の中佐。1680年、貴族に。1693年、Siöbladの後任として砲兵大佐に昇進(1693-1697)。1697年死亡。

Erik Johan Meck[1644-1702]
1644年リガにて生誕。1663年Hovjunkare(ユンカーのお偉いさんだろう)となる。1667年Jönköping 砲兵隊の中尉。1674年スターデ(Stade:街の名前)砲兵隊の大尉。1677年マルメ(Malmö:街の名前)砲兵隊の少佐。中佐を経て、1697年、砲兵大佐に昇進(1697-1702)。1702年リガにて死去。1700年7月はじめ、海路を経てカルマルに野戦砲兵隊を輸送するように命令を受けたが、カールがシェラン島に上陸した7月25日になっても、カルマルどころか、ストックホルムから少し離れたDalarö周辺に砲兵隊と伴にとどまっていた。この緩慢な対応により彼はカールの信頼を失った。以後、第1線から姿を消す。

Magnus Granatenhielm[1644-1714]
1664年ヴェステルゴトランドにて生誕。1655年、騎兵としてスモーランド騎兵連隊に入隊。1661年、Jönköping砲兵隊に入隊。1674年に中尉。1676年、大尉。1678年、少佐。1681年、貴族に。1697年マルメ砲兵隊の中佐。1702年、砲兵大佐に昇進(1702-1706)。1706年、自らの希望と中傷により、少将の地位で引退。 彼はカール10世の戦役やカール11世のスコーネ戦争に参加し、さらにカール12世の初期の戦役に参加した経験溢れる将校だった。Meckが、王の信任を失っていたため、ナルヴァ会戦では、野戦砲兵隊の全体の指揮を執った(Siöbladの下で)。

Rudolf von Bünau [1651-1709]
1651年ステッテンにて生まれる。1671年国王親衛隊のマスケット銃兵としてルンド会戦に参加。1673年Haren's連隊の少尉(旗手)。1675年中尉。1677年Wulffen's連隊で中隊長代理(Lieutenant-Captain)。1678年騎兵となる。1680年カールソン伯爵指揮下のViborg砲兵隊の大尉となる。1694年リガ砲兵隊にて少佐に昇進。1698年ステッテン砲兵隊の中佐。1704年、野戦砲兵隊に編入。1706年、砲兵大佐に昇進(1706-1709)し、同時にカール12世指揮下の野戦軍の野戦砲兵隊の司令官にも就任。ロシア戦役においてもその地位にあり、1709年のポルタヴァの戦いにも参加。敗戦後、ペロヴォロチナにて捕虜になり、収容所への行軍の最中の7月4日に死亡。

Gustaf Gabriel Appelman [1660-1721]
1660年、ポンメルンにて生誕。彼の母は、レーンスケルド元帥の妹か姉である。1675年、ポンメルンの砲兵隊に志願兵として入隊。1695年大尉。1698年少佐。1702年中佐。1710年、砲兵大佐に昇進(1710-1716)。1716年Kopparbergs州の知事。1717年、少将。1719年男爵となり、同年歩兵中将。1721年死去。
1700年ナルヴァ会戦に参加。ポルタヴァの敗戦の後、スウェーデン本国にいた彼は、砲兵大佐として壊滅した砲兵隊の建て直しに尽力した。

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