軍隊と兵器
◆ザクセン軍◆

野心と享楽への欲望が、常に後者が勝っていたにせよ、王の中核だった。
- J.H.von.Flemming -

1.ザクセン軍の概要
2.ザクセン軍の編制
3.ザクセン軍の士気と錬度

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ザクセン軍の概要

 1694年にアウグストが選帝候になって以来、彼は多大な情熱を軍の育成に注いでいた。彼はよく知られているように決して優れた軍事指揮官ではなかったが、軍事以外の分野で示したように非常に優れた組織家であり、その才能は軍政家としての彼にも生かされた。
 アウグストが力を注いだザクセン軍の歴史は極めて浅い。歴代のザクセン選帝候は常に少数の親衛隊あるいは私有の軍隊を持っていたが、常備軍は保有していなかったからである。1613年以降ザクセンには、ただ一つの貴族騎兵隊「Ritterpferd」と、帝国軍管区(クライス)と諸都市から徴集された郷土民兵隊「Defension」があるのみで、兵士たちは籤で選ばれていた。また兵士になると言うことは人々にとって忌避されることであり、しかも徴募は戦時のみに行われる臨時的なものだった。
 この状態に変化が起きたのは、時の選帝候ゲオルグ3世が常備軍の設立に取りかかった1681年のことである。そしてあくる1682年、ザクセンは国王親衛隊と5個騎兵連隊、6個歩兵連隊、24門の火砲を有する砲兵隊からなる常備軍を編制することとなった。1692年には士官候補生団が将校になることを希望する貴族の若者たちのために組織された(もっともこれは現代の士官学校のようなものではない。この組織は決して深い軍事的知識を与える教育機関ではなかった。この時代にあっては、ザクセンのみならず全ての国々において、そのような兵術は実戦で習得するものであるか、あるいは経験豊かな老練な士官によって手ほどきを受けて学ぶものであったからである)。
 兵士の錬度と装備、編制状態についての監督は、査閲総監が個々の武器ごとの検閲官とともにその責を負い、最高司令官として選帝候が全権を握った。陸軍元帥には選帝候の下で、戦時において実質的な指揮を執ることが期待された。常備軍の総数や部隊数は時代により変化して様々であるが、大北方戦争が勃発した段階における軍の規模は書類上2〜30,000名であり主な部隊は次の通りであった(各都市の守備隊などは含まず)。
  • 近衛騎兵団  1個
    Garde du Corps
  • 親衛騎兵連隊 1個
    Leibregiment
  • 胸甲騎兵連隊 5個
    Kurprinz, Konigin, Baner, Steinau, Reichenau
  • 親衛竜騎兵連隊 1個
    Leib dragoon
  • 竜騎兵連隊  3個
    Kurprinz(dragoon), Wolfenbuttel, Goltz
  • 近衛歩兵連隊 2個
    Polnische Garde, Sachsische Garde
  • 歩兵連隊   8個
    Kurprinz, Konigin, Benkendorf, Robel, Tiesenhausen, Neitschutz, Steinau(Sacken), Biron(Venediger)
  • 砲兵隊(砲兵中隊3個、段列中隊、工兵中隊、架橋中隊)
 胸甲騎兵は剣と2挺の短銃、1挺の騎兵銃を装備し、竜騎兵の場合は騎兵銃ではなく短めの銃剣付きのマスケット銃を装備した。歩兵はフリントロック式マスケット銃と銃剣、歩兵剣で武装していた(スウェーデン軍とは異なり槍兵はすでに消滅していた)。訓練操典は1704/5年に改められ、これは1720年代にプロイセン軍の操典を模倣したものに刷新されるまで存続した。
 また、陣地設営や工兵任務を専門に行う築城工兵団は1712年になるまで編制されなかった。大北方戦争終了後、この専門部隊は、おそらく欧州初めての軍事郵便隊をも含み、44名の士官を有する常備工兵団となった。
 軍の規模はスウェーデンからの脅威が消滅したと思われた1717年に縮小され、書類上の総兵力は開戦時のおよそ半数にあたる約15,000名にまで低下した(おそらくその実数は10,000前後であったと思われる)。これに伴い軍における兵と将校のバランスは著しく崩れた。(このときザクセン軍には大将13人、中将16人、少将20人、大佐36人がいた)
 アウグストは常に軍資金に頭を悩まされていたが、それはおそらくポーランドにおける戦争が佳境にあってもなお皇帝に兵士を拠出せねばならなかったからである。1702年11月〜1704年4月の間、ザクセンは4個騎兵連隊と6個歩兵連隊を皇帝に提供する条約を結び、スペイン継承戦争に協力している(書類上、提供する兵力は8,000であったが実際には5,000のみが同盟軍に参加した)。1709年には再び、12個騎兵大隊と6個歩兵大隊を帝国軍に供給して、ザクセン軍はフランドルに前進しマルプラケ会戦に参加している。つまるところ二正面戦争を展開していたのはスウェーデンだけでなかったのである。
 しかし問題はそれだけではなかった。ザクセンの国力そのものがアウグストの野心を維持するには小さすぎたのである。たしかにザクセンはドイツ諸侯の中でも最も大きな勢力を誇っていた。国土面積40,150平方km、人口およそ200万、しかしそれでもなお彼が手に入れようとしたものは大きすぎたように思われる。その税収は年100万ターレルを超えていたが彼は戦争を遂行するためにさらに多額の資金を必要とした。彼は1702年に臨時税を、1709年には人頭税と資産税を導入し、税収を年670万にまで上昇させている。加えて彼は他のドイツ諸侯に対して持っていた請求権や種々の権利を売り払い。314万ターレルを手に入れ、スペイン継承戦争におけるハプスブルク家の要求を認める見返りとして年20万ターレルの援助金を獲得した。しかしそれら全てを合わせてもなお急増する出費を満たすことは出来ず、アウグストはユダヤ系資本家から多額の借金をしてその支払いに充てている。必要とする兵士の数も1702年にザクセンにおいて徴兵制が導入されたにも関わらず、それでも足りないため、諸外国から獲得しなければならなかった。すでに1697年、ザクセンはイングランドおよびオランダによって傭われて、戦争終結に伴い契約が終了したドイツ諸侯部隊を雇用しようとしており、更に加えて新たな契約を1702年に諸国と結ぼうと交渉を行っている。しかしそれらの試みはデンマークとのものを除いて失敗した。なぜならアウグストには、交渉をねばり強く行う時間がなく、また部隊を傭い運用する資金も用意できなかったからである。1702年におけるザクセン軍の総兵力は書類上27,000(歩兵16,000、騎兵11,000)であったが、歩兵の充足率は69%、11,000名程度であり、騎兵に至っては全く足りず、減少するザクセンの人的資源から定期的に徴兵してポーランドで運用できたザクセン軍の実数の平均は、常に15,000名程度でしかなかった。

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ザクセン軍の編制

 各部隊の編制については、様々な資料が互いに矛盾する内容を記載しているため統一的な見解を書くことは出来ない。そのためここでは各資料にあげられた内容のみを記載する。

歩兵の編制
 1696年以降、各歩兵連隊は各々150名からなる歩兵中隊15個および擲弾兵中隊1個で編制され、5個中隊で1個歩兵大隊を編組した。"Danish General Staff"
 1703年において、すべての歩兵連隊は1171名の兵員を定数とした。連隊は将校団の他、94名からなる擲弾兵中隊と88名からなる12個歩兵中隊によって構成され、加えて各歩兵連隊には、砲兵将校1名、砲兵6名、工兵6名、人夫9名、砲兵馬15頭からなる連隊砲兵隊が加えられた。(歩兵連隊は基本的に2個大隊に編組された)"Austrian General Staff"
 1705年、歩兵連隊は16個中隊で編制され、中隊は8個ずつ2個大隊に分けられた。それぞれの連隊には大佐2名(1名は連隊保有貴族「インハーバー」)、中佐1名、少佐2名、連隊兵站将校1名、副官1名、会計官1名、従軍牧師1名、連隊外科医1名と助手8名、伍長勤務4名、オーボエ奏者8名、工兵1名、大尉11名、大尉勤務1名、中尉15名、少尉5名、旗手16名(各中隊に1名)、曹長16名、軍曹16名、旗手補佐16名、伍長64名、ドラム奏者32名、擲弾兵128名、兵卒1024名、従僕16名が配置され、総員定数1391名であった。(1705年において、擲弾兵は、すでに1つの中隊を構成しておらず、16個ある中隊にそれぞれ配置されていたようである)"Schuster .O and F.U.Francke"
 1700年から1706年までの戦場におけるザクセン軍歩兵連隊は1ないし2個大隊に編組され、その大隊の兵数はおよそ625〜650名程度であった。"Sweden General Staff"

騎兵の編制
 1700年、胸甲騎兵および竜騎兵連隊は58名からなる中隊12個で編制され6個の騎兵大隊を編組した(総数約700名)。"Danish General Staff"
 1703年、胸甲騎兵および竜騎兵連隊は74名からなる中隊12個で編制され、2個中隊で1個騎兵大隊を編組し、連隊の定数は898名であった。(すべての騎兵連隊は4個騎兵大隊を保有していた)"Austrian General Staff"
 1707年、胸甲騎兵および竜騎兵連隊は8個騎兵中隊で構成され、戦場では4個騎兵大隊に編組された。各騎兵中隊は12名の上級下士官(prima plana)と兵卒75名で構成された。連隊の定数は約700名であった。"Schuster .O and F.U.Francke"
 1701-1706年においてザクセン軍の胸甲騎兵および竜騎兵連隊は各々おおよそ150名からなる騎兵大隊6個あるいは4個で編成されていたとされている。"Sweden General Staff"

 近衛騎兵団と騎士護衛隊(Chevaliergarde,1703年創設)は別々の部隊である。近衛騎兵団の総数は333名で75名からなる中隊4個で編制され、2個大隊に分けられた。1701年にGrenadiers zu Pferde とKarabiniersがこれに加わり兵員は増強された。その後、近衛騎兵団は1702年に解体され、個別の名前持つ4個胸甲騎兵連隊に再編された。しかし1703年には再び編制され、Kurprinz、Jordan、Eichstadtの3個胸甲騎兵連隊から兵員が選抜された。新たな近衛騎兵団は3個中隊からなる4隊(Trabanter, Karabinieres, Grenadiers zu Pferd, Dragoner)で構成された。各隊の兵員数は180名、総数720名で、大佐、中佐、少佐3名、大尉3名の将校団を保有したとされるが、1703年以降の実数としては400名程度であったと推測される。その後、近衛騎兵団は1710年、12個中隊、867名となったとされる(騎士護衛隊を含めた総数であるとも言われる)。
 騎士護衛隊はスウェーデンにおけるドラバント隊に類する部隊であり、精鋭で構成された80名から180名で構成される騎兵大隊で、構成員はすべて将校の階級を保有していたとされている。

砲兵の編制
 1699年の終わり、砲兵中隊3個、段列中隊、工兵中隊、架橋中隊からなる砲兵隊が編制された。1701年の秋、砲兵隊は大佐1名、中佐1名、少佐2名、3名の士官と75名の兵卒からなる6個中隊となった。各中隊は6ないし8門の砲を所有していたと思われる。

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ザクセン軍の士気と錬度


 ザクセン軍はスウェーデン軍に多くの敗北を喫したため、後世におけるその評価はあまり芳しくない。しかし実際には彼らは敵に劣らない士気と錬度を保有していた。例えば1704年のプニッツにおいて、スウェーデン騎兵がザクセン歩兵隊に突撃を仕掛けた際、彼らは堅い方陣を組みこれに対抗した。しかもザクセン歩兵はスウェーデン騎兵におされて突破を許しても地面に身を投げ出して騎兵をやり過ごし、再び立ち上がるや方陣を組んで全方位に射撃を再開して、スウェーデン騎兵に多大な損害を与えたと記録されている。
 1706年のフランシュタットにおいてもザクセン歩兵だけは勇戦したことが記録されており、損害の多くはロシア軍やフランス人やスイス人捕虜からなる部隊で発生している。
 彼らが常に敗北したのは、実の所、数合わせのための援軍や騎兵対騎兵戦におけるスウェーデン戦術の優位によるところが大きいと思われる。

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