〜軍隊と兵器〜

瑞典海軍

1.海軍史
2.水兵の種類
3.組織
4.艦艇について
5.大北方戦争
6.参考文献
誰も興味がないのにこの長さ……。アホデス私。

臣は一生に斯くの如く、深く感動せることなし。臣の行動は、臣が勇気において誰人にも譲らざるべきを示さん
- H.Wachtmeister -


[軍隊と兵器の目次]

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第1章 海軍史

 カール十二世が1697年にスウェーデン王位を継いだとき、王国は欧州でも有数の海軍力を保有していた。スウェーデン王国海軍は、先のデンマークとの戦争により甚大な被害を被っていたが、その治世の後半において海軍再建に力を注いだカール十一世の指導の下で、そのかつての姿を取り戻していた。そしてその結果、スウェーデン王国艦隊は、デンマークに対してわずかながら数的優位を獲得し、バルト海航路の防衛と維持というその任務を遂行するに足る力を備えるに至っていた。
 問題があるとするならば、スウェーデン王国艦隊の活動範囲がバルト海(足を伸ばしたとしてもせいぜいがスカゲラック海峡まで)に限られ、士官にしろ水兵にしろ外洋航海の経験が少なかったことである。しかしながら、彼らは組織海軍としての長い歴史を持っており、その組織は綿密に作り上げられ、常に試されてきた。そして良く組織された王国海軍にとって、経験の不足は決して致命的ではなかった。ここではその海軍の歴史について見ていきたい。

1.1 海軍の創設
1.2 グスタヴ二世アドルフの時代
1.3 スコーネ戦争
1.4 カール十一世の改革

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1.1 海軍の創設
   スウェーデン王国艦隊はグスタヴ・ヴァーサによって組織された。彼は中世の名残を残す従来の海上戦力を、現代にまで続く海軍に変革した真の創設者であり、1522年に艦隊を創設してから、不断の努力を海軍創設に注いだ。その証拠に、彼の息子エリック十四世が後を引き継いだ1566年の艦隊リストには、70隻以上の船名が記されており、そのうち52隻が20門以上の、23隻が40門以上の艦載砲を積んでいたことが分かっている。このエリック十四世もまた、グスタヴ・ヴァーサによって導入された組織を拡張する政策をとり、スウェーデン海軍の基盤はこの二人によって固められたと言える。
 とは言え、国家の南、カテガット沿岸を含む地域は、いまだにデンマークの領土であり、グスタヴは当初、船や軍需品だけでなく水兵も外国に頼らざるを得なかった。それでも彼は1535年、初めてスウェーデンに火薬工場を設立し、その数はエリック十四世の命令によって拡大した。彼はまた、火薬や剣、鎧に水兵の制服のための布地の準備をするように命令している。1540年、グスタヴはヴェネチアの造船家を雇い入れ、初めてバルト海においてスウェーデンのガレー船を建造した。補給部品の多くは様々な教区からの地方物産品でまかなわれるように詳細な取り決めを規定し、物品が提供できない地域からは、それらを運ぶ荷馬車を徴用した。グスタヴは1535年、陸海軍条例を発布した。その目的は海軍に規律と制服規定と軍需品の消費に関する財政を導入することだった。

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1.2 グスタヴ二世アドルフの時代
 17世紀初頭、グスタヴ・ヴァーサとエリック十四世の海軍政策は捨て置かれてしまっていた。そのため、スウェーデン海軍は衰退していた。実際1612年、グスタヴ二世アドルフが王位を継いだとき、艤装を終えて任務に付ける艦は僅か12隻のみだった。1615年、スウェーデンの王国参事会は、王国の海軍力の衰退を懸念して次のように言っている。「王国全土の繁栄は、海軍に左右されると思われる」。これを受けて偉大なる王は、早々に艦隊の増強に着手した。相当数の[härad, hundreds]が技師や建築労働者として呼び集められた。そして1625年には、21隻の新造艦が建造され30隻のガレー船が任務に付ける状態にまで回復した。常に海軍について関心を持っていた偉大な政治家アクセル・オクセンシェーナは、王国参事会に向けての文書の中で次のように述べている。「海軍はスウェーデンを強大にするが故に、完全に準備が整った状態であるべきである」。
 とは言え、艦艇建造計画が常に順調であったわけではなかった。特に1628年8月10日に起きたヴァーサ号事件は、当時の戦艦建造技術の限界を示した。この日、ストックホルム湾に多数の艦艇とともに現れた新造三檣戦列艦「ヴァーサ」号は、当時としては世界最大級の軍艦だった。合計400名もの人々が造船に携わり、建造期間は2年を要した。檣の頂上から竜骨までは52メートル。船首から船首までが69メートル、そして重さは1,200トン。船体に積まれた64門の大砲の殆どが24ポンド砲であり、ヴァーサ号ほど多くのそして重量のある大砲を搭載した軍艦はスウェーデンにはなかった。それはまさしくスウェーデン海軍の旗艦に相応しい大型艦であった。
 しかしヴァーサ号には致命的なミスがあった。17世紀の設計者たちは過去の作業でうまくいった船舶の寸法表を使用して、新造艦の設計を行っていたが、ヴァーサ号の場合、途中でグスタヴ二世アドルフの艦載砲を更に追加するという命令により、造船開始後に計画が変更され、選択した船舶の寸法が不適切となってしまったのである。結局、 ヴァーサ号はトップヘヴィーの船となり、釣り合いを取るために底部に積み込まれたバラストの甲斐もなく、その不安定さは、改善されなかった。
 そして、このお披露目の日、悲劇は起きた。市民に向けて礼砲を放った後、ヴァーサ号に突然、2度の突風が襲いかかった。ヴーサ号は1度目の突風には耐えたが、2度目には耐えられなかった。巨艦は横転し、150名の乗組員のうち少なくとも30名、多ければ50名もの人々を道連れにして海底に没したのである。
 これはスウェーデン海軍の威信を大きく傷つける事件だった。しかしこのような失敗を受けても、グスタヴ二世アドルフの海軍拡張政策に揺らぎは見られなかった。
 彼は組織的な点からも海軍を改革しようとして、都市水兵団と後になる組織を提唱していた。これは、1629年スウェーデンの諸都市からの代表者との会議の席で提案された。それによると、諸都市は水兵団の組織に参加するべきであり、その目的は、国家の防衛と商船路の安全を守り、月々の運賃料を稼ぐ船に装備と人員を提供することである、というものだった。水兵団責任者はその町の住民の代表であり、特権が与えられ、それに雇用された船員は、6年間の地方税を免除されるとされた。
 このように艦隊に兵を配置することも、グスタヴ二世アドルフの問題だったが、幸いなことに彼はその組織を基礎から作る必要はなかった。この目的を意図した組織は早い時代からスウェーデンには存在していたからである。内陸部の教区は[härad, hundreds]に分けられ、陸軍に兵員を供給していた。沿岸部の教区は[skeppslag]と呼ばれ、その名前は国家の海軍とのつながりを示していた。しかし水兵を徴募する方法は不規則で、沿岸部に住む多くの人々の不満の種であった。そこで不平を黙らせるため、1577年1月に徴募法を効率的にする条例が公布され、王国全土に適用された。この条例により政府は、緊急の際に国を守るために臣民すべてを徴兵する権利を保持しつつ、通常は沿岸部に居住する農民やその使用人、浮浪者の人口比率を考慮して水兵徴集を行うことを認めた。この組織化の方法はカール九世により更に洗練された。彼は水兵の徴集にも割当制度を適用した。これは後にカール十一世により改良されることになる。
 しかし、このような海軍に人員を配置させる組織化された手段があったにもかかわらず、それは決して十分ではなかった。そのためグスタヴ二世アドルフは1616年、オランダから士官と水兵を呼び寄せる必要にせまられた。このような状況を受けて彼は、海軍に訓練された一定量の水兵を常に確保するための様々な条例を生み出し、それにより各400名からなる5個水兵中隊を必要なときに編成出来るように制度を整えた。これらの努力の結果、1621年においては4,210名であった海軍水兵の総数は、1630年には5,587名と増員されていた。
 海軍の行政組織はより精巧であらねばならなかった。基礎となる組織は1594年、王国海軍局(the office of Admiral of the Kingdom)として設立されていた。この上位組織の役割は、ストックホルムの艦船工廠の維持運営と、常に数隻の艦艇を臨戦状態としておかねばならないフィンランドにおいて、水兵の訓練と装備に対して監視を行うことであった。
 1614年には、ストックホルム港内にある群島の一つに設置された軍港に艦閲総監がおかれた。彼は、停泊中の艦艇と軍需品の維持と管理に対して特別の責任を負った。このような海軍軍政を司る組織の開発は、グスタヴの死後、若年のクリスティナ女王の代わりを務めた摂政政府により継続された。そして海軍顧問会議[Amiralites-Kollegium]が1634年、設立され、王立艦隊に所属する水兵は、それぞれ海軍中将を長官とする3つの提督府(Admiralate;[Amiralskap]あるいは連隊)に分けられることとなった。多くの州と都市がこれら提督府に配属された。当初この提督府(連隊)は180名からなる中隊5個で構成され、そのうち4つが水兵、1つが砲手であった。
 こうしてグスタヴ二世アドルフによって始められた常備水兵団の設立は、彼の死後に完成した。この常備部隊は、スウェーデンとフィンランドの沿岸地区とエーラント島を基礎としていた。1638年3つの水兵連隊と3つの砲手中隊が艦隊に配属され、その数は士官を除いても3,379名に上った。1644年、その数は5,160名に増加した。
 こうしてスウェーデン海軍は着実に成長していたが、カール十世の死後、その後を任された摂政政府は、艦隊の維持を怠ってしまった。その結果、せっかくのグスタヴの努力も水の泡となった。スウェーデン海軍艦艇の多くは老朽化が進み、カール十一世がその事実に気がついたのは、すべてが手遅れであることが明らかになった後であった。その状態のひどさは『暴風が吹けば腐った綱が切れ、帆も錨も失い海に漂い、食べ物も悪く、乗員は病人だらけ、辛うじて役立ちそうな軍艦が11隻ていどあるだけ』とまで言われている。
 スコーネ戦争が始まり、1675年の秋に艦隊が出航したとき、スウェーデン海軍には24隻の戦列艦、10隻のフリーゲート艦、24隻の武装商船、水兵7,181名、海兵2,981名が存在していた。しかしそれが張り子の虎であることが判明するまでには大した時間を要さなかった。

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1.3 スコーネ戦争
 1674年、スコーネ戦争が勃発した。この戦争は、スウェーデン側が完全に守勢に回った戦争だった。その年にフランスからの要請に応えてブランデンブルクを攻撃したスウェーデン軍は、翌年から大選帝候と呼ばれたフリードリヒ・ヴィルヘルムのブランデンブルク軍に敗北を続けていた。その一方で本土においては、デンマーク軍の上陸を許し、元々はデンマーク領であったスコーネ・ブレーキンゲを占領され、王国は危機を迎えていた。
 このような状況の下、スウェーデン海軍もその力量が試されることとなった。しかし結果は散々たるものだった。陸での敗北に続き、スウェーデンは海においても、グスタヴ二世アドルフやカール十世グスタヴの時代が既に遠い過去の者となってしまっていることを示してしまった。1676年のエーランド島沖海戦では、デンマーク艦隊に完敗し、唯一、死を賭けたクラス・ウグラの奮戦だけが慰めとなった。
 しかし1677年7月1日コーェ湾海戦は、そのような慰めすらもなかった。この海戦はスウェーデン海軍史上、最も完璧に近い敗北であった。21隻の戦列艦を含む45-47隻のスウェーデン艦隊は、数で勝っていたにもかかわらず、ニルス・ユール提督率いる戦列艦19隻を中核としたデンマーク艦隊34隻に、殲滅されたのである。デンマーク艦隊は僅か死傷375名、1隻の艦艇も失わずに戦列艦8隻を含むスウェーデン艦隊の6割を撃沈し3000-4000名を死傷させた。このパーフェクトゲームはスコーネ戦争における制海権の行方を決した。
 海軍だけ見れば、デンマークの優越は明らかだった。もし、デンマークが陸戦においても、戦争初期の勢いを保っていれば、彼らはスウェーデンの打倒と、バルト海の覇権の確保という悲願を達成していたかも知れない。しかし、スウェーデンにはまだ、底力が残っていた。海軍の壊滅は、スウェーデン・ドイツ方面軍の敗北を意味したが、本土においては、それは関係なかった。1676年のルンド、1677年のランドスクローナ、これらの会戦に勝利したスウェーデン陸軍は、フランスの仲介により、ドイツの領土もほぼすべて返還してもらい、本土の防衛にも成功して、戦争の終結を迎えることが出来た。
 しかしそれは薄氷の勝利でしかなかった。カール十一世は戦争が終わると直ぐに、国内の大改革に着手した。それは陸海軍の大改革につながった。カール十一世は海軍の重要性を理解していた。

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1.4 カール十一世の改革
 1679年、ルンド条約にて戦争が終わったとき、スウェーデン海軍は壊滅していた。戦列艦の数は16隻、フリーゲート艦は4隻、小型艦艇は6隻と、その規模は大幅に落ち込み、それらの艦艇にしても、決して良好な状態を保ってはいなかった。カール十一世にとって、国家防衛の再構築は極めて重要でさし迫った問題だった。特に、海軍軍港には強い関心が払われた。カール十一世は戦争の経験から新たな軍港カールスクローナを設立し、そこを海軍の拠点に定めた。カールスクローナ軍港は1680年から稼働し、1686年には、そこの海軍工廠から初めての戦列艦が進水した。
 また彼は、熟練した士官を集めるため、平時において、海軍士官を外国海軍に派遣し、船舶操縦術、海上砲撃術を学ばせることに務めた。そして、陸軍にも適用した割当制度を使うことにより、常に一定量の水兵を確保し、彼らを組織化した。スウェーデンには21個の、フィンランドには6個の割当召集水兵中隊が創設され、またそれとは別に個人召集水兵中隊が6個創設された。これらの制度により艦隊には6,202名の水兵が常に配置され、戦時には3,497名がさらに追加出来る体制が整えられた。
 水兵に加えて、年間で常に1200名分の志願水兵(士官候補生)の賃金と制服も用意され、また商船から水兵を召集するために、夏の航海の時期には高い給料と食料の無制限供給、冬には夏の3分の2の給料が支払われることが規定された。
 特別部門も創設あるいは拡充された。軍医の数も増加し、それ以外の准士官の給与も見直された。水先案内人らの集団も正規兵と規定された。

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第2章 水兵の種類

 海軍艦艇に乗り組む水兵には、大きく分けて五つの種類がある。これは海軍が数種類の異なった方法で乗組員を徴募したからである。ここではそのそれぞれについて見ていきたい。また、最後に下士官についてと各艦あたりの乗員構成を載せる。

2.1 召集水兵
2.2 商船水兵
2.3 専門水兵
2.4 志願水兵(士官候補生)
2.5 少年水兵
2.6 准士官と下士官
2.7 平均的な戦列艦の乗員構成

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2.1 召集水兵[Båtsmän](単数形Båtsman 複数形Båtsmän)
 召集水兵[Båtsmän]は割当制度によって召集される水兵であり、船の修繕から戦闘時の砲手まであらゆる任務に就いた。一般的に言って、召集水兵[Båtsmän]は船上において下級乗組員であると言って良い。
 召集に使われる割当制度には三種類あり、同じ召集水兵でもその制度は全く異なっていた。また、イングランド海軍のように強制的に水兵を徴募すると言うことは、制度的には存在しなかった。召集水兵の生活は農業に基づいており、ならず者や飲んだくれが多くを占めていた他の海軍とその点で大きく違った。

  • 2.1.1 割当召集水兵[Rotarade båtsmän]
     多くの召集水兵は陸軍の兵卒と同じ手法で徴集された。それは[rota]農民による方法である。そして、この方法で雇用された召集水兵は割当召集水兵[Rotarade båtsmän]と呼ばれた。  この時代、あらゆる水兵割当制度[Båtsmanshållet]は戦時において追加や補充の召集水兵を供給することが出来た。
     海軍は当初、都市の[rotar]に頼っていた。しかしこれはすぐにその効果を失った。都市民は召集水兵を提供する代わりに、お金を払うことで済ますようになったからである。
     1634年10月、すべての沿岸教区が水兵割当制度に組み込まれた。rotarの数は1640年には拡張された。海岸線から10km以内の全ての教区が海軍割当制度に組み込まれたのである。
     大北方戦争前の彼ら割当召集水兵の総数は、厳密には分からないが、ここでは3,846名であったという資料を採用しておく。
  • 2.1.2 都市割当召集水兵
     沿岸諸都市はごく初期の頃から召集水兵を供給する役目を負っていた。海軍に水兵を提供するこの制度は、陸軍に兵士を提供する割当制度に参加していない都市にとって、唯一の兵士提供義務だった。
     しかしながら、この制度は直ぐに空文化した。都市住民は費用を提供することで、水兵を提供する義務からの免除を願い出たからである。1748年にはほとんどの都市の割り当て召集水兵制度は実行力を失っていた。唯一の例外はストックホルムだけだった。ただし、戦時は別で、都市はその場合には水兵を提供した。
     大北方戦争前の都市割当召集水兵の総数は、厳密には分からないが、ここでは892名であったという資料を採用しておく。
  • 2.1.3 個人召集水兵[Indelta båtsmän]
     陸軍の騎兵と同様の方法で徴収される召集水兵のことを個人召集水兵[Indelta båtsmän]と呼ぶ。[rusthåll]制度を使用した召集水兵であり、その数は全体から見ると少数である。
     この制度において、一人の[rusthåll]農民は、政府と個人契約を取り交わし、一人の召集水兵を提供する責任と、その制服、住居を用意する責任を負うこととなっていた。そしてその代わりとして、彼らは税の免除を受けることが出来た。また[rota]農民として[rotering]制度に参加せずに済んだ。彼はまた、[rota]農民と同様に、徴兵の義務から逃れることが出来た。この個人召集水兵[Indelta båtsmän]は、全ブレーキンゲ州とスモーランド州の一部(Södra Möre)に存在した。
     これにはちゃんとした理由があり、それは、スウェーデン海軍最大の軍港であるカールスクローナがブレーキンゲ州にあるからである。
     1680年に設立された新たな軍港カールスクローナの周辺には、その当時、充分な水兵が居住していなかった。そのため、早急に充分な数の海軍水兵をこの新たな軍港に集める必要があり、政府は強引に北部フィンランドやノーランド州などの辺境の召集水兵を移住させることにした。こうして1350名に及ぶ彼ら辺境の召集水兵と、その家族が強制的にカールスクローナ周辺やブレーキング州に移住させられることになったのだが、その時、彼らの抵抗を緩和させるために、騎兵に適用していた制度を彼らにも適用したのである。こうして彼らはブレーキング州やカルマル郡周辺、セドラ・メレ[Södra Möre]で、個人召集水兵となったのである。
     後に彼らの総数は増加した。大北方戦争前の総数は、厳密には分からないが、ブレーキンゲ個人召集水兵の総数は1500名前後、セドラ・メレ個人召集水兵の総数は801名程度とされている。
  • 2.1.4 召集水兵の階級
     召集水兵[Båtsmän"]には彼らの経験に応じて4つの階級がある。
    先任水兵[熟練(Välbefaren)] 少なくとも24ヶ月の航海経験(外洋任務あり)
    上等水兵 [経験あり(Befaren)] 少なくとも12ヶ月の航海経験(海外渡航任務)あり
    1等水兵[多少経験あり(Sjävan)] 少なくとも6ヶ月間の航海経験(海上任務)あり。
    2等水兵[経験なし(Obefaren)] 全くあるいは非常に少ない経験を積んだもの。船舶操縦術の経験無し。
     上等水兵以上はコンパスを読む能力があり、測深、縮帆、操舵の任務をこなすことが出来た。

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2.2 商船水兵[Kofferdimatroser]
 彼らは、商船隊から招集された専門家である。商船水兵[Kofferdimatroser]は召集されると、海軍と個人契約を取り交わす。平時において彼らには4ダーレル銀貨による現金給与が支払われ、その代わりに1年に6ヶ月間、海軍に勤務しなければならなかった。そして残りの6ヶ月間は商船で勤務した。もっともこのような水兵は多い時でも3,000人を越えることはなかった。戦前の商船水兵は3個中隊に分けられていた。
 艦艇に配属される際において彼らは、その職種の特性、つまり海上での様々な経験を持つという特性から、等しく全艦艇に分派され、経験浅いもしくは無い同僚を指導する立場をとった。これは後年のフランス革命軍が古参兵と新兵を同じ隊に配属させ、全体の練度を平均化し、同時に古参兵の持つ技能が合理的に、新兵に伝わるように意図したのと同じ考えである。戦時における彼等の増員はおもにスコーネやホーラント州で行われた。

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2.3 専門水兵[Värvat(Enlisted) båtsmän]
 専門水兵[Värvat båtsmän]は、カールスクローナ軍港を根拠地にしていた。彼らはある種の「選抜」水兵であり、そして商船隊から招集された乗組員たちとともに彼らは、船上でより優れた技能を発揮した。
 彼らは陸軍で言うところの志願兵[Värvade]に相当する。

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2.4 志願水兵(士官候補生)(Volunteers)
 志願水兵は士官候補生である。彼らは下士官から始まり、訓練を積み士官となる。戦闘時、志願水兵の多くは砲手長として各々の艦載砲の指揮をとった。

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2.5 少年水兵[Skeppsgossar]
 彼らの任務は戦闘中に弾薬(火薬)を艦載砲に運ぶことである。弾薬(火薬)は安全のため甲板からはるか下層に貯蔵されており、その貯蔵庫の天井は低かったため、その場所から火薬を運び出すのに小さな少年兵が必要だったのである。彼ら少年水兵[Skeppsgossar]は18才になると志願水兵となることが出来、士官への道が開けた。彼らの総数は100名前後であった。

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2.6 准士官と下士官
 下士官は分野別に、航海関係、砲術関係、運用関係に分けられた。航海系は、航海長の下に、上等下士官(Senior)、1等下士官(Intermediate)、2等下士官(Apprentice)という序列があった。砲術系は、掌砲長と砲手長に分けられた。砲手長は前述の通り、多くが志願水兵(士官候補生)だった。運用系は、航海系と同じように掌帆長の下に上等下士官(Senior)、1等下士官(Intermediate)、2等下士官(Apprentice)という序列が付けられた。おそらく航海長、掌砲長、掌帆長らは普通の下士官としてではなく、准士官に似た立場であったと思われる。1700年には彼等の数は412名を数えるに至った。

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2.7 平均的な戦列艦の乗員構成
 標準的な戦列艦1隻につき、約70名の下士官と准士官、志願水兵が乗り組むこととなっていた。また、約20名ほどの商船水兵[Kofferdimatroser]が他の水兵を指導する立場として、そしてそれ以外には250名の召集水兵[Båtsmän"]が乗り組んだ。また、1隻につきおよそ30名の少年水兵[Skeppsgossar]も乗り組んだ。陸軍からは110名程度の兵員が海兵として乗り組んだ。

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第3章 組織

 海軍の組織再編にはハンス・ワハトマイステルの存在が欠かせない。彼は若くしてイングランド海軍に義勇兵として入隊して海軍について学び、1665-7年の第二次英蘭戦争にも参加したスウェーデン海軍随一の男だった。散々たる敗北に終わったスコーネ戦争でも、敗北の中で勇戦して海軍大将にまで出世、第2次エーランド沖海戦では6隻を持って12隻のデンマーク艦隊を撃退。スコーネ戦争が終結すると、カール十一世の信任を受けてスウェーデンの海軍司令長官に就任し、カール十一世が推し進めた海軍再編の実際的指導に当たった。大北方戦争を戦ったスウェーデン海軍は、このワハトマイステル提督の主導の下に行われた再編によって誕生したと言える。
 ここではその海軍全体としての組織と水兵の組織について解説する。

3.1 海軍組織
3.2 水兵組織

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3.1 海軍組織
 海軍司令長官ハンス・ワハトマイステルが復興させたスウェーデンの新たな海軍は、イングランドとオランダの海軍を参考にして、良く組織化されていた。彼らは、確かに大北方戦争において勝利者となることは出来なかったが、それでも最後まで実効戦力を保持して国土を防衛した。

  • 3.1.1 組織沿革
     海軍の実質的な指導者は、海軍司令長官であり、その下に1634年に設立された海軍顧問会議(Amiralites-Kollegium)が、軍政組織として海軍を統括し、顧問会議に付属する事務局や工廠を含めて、イングランドで言うところの海軍本部あるいは海軍省に相当する組織を形成した。軍令組織としては、それぞれ海軍中将を長官とする3つの提督府(Admiralate;[Amiralskap]あるいはShip's regiment)が設立されていた。各提督府の水兵は6個水兵団(各水兵団に所属する中隊数は大きく異なる)を中核とし、第一と第二がスウェーデン系、第三提督府(艦艇連隊)がフィンランド系水兵団によって構成された。
     またこういった、提督府(艦艇連隊)の所属割り振りとは別に、各水兵団あるいは水兵中隊はその所属の軍港が決まっており、召集がかかると、彼らはそれらの軍港に集合し、艦艇に乗り組んだ。
     大北方戦争前の士官総数は129名。戦争激化に伴い、士官数も増加し1717年には士官総数217名を数えた。また大北方戦争前の水兵の総数は史書により様々であるが、艦隊に乗り組む水兵の総数は6,202名であるという数字をここでは上げておく。また戦時中はそれに3,497名が追加され9,700名近い水兵が艦隊勤務につき、海兵を含む総乗組員は19,313人に上った。
  • 3.1.2 階級
    海軍司令長官[Admiral General]

    海軍大将[Admiral] 1名
    海軍中将[Vice Admiral] 3名(それぞれ提督府長官を務めた)
    海軍少将[Lieutenant Admiral] 任務:海軍主計監 1名
    海軍少将[Lieutenant Admiral] 任務:海軍造兵監 1名
    海軍准将[Scoutbynachtter<オランダ語で夜の見張り役>=Konteramiral=Rear Admiral]*) 3名
    旗艦艦長[Major] 3名
    艦長[Captain] 33名 (海佐艦長、海尉艦長の総合数と思われる)
    海軍砲兵監[Artillery Captain] 6名
    海軍火工廠監[Ammunition Captain] 1名
    1等海尉[Senior Lieutenant] 45名
    2等海尉[Junior Lieutenant] 30名
    各種准士官と下士官
    志願水兵(士官候補生)[Volunteer]
    商船水兵
    召集水兵(割当召集水兵と個人召集水兵)先任、上等、1等、2等という位がある。
    少年水兵(戦闘時に弾薬を運ぶ)
    *)他の海軍の場合、Rear admiralは海軍少将に当たるが、スウェーデン海軍の場合はその上に、他国にないLieutenant Admiralの階級があるので、並び順から、海軍准将の訳語を当てた。
  • 3.1.3 軍港
     戦争の経験により、ストックホルムが艦隊の司令部を置くに相応しくないことが明らかになった。港は外海から離れすぎており、また多くの群島があり、そこから抜け出すのは易しいことではなかった。しかも、デンマークに対抗する都合上、初春には航海に出る必要があった海軍にとって、ストックホルムは北に位置しすぎていた。彼らはもっと南で、氷が溶けるのが早い場所を求めていた。そして選ばれたのがブレーキング州にあるTrotsöにある浜辺だった。そこならばストックホルムのように小島が沢山あって不便であると言うことも、冬の氷に邪魔されると言うこともなく行動できたからである。
     1679年11月、カール十一世はその地に、カールスクローナと名付けた街を建設することを発表した。軍港には大型艦艇の建設のためのドックや、鍛冶場、軍需倉庫が配置されることも決められた。
     そして1680年、新軍港の完成に伴い、扱いにくいストックホルムから、新たに建設されたカールスクローナ軍港に艦隊の主力は移転した。但し、間違えてはいけないのは、ストックホルムの軍港が捨てられたわけではないと言うことである。カールスクローナ以外の主な軍港としてはその他にヨーテボリやストラルズンド、ヴィオーボリが上げられ、それぞれ、重要な軍港として、要塞化などの整備が行われた。
  • 3.1.4 艦隊構成
     38隻の戦列艦に10隻のフリーゲート艦、その他のブリグ型帆船等で構成され、戦争勃発時には戦闘艦艇71隻、総砲門数2910門、海兵を含む総数は19,313名を数えた。
各国海軍艦艇数
国家 1700年 1710年 1720年
スウェーデン 戦列艦38隻 + フリゲート10隻 + 小型船多数 38or39隻 +17隻 24隻 + 9隻
デンマーク 戦列艦32隻 + フリゲート10隻 + 小型船多数 39隻 + 10隻 24隻 + 16隻
ロシア 不明、おそらく少数 戦列艦4隻 + フリーゲート7隻 33隻 + 13隻
フランス 戦列艦108隻   37隻
オランダ 戦列艦83隻   56隻
イギリス
(イングランド)
戦列艦127隻   102隻

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3.2 水兵組織
 召集水兵は特殊な水兵中隊からなる召集水兵団[Båtsman's Companies]を組織した。
陸軍の士官は自らの兵士たちと同じ地域居住し、地域連隊を作ったが、海軍においては、海軍士官は軍港周辺に居住した。しかしながら、召集水兵団の団長は召集水兵らと同じ地域で生活した。そして召集水兵が軍港に到着すると、海軍士官がこれら召集水兵団の指揮を執った。
 それぞれの水兵団は、1個から数個の水兵中隊で編制されており、中隊は25名からなる伍長隊4個、計約100名からなった(もっともこれは大体の目安である)。また、割当召集水兵団のほとんどは三つの提督府(艦艇連隊)のどれかに所属した。
 前述したが、提督府は第一と第二がスウェーデン系、第三提督府(艦艇連隊)がフィンランド系水兵団によって構成され、提督府(艦艇連隊)の所属割り振りとは別に、各水兵団あるいは水兵中隊はその所属の軍港が決まっており、召集がかかると、彼らはそれらの軍港に集合し、艦艇に乗り組んだ。

1700年、召集水兵は次の召集水兵団に分けられていた。

    スウェーデン割当召集水兵
    • ロスランゲン割当召集水兵団(2個中隊)Roslagen's 2 companies 第2提督府所属
    • ノーランド割当召集水兵団(2個中隊)Norrland's 2 companies 第2提督府所属
    • エストイェータ割当召集水兵団(1個中隊)Östgöta company 第1提督府所属
    • セーデルマンラント割当召集水兵団(2個中隊)Södermanland's 2 companies 第1提督府所属
    • テュスツ割当召集水兵団(1個中隊)The Tjusts Company 所属無し
    • スモーランド割当召集水兵団(1個中隊)The Småland Company 第1提督府所属
    • ボフスレン割当召集水兵団(2個中隊)Bohuslän's 2 companies 第2提督府所属
    • ヴェストマンラント割当召集水兵団(1個中隊)The Västergötland Company 第2提督府所属
    • エーラント割当召集水兵団(2個中隊)Öland's 2 companies 第1提督府所属
    • ゴットラント割当召集水兵団(2個中隊)The Gotland's 2 companies 第1提督府所属
    • ハッラント割当召集水兵団(2個中隊)Halland's 2 Companies 第2提督府所属
    フィンランド割当召集水兵
    • エーラント割当召集水兵団(1個中隊)Åland Company第3提督府所属
    • オーボレン割当召集水兵団(1個中隊)Åbolän Company第3提督府所属
    • ニューラント割当召集水兵団(1個中隊)Nyland Company 第3提督府所属
    • エステルボッテン割当召集水兵団(1個中隊)Österbotten Company第3提督府所属
    • エステルボッテン割当召集狙撃兵団Österbotten's bösseskyttar 第3提督府所属
    都市割当召集水兵
    • ストックホルム都市割当召集水兵団(1個中隊)The Stockholm City's Company 所属無し
    • ブレーキンゲ/スコーネ都市割当召集水兵団(1個中隊)The Blekinge/Skane Company 第1提督府所属
    • ウップステデルナ*)都市割当召集水兵団(1個中隊)Uppstaderna's Company 第2提督府所属
    個人召集水兵団
    • ブレーキンゲ個人召集水兵団(3個中隊)Blekinge Companies
    • セドラ・メレ個人召集水兵団(3個中隊)Södra Möre Companies
*)Uppsätdeとは、沿岸から遠く離れた都市の意味である。そのためこの水兵は海洋経験がまったくなく、そのため砲手や狙撃手としての役割を艦上で担った。1675年時点でその数は249名を数えた。1個中隊編制である。

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第4章 艦艇について

 当初、自力で艦船を建造する能力を持たなかったスウェーデンであったが、多くの外国人を登用し、また多くのスウェーデン人を外国に派遣することで、造船技術を学び、ついには、イングランドにも負けない巨大な船渠を建設して、全てを自力でまかなえるようになった。
 ここではスウェーデン海軍のみならず、一般的な話を交えて、海軍が使用した艦艇に対する解説を行う。

4.1 外国人造船家
4.2 艦載砲
4.3 艦艇の等級
4.4 艦艇の種類
4.5 著名なスウェーデン海軍艦艇

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4.1 外国人造船家
 17世紀から18世紀にかけてのスウェーデンの海軍史において、イングランド人とスコットランド人は頻繁に現れる。その中でも特にシェルドン[Sheldon]一族の名は、造船家のリストの中で頻繁に見つけることが出来る。
 スウェーデンにおいて造船主任となったフランシス・シェルドンは、カンタベリー大主教であったギルバート・シェルドンの親族で、ロンドン市長であったジョゼフ・シェルドン卿の親族であった。彼は、スウェーデンの歴史家によると、監禁されていたチャールズ一世の脱出工作に従事し、その失敗の後、スウェーデンに亡命してきたとのことである。彼はグスタヴ十世に歓待され、1655年、海軍の造船主任としての仕事を任された。彼は数隻の船舶の設計に携わった。しかし、1685年、自分が正当に政府から評価されていないことを不満に思い、故郷イングランドへと帰国した。
 しかし彼の息子たちはスウェーデンに残った。長男のフランシス・ジョン・シェルドンは彼の父の地位を引き継いだが、1692年に亡くなった。そのとき、彼と彼の父の仕事は、弟のチャールズ・シェルドンが引き継いだ。彼は1739年75歳で世を去るまでに、59隻以上の軍艦の設計に携わった。しかもその内のいくつかは、欧州でも有数の巨艦であった(スウェーデン最大の戦列艦「カール王」の設計も彼が担当した)。
 彼はまた、当時世界で8番目の不思議と言われたカールスクローナの大船渠の建造計画に参加し、その他にも様々な橋や工学事業にに携わった。スウェーデンのある歴史家によれば、スウェーデンにおける海洋建築工学はフランシスにより始まり、彼の息子チャールズにより引き継がれ、そして外国人教師から独立したとのことである。シェルドン一族は引き続きスウェーデン海軍の仕事を行い、各種の資料に名を残している。
 このような外国人造船家は非常に多く、彼らがスウェーデン海軍の基礎を作り、支えた。

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4.2 艦載砲
 艦載砲の多くはカノン砲(Cannon)であり、特別な注釈がない限り、砲とは、このカノン砲を指す。また、現代とは違い、この時代において大砲の大きさは砲の口径ではなく砲弾の重さで表された。艦載砲の大きさや長さは、反動を吸収するのに必要な空間と、それを扱う人員の数に制限され、その制限の中で、各海軍は艦艇に積む砲を決定した。
 この時代の艦載砲の主流は、18ポンド砲、24ポンド砲あるいは32ポンド砲、36ポンド砲である。特に重たい砲は下層甲板におかれた。一般的な三層戦列艦では、下甲板に32-36ポンド砲、中甲板に24ポンド砲、上甲板に12-8ポンド砲が配置された。但し、こういった砲は、前装式滑空砲であったため、射程距離は短く、直接照準による命中精度も良くはなかった。発射速度を含め、砲手の技量がすべてを決する時代だった。
 これら艦載砲のほとんどは舷側に連ねて配置され、艦隊戦の際には船舷を互いに向けあい至近距離での砲撃戦を展開し、可能ならばその後、敵艦に乗り込んで拿捕するということが行われた。このような舷側砲門の形式が取られたのは、常に一定量で均質な砲撃を可能にするために、陸軍のマスケット兵で取られているような一斉射撃方式が行えるようにするためである。
 とは言え、艦載砲が艦艇、特に檣や索に深刻な被害を与えるのに充分な能力を持っていたにもかかわらず、それでも船体下部を完膚無きまでに破壊する威力はなく、そのため、撃沈という事態はまれだった。
 砲身の多くは青銅鋳造製だった。当時、青銅鋳造の砲身は、鋳鉄製の砲身に較べて、耐久性においても軽量性においても勝っていたからである。しかし唯一コストでは負けていた。そのため1700年以降、海軍の規模が拡大する中で、経費節約のため、小型艦や重要な戦列艦など以外には、鋳鉄製の砲が配備されるようになった。
 また、時代が進むにつれ、砲身の重さは鋳鉄製であっても軽くなり、耐久性の面も大幅に改善されるようになった。しかし口径が6インチ以上、英国式32ポンド砲以上の重砲になると、その重さのため、迅速な射撃速度を維持することが困難となることも、経験から明らかになった。このようなことからイギリス海軍は1780年代に42ポンド砲の多くを艦載砲から外すようになっていった(1等艦は別だったようだ)。
 使われた砲弾には、船体や檣の破壊を目的とした鉄製球形弾、その他に対人殺傷を目的とした葡萄弾、霰弾、帆装破壊用の鎖弾などがあったが、その全てが炸薬の充填されていない実質弾だった。
 このような軍艦の主力砲とは別に、沿岸での戦いが多かったバルト海では、臼砲艦に搭載された臼砲が大いに威力を発揮した。臼砲の弾道は高く、対地攻撃に用いられた。艦載砲の砲弾はすべて実体弾で、炸裂弾ではなかったが、臼砲の砲弾は中に炸薬が充填され、導火線によって爆発する榴弾であった。榴弾は一般の軍艦では使用されることはなかったため、臼砲艦は、沿岸要塞の攻撃に威力を発揮した。

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4.3 艦艇の等級
 この時代、ヨーロッパ諸国の海軍に所属する主力艦艇は、搭載する砲数によって、等級付けされていた。この等級付けは、1650年代のイングランド海軍の改革によって始められた。この時の等級付けは、90門以上を1等艦とし、おそらく80門以上を2等艦、50門以上3等艦、38門以上を4等艦、18門以上5等艦、6門以上を6等艦とし、諸国の海軍もこれに準じた。
 また特に1〜4等艦は、艦隊戦において戦列を形成する主力艦として、戦列艦と呼ばれた。一方、5〜6等艦はフリーゲートと呼ばれ、その機動力は商船の護衛、哨戒任務などで活躍した。
 この時代のスウェーデン海軍の等級は次の通りである。しかしながら、名誉ある艦名の場合、砲数が少なくても1等級上に位置づけられ、建造年が古い場合は、砲数が足りていても、1等級下に位置づけられることもあった。

     ()内、1700年の艦艇数
  • 1等艦=80門以上(5隻)
  • 2等艦=70-80門(10隻)
  • 3等艦=50-70門(8隻)
  • 4等艦=40-50門(15隻)
  • 5等艦=30-40門(6隻)
  • 6等艦=20-30門(5隻)

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4.4 艦艇の種類
 様々な艦艇が、各海軍や貿易に使われたのは言うまでもない。ここでは、バルト海とロシア・アゾフ海艦隊で使われた艦艇について、簡単に解説する。

  • Bark<バーク>
     通例は三檣船で後檣のみが縦帆の帆船を指すが、ガレー型の櫂船を指すこともある。バルト海ではこのガレー型が使われた。
     ガレー型の場合、二檣とも横帆の二檣船と、縦帆(lateen sail:大三角帆)の三檣船のタイプがあり、20-24挺の艪櫂を備えていた(以下ガレー型についての詳細)。
     兵装:艦載砲(cannon)6-58門。基本的には6ポンド砲2門、4ポンド砲18門、小口径砲6門。
     基本的な乗員構成は水兵100名、海兵100名。寸法:全長115-125ft. 全幅21ft. 喫水7ft.
  • Boombarde or Bomb Ketch<臼砲艦>
     二檣船。基本的に大檣と後檣を備えていた。
     兵装:臼砲2-3門。艦載砲(cannon)14門。寸法:全長75.5-85ft. 全幅19-27ft. 喫水6-9.5ft.
  • Brig<ブリグ>
     二檣帆船で横帆を装備。
  • Brigantine<ブリガンティン>
     通例は二檣の帆船でブリグ型帆船よりも小型のものを指すが、初期のロシア海軍では二檣を備えたガレー型の櫂船を指していたようである。前檣と大檣を備えており、前檣は横帆、大檣は縦帆(lateen sail:大三角帆)。
     艪櫂の数は16-32挺。寸法:全長45.5-52.5ft. 全幅14-15.5ft. 喫水5-6ft.
  • Cog<コグ>
     小回りの利く小型船。横帆を備えた檣を一本と、櫂を備えていた。切り上がり性能はほぼない。円形にふくらんだ船型をしていた。
  • Fireship<火船>
     燃料と爆発物を満載した船で、敵艦に激突させ炎上させることを目的とした。
  • Fluit<フライト>
     オランダ型の三檣貨物船。6-8門の艦載砲で武装する場合もあった。主にオランダの貿易に使われ、穀物輸送に活躍した。バルト海で活躍したフライト船はその他の地域に派遣されたものに較べて小型で、大砲の数も少なく、沿岸部の水深が浅かったため、喫水も浅かった。
     補足)『少数の乗組員でも航海でき、武器は全く積んでいないか、積んでいたとしてもごく僅かだった。フライト船の船体は異様に長く、全長と全幅の比率は4対1から6対1であった。バルト海地方の海運業で使用されるフライト船の全長は、だいたい30-40メートルであった』−近世貿易の誕生−より。
  • Frigate<フリーゲート>
     イングランド海軍の等級で言うところの5-6等艦。兵装:ロシア・バルト海艦隊のフリーゲート艦は28-32門の艦載砲で武装していた。寸法:全長98.5-131ft. 全幅29.5-37.5ft. 喫水9.5-14.5ft.
  • Galley<ガレー>
     一般的に櫂船を指す。ロシア・アゾフ艦隊では40-48挺の艪櫂を備えた艦を指した。
     乗員400名以上。兵装:艦載砲21-27門(6-12ポンド砲3門、残りはファルコネットなどの小口径砲や旋回砲)寸法:全長136.5-173.5ft.(h平均的なものは140ft.) 全幅18-24ft. 喫水6-9ft.
     ロシア・バルト海艦隊のガレー船はもう少し小型だが、艪櫂の数は多く48-72挺。二檣に三角帆(triangular sail)を備え数門の砲で武装されていた。 寸法:全長114.5-131ft. 全幅13-22ft. 喫水3.5ft.
  • Gallot<ギャロット>
     平底二檣のオランダ型浅喫水船。
  • Pink<ピンク>
     縦帆の三檣戦闘艦。
  • Pram<プラム>
     平底船。特に沿岸部の要塞の砲撃に使われた。また、通常の下位の戦闘艦としても用いられた。
  • Ship-of-line<戦列艦>
     二あるいは三層艦。檣は3本。帆走軍艦の華である。木造帆走軍艦の中で最大級の大きさと砲撃力、防御力を誇り、各海軍の主力艦として活躍した。兵装:艦載砲40-100門 寸法:全長131-180.5ft. 全幅38-49ft. 喫水15-20ft.
  • Smack<スマック>
     縦帆(lateen sail:大三角帆)の二檣貨物船。
  • Skampavei<スカムパヴェ>
     ガレー型の櫂船。縦帆(lateen sail:大三角帆)を備えた一あるいは二檣船。艪櫂の数は24-36挺。寸法:全長約59ft. 兵装:3,8,12ポンド砲を数門。乗員:水兵・漕ぎ手合わせて150名以上。
     バルト海艦隊のガレー戦隊の大多数を占めた。何故なら、複雑なフィンランド沿岸の地形やその周囲の岩礁や小島は、その地域で活動する艦隊が、高機動力をもつスカムパヴェによって構成されるべきだという考えをロシア海軍の上層部に確信させたからである。
     ロシアのスカムパヴェはFedosei Skliaevの技術的貢献による。この仕事により、ピョートルは「新たな形式のブリガンティン」を手に入れた。Skliaevはヴェネチアのガレー船(アゾフ艦隊の背骨を形成していた)を改良し、より小さく、より機動力が上がるように、櫂と帆装を整えた。
  • Snow<スノウ>
     二あるいは三檣の横帆船。遊弋や近距離偵察に使用された。兵装:2-4門の小口径砲。寸法:全長72-92ft. 全幅18.5-25.5ft. 喫水8-10ft.
  • Strugi<ストラッギ>
     平底で甲板のない河川用の櫂船。スカルで舵を取り、6-20挺の櫂を動力とした。兵装:2-4門の小口径砲。乗員:60-80名。寸法:全長31.5-96ft. 全幅6.5-9.5ft. 喫水3ft.
  • Yacht<武装ヨット>
     重武装の小型戦闘艦。哨戒艇として使用された。

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4.5 著名なスウェーデン海軍艦艇
 スウェーデン海軍に所属した艦艇の中でも、著名な艦に絞ってここでは紹介する。紹介する艦艇は、スウェーデン最大の戦列艦「カール王」号。1700年の晩秋に、カール十二世がペルナウに向けての航海で座乗した戦列艦「ヴェストマンラント」号。ハンゲ岬海戦において、エーレンスケルド海軍少将が座乗したフィンランド沿岸艦隊旗艦、パルム「エレファント」号。この3隻である。

  • Kung Carl(カール王)

    • 当時、スウェーデン最大の戦艦。
    • 進水:1694年(カールスクローナ)
    • 排水量:2,700ton
    • 1等戦列艦、3層船
    • 備砲:110門or108門(120門という資料もある)
      • 備砲内訳(片舷+α):36ポンド砲10門、24ポンド砲20門、18ポンド砲28門。
    • 乗員:850名
  • Wästmanland(ヴェストマンラント)
    • 1700年ペルナウへの航海でカールが座乗
    • 進水:1696年(カールスクローナ)
    • 戦列艦(3等艦)
    • 備砲:62門

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第5章 大北方戦争

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第6章 参考文献

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