カールとその家族


◆カール11世とウルリカの結婚◆

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 カール12世の父カール11世は、その人生を王国の再建という困難な仕事に捧げた。しかしこのような苦しい改革の日々の中においても、彼には幸せなひとときがあった。それは12年間という短いが貴重なウルリカ・エレオノーラとの結婚生活である。
 ウルリカ・エレオノーラは、生まれ故郷のデンマークではウルリケ・エレオノーラといい、歴史学的には娘の小ウルリカ・エレオノーラと区別するために大ウルリカ・エレオノーラとも呼ばれている。彼女はデンマーク王フレデリック三世と王妃ソフィア・アマーリエ・ブランシュバイク=カーレンベルクの間に生まれた第4女であった。彼女はしばしば、デンマークからスウェーデンに送られた平和の鳩(1)とも称された。
 その気質は史書がこぞって称賛するところであり、実際、彼女は多くの人々に愛される性格と雰囲気を持っていたと思われる。また、結婚の折、彼女の容姿が過度に称賛されたため、カール11世は初めて彼女に会ったとき僅かに失望したが、それでも肖像画や彼女の政治的敵対者によるものを含む同時代の人々による描写から判断する限り、その容貌は酷いものでもなかった。彼女の褐色がかった髪と碧眼、高く秀でた額は、息子のカール12世と娘の小ウルリカ・エレオノーラへ特に色濃く遺伝している。鼻梁は少し長すぎると思われたが、それでも彼女は、健康で悪くない相貌の女性であった。しかも満足のいく教育を受けたことにより、彼女の知性は人々を驚かせた。現在に残る夏の離宮であるカールベリィ宮殿の彼女の書斎に見られるように、ウルリカは数カ国語を自由に操ることができた。また、彼女は芸術にも造詣が深く、自身も絵画の才能を持っていた。演劇への興味も深く、しばしば宮廷の女官たちと素人劇を演じてもいる。後にアウグスト強健王の愛妾となり、カール12世の下へ和議の使者として赴いた美女オーロラ・ケーニヒスマルクとその妹も、この素人劇に参加している。
 宗教的敬虔さとその真面目さは殊に有名であったが、当時の記録を読むと、決して人に窮屈な想いをさせたりはしなかったことも伺える。つまり彼女は他人のために親身になり、時には資金の援助を行い、人々のために多くの時間を割き、信心深さと優しい性格、寛大さで周囲を幸せにすることができる才能の持ち主であったと思われる。
 これらの気質や才能はカール11世に好ましい影響を与え、彼はいつしか彼女を掛け替えのない存在と見なすようになっていった。ヴォルテールは王の与えた過度の心労と、これを面に現すまいとする無理な努力が、彼女の病因と為したといわれていると記した後、ウルリカがカール11世に王領地回収政策における慈悲を願い出て拒絶された逸話を取り上げて、これ以降王の王妃を遇する態度は冷酷を極め、これが彼女の死期を早めたといわれている(2)と書いて二人の結婚生活は不幸せであったとしている。しかし、確かにホルシュタイン派の貴族や義理の母の影響の中で、彼女の宮廷での生活は気の休まる暇もなかったが、それは単なる一側面でしかなかった。夫と子供たちは彼女を深く愛し、そのことを理解していた彼女自身もその私生活においては非常に幸福であったのである。一説によれば、カール11世は、当時の王としては極めて希なことに、結婚後、一度たりとも他の女性に手を出して妻を裏切ったことがなかったという。しかし当時にあって二人の絆を理解している宮廷人は、ほとんどどいなかった。
 二人の婚約は、1675年、彼ら双方が19才の時に交わされた。これはスウェーデンとデンマークの協調主義者たちの尽力により実現した婚約だった。婚約を推し進めた人々は少なくともこの婚約によって、フランスが引き起こしている戦争を利用して奪われた領土を回復しようとするコペンハーゲンの主戦派による企みを防げることができるのではないかと考えていた。
 しかしながら、両国に協調を築こうとする望みは、婚約が公表されてから3ヶ月も経たぬうちに粉砕された。スウェーデンは、フランスとの財政支援条項を含む同盟の結果として、その意に反してブランデンブルクと交戦せざるを得ない立場に追い込まれてしまったからである。
 そしてそれはウルリカの兄、デンマーク国王クリスティアン5世の野心を刺激するには充分すぎた。1675年9月、デンマークはスウェーデンに宣戦を布告し、協調主義者でありデンマークの最高権力を握っていた宰相グリッフェンフェルトも1676年3月に失脚した。この結果、カールとウルリカの結婚は公式には延期されたことになったが、特に両国間の戦争が長く苦しいものになるにつれ、結婚は延期されたのでなく事実上、破棄されたと見なされるようになった。しかもカール11世が成人した後も実権を握り続けていたスウェーデンの旧摂政団や王国参事の多くもこの結婚に反対していた。
 しかし、スコーネに侵攻してきたデンマーク軍との苦しい戦いは、カール11世を成長させた。彼は国王としての責任感を持つようになり、信頼できる側近を見出し、統治の主導権を握ろうと考えるようになった。彼は敵国の王女との結婚という政策を選択しないだろうと旧摂政団や王国参事会の間では考えられたが、実際にはそうではなかった。
 一方、ウルリカ・エレオノーラも、婚約が無効になったとは思っていなかった。1676年11月、彼女はデンマーク軍がルンドで敗北したのを契機に、兄からカール11世との婚約を破棄するよう迫られた。しかも彼女には、神聖ローマ皇帝との縁談ももたらされた。しかしウルリカはそれらを拒んだ。生まれ持った性格と幼い頃からの教育は、ウルリカに約束を破るという行為を許さなかった。彼女は戦時中の日々を、祖国の人々と未来の祖国になるであろう国の人々との間に平和が戻るよう祈りながら、囚われたスウェーデン人戦争捕虜のために尽くして過ごした。
 少なくともカール11世にとって、このようなウルリカの性格と振る舞いは、以前の婚約者と比べたとき、極めて好意的に映った。彼は幼少期から、父方の従妹でスウェーデンの宮廷で育てられたヘッセン・エシュウェッジ家のユリアーナと婚約していたが、彼女は1672年に不義の子供を出産し、さらにその後も不品行が収まらなかったため、不義の子の父親と結婚しスウェーデンを去り婚約は破棄されていたからである。
 スコーネ戦争は1679年9月に終結した。講和は現状維持以外の何ものでもなかったが、侵攻してきたデンマーク軍を撃退して権威を増したカール11世は、彼もまたウルリカとの結婚を望んでいると公にした。動機について語られることはなかったが、幾つかの推測が可能である。例えば、彼は信心深い人間であったため、敬虔なデンマーク王女と同じく約束は守られるべきだと思ったのかもしれない。また、伝え聞いたウルリカの優しい性格にも心を動かされたのかもしれない。あるいは、婚約時に強調された容姿についての報告にも、例え王族同士の結婚交渉の中では、容姿についての賛美が過剰になることは周知の事実であったとしても、影響を受けたかもしれない。しかし、とりわけ彼に大きな印象を与えたのが、戦争中にウルリカがスウェーデンへ示した敬意と献身であったことは間違いないと思われる。
 もっとも、どの様な個人的感情があったとしても、王国に継承者が必要であることは明らかだった。カール11世が若くして結婚することは安全な王位の継承を考えた場合、第一の重要事項であった。そのため人々が何を思おうとも、デンマーク王家との結婚は支持される理由を持った。
 またカール11世が戦争中に信頼を置くようになった人々、例えば王国参事ヨハン・ユーレンシェーナやヴァクトメイステル兄弟、その他の戦友たちもこの結婚に賛成した。何故ならば、彼らは何よりも平和と王権の強化を望んでいたからである。カール11世と彼らは、旧摂政団と大貴族で占められる王国参事の多くが獲得していた特権に対する怒りを共有し合っており、戦争を通じて権威を獲得した王の協力を得て、王国の改革を構想していた。改革派は、王国の後継者を早期に獲得する願望と同時に、かつてこの婚約を推し進めた人々と同じく、ウルリカとの結婚をデンマークとの平和共存の第一歩と見なし、デンマークの対スウェーデン外交を再び戦争に傾かせないようにするための押さえになればと考えていた。平和は改革を実行する基盤であり、安全な王位継承は改革に不可欠な王権の強化と密接に結びついていたからである。しかも彼らにとって、1660年以降に絶対主義を導入し成功を収めたデンマークは、改革の模範ですらあった。 
 実際の問題として、スウェーデンには早急な改革が必要であった。スウェーデンの地位は、貴族たちや、功績により貴族に列せられた外国人たちの努力と熱情によって16〜17世紀にかけて固められていたが、その一方で、確たる財源に乏しかった王家は、それらの功績に対する報償や、彼らに背負ってもらった債務の返済を、王領地の授与によってまかなっていたからである。
 これは理論的には抵当の形をとっていたが、実際には、事実上の贈与と区別することは困難であった。しかもアクセル・オクシェンシェーナが死去した1654年以降、この王領地による彼らへの報償の規模はさらに増大し、最終的に王国は領地から国家運営に必要な歳入を得ることが困難となってしまっていた。その結果、スウェーデンはフランスを筆頭とした諸外国からの財政援助を含んだ条約に縛られることとなり、これらは、先の戦争で証明されたように、国益に反してでも戦争をしなければならない立場に王国を追いやる危険をもたらした。そのため改革派は、思い切った改革のみが、スウェーデンの現在の地位を維持する唯一の方法であると信じるようになったのである。
 彼らは、王領地の回収とその他の以前の治世において貴族に譲渡された税収の回収によってのみ、スウェーデンはこの種の条約に縛られることなく、環バルト海における覇権を守るに適した確固とした財政基盤を設立することが可能となると考えた。そしてそのために、絶対主義体制の導入を行い王権を強化させ、これまでこの種の計画を未然に予防してきた大貴族の多くに、王領地回収政策を強制させなければならないと主張した。
 このためカールとウルリカの結婚は、有力な王国参事とカール11世の幼少期に摂政団を形成していた大貴族たちに反対された。彼らは如何なるデンマークとの結婚も、スウェーデンの国益に害を及ぼしてきたと強調し、外国の外交官に向かっては、不正なやり方でカール11世の信頼を勝ち得た連中の利己的な行動に対する単なる反感であるかのように装った。しかし実際には、デンマーク王室との結婚が彼らの特権を脅かそうとする政策の一環であるという点に恐れを抱いていることは明らかだった。
 とはいえ、不満を示す王国参事や貴族たちによる、この結婚や改革を妨げるための企ては、実行力を伴っていなかった。彼らの指導者であり、かつて全権を握っていたマグヌス・デ・ラ・ガルディはほとんど完全に失脚しており、スウェーデン国会の非貴族三身分(聖職者、市民、農民)は結束して改革派に強い基盤を与えていたからである。しかも貴族身分は、これらの階級闘争とはまるで別の次元における利害関係で分裂していた。また、一部の貴族はスウェーデンの列強としての地位を非常に案じてもいたため、貴族身分が団結して改革に対抗することは不可能であった。
 しかし、デンマーク王室との結婚はより強力な方面からの反対に直面した。それは、カール11世の母ヘードヴィク・エレオノーラと彼女の側近からのものであった。彼らは提唱された結婚が、デンマークとの協調をもたらすと考え、ヘードヴィク・エレオノーラの出身であるホルシュタイン・ゴットルプ公爵家の運命を危険にさらすと恐れた。スウェーデンとの婚姻を伴った同盟は、ホルシュタイン・ゴットルプ公爵家にとってデンマーク王家との戦いにおける頼みの綱となっていたからである。
 この二家の争いは、シュレスヴィヒとホルシュタインの二つの公領におけるデンマーク王領地とゴットルプ公爵領地の複雑な関係に端を発していた。16世紀初めまで、シュレスヴィヒとホルシュタインは、神聖ローマ帝国からの封土として、完全にデンマーク王家の所領であった。しかし16世紀中葉にデンマーク王クリスティアン3世が異母弟アドルフへこの地の一部を財産として贈与したことにより状況は大きく変化した。アドルフはホルシュタイン・ゴットルプ公爵家の開祖となり、デンマーク王家の考えとは裏腹に手に入れた領地を全て相続財産として統治大権を主張したため、シュレスヴィヒとホルシュタインの両公領においてデンマーク王領地とゴットルプ公爵領地が散在することとなったのである。以降、デンマーク王家は、手段が領土交換であれ征服であれ、何とかして失った土地を再合同しようと考えるようになった。
 しかし、スウェーデンはデンマークの行動を常に阻害し続けた。スウェーデンの指導者たちはホルシュタイン・ゴットルプ公爵の存在を利用すれば、デンマークの南方進出を食い止め、スウェーデンにユトランド半島とデンマークの諸島の背後を脅かす橋頭堡をもたらすことができると考えたからである。そのためスウェーデンは17世紀中葉にデンマークへ押しつけた講和条約の内容に、ホルシュタイン・ゴットルプ公爵の主権に対してのデンマークの承認を含めることに固執した。そして、それ以後もスウェーデンは徹底的に公爵の統治権を支持した。しかもスウェーデン国王カール10世は、この目的のためにホルシュタイン・ゴットルプ公爵家から花嫁を娶っていた。この花嫁こそが、カール11世の母であるヘードヴィク・エレオノーラである。
 後から考えると、スウェーデンとの同盟はホルシュタイン・ゴットルプ公爵家から行動選択の自由を奪ったようにも思える。実際にゴットルプ家とデンマーク王家の間には領地の交換などの交渉が進展する余地があった。例えばウルリカの姉はゴットルプ公爵に嫁いでおり将来における希望が残っていた。しかし17世紀を実際に生きたヘードヴィク・エレオノーラを含むホルシュタイン・ゴットルプ公爵一族の大多数にとって、絶え間ないデンマークからの侵略の中で生きなければならない小国の安全保障上、間違いなくスウェーデンとの同盟は必要不可欠な柱石であると思われたのである。
 そのため、結婚を推し進めた人たちは、スウェーデンとデンマークとの間だけではなく、ホルシュタイン・ゴットルプ公爵とデンマークとの間にも平和的関係が築かれるのではないかという望み抱きつつも、デンマークと友好関係を築こうとするあまりホルシュタインを犠牲にする意図はないと強調しなければならなかった。そして母に対して常に心底からの尊敬と献身さを示していたカール11世自身も、母の恐れを静めるため、ウルリカとの結婚とデンマークとの間で行われていた和平交渉およびその他の政治的交渉とを可能な限り分けて行うと母に対して宣言しなければならなかった。
 こうして最終的にカール11世は、このような母の恐れと不安、戦争の無情な記憶、王国参事と大貴族の反対といったすべてを押しのけて、ウルリカと結婚した。彼女との結婚は1680年5月6日にハッランドのSkottorpで行われた。もっとも結婚式典と記念祝祭は非常に控えめであった。これは個人的問題において常に示された彼の内気さや慎みの証明である伴に、多くの反対と恐怖を押し切ったという現実があったからである。そのため、この結婚を典型的な政略結婚と考えることは物事の一面しか捕らえていないと言わざるを得ない。政略的な意味合いから考えれば、別の選択肢もあったからである。デンマークとの交渉と結婚を分けるというカール11世の決断からしてもそれは明らかである。
 そして当初の目的が政略的であったとしても、結局のところ彼女との結婚は、政治的な利益よりも愛と家庭の歓びを彼に与えた。カール11世は軍事演習や狩猟、教会建築といった趣味を持ち、気晴らしや楽しみをそこから得ていたが、本当の歓びと悲しみは、妻であるウルリカ・エレオノーラの持つ優しさや親愛からもたらされた。そして宮廷に出仕する多くの人々は、国王夫妻の間にある愛情に、薄々は勘づいていたものの、最後まで本当の意味で気付くことはできなかった。何故ならば、カール11世は感情豊かで情に厚い性格であったが、彼の立場はそれを素直に表現することを許さなかったからである。
 例えば前記したように、カール11世は終生に渡り母親であるホルシュタイン・ゴットルプ公爵姫ヘードヴィク・エレオノーラへの敬意と親愛を持ち続けていたが、この母親はデンマーク王女との結婚という息子の考えに好意を示さず、一度も義娘に王妃の地位を明け渡さなかった。そのため、カール11世は母親を満足させるために、そして妻が夫に影響力を持っていないことを示すために、ウルリカ・エレオノーラを単なる「我が妻」と呼び、母親を「王妃」と呼ばねばならなかった。また、外国使節が王室の人々に敬意を捧げる際にも、最初にヘードヴィク・エレオノーラを訪ね、そして次いでウルリカ・エレオノーラを訪問させるようにしなければならなかった。結婚をする際にも大きな障害となったホルシュタイン・ゴットルプ公爵との同盟という観点においても、妻と母との間に不和が生じた場合、たいていの場合、母の意見を支持しなければならなかった。
 加えて、ごく希ではあったが、カール11世自身と妻との意見の相違もあった。王太子カールの傅育官にリンドシェルドを選ぶ際や、ヴォルテールが二人の不仲の証拠として取り上げた、ウルリカ・エレオノーラが王領地回収政策の緩和と慈悲を求めたときの二人の対立などである。特に王自身にとってもしばしば良心の痛みを感じざるを得なかった王領地回収の遂行といった仕事に、ウルリカが王の寛恕を嘆願したときカール11世は妻に対して子供を産んで頂くために、あなたと結婚したので、意見をして頂くためではない(3)と痛烈に述べている。もっともカール11世は、彼女が自身の公費を用いて所領を没収され生活に苦しむ人々を密やかに援助する行為をやめさせようとはしなかった。しかし表面的な話ばかりが一般に広まったため、二人の関係は誤解されたままであった。
 このように王としてのカール11世は、妻への愛情を公にしなかった。カール11世が、妻との関係を誤解したり、探りをいれた人々に対して私は心を袖の中に隠さねばならない(4)と語っていることは、王としての彼の立場を良く表している。
 そのため、ウルリカが亡くなったときのカール11世の深く激しい悲しみは、家族や王家に極めて近しい人々にとっては驚きでも何でもなかったが、宮廷の人々には驚きを持って迎えられた。このとき彼らは、ようやく王にとっての彼女が如何なる意味を持っていたのかを知ったのである。
 但しウルリカの死は決して唐突ではなかったので、目敏い宮廷人は死に向かって二人の絆が強まっていることに気付くことができただろう。それほどまでにウルリカの健康状態は日増しに王室の懸念を高めていた。1690年の初頭になると、ついに医者たちは手の施しようがないことを認めて、著名な大陸の保養地のいずれかで療養するよう助言している。カール11世は妻に療養地へ行くようにと説得し、ウルリカも一端は同意の意思を示していた。随員が選定され、出発のための準備も行われた。しかし彼女は最終的に、子供たちや夫から離れて過ごすことは出来ないと決心し、自らの身を神に委ねることを決めた。ウルリカは、もし神が彼女の回復を望むならば何処にいようとも体調は戻るであろうと考えたのである。
 また、ウルリカは彼女は家にいる必要があるとも感じていた。その無謀な性向から、夫は乗馬事故に会う可能性があり、子供たちはしばしば床につくことがあったからである。そしてまるで彼女の正しさを示すように、カール11世はウルリカのスウェーデンから離れないという決心から数週間後に熱を出して倒れ、息子のカールとヘードヴィク・ソフィアも数ヶ月後に麻疹にかかった。彼女の夫と子供たちの体調は直ぐに回復したが、彼女自身の健康には改善の兆しは見られなかった。彼女はそれでも寝たきりとはならず、椅子に腰を下ろした姿で家族との生活を過ごした。彼女はしばしば手足や腹痛によって身動きがとれなくなり、調子の特に悪い日などはそのまま寝室まで運ばれることもあった。そしてこの頃から、デンマークの家族にもう二度と会えないという後悔に襲われるようにもなり、海峡の反対側にいる家族について話すとき、涙ぐむようにもなっており、死を徐々に意識するようになった。
 3年後、1693年の夏はスウェーデンに疫病を運んだ。それは一世紀のうちで最も暑いと言われる熱波からはじまり、それが収まるや人々の間に流行病が蔓延した。ウルリカは病の難を逃れるため郊外の離宮カールベリィに移されたが、そこで彼女は深刻な病に倒れた。カール11世は、これまでものように妻は何とか持ちこたえるだろうと思いこもうとしたが、それが儚かない望みであることは明らかだった。カール11世は、医師から彼自身も疫病に感染する恐れがあるためウルリカの側を離れるように警告されにもかかわらず、妻の側から離れることを拒絶した。カール11世は王ではなく夫として、慈愛に満ちて妻を看護した。床の上げ下げを献身的に行い、苦痛や発作によってウルリカが眠れぬ夜には側に座って励まし彼女を元気づけた。しかしそれでも訪れようとする死は止めようがなかった。
 医師団が最期の刻が切迫していることを告げたとき、ウルリカはカール11世に人々に、ひどいことをしないように(5)と遺言したと伝わっている。そして、息子のカール12世に対しては、常に姉と妹を大事にするように、王になったときは、彼女が教えた規範に従い自らを律するようにと固く約束をさせたという。そして次の日、6月26日の夕方、ウルリカは世を去った。36才であった。
 ウルリカの死が夫と子供たちへ与えた衝撃は大きかった。カール11世は卒倒し、息子のカール12世も熱を出して倒れた。カール11世と子供たちの悲しみは、まるで帳のようにカールベリィを覆った。王は亡き妻の部屋を意味もなく歩き回り、彼女の名前が話題にのぼると号泣し、カールベリィを離れストックホルムへと去らねばならなくなったときには、ここに私は自分の心の半分をおいていく(6)とすら述べた。家族の中でただ独りそこまでの悲しみに襲われなかったように思われたヘードヴィク・エレオノーラですら、ウルリカの死の直後に国王の再婚が囁かれたとき、あえてこの段階で息子にこの話を勧めようしなかった。
 そして少し時が経ち、再婚の話がようやくヘードヴィク・エレオノーラなどによって勧められるようになっても、彼女の息子はそれを考えることを拒絶した。カール11世は、ウルリカの死の3ヶ月後ですら、涙無しに彼女についての話を聞くことが出来なかったと言われている。
 それでも多くの誘いが諸国からもたらされた。例えばヴュルテンベルクからは、その息女か彼女の未亡人の母親のどちらかが勧められている。もし国王が安全な王位継承のためにさらなる相続人を望むのならば、娘の方をお選びいただき、もし子供たちのために新たな母親をお望みであれば、未亡人であるその娘の母もよろしいかと思われますと、使者は王に言上している。しかし、カール11世はこれら外交官たちに対しても、母親に対したのと同じく、再婚する気はないと明確に告げた。息子のカールが18才になったとき、私は彼を結婚させ、王位継承について注意を払うだろう。そして私においては、半分は子供たちのために、半分は失った人のために、新たに母親を得ることはありえない(7)と。
 ウルリカ・エレオノーラは真に偉大な女性であった。彼女の温かみのある様や素直で表裏のない性格は、出会った全ての人々に親しみの感情を植え付けた。表面的なつきあいしかない人々や外交官ですら、彼女からにじみ出る優しさと魅力について称賛の言葉を残している。それがため、彼女は知らず知らずのうちにカール11世を感化し、いつしかカール11世の中で、母親に劣らない存在となった。カール11世は、もし彼自身が未成年の息子を残して死ぬようなことがあれば、彼女を未来の摂政に任命しようと考えるようになっていた。
 また、彼女は、彼女の子供たちを幸せにする才能に恵まれていた。家族は彼女を早くに失ったが、彼女の記憶は彼らの中にずっと残った。そして彼女が家族に教えようとした規範もまた同様に彼らの中から消えることはなかった。
 ウルリカの死後、家族は各々に彼女が述べたことや行ったことを思い出し、そのたびに、ある種の感情の波に襲われた。例えばカール11世は、涙ぐむことなしで彼女について話すことは出来なかった。陽気なヘードヴィク・ソフィアも、母親が好きだった賛美歌が歌われると、涙をこらえきれなかった。また、ウルリカの死後から遙か後、互いに会うこともなく成長したカール12世と小ウルリカ・エレオノーラが17年ぶりに再会したとき、二人は母の思い出や家族が母とした約束について語り合い、遂にはその話題を続けることが難しくなるほど泣き咽んでしまった。
 そして最終的にカール11世は、妻を失った衝撃から立ち直ることができなかった。彼女の死から4年の後、彼は自身の死の床で母に向けて次のように告げている。妻が世を去って以来、本当に幸せな日々を過ごしたことはなかった(8)と。家族の間にこのような喪失感と幸せな記憶を残したことにより、ウルリカ・エレオノーラは真実、他に比類なき姫君(9)であったといえるだろう。そしてこれら事実から、二人の結婚生活と家族の生活は、とても幸せなものであったと思われるのである。

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◆この頁の参考文献及び引用箇所◆

引用箇所
  1. [Hatton, R.M. Charles XII of Sweden. New York, 1969.]p34
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  2. [ヴォルテール『英雄交響曲 チャールス十二世』訳:丸山熊雄 白水社 1942]pp102-103
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  3. [渡辺紳一郎『スウエデンの歴史を散歩する』 朝日新聞社 1947]p114
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  4. [Hatton, op.cit.,]p34
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  5. [渡辺紳一郎『スウエデンの歴史を散歩する』 朝日新聞社 1947]p114
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  6. [Hatton, op.cit.,]p57
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  7. [Hatton, op.cit.,]p58
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  8. [Hatton, op.cit.,]p35
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  9. [Hatton, op.cit.,]p35
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主要参考文献
Hatton, R.M. Charles XII of Sweden. New York, 1969.

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