〜人物列伝〜
Carl Magnus Stuart
カール・マグナス・スチュアート男爵にして中将。兵站総監。
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[略歴]

小伝

両親は、デヴィット・スチュアート(David Stuart)とベリータ・ニルスドッテル・リリーエラム(Britta Nilsdotter Lillieram)で、1650年ヴェルムラントで生まれた。このスチュアート家は同姓の有名なるスコットランドのスチュアート家の傍系の移民の子孫である。

彼の輝かしい経歴は、スチュアートが18のときから始まる。彼はこの時たんなる船乗りであったが、その職をなげうつやイングランドへ行き、同族(といっても天と地ほどの差がある)スチュアート家の国王チャールズ2世の下で銃兵となった。

その後ロンドンで2度職を変え、1671年オランダを経由してスウェーデンに帰国。カール11世の銃兵となり、彼の宮廷で働き始めることになる。 そして工兵技術(主に築城術や兵站)を学ぶためダールベルヒの門下にはいった。ここで彼は、その知識と機敏さで注目を集め、頭角を現した。その結果彼は1675年までに工兵中尉に選ばれ、その後さらに大尉となった。

実力を認められ彼は、広い視野と調整能力に秀でた別格の男であるとして知られるようになった。ダールベルヒも彼を頼りになる助手として遇し、スチュアートは様々な重要な仕事を任されるようになっていった。

例えば、ダールベルヒとワハトマイステルが監督してはいたが、スチュアートもまた、カールスクローナの建設と強化の実行者として活躍している。

こうした中、1682年には兵站総監補佐となり、1685年からは、国費で外国へ工兵技術の勉強をしに行った。この時彼は、当時ハンガリーで行われていたトルコ戦役も視察している。

その後、彼は1687年に帰国した。約5年間の諸国歴訪の旅であった。そしてその後1689年、彼は若き王子カールの宮廷に参加し、同年王子の軍事学教師となり、数学、築城、絵を教える。まだ40才前なのに色々なことを知るスチュアートは王子の侍従として、カールの好意を得た。

またこの以前の1688年にスチュアートはマルガレータ・フンク(Margareta Funck)と結婚している。

そして1697年、彼は兵站総監に選ばれ、国外の領土であるポンメルン、ブレーメン、カレリア、インゲルマンランド、リーヴランドの要塞の改善命令を出した。そして1700年には少将にもなり、戦争が始まると、戦場兵站監の職も兼任しシェラン島上陸作戦の立案をカール12世から任された。

彼はワハトマイステルや英蘭連合艦隊、そしてレーンスケルドと協力して作戦を立て実行した。上陸場所であるフムレベックでは、上陸作戦を行うにあたっての偵察を行った。そして攻撃準備中に彼は陸の砲兵隊に撃たれ負傷したが任務を続け、彼のスループ艦を上陸地点に誘導し、そこからスウェーデン軍を上陸させた。

上陸後、マルメから援軍をよびよせ、彼はコペンハーゲン攻撃の準備を行ったが、講和が結ばれ、その作戦は不要となった。

その後のナルヴァ会戦では、目立った働きを見せておらず、傷の治療に専念していたようである。

しかし、その翌年、彼はドヴィナ河渡河会戦の作戦に深く関わり、これをレーンスケルドやダールベルヒらと伴に指導し勝利に貢献する。そしてその年のクールランドでの冬営を差配する。

しかしこの頃から彼の体調は不安定になり、このまま従軍するのは不可能となってしまう。彼は結局、戦場兵站監の職を辞し、代わりにクールランドの総督に任じられ、第一線から退くことになる。

もっともその功績は広く認められており、1703年には中将になり、同時に男爵にもなっている。そしてさらにこの年、老将ダールベルヒが死去し、彼は工兵部門の最高責任者となっている。

しかし、その後も彼の体調は回復せず、身体は更に弱っていった。1704年、彼はついに任務に耐えられなくなり、ドイツ西部のアーヘンで療養に専念することとなる。しかしそこでも彼の体調は回復しなかった。

その後、ドイツ北西のブレーメン(当時スウェーデン領)に身を移したスチュアートはそこに1年ほど滞在し、スウェーデンに帰国。1705年11月6日、ストックホルムにて永眠する。
享年55才であった。


私評

彼はレーンスケルドとほぼ同年代の将軍であった。昇進のスピードは彼に劣るが、王に近しい軍人という点では、彼に勝る者は馬術顧問だったアクセル・ホールドか彼の竹馬の友だったクリッコウストローエルぐらいだろうし、その彼らにしても将軍ではない。
つまり彼はカールに最も近い高級軍人であり、更に言えばカールの小さい頃からの軍事教師だった。
とかくカールにとって頭の上がらない存在であっただろうことは想像に難くない。もし彼が生きていたら、戦況はどうなっていただろうか。ユーレンクロークの提示した計画はおそらくスチュアートも同意しただろう。その時、カールはそれでも一路モスクワを目指しただろうか?
少なくともあまりに早い死であったことは確かである。

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