アクセル・ユーレンクローク
Axel Gyllenkrook
兵站将校
1665年〜1730年死去




1665年8月18日、オーボ(フィンランド)にて生まれる。父親は分教区の長を務めていたアンデルス・クローク(貴族となったらしく、姓はユーレンクロークと途中から変わった)であり、母親はマリア・リウムス(Maria LvJlums)であった。

彼は1683年、近衛連隊の貴族階級の兵士として軍に入り、同連隊で軍歴を重ね、1685年に曹長、1688年には少尉(旗手)になり、1693年には中尉、1696年には大尉となった。

戦争が始まると王と共に戦場に向かい、1701年のドヴィナ河渡河作戦とその直後に生起したリガ近郊の戦いでは、その部隊移動に深く関わり、兵站将校としての才能を発揮した。その結果、彼は兵站監補佐に選ばれ、階級も近衛連隊付き少佐となった。

以後彼は、更に危険で複雑なポーランドにおける戦争においても、その有能さを証明し、この間、1703年から戦場における兵站部隊の責任者、兵站幕僚長(Field Quartermaster General)となり、王の下で進軍の詳細計画や幕営、偵察の詳細計画などを立てた。1706年には中佐となり、兵站監(Quartermaster General)となった。そしてその後も昇進をし大佐となった。

そして1707年からのロシア遠征では、その進軍計画の殆どすべてを統括した。この時彼は、王が計画していたモスクワを直接衝く作戦に、諸将と同様に異を唱え、バルト海沿岸部からペテルブルグ経由での侵攻作戦を主張した。兵站全般の専門家として、その詳しい作戦計画まで立案し王に提示したとも言う。

後世の歴史家はこのバルト沿岸地域を通過する作戦の有効性を認め、カールはこの計画を受け入れるべきであったと主張している。

しかしカールの決意は固く、ユーレンクロークの計画は日の目を見ることはなかった。

列伝目次に戻る