人物列伝
◆スウェーデン軍人列伝◆
Officer of KarlXII's Era
吾が子供等よ、これまで神は吾々を助け給えり。神はなおこの先も助け給わん- KralXII -

Adam Ludwig Lewenhaupt
アダム・ルートヴィヒ・レーヴェンハウプト
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◆略歴◆

  • 1659年4月コペンハーゲン郊外のスウェーデン人街で生誕。
  • 1671年ルンド大学に入学。
  • 1675年11月23日ウップサラ大学に入学。
  • 1680年9月ロストック大学に入学。
  • 1685年バイエルン選帝候軍に加わり対トルコ戦に従軍。 同年2月28日ビールケ伯のバイエルン軍派遣騎兵連隊の旗手となる。
  • 1686年、同連隊の騎兵大尉に昇進。
  • 1688年9月26日スウェーデン・ネーデルラント派遣連隊に少佐として参加。
  • 1690年6月16日スウェーデンのセーデルマンラント州ヘリンゲでブリタ・ドロテア・レーヴェンハウプト伯爵令嬢(1663,6/28生誕、1730,10/27死去。父カール・マウリッツ・レーヴェンハウプト伯爵にして王国参事、陸軍元帥。母アナ・マリア・クルス)と結婚。
  • 1691年4月13日、派遣連隊の中佐となり、1697年3月12日、派遣連隊の連隊長に昇進。
  • 1698年3月ネーデルラントでの軍隊生活を終え、スウェーデンに帰国。 戦争勃発後、1700年7月16日ウップランド追加召集歩兵連隊の連隊長に任命されるも、初戦の戦いには加われず、追加召集された新兵ばかりの連隊を教練する。
  • 1703年3月19日、サラデンにおいて1,000を率いて5,000のロシア軍に勝利。
  • 同年4月14日歩兵少将に昇進し、健康悪化により軍務を離れたスチュアートに代わり、クールラント方面の総督に就任。
  • 1704年6月26日ヤコブシュタットにおいて6,000の兵で15,000のロシア軍を破る。
  • 1705年7月16日Gemauerthofにて5,500を率いて10,000のロシア軍に勝利。
  • 1705年8月10日歩兵中将に昇進。
  • 1706年1月5日歩兵大将に昇進、翌日(1月6日)リガ市総督および要塞司令官に就任。
  • 同年リーヴラント・クールラント・リトアニア方面正規軍総司令官。
  • 1708年6月末、12,000の兵をロシアへ派遣。
  • 1708年7月末リガを発つ。
  • 1708年7月29日、自軍に合流。しかしロシアの悪路、夏雨による泥濘に悩まされ、カール12世の作戦計画を狂わせた。
  • 1708年9月29日レースナヤにおいて14,000のロシア軍に敗北。
  • 1709年6月28日ポルタヴァ会戦において歩兵隊総指揮官を務める。敗北後は全軍司令官に就任。
  • 1709年7月1日ペレヴォロチナでロシア軍に降伏。捕虜となる。
  • 1718年12月30日(カール12世の死後)王国参事に任命される。しかし帰国の願いは叶わず1719年2月12日モスクワにて死去。

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◆メモ書き◆


 1708年までの鮮やかな戦いぶりはカール12世の賞賛を浴びたが、ロシア戦役が始まるまでカールと戦陣をともにしたことはなかった。そのためか、古くからのカール麾下の将軍とは馬が合わなかったようだ。
 また1708年における進撃の遅れは後世の歴史家の非難を浴び、レースナヤでの敗北を招いたとされ、カールを失望させたと言われている。しかしこれに関して、歴史家の言とは異なりカールは深く非難しなかったようだ。その証拠にポルタヴァでは歩兵隊の全指揮権を彼に委せている。
 また、ペレヴォロチナでは彼を信用して、カールは全軍を彼に委ね「できうる限りを尽くして」トルコまで軍を後退させるように命じている。もっともその後の全面降伏はカールの逆鱗に触れる結果となった。後世の歴史家の批評はこの辺りの事情と少し混合している風である。とは言え現実問題として、彼には降伏する以外の道はなかったと思われる(レーンスケルドであれば、反撃を行っていたかもしれないが、その場合でも成功したかどうかは未知数である)。「できうる限りを尽くして」という命令をレーヴェンハウプトは忠実に考え、不可能という結論に達したのであろう。
 その性格は、複雑であったとされ、大胆で勇猛果敢であると同時に臆病で慎重であった。カールからは我らがラテン語の老大佐などと呼ばれており、気むずかしい性格の持ち主だったようだ。
 しかし自分の悪口が木々の間から聞こえてくると感じることがあるほどの神経質さを持つ反面、戦場では少数で大軍に突撃するなどの振る舞いも見せており、ポルタヴァでは麾下の3000のみでロシア軍野営地に突入するつもりであった。おそらくこの突撃が実施されていたら戦いの様相は大きく変わっていたと思われ、良くも悪くもその性格は彼の成功と失敗を運命づけていたようである。
 様々な評価があるが、レーンスケルドに劣らぬ軍事指揮官であり、レーンスケルドが騎兵戦術の大家でありスウェーデン式兵術の体現者であるとすれば、レーヴェンハウプトはスウェーデン軍が誇る最高の歩兵指揮官の一人であり、イギリス=オランダ式兵術の体現者であったと評することができるだろう。スウェーデンで彼に匹敵する歩兵指揮官はトルニ攻城戦で戦死したリーウェンあるいはステンボックのみであった。
 もしレーンスケルドとレーヴェンハウプトの二人が協力し合い、マールバラとオイゲンのような見事な連携を見せていたら、歴史は変わっていただろう。しかし二人は性格的に経歴的に、何もかもまったく共通点がなく、協調しあえる可能性はなかったのである。

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