人物列伝
◆スウェーデン政治家列伝◆
Statesmen of KarlXII's Era
吾が子供等よ、これまで神は吾々を助け給えり。神はなおこの先も助け給わん- KralXII -

Lars Wallensted
ラーシュ・ヴァレンステッド摂政(1698)
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◆小伝◆


 彼は1631年ウプサラにて、ウプサラ大学教授で後にSträngnäsで聖職者となった医師ラーズ・ワリウス[Wallius]と、その妻クリスティナ・ルス[Luth]の間で生まれた。
 外国の大学を卒業した後、王国官房に入庁し、一時、インゲルマンランド州知事の書記官となった。その後、官房書記官となり、王国行政の中枢に関わり、カール11世の知遇を得て1668年貴族に列せられた。1676年には財務書記官となった。
 王領地回収政策及び摂政団への訴追を決めた1680年の国会では、貴族院書記官として貴族身分議員の身分確認を行った。また彼は王領地回収政策の支持者として改革に協力した。1682年国会では総検察官として大貴族の反対に対抗した。
 カール11世の信頼を獲得した彼は、1683年に宮廷官房官に昇進し、同時に官房議官に任命された。1689年までには国王の側近の一人と見なされるようになった。その後、ヴァストマンランド州知事となり男爵に昇爵し、1693年、彼は国王参事となり伯爵に任じられた。1695年になると彼はスヴェーア高等裁判所長官(五大官職の一つで、この官職保持者は法務卿あるいは法務大臣とも称された)になり、オーボ大学理事となった。
 1697年、カール11世が亡くなるにあたり、病床につく国王の遺訓を口述筆記し、厳重に封した後、保管した。その後、亡き国王の指示に従い六人の摂政の一人となり、国政を預かることとなった。
 彼は摂政団の中でも、その高潔さと国王に対する無比の忠誠で知られた人物で、最も強硬な絶対主義者の1人でもあった。彼に対するカール11世の信頼は、遺訓の筆記と封印を彼に任せたことからも容易に想像できる。
 摂政団内部では、太王太后の信頼を得た官房長官オクシェンシェーナに次いで力を持っている人物と見なされ、ウレーデやユレンシェーナなどと伴にしばしば太王太后とオクセンシェーナと対立した。彼らは中立外交を続けるという点や絶対主義を堅持することなどの基本においては意見の一致を見ていたが、詳細な政策については意見を異にしていた。例えば彼は、外交問題においてオクセンシェーナの進める同盟側寄りの政策に反対し、フランス寄りの外交を主張した。
 摂政となった彼は、先王の時と変わらず、強硬な姿勢を見せ、慣例通り先王の葬儀と共に開催されるはずの国会の召集を、反対派に利する行為であり、絶対主義を危険にさらすとして反対し、反絶対主義者に対する圧力をさらに強めるべきだと主張した。この意見は、彼自身の態度の軟化と反対派の行動が思ったより過激でなかったことなどから採用されず、国会は従来通り開催された。その一方、従来にない絶対主義を強調する形式を取ったカール12世の戴冠式を計画する段において、彼は、大きな役割を果たしたと言われている。
 しかしカール12世が戴冠し、摂政の任を解かれると彼の政府内における存在感は急速に薄れていった。既に時代は彼を求めてはいなかった。若い世代、ピーペルらの活躍を見ながら1703年、11月16日にストックホルムで亡くなった。

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