人物列伝
◆スウェーデン政治家列伝◆
Statesmen of KarlXII's Era
吾が子供等よ、これまで神は吾々を助け給えり。神はなおこの先も助け給わん- KralXII -

Kristoffer Gyllenstierna
クリストファー・ユレンシェーナ摂政(1698)
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◆父と兄◆

父:エリック・ユレンシェーナ
ユレンシェーナ=ヴィンストルプス家系の始祖の玄孫。ウレアボリ男爵。王国参事。
1602年11月10日生誕。1657年10月23日死去。
 父はスヴェーア高等裁判所の評定官(assessorn)であったカール・ユレンシェーナ。スウェーデンの学校で学んだ後、レイデン、ヘルムステッド、オックスフォードの大学で学ぶ。その後、欧州諸国を巡ることを許され、1627年、ルイ13世の近衛隊に入隊。1628年のラ・ロッシェル攻防戦に参加した。1629年、スウェーデンに帰国すると、グスタヴ二世アドルフの財務秘書(財務官僚)となり、1631年のリュッツェン会戦には王の近侍として参加した。彼は1632年の戦役にも参加した。また、幾つかの使節団にも加わり、1634年と1647年にはモスクワへと赴いた。1636年、財務官となり、1637年カレーレン・ヴィボリ州の州知事に任命され、1642年にはインゲルマンランド・ケックスホルム・ナルヴァの地方総督に任じられる。1641年と1642年の国会では貴族院議長を務めた。1645年には王国参事となり、1651年、彼は男爵に昇爵し、エステルボッテンにあるウレアボリを男爵領とした。1652年スヴェーア高等裁判所の評定官(assessorn)。1654年にはオーボ高等裁判所長官となる。1655年に設立された王領地回収顧問会議では、そのメンバーとなり、土地の調査を行い、穏健派として、反対派と強硬派の仲裁に立った。しかし目立った成功は収められず、王領地回収顧問会議長官のヘルマン・フレミング男爵の足を引っ張ってしまうこともあった。1657年、彼はフィンランド地方総督に就任するが、この時既に病に冒されていた。それでも彼は、病を隠して、その地位を手に入れ、その年の10月に世を去った。54才であった。

兄:コンラッド・ユレンシェーナ
男爵。州総督。1645年生まれ。1684年9月11日死去。
 エリック・ユーレンシェーナの長男。1665年商務顧問会議のassessor。1667年ヴィボリ・ニュースロット州総督。1674年、カルマル州およびエーランド島の州総督に異動。1680年の大委員会で、開会宣言を行う。1680年と1682年の国会で王領地回収政策と絶対主義への熱狂的な支持者として活躍した。しかし30代の若さで1684年に死去した。

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◆クリストファー・ユレンシェーナ小伝◆


1647年生まれ。1705年6月14日死去。エリックスベリ伯爵。軍人。国王参事。ストックホルム知事(1682-1705)カール12世の摂政団の一員(1697年)。エリック・ユレンシェーナの次男。

 若い頃から軍務に付き、1668年には若干21才で近衛歩兵隊の中佐に任命された。その後も軍歴を重ね、1673年には近衛歩兵隊長(大佐)に昇進し、スコーネ戦争に従軍した。この戦争は彼にとって立身出世の場となった。
 彼は近衛歩兵隊を指揮して王の側で勇敢に戦った。ハルムスタッド(1676年)、ルンド(同年)、ランスクローナ(1677年)と言ったスウェーデンの命運をかけた3つの会戦における彼の活躍は瞠目に値するものとして世に知られている。特にルンド会戦での勇戦は名高く、彼が率いた近衛歩兵隊は、数で勝るデンマーク歩兵隊を相手に8時間にわたってほとんど休息無しで戦い続け、戦線を保持し続けることに成功した。それは指揮官であった彼も命を落としたとすら思われたほどの激戦であった。戦闘後、全身19ヶ所に傷を負い血まみれとなった彼が再び皆の前に姿を現したとき、誰もがその血まみれの男が彼であると気付くことが出来なかったと言われている。
 自らも激戦の渦中に身を投じていたカール11世は、この英雄的勇気と奮戦の意味をよく理解していた。王は参事代理の地位を持って彼の功績に報いた。しかしながら、これがどのような地位であったのかは定かではない。1681年(正式な参事となった年)以前において、彼は王国参事会(1682年以降国王参事会)に出席したことはないからである。また、同年(1676年)には、これまでの軍功も認められ歩兵少将に昇進した。
 1677年になると歩兵中将に任命され同時にヴェステルノッランドの総督となり、先に挙げたランスクローナ会戦に参加した。この戦いにおいても、中央歩兵隊第2戦列を指揮した彼は、スウェーデン軍左翼を救援するための時間を稼ぐために勇戦して勝利に大きく貢献した。
 彼の類い希なる成功は、戦場において発揮された軍事的才能と勇気による物であったが、その一方で歴戦の軍人であるヘルムフェルト陸軍元帥やアッシェンベリ陸軍元帥の宜しき指導を得たお陰であったとも言われている。
 戦争が終わると、彼は活躍の舞台を政治に求めた。1680年の国会では、王領地回収政策の実施を求め、熱狂的で行動的な国王の信奉者であることを示した。彼は兄と同じく熱狂的な絶対主義者で、王領地回収政策の支持者であった。こうして彼は政治の場においても戦場においてと変わらぬ忠誠を示し、カール11世の信頼を勝ち取った。
 1681年には王国参事(82年より名称変更「国王参事」)となり、1682年にはストックホルム知事に任命された。当時ストックホルムはその周辺地域を含めた一つの独立した州として扱われており、その知事は、他の州総督の上に立つ存在として一段上の地位を持っていた。1687年には伯爵に昇爵されエリックスベリィを伯爵領とし、同年、彼は国王の代理として王領地回収政策の審議が終了したことを宣言した。彼は首都であるストックホルムの知事としての立場を生かして国王に頻々に伺候し、カール11世の最も重要な側近の一人となった。
 1697年、カール11世の遺言により、彼は新王カール12世が成人するまで政務を取り仕切る摂政の1人に任命された。彼に与えられた役割は陸軍の統御であった。これは当時の陸軍卿(陸軍顧問会議総裁)、陸軍元帥アクセル・ヴァクトメイステル伯爵を差し置いての人事であった。カール11世は古い戦友に、自らの死に際し大役を任せた。
 摂政就任により彼には、強大な権力が与えられ、また余人からの一層の尊敬をも受けることとなった。しかし、彼は軍人らしい粗野で激しやすい性格の持ち主でもあった。そのことは摂政団の運営に様々な齟齬を生じさせた。とりわけ彼は摂政団の会議においては常に、摂政団の事実上の筆頭であった官房長官ベングト・オクセンシェーナに対抗する立場を取り、問題の種となった。
 更に不幸なことであったが、このような摂政同士の不仲は、他の摂政間でも存在した。これらは、摂政団の存続期間を短くする原因の一つとなった。摂政団体制が僅か数ヶ月で瓦解すると、彼はカール12世の即位を支持した。彼とカール12世の関係は、その父と彼との関係ほど親密ではなかったが、不仲でもなかった。彼はカール12世の戴冠式においては、権章の一つである宝玉を捧げ持つ役割を受け持っている。そしてその後、彼は死ぬまでストックホルム知事としての責務を全うし、1705年6月14日にこの世を去った。

 彼は1669年、グスターヴァ・ユリアナ・オクセンシェーナと結婚し、その後死別している。2度目は1696年で、彼はカテリーナ・ファルツ・ツヴァイブリュッケンと結婚した。彼女はプファルツ=クレーブルク公アドルフ・ヨハンの娘で、カール11世の従姉妹であった。このことからもこの時期における彼の権力が伺える。

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