人物列伝
◆スウェーデン政治家列伝◆
Statesmen of KarlXII's Era
吾が子供等よ、これまで神は吾々を助け給えり。神はなおこの先も助け給わん- KralXII -

Nils Bielke
ニルス・ビールケ陸軍元帥(1690)
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1644年2月7日ストックホルム*1716年11月26日 埋葬1718年2月7日 Lena教会


スウェーデン王国伯爵、神聖ローマ帝国の帝国伯爵、スウェーデン王国陸軍元帥、国王参事(スウェーデン王国)
1678年陸軍中将、1679年*82年駐フランス大使、1687年ポンメルン総督、1690年陸軍元帥。1687年にBielke af Åkerö として伯爵に叙せられたことから、その一族の開祖となった。

 ニルス・ビールケは栄光と没落を象徴している。彼の生きた時代はスウェーデンがバルト帝国として隆盛した三十年戦争末期から、その帝国が崩壊した大北方戦争末期に及ぶ。人生そのものにおいても軍人としての栄光、専制君主の寵臣としての権勢、一転しての凋落を見る。波乱に満ちた彼の道程は、大国時代のスウェーデンそのものである。
 彼は1644年2月7日にストックホルムにおいて、男爵トゥーレ・ニルソン・ビールケとその妻クリスティーナ・アーナ・バネルの長男として生まれた。父、王国参事トューレ・ビールケ男爵は1648年5月11日、彼が4才の時に亡くなった。母親はそれから4年後の1652年3月21日に亡くなった。父が世を去った次の年(1649年)、クリスティーナ女王は正統フィンランド州沿岸の群島にあるコルポ(Korpo)の男爵領をこの幼子が相続することを認めた。10歳の時、ウップサーラ大学に入学し、17才で大陸に初めての公務へ赴いた(1661-1662)。この時、彼はクラエス・トット(Claes Tott)に従って外交使節の一員としてフランスに向かった。これが彼を陸軍元帥にまで栄達させることとなる糸口ともなり、しかし最終的には破滅へと追いやる運命となるフランスとの長い政治的、文化的繋がりの始まりだった。その後の彼はイングランドを含む大陸遊学に出かけ、帰国すると太王太后ヘードヴィク・エレオノーラの廷臣となり、その知遇を得た。この大陸での修行において、彼はフランス元帥テュレンヌが実施していた射撃を行わずに直ちに抜剣突撃する騎兵戦術を学んだとも言われている(グスタヴ2世アドルフはピストルの上足により射撃無しの突撃を行ったことはあったが、それは定着化せずその場しのぎで終わっていた)。
 1668年、彼はヘードヴィク・エレオノーラの宮廷において侍従官および厩舎長(överhovstallmästare)となった。1669年9月28日、彼はエヴァ・ホルン伯爵令嬢(1653年9月14日-1740年)と結婚した。彼女は伯爵グスタヴ・ホルン(ビョルネボリ家系)元帥と彼の二番目の妻シグリッド・ビールケ(1620-1679)の間の一人娘で伯爵家の女相続人であったため、この結婚は男爵家の未来を明るいものとした。1673年29歳の時、国王親衛騎兵隊(Livregementet till häst)の隊長(大佐)に任命されスコーネ戦争(1675-79)に従軍した。この戦争において彼は組織者として、また指揮官として重要な役割を担い、ハルムスタッド、ルンド、そしてランズクローナで功績を立てた。
 特に1676年のルンドでニルス・ビールケは、近衛歩兵隊を指揮したクリストファー・ユレンシェーナとともに目覚ましい働きをした。この戦いで親衛騎兵隊550騎を指揮していた彼は、デンマーク軍と戦うスウェーデン軍の一翼を担った。部隊の装備は酷いものだったが、彼はハルムスタッドで既に行っていたようにフランス式の騎兵突撃、つまり完全な抜剣突撃を行い、その戦術の正しさを証明した。こうしてビールケは王の側で戦い、包囲されそうになったとき王を果敢に守った。カール11世は戦いの後、デンマーク騎兵を退却に追い込んだ彼の突撃を評して「私の王冠はビールケの剣に掛かっていた。神に次いで、ビールケと彼が率いた我が親衛騎兵隊に、この勝利を感謝したい《と述べている。カール11世は以前にルイ14世から贈られたフランスの剣を彼に譲り(この剣は今でもビールケの一族が保有しており、後のスウェーデン軍騎兵制式軍刀のモデルとされている)、将兵の前でその功績を称揚した。この戦い以降ビールケは王の掛け買いのない戦友の一人となり、後々に至るまで王家からの庇護を受けることとなった。
 その後、彼は少将に昇進し、翌1677年のランズクローナの戦いにも参加した。彼は戦いの前日、命令を受けてデンマーク軍の偵察に赴き、デンマーク軍野営地が強固に守られていることを報告し国王に向けて攻撃を思いとどまるよう進言した。状況は明らかに危険すぎた。国家の安全のために軍事的冒険は避けなければならない。彼の意見は全将軍たちの賛同を得た。誰もが状況は上利だと感じていた。しかし王はすでに決意を固めており、将来の専制君主は戦うという望みを押し通した。ランズクローナ*(現在のRönnebergの丘)の戦いはこうして1677年7月14日に行われた。撤退を進言していたビールケだったが、戦いにおいて怯むことはなかった。激戦が繰り広げられ、シモン・グリュンデル=ヘルムフェルト元帥は二度と戻らなかった。元帥は戦いの中盤、スウェーデン軍左翼が危機に陥ったとき戦死した。しかし戦いはスウェーデンの勝利に終わり、ニルス・ビールケに再び大きな吊誉をもたらした。彼は勝利した右翼で王とアッシェンベリ元帥とともに勇敢に戦い、そして生き延びた。
 1678年、彼は中将に昇進し、陸軍の徴兵責任者となった。翌年、平和が来たとき彼は親衛騎兵連隊の指揮官の地位から退き、スウェーデン王国大使としてパリに赴いた。彼は1682年の夏にスウェーデンに呼び戻されるまでその地に留まった。彼が祖国に戻ったとき、王国議会はすでに王の絶対主義体制を認めて、土地回収政策を推し進める決断を下していた。そのため、この政治的決断にまつわる出来事にビールケはまったく係わることが出来なかった。政治的情勢は、彼を危うい立場に追い込んだ。いまだにビールケに対して並々ならぬ寵愛の念を抱いていたカール11世に対する叛逆は論外だった。また、叛逆しようにも強大な王権を前に反感を持つ貴族たちの多くは沈黙を強いられていた。かくしてビールケは、ケーニヒスマルク元帥のように新たな収入を必要とする立場に追い込まれた貴族たちと同じく、外国の軍に参加する国王の許可を求めた。そして、それが認められるとスウェーデンを出てドイツへと向かった。1684-87年の間、彼はハプスブルク軍に加わり対トルコ戦争に参加した。この戦争は、スコーネ戦争と同じように、ビールケに富と吊誉を与えた。1684年のブダペストの包囲に加わり、1686年におきたその街の陥落に立ち会い、1687年のモハチの戦いに参加し功績をたてた。これまで与えられたことのない戦略的な指揮官の地位も得て、1686年帝国陸軍大将となり帝国伯爵となった。1687年の秋にスウェーデンに戻るまで、彼は対トルコ戦争において大きな貢献を果たした。
 1687年スウェーデンに戻ると国王参事、ポンメルン総督、王国陸軍大将、そして伯爵に叙せられた。ポンメルンの総督職は、ヴェニス共和国軍に加わり対トルコ戦争に赴くこととなったオットー・ヴィルヘルム・ケーニヒスマルク伯爵の後任としてであった。この職を努めながら、ビールケは徐々に親フランス的な考えを強めつつあった。しかも彼は土地回収政策で打撃を受けた多くの貴族の内の一人でもあったため、外交政策において反フランス的な絶対主義者たちで構成されるカール11世の側近たちに反感を抱いた。これらのことからビールケは、対フランス大同盟側に寄りつつあったスウェーデン王国の外交方針を変更させるべきだとの考えに至った。彼は対フランス大同盟寄りの中立を維持していたスウェーデンの外交方針と対立する者たちの筆頭となった。好都合なことにスウェーデン本国から離れた場所にあって、彼には政治的に外交的に行動の自由があった。しかし、ビールケが想像している以上に専制君主カール11世との隔たりは物理的にも、心理的な距離においても広かった。またポンメルン総督の地位は彼に多くの富をもたらしたが、これは土地回収政策の実施側に付くということでもあり、政策に消極的なビールケはやり玉に挙げられかねなかった。
 彼は1688年から89年にかけてのハンブルクでの国際会議に参加し、スウェーデンの安全保障の主要な問題となっていたホルシュタイン(当時ホルシュタイン・ゴットルプ公爵はデンマークに対しての要塞の建設を求めていた)を経由して祖国に戻り、そして1690年11月にコペンハーゲンへ向かった。事態は複雑化しており、彼は個人的な外交ルートを用いて活動していた。だから彼の行動は如何なる権限にも基づかないものだった。そのような中、彼は、フランスとブランデンブルク寄りの共通政策に基づいたスウェーデンとデンマーク間のゆるやかな協調を構想した。デンマーク王国の大臣たちをも巻き込んだこの計画は、デンマークはシュレスヴィヒ・ホルシュタインを獲得し、代わりにホルシュタイン公はスウェーデン領ブレーメンを獲得するというものだった。計画の草案が纏まると彼はカール11世に直接の目通りを願った。そしてそこで長く王の寵愛を受けてきたニルス・ビールケは自分の立場が揺らいでいることを気付かされた。その場には彼の政敵たち、ベングト・オクセンシェーナの官房官たちなどが同席し、そして密かに手に入れていた彼とデンマークとフランスの協力者との通信文書を示して、これは殆ど国家叛逆であると詰問した。この席上でビールケの書記官ヨアキム・ブラウンがフランスに赴き、フランス政府から金を受け取っていることが暴露された。王はこの問題に対しての説明を求めた。ビールケは弁解した。しかし1692年初頭、再び彼はフランスとの重要な交渉地であったハーノーヴァへ、王からのいかなる指示も許しもなく向かった。これらの事を後から知ったカール11世は立腹した。彼の運命はかげり始めていた。
 もっとも彼には自分が上当に扱われていると考えるにたる十分な理由があった。土地回収政策は彼に大きな打撃を与えていた。それなのに総督として彼はこの嫌悪する改革を推し進める立場ですらであった。二律背反に悩まされた彼は職務に疲れ、二度にわたってヴェネチア共和国軍に入り、ギリシャで病に倒れたケーニヒスマルクの後を継ぎたいと王に願い出ていた。しかし王がその許可を与えることはなかった。こうして絶望したビールケは土地回収政策から逃れるような行動を取るようになっていった。同時に彼は再びドレスデンで新たに非公式の個人外交を行おうとした(金銭もまたその動機の一つだっただろう)。この個人外交もまたフランス的な色彩を帯びていてスウェーデンの国家方針と対立していた。そして目を付けられていた彼の外交文書は再び政敵の手に落ちることとなった。
 1692年12月22日の直筆の手紙の中で、国王は過去にビールケへ与えた全ての恩寵と慈悲の宣言を撤回すると述べている。ルンドの戦勝後、かつて全軍の前で王が与えた加護をビールケは失った。しかし王の公正さは、参事会のビールケの政敵たちがさらにこの問題を発展させたいと考えていたにもかかわらず、彼を追い詰めるような行為を二度と許さなかった。けれど1697年にカール11世が世を去った時、この元帥はカール12世の摂政団に加われず、そしておそらく悪いことに、カール11世は、息子にビールケを信頼することの危険性を警告していた。また、カール12世即位式前後において流れた噂によれば、彼を含めた土地回収政策反対勢力はカール11世の死に乗じてスコーネ地方をデンマークに差し出す代わりに、その力を借りて失われ、あるいは奪われつつある彼らの領地を取り戻す策謀を巡らせていたともされている。ビールケの立場は、かつて同じようにルンドの戦いで王の戦友としての寵愛を確保したユレンシェーナとはまったくの正反対にあった。ユレンシェーナは絶対主義体制の完全な擁護者として首都ストックホルムの知事となり、軍事問題を統括するためにカール12世の摂政団に加わっていたが、ビールケは総督としての職務を停止させられ、摂政にもなれずしかも反逆者の汚吊が世に流布された。
 若きカール12世との衝突は、ビールケの政治的、社会的破滅につながった。彼の政敵は再び活発に動き始めた。ポンメルンの貨幣鋳造所における上正の噂が広まり、そしてこの問題を調査する査察官が任命された。この時、ビールケからベルリンの大臣フッチュへの手紙が政敵の手に渡った。この手紙で彼はうかつにもブランデンブルク宮廷からの多大な骨折りに感謝を表し、スウェーデンでの彼の上運を嘆き、10万リクスダーレルを安全に預かってほしいという要望に対するブランデンブルク選帝候フリードリヒ3世の助力を期待していると述べていた。1698年4月21日、ビールケ元帥は逮捕され、監視下に置かれた。会計審査局書記官ヘンリック・ヘールドイェルムが勅命調査官としてスヴェーア控訴院での本件の起訴を担当した。
 既に裁判前に元帥位と総督の地位を剥奪されていたビールケへの裁判は8年間続き、ようやく1705年4月15日に判決が下された。告発は膨大で、そして最も重要だったのはステッテンの貨幣鋳造における上正であった。それは悪質で価値のない貨幣(額面と貨幣の構成金属の価値が一致しない)を鋳造したというものだった。また社会的、軍事的組織としての上正も告発された。たとえばビールケは兵士を上正に外国に貸し出して金を得ていたし、新兵採用時にも上正を働いていたとされた。ビールケの個人外交は大逆の罪とされた。ヘールドイェルム検察官は彼の罪状を決めた。「彼は、手紙、助言、行動によって王に上正を働き、王と国家に対しての敵意を隠し持っていた《
 宣告は死刑であった。かくしてビールケは全てを失った。もっとも彼の罪の多くは実証されておらず、故に彼は犯罪者になるとは考えていなかった。そして多くの同調者が彼にはいた。多くの貴族が、彼は犯罪者というよりも上運であったと感じていた。そしてそれらの印象には効果があった。また、太王太后やヘードヴィク、ウルリカ両王女は死罪および財産の没収という彼の量刑を減ずるようカール12世に働きかけていた。彼は王の寵臣として王家の人々と親密な関係を築いていた。こうした取りなしにより、彼は王命によって死刑を免ぜられた。そして1705年5月10日、判決を通して彼は王国内での自由居住を回復した。しかしストックホルムやそのほかの宮廷に留まることは禁じられ、ハンガリーでの戦いなどで得た動産を失った。加えて所領も、土地回収政策の後も妻の所領であったスーデルマンランドのゲッデホルム(Gäddeholm)と、母から受け継いだウップランドのサーレスタッド(Salsta)以外は、全て失った。
 彼はもう61才だった。老人となっていた彼は唯一残った領地の屋敷に引きこもり、残りの年月を静かに過ごした。1715年、カール12世が亡命先のトルコから戻ると王は彼の罪を許し吊誉を回復させた。1716年11月26日、ニルス・ビールケは心臓の病でサーレスタッド(Salsta)で亡くなった。72才だった。一説によれば裁判の裏にはビールケと敵対していた王国官房の策謀があったとされる。

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