〜人物列伝〜
Ivan Stepanovich Mazepa
イヴァン・ステパノーヴィチ・マゼッパ ヘトマン
[Back]
[略歴]

以下の文章は
PRINCE MAZEPA HETMAN OF UKRAINE
IN CONTEMPORARY ENGLISH PUBLICATIONS
1687-1709
by Thedore Mackiw
のp13〜p38を元にし
幾つかの情報を付け加え再構成したものである。

導入

 マゼッパと聞いて、多くの人々は歴史上の人物と言うよりはバイロンの伝説に出てくる人物を連想するだろう。また、歴史上のマゼッパの評価は定まっておらず、書物によって様々な違いがあることも事実である。
 彼はロシアの保護を受けるドニエプル河左岸のウクライナに当時存在していた(左岸)ヘトマンシチナ、あるいはヘトマン国家と呼ばれる一種のウクライナ自治国家と言っても良い組織の行政長官であった。

 この左岸ヘトマン国家とロシアとの関係は、スペイン支配下のオランダ(1559-1648)やポーランド支配下のプロシア(1525-1668)、そしてスウェーデン支配下のリヴォニア&エストニア(1648-1721)のようなものを思い浮かべると良いかも知れない。
 ただし、ウクライナにおけるロシアの保護(支配)は、この時代、前に挙げた例よりも緩いものであった。ロシアはウクライナに独自の領地を認め(当時の地図にはロシアとウクライナの境界には明確な区別が付けられていた)、そして人々、言語、法律、行政、特殊な民主主義、軍事組織それらは所謂コサックと呼ばれた、を認めていた。

 コサックと言う言葉はトルコ語を語源としているとされ、その意味は、防衛者、自由戦士、略奪者というものである(この語源の問題には異論がある)。15世紀になると、コサックは東欧州において特殊任務に就く補助軍隊の一種として発達し、リトアニア、ポーランド、ロシア、そしてウクライナに居住した。
 特にウクライナにおいてコサックは軍事部隊の社会階級として発達した。そしてポーランドの支配下におかれていた17世紀初頭、ペトロ・サハイダーチヌイを指導者に仰いだとき、ウクライナ・コサックは一つの民族集団のようなものへの変革を確実なものにした。彼らはポーランドの宗主権の下で、トルコからの攻撃からウクライナを守り、また逆にコンスタンティノープル(アドリアノープル)にまでも攻め込んだ。また彼は、文化・正教の振興を進め、キエフ神学校を創設し、正教関係の聖職やカトリック国であるポーランドから逃れてきた人々を保護し、ウクライナ・コサックを正教信仰を核とした民族的集団へと変革させる下地を作り上げた。
 しかしこのように、ウクライナ・コサックは東方正教とポーランドの貴族に虐げられた民衆とを保護したため、宗主権を持つポーランドとの関係は日増しに悪化した。

 そもそも、ポーランドとウクライナ・コサックの関係は複雑なものだった。事の始まりはポーランドがリトアニアと連合を組んだ1569年のルブリン合同であった。これにより強大になったポーランド・リトアニアは、1570年ウクライナ・コサックをも統制下におくために「登録制度」を設け、その登録数は周辺諸国との緊張が高まるたびに増加されていった。
 この政策は一定の成果を挙げており、コサックたちはポーランドの重要な軍事戦力として数えられるようになっていった。前述のサハイダーチヌイもその登録されたコサックであり、ポーランド軍と肩を並べる形でコサックたちを率いていた。
 しかし登録されたコサックには様々な恩恵が与えられたため、この制度はコサック内部に対立を生み、またその登録数やそれに付随するポーランドによるコサックへの締め付けの強化はポーランドとコサックとの間の関係をも悪化させていった。ここに前述の問題も加えられたため、関係の悪化は更に深刻なものになる。
 つまり、コサックとポーランドの関係が破局を迎えることは当然の帰結だった。後はそれが何時起きるかという問題だった。

 そしてそれは、1648年に発生した。ヘトマン・ボフダン・フミェルニツキによって指導された国民的反乱の結果、ウクライナにはヘトマンシチナ(ヘトマン国家)として知られる軍事自治共和国が設立されたのである。
 そしてこの難しくダラダラしたポーランドとの戦争はウクライナとロシアとの間で1654年に結ばれたペレヤスワフ(ペレヤスラフ)条約を生んだ。この条約の主な内容は、次の5点であった。
(1)コサックはその独自のコサック法に従い裁判を受ける。
(2)コサックは独自にヘトマンを選出し、ツァーリにはそれが通告されること。
(3)ヘトマンはツァーリへの忠誠を宣誓すること。
(4)ウクライナの外国大使は独自に行動しうることとし、モスクワはその結果について報告を受けること。
(5)ウクライナの税の一部はモスクワに献上されること。
である。

 これによりコサック(ウクライナ)は独自の自治が認められ、それと引き替えにコサック(ウクライナ)はロシアの宗主権を認めることとなった。
 しかしコサック達やウクライナに住む人々の反応は複雑だった。ポーランドに対抗するためにロシアの援助を期待した都市住民やコサックもいれば、キエフの高位聖職者のように、その条約への宣誓を拒否するコサックや都市住民もいたのである。  
 そしてロシアもこの条約の約定を守らなかった。
 この条約はポーランド・リトアニア連合王国に対抗する同盟であったにも関わらず、ロシアはヘトマンシチナに無断でポーランドと同盟したのである(ヴィリノ条約)。結局の所、このペレヤスワフ条約はロシアとポーランドとウクライナの関係を確定する様なものではなく、ヘトマンチシナもまた、ポーランドとロシアの間で揺れ動くことになる。

 そして、その結果フミェルニツキの後継者であるヘトマン・イヴァン・ヴィホフスキ(在任1657-1659)は、自らの独断でロシアとの関係を絶つことを決め、再びポーランドとの関係回復に踏み切り、1658年9月17日ハジャチ合同(条約)を締結した。
 これは、コサック長老(スタルシーナ)たちにシュラフタ位を認め、ルーシ(ウクライナ)をポーランド、リトアニアと並ぶ「共和国」の対等な構成地域とするものだった。
 これによりヘトマンシチナは「大ルーシー公国(ルーシー公国)」と呼ばれる事実上の国家となった。ルーシーとはこの場合ウクライナのことである。大ルーシー公国は独自の貨幣と軍を持ち、宗教的にはカトリックと正教が対等とされた。しかもポーランド軍はヘトマンの許可無くその領域に侵入することが許されなかった。この条約に従いウクライナは再びポーランドの下に属するようになる。これは即ち、国家合同されたと言っても良いものだった。

 しかし反ポーランド意識を持つコサックや一般民衆の数は、反ロシアの意識を持つ者たちと同じくらい存在し、またコサック長老らもこの国家合同に強硬に反発した。この影響でヘトマン・ヴィホフスキはポーランドへの亡命を余儀なくさせられ、コサック長老らは翌1659年、新ヘトマンに英雄ボフダン・フミェルニツキの息子ユーリー・フミェルニツキを据え、大ルーシー公国を廃止し、ペレヤスワフ条約の再確認を行い、「共和国」との事実上の国家合同を取りやめた。そしてその結果ポーランドとロシアとの戦争は再燃した。

 この間にモスクワとコサック長老たちとの結びつきが強まり、ヘトマン・ユーリーは実権を失った。またその一方でロシアの徴税は重く厳しく、ウクライナに住む一般民衆の間で不満が高まった。これらを受け、ヘトマン・ユーリーは、ポーランド軍の侵攻に合わせて、再びポーランドに属することを決め、ポーランド保護の下で自治を承認された。
 しかしながら、ロシアとの結びつきが強くなっていたコサック長老たちはこの決定に猛反発した。その結果1663年、ヘトマン・ユーリーはポーランドの保護下になっていたドニエプル河の右岸へと逃れることになる。そしてこれ以後、ヘトマンシチナは、左岸と右岸に二分され、二人のヘトマンが並び立つようになるのである。

 この状態は、最終的に1667年にロシアとポーランド間のアンドルソフ(アンドルシェフ)条約によって成文化された。これは既成の事実を認めるもので、ウクライナはドニエプル川の左岸と右岸に二分されることとされ、右岸はポーランド領、左岸はロシア領とし、それぞれのヘトマンシチナ(ヘトマン国家)が認められた。

 もっとも、この区分が常に安定的であったわけではなく、この条約は左岸と右岸の完全な分断を意味してはいなかった。1663年に初の左岸ヘトマンとなったブリュホヴェツスキ(在任1663-1668)は、ロシアに反旗を翻してオスマン帝国と手を結び、1665年にユーリーの後任として右岸ヘトマンになったドロシェンコ(在任1665-1676)は、その左岸の混乱を見て取るや、両岸統一を目指して左岸に侵攻している。
 ただしブリュホヴェツスキは、ドロシェンコ軍を迎え撃つ準備中に部下である左岸コサックに殺害され、ドロシェンコもオスマン帝国ら隣国との対処に手を焼き、左岸ヘトマンに反ロシア派のムノホフリシヌイ(在任1669-1672)を任命して、右岸に戻っている。
 ドロシェンコはその後、ポーランドに臣従しなければならない立場でありながら、オスマン帝国などと手を結び、ポーランドに対抗している。

 一方の左岸ヘトマン・ムノホフリシヌイも、自らの信条に従い、ロシアの支配下からの脱出を目指してロシアに対抗し、最終的にはその地位を逐われた。
 その後任でロシアの支持を取り付けた、左岸ヘトマン・イヴァン・サモイロヴィッチ(在任1674-1686)もまた、両岸統一の野望に燃え、1674年にロシアの援助を受けながら、短期間ではあるが両岸統一を成し遂げ、両岸ヘトマンとなっている。
 しかしこの統一も長くは持たず、1681年のバフチサライ条約(オスマン帝国・クリミア汗国・ロシア)により右岸がポーランド領からオスマン帝国領へ、そして左岸は従来通りロシア領とされ、サモイロヴィッチは再び左岸のみを統治することで満足しなければならなかった。
 もっとも、ドニエプル右岸のウクライナの宗主権は、オスマン帝国ではなくポーランドが実質的に握っており、この条約は、オスマン帝国がドニエプル右岸を攻撃してもロシアとしては構わないと言う意味合いが強かったと思われる。また、右岸ウクライナのヘトマンシチナは1700年、最終的にポーランドにより廃止される。

 そして遂に1687年、マゼッパがロシアからの支持が低下していたサモイロヴィッチを逐い落とし、ヘトマンとなるのである。
 これは左岸において頻発した親ロシア派のコサック長老達やコサックらによる反ロシア派の、あるいはロシアの受けが良くないヘトマンの逐い落とすと言う行為の典型的な例である。後にマゼッパ自身もこの行為によりその地位を逐われ、ポルタヴァでの大敗を招くことになる。
 つまるところ、後にロシアに反旗を翻すマゼッパもまた、その登場当初においては、親ロシア派の筆頭であったのである。

 マゼッパの権利は、制限されていたにも関わらず、左岸ウクライナ全域において、行政のすべてのみならず軍事的権威と全権を行使することが可能であり、モスクワ在留の各国外交官からも行政の最高権力者(国家元首)として認められていた。

 例えば、モスクワにいたフランスの外交官、ジャン・デ・バルセ(1648-1718)は1704年に当時の左岸ウクライナの首都であるバトゥーリンを訪れ、その手紙に次のように書いている。
「モスクワ大公国(ロシア帝国)からウクライナに私は入った。この国はコサックの国である。ここにいる数日間私はプリンス・マゼッパの賓客として扱われた。彼はこの国の最高権力者である」

 同時代の輝けるイギリス人ジャーナリスト兼スパイだったダニエル・デフォーはその著書に次のように書いている。
「マゼッパは王の称号をもっていない。しかし彼は力においても、その他あらゆるものにおいても王と同等である。もしポーランド王アウグストが周囲の状況において優れていなかったなら、彼の力は最上のものにすらなる」

 もっとはっきり言えば、マゼッパ自身その地位を承知しており、「ポーランド王と同等である」と認識していた。

 疑いもなくマゼッパは並はずれた人物であった。マゼッパはウクライナのみならず世界史において論争に上がるほど有名な人物である。論争の重要点はマゼッパの性格であり、カール12世をウクライナに呼び込んだのか否かであり、その時何故彼は失敗したのかである。
 最後に、彼の名前についてだが、彼の名前はかつてmazeppaであるとされていたが、彼の書いた様々な書類、手紙や命令書、の署名においてはmazepaとなっている。このことから、pは一つであると考えられる。

Return Top


小伝

Return Top

 ヘトマン・イヴァン・ステパノーヴィッチ・マゼッパ−コレディンスキはウクライナの貴族の家に生まれた。場所はウクライナはヴィラ・ツェルクヴァ(Bila Tserkov)の近く、先祖伝来の領地であるマゼピィンシィ(Mazepyntsi)であるらしい。
 その生年は不明で、長らく論争の的であり、今も定かではない。しかし1639年3月20日であると考えるのが妥当であると考える。なぜならば1629年説、1632年説を採用するとするなら、マゼッパは1708年において76才〜79才の老人であることになってしまい、当時スウェーデン軍本営にいたアデラーフェルトやノルドベリィの目撃証言「マゼッパは60才ぐらいであった」に矛盾することになるからである。
 また、1643年説を採るならば、1659年にマゼッパが、ポーランド王ヤン・カシミールの外交使者として当時のウクライナのヘトマン、イヴァン・ヴィホフスキへのもとへ派遣されたという事実と矛盾してしまう。なぜならば1643年生まれであるとするならば1659年においてマゼッパは14,5才の子供であり、この年齢で外交使者を務めるというのは不可能だと考えるからである。
 これらの説が矛盾を抱えているのに較べ1639年に生まれたという説は、矛盾が少なく、それどころか最も確かな証拠すらあるのである。それはマゼッパの最も近しい同僚で、彼の宰相(家宰)であったフィリップ・オルリックの以下の証言である。彼は1741年8月22日手紙にこう書いている。「私は70になった。マゼッパがベンデルにいた時(1709年)と同じ年齢になった」と。
 これらの事実より、マゼッパは1639年に生まれたと考えるのが正しいと考える。また、その生まれた日と月はポーランド人詩人T.Padura(1801-1872)からのものを採用した。これはその他に資料がないから、取り敢えず了承することが出来る。
 マゼッパの母マリィナ・モキエフスキー(Maryna Mokievsky)は古いウクライナ貴族の子孫であった。1665年、彼女の夫が死ぬと、彼女はキエフにある女子修道院に入り、後にはそこの女子修道院長となった。
 しかしながらこのことは、彼女の政治的活動を妨げたりはしなかった。ヘトマンとなった彼女の息子はたびたび彼女のもとを訪れ助言を願った。彼女はその生命を1707年までには終わらせており、90近くまで生きたという。
 マゼッパの父ステファン・アダム・マゼッパはウクライナの貴族であった。また、ポーランド王に仕えていながら、ヘトマン・ボフダン・フミェルニツキ(在任1648-1657)が主導した1648年の対ポーランド反乱に加わった。
 この反乱の結果、フミェルニツキはウクライナの地にヘトマンシチナ、即ちヘトマン国家を樹立し、ロシアと手を結んだ。しかしフミェルニツキの後継者であり、親ポーランド的なヘトマン・イヴァン・ヴィホフスキ(在任1657-1659)はロシアとの関係を絶ち、再びポーランドとの関係を持ち、1658年9月17日ハジャチ合同(条約)を締結してルーシー公国とも呼べる国家を設立した。
 ステファン・アダム・マゼッパはこのヴィホフスキの政治方針を支持しており、その結果、ステファンはヴィホフスキが力を保っている間、ウクライナでの地位を昇格させ、息子にもウクライナで重要な地位を手に入れて欲しいと願うようになった。
 そのため彼は、息子イヴァンをキエフのモヒラ神学校に入れ、その後ワルシャワに送り、そこのイエズス会神学校で学ばせ、そこにおいてウクライナ人年代学者ヴェリィチェコ(Velychko) の指導を受けさせた。そして教育を終えたイヴァンは、父が支持するヴィホフスキのポーランド寄り政策に従い、ワルシャワにてポーランド王ヤン2世カシミール・ヴァーサの近侍となった。また彼は更に幸運なことに、王命によりオランダへの留学が許されたのである。1656-9年の間、彼はオランダのデーフェンテルに砲術の勉強を行い、ドイツやイタリアへも足を伸ばし、軍事的教育を受けた。ワルシャワに戻るとマゼッパは引き続きポーランド王の近臣として仕え、1659年から1663年の間、彼は様々な外交任務に就けられ、ウクライナのヘトマンのもとへとたびたび派遣された。
 彼が外交官として活躍していた時期のウクライナは混迷の度合いを深めていた。ヘトマン・ヴィホフスキは1659年に失脚し、ウクライナは再びロシアの支配下に入っていたが、親ポーランド派と親ロシア派は政治の主導権を巡って争いを続けており、新たにヘトマンとなったユーリー・フミェルニツキは実権を維持するために再度ポーランドに臣従しようとする構えも見せていた。そして1663年、ウクライナのヘトマンシチナがヘトマン・ユーリーのドニエプル右岸への亡命により右岸と左岸に分かれた事に引かれるようにして、イヴァン・マゼッパは、ポーランドの宮廷を離れ、故郷へと戻った。故郷には病気で苦しむ父と設立されたばかりの右岸ヘトマンシチナが待っていた。

 このマゼッパがウクライナの宮廷を離れることとなった理由と物語は、バイロンの詩によって伝説化されているが、その元となっているのは、同時代のポーランド貴族であるヤン・クリゾストム・パセック(Jan Chryzostom Pasek)の回想録「回想:1656−1688」(1690−95年 執筆)と、後年の哲学者にして歴史家であるヴォルテールによって書かれた「カール12世の歴史」である。
 この2つの著作は双方とも、マゼッパはファルボウスキ(Falbowski)夫人(クリスチャンネームは不明)との情事の発覚のため宮廷を離れたとしている(ヴォルテールの方には場所、ファルボウスキの名はない)。
 ファルボウスキ夫人は若く、夫であるファルボウスキはポーランド貴族であった。彼らはヴォルヒニア(Volhynia)に住んでおり、マゼッパの隣人だった。ファルボウスキ卿はマゼッパと妻が一緒にいるところを捕まえ、マゼッパを罰した。
 彼はまずマゼッパを裸にし、その手足を縛り、それから裸馬の背に縛り付けた。そして至近でピストルを撃ち、馬を驚かせ走らせたのである。
 彼は荒れ狂い疾走する馬が生い茂った森の中に入ることにより、マゼッパがついには死に至るのではないかと期待していたのだろう。しかしマゼッパにとって幸運なことに、馬はウクライナにある彼の故郷を目指した。これは馬の故郷も又、ウクライナであったからだとも言う。
 ともかくもこうしてマゼッパは九死に一生を得た。もっとも裸で縛られ傷ついていたマゼッパは見るも無惨な状態で、故郷の人々は最初、彼と気付かなかったそうである。彼はここで手当てされ体力を回復させた。
 しかしながら、パセックの話しとヴォルテールの話しには幾つかの違いがある。パセックは場所について詳しいことを何も言及せず、ただヴォルヒニア(Volhynia)でことが起こったとしか書いていないし、ヴォルテールに至ってはマゼッパ以外の固有名に関してほとんど言及していないのである。そのうえパセックはその町から離れたスモレンスクの町にいてロシア人と交渉していた。
 このことからパセックはこの話しを人づてに聞き、それを回想録に残したのではないか、という疑惑が生まれるのである。
 実際、この種の話しは当時にあっては決して珍しくはなかった。例えばフランス人外交官、フォイ・デ・ラ・ニュウビリ(Foy de la Neuville 1649-1706)は似たような話しを回想録に残している。この話しではポーランド軍で働いていたスコットランド人がリトアニア人の大佐の妻と不倫事件を起こすというものだった。
 このような訳でパセックの話しも当時の流行に合致し、彼の創作という可能性が浮上してくる。と言うのもこのパセックという人物は実はマゼッパと因縁のある人物であったからである。
 彼は、まだマゼッパがポーランドの宮廷で働いていた時の同僚で、マゼッパに告発されたことがあった。それは1661年のことである。この時パセックはポーランド王ヤン・カシミールに対する軍事的反乱計画に連座させられるのである。これはマゼッパが王に告発したからであり、この結果パセックは裁判を受け有罪となり、財産全てを没収させられたのである。後にパセックは許され名誉を回復したが、マゼッパが自分にした行いを忘れることはなかった。
 それを考えるとパセックのマゼッパについての話しは、マゼッパを貶める彼の復讐であったと考えることも出来てしまうのだ。事実パセックはマゼッパを嘘つき、盗人、姦夫と呼び、彼の情事を無分別だと非難している。
 また、彼についての有名な小論文を書いたコストマロフ(Kostomarov)は「パセックはマゼッパの個人的な敵だった」と書いているし、著名なポーランドについての歴史家であるアレキサンデル・ブリュックネル(Alexander Brueckner)もパセックについて「信用出来ない嘘つき」であると言及している。
 このような訳で、かの有名な話しはかなり眉唾な物になってしまう。
 さてまた、ヴォルテールの方はどうだろうか。パセックの回想録は1688年に完成し、当時ポーランド中に広まっていた。そしてそれらは伝聞であるいは写本で長い間生き残った。その結果、1821年7月ワルシャワでポーランド雑誌Astreaで部分的に発行されたのである。
 それはおよそヴォルテールの「カール12世の歴史」(1731年)が発表されてからおおよそ100年後のことで、これから考えるとヴォルテールはこの情報を知り得た可能性は極めて高い。
 またヴォルテールは当時フランスに亡命していたポーランドの追放王スタニスラフ・レシチンスキ(彼はカール12世によって王になりその後追放されたが、娘がルイ15世と結婚しパリに住んでいた)にしばしば会って情報を提供して貰っており、そこで彼から向こうでは広まっていたこの話を少なくとも一度は聞きいたはずである。
 さらにヴォルテールの「カール12世の歴史」は以前よりその信憑性が問題視されており、ドイツ人歴史家オットー・ハインツ(Otto Haintz)に従うと、その理由は、彼の作品が同じフランス人のH.F.デ・リミアース(H.F.de.Limiers)が書いた信憑性の薄い編集物である「Historie de Suede le regne de Charles XII」を元にしているからであるという。
 このリミアースの本はおそらくダニエル・デフォー(Daniel Defoe)が書いた「The History of the wars His present Majesty Charles XII, by a scots Gentleman in Swedish Service」を元にしていると推定されており、注意すべきはダニエル・デフォーは同時代人であっても北方戦争には参加していない人物であるということである。

<注:ダニエル・デフォーは北欧州の政治情勢にも詳しく、また当時有名なジャーナリストであり、ピョートル大帝についての本も出しいる。これらの本は、構成上回想録形式を取っている。だが、彼が一度として外国で働いたことのないことから、この2つの著作物は回想録ではないことは明白である。しかしデフォーは優秀なジャーナリスト(スパイでもあった)として、非常に注意深く同時代の事実を編集してると、Theodore氏などは評価してもいる。つまり評価が分かれていると言うことである。ちなみにデフォーの書いたカールの本は私も持っているが、確かにヴォルテールの物と似通っており、ヴォルテールが流している事柄について詳しく書いていたりしてなかなか面白い。まぁしかしこういう話しは多いなぁ、箕作元八の本だってNisbet Bainの本とソックリだし……って私も人のこと言えんか、このHPも色んな著作物を足しあわせ合成して、種本はHatton氏の本だからな。>

 ともあれ、ヴォルテールが2次資料、3次資料を底本としていたことは確かであり、マゼッパのこの話しについてもパセックの話を又聞きしただけである可能性が非常に高い。
 つまり、パセックの話しが真実であると言う証拠はなかった。しかし、それはマゼッパが恋愛問題を抱えていなかったと言うことではない。キエフの中央公文書館で1663年の記録を発見した、(キエフの)公文書係Kananinによると、この年、ポーランド人貴族Zagorowskiがその妻Helenとの離縁を申し立てており、その理由として、隣人のマゼッパが妻に送った多くのプレゼントと手紙を、彼が奪ったことが挙げられていた。
 手紙によるとマゼッパはその妻にピクニックと偽って夫を東の隣村Revushkiに誘い出すよう願い、その途上で、Zagorowskiを殺害する計画を立てていたそうである。しかしマゼッパの計画は上手くいかず、また、この話しの結果もまた謎である。

 つまるところ、若く伊達者であったマゼッパが幾つもの情事を持っていたことは確かであったが、しかしそれ故にFalbowskiについての話しはパセックがその回想録で指摘したほど深刻な問題ではなかったと言うことである。
 最後にもう一つ証拠を挙げるとすると、ハンブルクの週刊誌Historiche Remarquesの1703年11月27日号と1704年1月22日号に掲載されたマゼッパについての極めて正確な伝記を挙げることが出来る。モスクワからの情報に基づいて書かれたこの伝記の中でその著者は、彼の非常に個人的な事柄も詳しく述べており、例えばマゼッパは1668年か1669年に、裕福な未亡人Hanna Frydrkievychと結婚し一女をもうけたとか、しかし幼くしてそれを亡くし、夫人自身も1702年に亡くなったとかを詳細に述べており、そしてこの著者は、マゼッパの姉(妹?)が3度結婚しており、その3人の名、Odydovsky、Vituslavsky、Voniarovskyといった事柄すら記しているのである。
 またさらに、その3番目の夫との間に出来た息子Andrew Voniarovskyは叔父であるマゼッパの下にやって来て、マゼッパは彼をキエフで哲学を勉強させる手はずを整えていること記述していた。しかもこの著者は、イヴァン・サモイロヴィッチ(I.Samoylovychマゼッパの前任のヘトマン)へのマゼッパの弾劾行為を非難していた。
 つまり、彼はマゼッパの敵対者であったのである。
 だからもし、Falbowskiと妻との情事が有名でしかも事実ならば、このモスクワからの、マゼッパの個人的問題の幾つもについて知っていた記者が、雑誌内の記事にこの話しを書かないはずがなかった。しかし、この著者はこの話しについて触れることはなかったのである。

 以上のようにパセックの話にはまったく真実はなかったと思われる。そして彼のその後の経歴からもそれは明らかとなる。何故ならば、もしマゼッパがパセックの言うようにFalbowskiによって処罰されていたならば、そのスキャンダルが起きた後の1665年、マゼッパがポーランド国王の引き立てによって出世したという事実があり得ないものになってしまうからである。この事はマゼッパがこの情事が理由でポーランド宮廷を去ったわけではないと言う、何よりも確かな証拠である。
 マゼッパがカール12世との同盟を結んだ後でも、彼の伝記作家たちは1人としてFalbowskiとの問題を記述しなかった。彼らは皆この問題に関する情報を得ることが出来なかったが、それは彼らがマゼッパを擁護するためではなかった。何故なら彼らは、この事件以外のマゼッパの人生におけるどんな暗い側面も著述していたからである。

 結局の所、1663年にマゼッパがウクライナに帰国した理由は、おそらく、病気に苦しむ父を助けるためであったのだと思われる。しかし彼の看病の甲斐もなく、マゼッパの父ステファンは、1665年にこの世を去ってしまう。マゼッパは父の世襲の地位をポーランド国王の引き立てもあり、無事引き継いだが、ポーランドに戻ることはなかった。設立されたばかりの右岸ヘトマンシチナこそが、彼にとっての新たな舞台となった。
 1669年マゼッパは、ウクライナの右岸ヘトマン、ペトロ・ドロシェンコ(Doroshenko 在任1665-1676)の下で、ヘトマン近衛隊の戦隊長となった後、ドロシェンコの官房長となっていた。このヘトマンは、モスクワ大公国とポーランド王国双方からウクライナを解放する野心を持っていた。それら2つの国家は1667年のアンドルソフ(アンドルシェフAndrusiv)の講和によって、ウクライナの分割を成文化していた。そしてドニエプル河を境界として、その右岸がポーランドの支配下にあるドロシェンコの治めるヘトマンシチナであった。そしてもう一方のドニエプル左岸はヘトマン・イヴァン・サモイロヴィッチ(Samoylovych)が、ロシアの庇護を受けながら、治めていた。
 ドロシェンコはこの状態の解消を目指し、当初こそポーランドに臣従していたが、その後オスマン・トルコとの同盟を結んで、ヘトマン就任当初のポーランドへの服従の姿勢を変更していた。(この経緯は導入において説明したのでそちらを参照)
 マゼッパは、これまでのポーランドに対する恩義がありながらドロシェンコが起こした1672年のポーランドのガリチィア地方への侵攻作戦に参加し、その後、1673年から1674年の間、クリミア汗国やオスマン・トルコを含む各国へ外交任務を帯びて派遣された。

 しかし1674年、外交任務を帯びてクリミア汗国に赴く途上マゼッパは、当時自身の領土と自治権を持っていたザポロネジ・コサックの隊長(Koshovyj)Ivan Sirkoによって捕らわれてしまう。Sirkoは捕らえたマゼッパをドロシェンコの政治的敵対者だった左岸ウクライナのヘトマン・サモイロヴィッチ(在任1674-1686)の下に送った。
 マゼッパは危険な立場に追いやられた。しかしサモイロヴィッチはマゼッパの教養と外交の才能を見抜き、彼を息子の教育係に任命し、さらにその後すぐに軍高官に取り立てた。彼は1677-8年のChyhyryn戦役(オスマン・トルコがウクライナに対して侵攻を企てた最後の戦役)でコサック部隊の一員としてこれに参加し、トルコ軍と戦った。そして1682年マゼッパは参謀長(Inspector-General or General osaul or heneralnyi osaul)に昇進した。この職はヘトマン国家における上級職で、ごくまれにではあったが、軍事作戦においてヘトマンとして行動することも出来た(この職からヘトマンに昇格する人物は多数いて、マゼッパの前の主人、ドロシェンコも以前は右岸ウクライナのヘトマン国家でこの職に就いていた)。
 マゼッパの前の主人であったドロシェンコもサモイロヴィッチの権威に理解を示したため、その後マゼッパは数多くの外交任務に就き、特にモスクワに送られる任を多く務めた。このことはマゼッパに多くの有力者との面識を得る機会を与えた。そしてその最も重要な有力者にヴァシリー・ゴリーチィン公がいた。
 ヴァシリー・ゴリーチィンは惨めな失敗に終わった1687年のクリミア遠征の間、宮廷内における影響力の低下を抑えるため、コサックを説き伏せてサモイロヴィッチを退任させ、後任に自身の影響力が及ぶと見なされたマゼッパを指名した。そして1687年7月25日(O.S.(N.S.8/4))マゼッパはコサックたちから正式にヘトマンに選出され、ここに「ヘトマン」マゼッパが誕生した。

 既に豊富な経験を持っていたマゼッパは、ロシアからウクライナを自由にする試みの無謀さと、それがもたらすであろう惨禍を良く理解していた。そのためマゼッパはモスクワに忠誠を誓い、ゴリーチィン公が失脚した後は、自身の個人的魅力によって実権を握ったピョートル1世の寵愛を得ることに成功した。
 モスクワにいたオーストリアの大使Otto Pleyerは、1702年2月8日の報告書で、「マゼッパはツァーリから尊重され礼遇されている」と述べている。
 マゼッパの政治目標は当面、ウクライナ国内を強化することにあった。即ち教育と社会経済の改善することにより、ウクライナの地に中央集権国家をうち立てることを目指したのである。
 マゼッパは、ウクライナを強くすることによって、モスクワをして簡単にその自治権を奪えぬようにしようと考えたのである。幸い時代はまだ平和であった。それはマゼッパに価値のある様々な施策を文化と教育の面で試みる余裕を与えた。「マゼッパ・バロック」と呼ばれる文化がウクライナの地に生まれ、教会と学校の建設が奨励されたのはまさにこの時期である。
 しかしその一方でヘトマン政府に権力を集中させるために、ヘトマンの位を世襲制にしようという試みも始められていた。彼には子供がなかったが、計画では甥のAndrew Voniarovskyを後継者に指名するつもりだった。

 マゼッパ有能な指導者でその方針も評価出来るものだった。しかしながら、モスクワに対して忠節を尽くしすぎ、これまで守られてきたウクライナの民主的政治機構を廃止しようと動きすぎたため、ウクライナの民衆の間に深い反感と抵抗運動を引き起こすことにもなった。
 コサックと民衆の間にあった反感が大きく表に現れた運動の1つに1692年から1696年の間に起きたPetryk Ivanenkoの反乱がある。彼は1691年に、ザポロジアン・コサックへと逃亡した人物で、その地において「新たなる支配者」からウクライナの人々を解放するために、ザポロジアン・コサックの協力の下、マゼッパに反旗を翻した。
 彼はザポロジアン・コサック以外にも、クリミア汗国からの軍事的援助の約束も取り付けていた。クリミア汗国は、彼を事実上の、ウクライナ・コサックのヘトマンと認め、彼に援助の取り決めを交わしていた。
 マゼッパの軍は国境で反乱軍を待ちかまえた。しかしながら、ザポロネジ・コサックの反乱軍への参加は小規模にとどまり、しかもPetrykが再び「タタールの軛」を受け入れると言う事が民衆に知れ渡ったため。彼の軍は戦う前に瓦解した。彼はその後も数回か、反乱を企てたが最終的に1696年殺され、反乱は鎮圧された。
 これ以外のヘトマンによる支配に対する反乱もすべて鎮圧された。同時代の歴史家Velychkoは彼の年代記の中で次のように記している。「沈黙と恐怖とが民衆の間にあった」
 また次のことも付け加えなければならない。それは、マゼッパが民衆とスタルチーナとの間の対立を緩和しようと様々な方策を試みたと言うことである。

 ピョートル1世が1695年に対トルコ戦争を再開したとき、ウクライナの人々の不満は高まっていた。にもかかわらず、マゼッパはいつ如何なる時もピョートルの求めに応じて、ロシアの対トルコ戦争を支援した。このロシアに対する臣従姿勢は、トルコとの戦争が終結しても変わらなかった。
 そしてピョートルは、トルコとの戦争に見切りを付けると、ザクセン=ポーランドの王アウグスト2世と同盟を結び、バルト海に不凍港を得る決意を固めていた。彼は1700年以降、スウェーデン軍と、彼の同盟者であるポーランドの対立王スタニスラフ・レシチンスキに対抗するために、マゼッパに対し更なるコサック兵の徴集を要求するようになり、その要求と支配は、次第に耐え難いものへと変化していく。もっともこれはまだ先の話しである。
 ともかくも、1700年8月19日(O.S.(S.W.8/20 = N.S.8/8))ロシアがスウェーデンに対し宣戦を布告すると、マゼッパはピョートルから、その当時リーヴランドの州都リガを包囲していたアウグスト軍を援助するために10,000のコサックを集め、進軍させるようにとの命令を受け取った。

Return Top