グスタヴ・オットー・ステンボック1614年8月7日-1685年9月24日
スウェーデンの軍人・政治家。
エルヴスボリ州Torpaの生まれ。1658年6月1日ヨーテボリでヤコブ・デ=ラ=ガルディーの娘、クリスティナ・カテリーナ・デ=ラ=ガルディーと結婚。
1631年、スモーランド騎兵連隊に入隊。1632年ドイツに歩兵連隊の旗手として出征し、30年戦争に参加。1634年ノルトリンゲン会戦に従軍した後、ハストフェル連隊の大尉として1636年のウィットストック会戦に参加。1637年の時点で既に大佐であり、1639年、クロノベリ連隊を率いてチェミニッツ(Cheminitz)会戦に参加。その後も各地を転戦し、1642年第2次ブライテンフェルト会戦に加わり、少将となるとスウェーデン本国に帰国。デンマークとの戦争が終結した1645年、再びドイツ派遣軍に加わり、中将・陸軍顧問官としてヴェストファーレンの条約交渉に参加した。その後、インゲルマンラントの地方法務最高執政官(lagman)となり、1652年リガの総督・王国参事となる。その後、カール10世グスタヴの下、ポーランドでの戦争で活躍。ワルシャワ会戦に参加。1656年陸軍元帥。1657年ポーランドから帰国し、デンマークとの国境を守備。ボーヒュースレーン征服後の1658年スコーネ地方総督となり、その後のデンマークとの戦争でも活躍。カール10世の死後、1664年急死した陸軍大臣L.カッグの後任に海軍大臣C.G.ウランゲルが就任したことを受け、海軍大臣に就任する。1666年ルンド大学学長(〜84年)。しかし1675年、スコーネ戦争の最中、初めて艦隊を率いたが、悪天候と準備不足のため、戦わずして大損害を被る。この結果、艦隊の管理を怠っていた責任を追及されて、海軍大臣を罷免される。彼は艦隊の被った損失を補填するべく、209,344銀ダーレルの罰金を命じられた。これは直ちに支払うとの約束の代わりに100,000銀ダーレルに減額されたが戦後、更に摂政団裁判に連座し、300,373銀ダーレルの罰金を宣告された。ただし、この罰金についても、熱心な陳情を行うことにより、100,000銀ダーレルへの減額を成功させた。しかし、政治的にも、義理の兄弟であったマグヌス・デ=ラ=ガルディーが失脚したことも影響して権力を失い、名誉も地に落ちた。その後、汚名返上の機会もなく、1685年死去。しかし一族の汚名は息子のマグヌスが濯いでくれた。

カール・マグヌス・ステンボック

結婚
1690,3/23,伯爵令嬢エヴァ・マグダレーナ・オクセンシェーナ(コルスホルム・オック・ヴァサ家)<1671,1/22-1722>宰相ベングト.O伯爵とマグダレーナ・ステンボック伯爵令嬢の娘


 父、グスタヴ・オットー・ステンボック伯爵は、エルヴスボリ州Torpaの生まれで、その妻クリスティナ・カテリーナとは1658年6月1日ヨーテボリで結婚。若い頃から30年戦争に参加し、カール10世の下でも功績を立てた陸軍軍人であったが、カール11世の親政開始後、海軍運営における不手際とその後に起きた摂政団裁判に連座して失脚した。後にマグヌスはこの父の汚名を返上することとなる。

 幼い頃は、リンシェーピング監督H.スペーゲルやO.ヘルメリンを家庭教師として、勉学に励み、1678年頃ウプサラ大学に入学した。その後、1683年頃パリに送られ、そこで更なる教育を受けた。高位貴族の子息としての素養を身につけるため、ウプサラの大学で数年間学んだ後、外国に教育のため送られることは、当時としては自然なことであり、父の不名誉の所為ではない(しかし彼の初期の軍歴が外国軍やスウェーデンの海外領土軍に偏っていたことは、この影響があったことを想像させる)。
 パリでは、数学などの勉強を行うはずであったが、直ぐに、算術への興味が軍事への興味に取って代わられてしまった。
 1685年12月10日、マグヌスは、カール10世グスタヴとストックホルム市参事員の娘メルタ・アレルツの間に生まれた非嫡子グスタヴ・カールソン伯爵が連隊長を務めるオランダ陸軍のスウェーデン歩兵連隊に、旗手として入隊する。これが彼の軍歴の始まりである。その後1687年3月26日、彼はオラニエ公の近衛隊に異動し、そこでも旗手を務めた。
 同年、彼はスウェーデン陸軍のスターデ守備連隊([1]ではスターデのフィリング連隊としている)の大尉の役職を獲得することに成功し、9月1日オランダ陸軍を退役した。そして翌年、1688年9月26日、彼はオランダで活動するニルス・ビールケ歩兵連隊の少佐となっていた。

 1690年3月23日、彼はストックホルムにおいて、スウェーデン王国宰相ベングト・ガブリエルソン・オクセンシェーナとマグダレーナ・エリックドッテル・ステンボックの娘であるエヴァ・マグダレーナ・オクセンシェーナと結婚し、同じ年の6月19日、フィリング連隊(スターデ守備連隊)の中佐となった([1]ではフィリング連隊の中佐について記述がない)。
 この結婚は権力者と結びつくことにより一族の復権を試みる政略的な側面を持っていたと思われるが、その一方で、後にマグヌスはこの妻を「小柄で人形か天使のような妻」と呼びかける戦地からの手紙を書き残している。

 結婚した彼は、大同盟戦争に加わるべく低地諸州およびライン河方面に出征し、フリュールス会戦(1690年)、ステーンケルケ会戦(1692年)に参加、功績を立てた。その後1693年9月23日、バーデン辺境伯ルートヴィヒ付き高級副官として皇帝のドイツ軍に加わると、同年10月17日にはその地で大佐となり、97年の終戦まで軍人としての多くの経験を積んだ。また彼は、この戦争の間、戦場だけでなく特殊な外交の舞台でもその役目を的確にこなしたと言う。
 帰国した彼は、元帝国軍大佐の階級に相応しい職務を探した。外国で軍歴を重ねた軍人として、祖国に戻っても指揮官あるいは参謀将校として出世したいと考えるのは当然のことであった。しかし、スターデの守備隊や外国の軍に勤務している際にもついて回られていたが、彼の一族は、父や伯父(マグヌス・ガブリエル・デ=ラ=ガルディー)の不名誉により好ましくない一族であるとの悪評が張られており、独力での猟官運動は苦労を必要とした。しかし彼は義父であり、権力者であった宰相ベングト・オクセンシェーナの力を頼ることが出来た。
 1697年5月30日、オクセンシェーナは義理の息子ためにウィスマルの司令官職とそこの守備連隊の連隊長職を手に入れてやり、マグヌスは、海外領土の志願兵連隊ではあったが、スウェーデン軍の連隊長となった。そして2年後1699年1月2日、新王の寵愛を獲得し、その優秀さが認められていた彼は遂に、本国の国民兵連隊であるカルマル連隊の連隊長となったのである。

 大北方戦争が1700年に勃発したとき、マグヌスはダル(ダーラナ)連隊の連隊長となっていた(1700年2月16日就任)。ヨーロッパでの戦争の経験を生かせば、この戦争が、期待していた活躍の場となるだろうと言うことは想像に難くなかった。だが一方でそれは、短い間であったが楽しんだ家族との生活から離れることも意味していた。
 しかし結局、任務への情熱と出世への希望が、マグヌスを駆り立てた。彼はシェラン島上陸作戦に参加し、ナルヴァ会戦ではレーンスケルド将軍の下、王の側の最左翼でダル連隊を率いた。この戦いで彼は軽傷を負いながらもロシア軍右翼を突破し、敵司令部の包囲に加わり、ロシア軍総司令官ド・クロワ公の降伏に立ち会った。

 この会戦は多くの物をマグヌスに与えた。まず彼は戦闘での功績が認められ、会戦から少し後、1700年11月25日歩兵少将に昇進することができた。
 更にマグヌスはこの戦闘により、多額の現実的な利益を得た。もちろんその多くは略奪品からである。およそ1,600リクスダーレルが現金で彼の手元に入り、その他にもロシアの硬貨や価値ある宝石を得た。
 得られたものはそれだけではなく、銀製の大ジョッキやコップ、テン毛皮で裏打ちされたベッドカバーとベッド、塩入れや武器、上祭服と聖餐杯、十字架、燭台、組紐の大外套等々、数多かった。彼は得た品々を、故郷で待つ「彼の天使」に送り、それらは新たな領地を購入するために使われることとなった。
 またマグヌスは、手に入れた家畜を屠殺し、あるいは入手した穀物からパンを作り、軍にそれらの製品を売ることで、多額の報酬を間接的に得ている。しかもこの戦いには、一族の土地を守るという意味もあった。会戦後、母に宛てた手紙の中で、「リーヴランドにある貴方の土地を守るために危険に身を晒しました」(前述したが彼はこの戦いで負傷した)と彼は書き記している。
 歴史家ペーター・イングルンドは彼のこの行動を、「軍上層部の人間が如何にして戦争から利益を引きだしたのかを知る好例である」と評した。このように、この戦いはマグヌスを金銭的にも豊かにしたのである。
 そして、忘れてはならないは、この会戦の結果、彼の戦術に新たな考えが加えられたことである。ロシア軍の指揮官ド・クロワ公が言うように、西欧式の戦術で考えれば、このナルヴァでのスウェーデン軍の突撃は常識はずれであった(ド・クロワ公は、いきなり全軍が突撃してくるとは想像もしていなかったと後に語っている)。
 これはマグヌスも同様の認識であっただろう。当時、スウェーデン陸軍の軍人には西欧で軍歴を積んだ西欧型軍人とスウェーデンで軍歴を積んだスウェーデン型軍人の2種類が存在し(西欧型の代表格はレーヴェンハウプト、スウェーデン型はレーンスケルド)、西欧で軍事技術を学んだマグヌスは西欧型軍人の典型であった。彼は、フランス軍が槍を時代遅れであると判断したステーンケルケ会戦にも従軍しており、火力の優越が戦場での勝利の鍵であるとこれまで学んできていたはずである。しかしこの戦闘の結果は、その認識を一変させるものだった。
 マグヌスはこの勝利に深い感銘を覚えて次のように故郷に書き記している。「是ただ神の御業である。しかしその中にただ少しでも人の為し得たことがあるならば、それは我が王の固くして動かし難き決心と、レーンスケルド将軍の熟達した部隊運用であった」これは彼がスウェーデン式の突撃力を重視した歩兵戦術の有効性を理解したことを示している。
 また彼の戦術認識が一変したという別な証拠として、カール12世の命令により冬営中のライスにおいて、王とマグヌスにより完成されたスウェーデン軍の歩兵戦闘教義書がある。これはカール11世が1695年から改訂を進めていたもので、騎兵については1697年までに発行されていたが、歩兵用のものは戦争勃発当時において、まだ完全な状態ではなかった。王とマグヌスは、この突撃戦術を強調し、後世から見るとやや火力を軽んじているようにも取れる戦闘教義書を完成させ、発行した。これは彼が歩兵の突撃戦術について理解を深めた確かな証拠である。
 そして最終的に、この突撃戦術は彼の中で西欧式の戦術と融合し、砲兵火力と歩兵突撃を効果的に使ったヘルシングボリ会戦やガーデブッシュ会戦につながっていくのである。そう言った意味でも、このナルヴァ会戦はマグヌスにとって一つの転機であった。
 最後に、この会戦で得たものとして、王からの信頼が上げられる。すでに戦争前からマグヌスは、高位の軍人としては王と近しい年齢にあったため、その知遇を得ており、義父であるオクセンシェーナも、彼を通して王に影響力を行使しようともしていた(彼は王から「若いの(the Buck)」や「悪戯狐(Sly-Fox)」などと呼ばれていた)。しかしこの会戦により彼は、若さや闊達さだけでなく、その能力も王から本当に認められることとなり、深い信頼をも得たのである。連戦で疲弊したスウェーデン軍はナルヴァ会戦後、リーヴラントのライスで夏まで給養することになるが、このライスでの冬営は、王との友情と信頼を確かとする場ともなった。
 後の話になるが、王のマグヌスに対する友情と信頼に嫉妬したラーゲルクローナが彼の飲酒癖を王に訴えた際、「酔っぱらったステンボックですら素面のラーゲルクローナより優れている」と王が答えたとされている。
 この王との関係は、友情に関しては時が経ると些か薄れるが、その信頼が揺らぐことは決してなかったのである。

 また、ライスでの冬営中、マグヌスは夜会や管弦楽団の演奏、歌劇の上演を伴う大規模な狩猟祭を開催し、王を喜ばせている。これは聖カロルスの日(1月28日)に行われ、「1月28日、偉大にして幸福なる聖カロルスの祝祭日、ロシア軍への比類無き勝利を記念してライス城冬営地において、陛下の忠実なる臣下にして少将、貴族であるステンボック伯爵により開催される、楽しき遊びと陛下への良き喝采と名誉を祝した歌劇による栄光の調べ」と銘打たれていた。
 マグヌスは作詞作曲だけでなく、自ら楽団の指揮を執り、王を讃えるドイツ語の演説も行ったと伝わっている。彼には、この様な芸術に関する才能もあり、画家や詩人としても、幾つかの作品が残されている。  もちろん、この時期、彼は遊んでいただけではない。これに前後して、マグヌスは王の命令によりナルヴァの南に位置するグドーフのロシア軍城塞に対する攻撃を実施している。ロシア軍は依然として活発で、エストランドに侵入しては土地を荒らしまわっており、グドーフもこれら略奪を繰り返すロシア軍の拠点の一つであった。彼はこの城塞の奪取に失敗したが、プスコフ地方周辺に4,000に及ぶロシア軍が依然として存在することも、彼の軍事行動を含めた一連の作戦の中で明らかにされた。また、攻撃は失敗したが、彼に対する王の信頼が低下することもなかった。

 その後もドヴィナ渡河作戦、クリッソフ会戦、クラクフの占領、プルツク会戦に加わった。また、1702-07年の期間、陸軍顧問会議の管理官(generaldirekt:or)の職にあった。彼は王の側近として活躍していたが、1706年、歩兵大将に昇進し、スコーネ地方総督となると、王の側を離れ、その任務を果たすためスウェーデン本国に帰国した。1710年、再び宣戦布告を行い上陸したデンマーク軍をヘルシングボリの戦いにおいて打ち破った。
 彼の活動は戦争や外交だけにとどまらない。ルンド大学の学長として数年間、大学の発展に寄与し、画家や詩人としてもその才能を発揮していた。また1710年彼は国王参事となっている。

 1712年、約9000の兵を率いて、スウェーデン領ポメルンのシュトラールズントを救援するためメクレンブルクに侵入した。彼はガーデブッシュの戦いに勝利し、この前後、彼は陸軍元帥に列せられたが、最終的に数の差に圧倒された。孤立した彼とその軍はテニングにおいて包囲され、降伏した。彼はコペンハーゲンの北にあるフレデリクスハーベン[Fredrikshavn]城塞に収監された。身代金を支払ったにもかかわらず、彼は解放されず、脱出計画も露見してしまったため、その罰として、過酷な取り扱いを受けた。5年間、過酷な捕虜生活を過ごした末、1717年2月23日に死去した。

 1901年、ヘルシングボリの大広場に彼の像が建立された。これはスウェーデンで唯一の、国王でない人物の騎馬像として伝わっている。