〜人物列伝〜
Magnus Stenbock
マグヌス・ステンボック元帥(1710年昇進)
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[略歴]

小伝本伝誤り多数あり。
こっちは"改訂用覚書。
(注意!覚書はメモ以外の何ものでもない)

マグナス・ステンボックは1665年5月12日、ストックホルムにおいてグスタフ・オットー・ステンボック提督(スカニア戦争で活躍した海将、未確認だが、カール10世麾下の陸軍でワルシャワ会戦に参加していた)とクリスティナ・カサリナ・デ・ラ・ガルディ(おそらくマグナス・ガブリエル・デ・ラ・ガルディの血族)の間に生まれた。

彼は戦争が始まる前、他の同僚達と同じように外国の軍隊においてキャリアを積んでいた。彼は1682年にオランダ陸軍において少尉に任命され、1693年には神聖ローマ帝国において陸軍大佐に、そしてスウェーデンにおいては1699年まさに戦争の前年に歩兵大佐に任命されている。このように戦争が始まった時ステンボックは35歳の歩兵大佐であり、連隊長として最前線を支える将校であった。

さて、戦争が始まると彼は同僚のホルン(彼も同様に若かった。当時36で陸軍大佐)と共にカール王の側近として出征し、かの有名なナルヴァ会戦に参加する。彼はこの戦いで王と共に左翼後方の別働隊に参加し一隊を指揮した。この戦いは午後二時から始まり、吹雪に乗じた八千のスウェーデン軍が薄く広く展開する四万(一説には八万とするものもいるが、おそらく正規の兵隊は四万であったろう)のロシア軍を撃破することとなった。ここでステンボックはまずまずの戦いぶりを見せ、後に有名となるこんな言葉を残している。
「是ただ神の御業である。しかしその中にただ少しでも人の為し得たことがあるならば、それは我が王の固くして動かし難き決心と、レーンスケルド将軍の熟達した部隊運用であった」
これはステンボックが、王と当時スウェーデンで最高の軍人の一人とされていたレーンスケルド将軍(当時騎兵中将、後に元帥になる)を深く敬愛していたことを示している。彼はこの戦いを通して使えるべき主君への忠誠を確かなものとし、レーンスケルド将軍の如くありたいと願った。

ナルヴァ会戦以後、ステンボックは同僚のホルンと共に少将に昇進する。

その後スウェーデン軍は周辺のロシア軍の防御力を調べるため幾つかの分遣隊を周囲におくり、ステンボックもその一隊を率いて、ナルバ南方にあるグドーフの要塞を攻撃した。しかしその周辺にはまだ四万のロシア兵がおり、その攻撃は失敗した。また、ステンボックはこの冬営中に新たなスウェーデン軍の戦闘規範を作成している。これはカール11世が制定した物を基本としていたが、より衝撃戦術が強調される内容であり、後世から見るとやや火力を軽んじているようにも取れる内容だった。もっともこの時期の小銃の性能から考えて、射撃戦をダラダラ続けるより敵に限りなく近づいて一斉射して突撃に移る方が効果はあったと言う事実もある。そしてその冬営後、スウェーデン軍はポーランドに転戦することとなり、ステンボックもそれに従ってリガ渡河作戦、クリソウ会戦に王の幕僚として参加した。もっとも彼自身は王の幕僚であったがため、目立った活躍はせず脇役として軍事技術を学ぶに留まっていた。しかしこのことは彼にとって幸いであった。何故ならすぐ間近で拙速を尊ぶ軍事的天才たる王と、老練なレーンスケルド将軍という二タイプの戦争術を学べたのである。故にこの時期があったからこそ後年の活躍があったといっても過言ではないだろう。

このようにして順調にキャリアを重ねていったステンボックであったが、遂にクリソフ会戦後に行われたクラカウ要塞攻略戦において念願の表舞台へと登場することとなった。この時ステンボックはカール王と共に主力軍を離れ僅か三百の寡兵をともなって要塞城門付近に進出し、「守備隊長に話しがある」と叫び、降伏要請を行ったのである。しかしこの交渉はなかなか纏まらなかった。そして遂に我慢の切れた王が滅多に使わないフランス語で「門を開けろ!」大音声を発し、それに驚いた守備長が僅かに門を開くとそれをきっかけに王は突進し門を押し開いた。これを見たステンボックと三百の兵は、一気に要塞内に乱入し(ヴォルテール曰く鞭と杖で追い立てた)要塞を降伏させたのである。王の助けがあったにせよ、こうしてステンボックは無事任務を果たし、その功績によりクラカウ要塞の守備隊長に任じられることとなった。時に1702年7月のことである。この時ステンボックはこの町の聖ニコラ教会にある歴代ポーランド王の墓所に財宝があると聞いてそれを調べたが、財宝は発見できなかったそうである。ただし、各地のカトリック教会に属する高価な装飾品は発見され、その一部を接収することは出来た。

これ以後ステンボックは王の元を離れポーランドにおいて占領地の経営という厄介な仕事の一端を任されることとなる。その中でステンボックは 、激しいゲリラ戦に悩まされた。当時の王からの手紙には断固たる処置をせよと書いてあり、彼はそれに従い残虐な行為を幾つか行った。ただし彼の名誉のために付け加えると、決して好んでやったわけではないし、ゲリラ戦にはそういった方策が有効であるという悲しい現実があるのである。

またその間トルン攻略のための側面援護をもステンボックは行っている。ダンツィヒ市の開城がそれである。トルンを攻略するための援軍を速やかに前線に送るにも、このダンツィヒ市は開城されなければならなかった。何故ならこの市はトルン近くまで流れているヴィツスラ河の河口にあっったからである。そしてこの市はポーランドによって幾多の特権が与えられていて、その為裕福なことでも有名で、自由都市と呼ばれさえしていた。そのため彼らはスウェーデン軍を無条件で通そうとはしなかったのである。ステンボックは市の責任者達を集め、軍隊その他軍需物資の通過の許可を求めたが、彼らは言を左右にして明確な答えを出さなかった。ステンボックはこの態度に激昂し、常勝スウェーデン軍の力を楯に責任者達を脅し、多額の賠償金すら奪い取って軍隊その他軍需物資の通過を許可させたのである。

こうしてポーランドで占領政策を行っていたが、その働きぶりが認められたため 、1704年には彼は中将に昇進し、1705年には大将になり1707年にはレーンスケルド元帥の後任として(もっとも彼はその当時ステンボックと同じくポーランドにいた)スウェーデン本国の南にあるスカニアと呼ばれる地方全体の総督(Governer General)となった。この頃になるとステンボックへの王の信任はかなりものとなっていたのである。こうして着実な出世をしていたステンボックであったが、1709年、王が率いる主力軍がポルタヴァで敗北するとさらに重要不可欠な立場に立たされることとなった。

ポルタヴァの敗戦はスウェーデンにとって致命的ともいえる敗北だった。有力諸将は皆、捕虜になるか、王に従ってトルコに落ち延びたため、あれほどいた有能な上級中級指揮官が全くいなくなってしまったのである。もちろん、百戦錬磨の一般将兵も大量に失ったのである。さらに致命的だったのが、無敵スウェーデン軍の神話が遂に滅びたということだった。これにより先に負け講和していたデンマーク、ポーランドといった敵国が一方的に条約を破棄してスウェーデンに戦いを仕掛けてきたのである。スウェーデンは絶頂から一気に敗亡の縁に追い込まれたのである。この時ステンボック44歳、王も頼るべき同僚もいない孤独な戦いが始まった。

まずステンボックが戦ったのは総督を務めていたスカニアに上陸してきたデンマーク軍(1709年11月上陸)一万六千であった。この地方はかつてデンマーク領であり、先代のカール十一世の時代にもデンマーク軍はここに上陸し、歴史に名高いルンド会戦の舞台となっていた。しかも今までデンマーク軍はとことん負けており今度の機会こそ最後やも知れぬと並々ならぬ意気込みだった。この軍隊をステンボックは迎え撃たねばならなかった。しかしこの時彼の手元には騎兵三個連隊しかなかった。このためステンボックはズンド海峡を渡ってくる敵軍を水際で撃破することを諦め、後方のクリクリスタンスタットに退き、類い希なる努力を持って新兵をかき集めた。しかし兵数ばかりそろってもその装備は貧弱で、山羊の皮の外套に麻織りの仕事着、そして紐で帯に銃を結び木の靴を履くといったお粗末なものだった。だがそれでもステンボックは諦めなかった。即席の訓練を新兵たちに仕込み、士気を高揚させカール王から学んだ大胆な行動に打って出たのである。ステンボックにとって幸運だったのは、この地方が完全にスウェーデンに帰属しており、後ろから刺されるような心配をせずに戦えたことと、ポーランドでゲリラ戦術を学び、地の利があり、大軍であればこういった戦術は極めて有効であると身をもって知っていたこと。そして国民全体が劣勢にある祖国を救おうと一致団結していたことだろう。

こうしてステンボックは本土からかき集めた八千の正規兵と新規徴募の四千の新兵を率いて巻き返しに出た。1710年2月、ステンボックはズンド海峡の東岸にあるヘルシングボルイから少し離れた場所においてデンマーク軍主力と対峙したのである。彼は数日の休養を行い陣地を整え、新兵を戦場馴れさせた後に決戦に及ぼうと考えていたが、兵の士気は異様なまでに高く(もっとも彼も大いにそれを焚き付けていたのだが)、それを見て取ったステンボックはその日のうちに攻撃を加えること決意した。こうしてヘルシングボルイの会戦は生起した。新規兵達の戦意は凄まじく顔の形相は悪鬼羅刹の如く、恐るべき勇敢さを持って攻撃に加わった。装備不備の新兵の二個連隊がデンマーク王の親衛連隊を壊滅させたとも言われている。結局会戦はスウェーデン軍の大勝利に終わり、スカニアからデンマーク人を追い出すことに成功したのである。これ以後デンマーク軍がスカニアに侵入することは現在に至るまでない。

この戦勝は未だスウェーデン侮るべからずといった風潮を醸しだし、一部講和の動きにもなったが、結局王の反対あってすべてたち消えてしまった。状況は悪くなる一方となり大陸でのスウェーデン軍は各地で敗退していった。特に有名なのがブレーメンのエルベ河近くの重要な要塞都市スターデ(シュターデStade)の陥落である。この都市はデンマーク、サクソン連合軍の苛烈なる砲撃によって文字通り燃え落ちたのである。無論のこと駐留スウェーデン軍も降伏し、この苦い記憶はスウェーデン軍に復讐を決意させることとなる。

かくて悪化する状況を覆すべく王は新たなる作戦計画を立案し、ステンボックはその中核として参加することとなった。彼は1712年ワハトマイステル提督に護衛されリューゲン島を経てポメラニアに九千の兵をともなって上陸した。計画通りことが進めば、彼はトルコ軍とポーランドで募兵したグルジンスキーの新軍と協同してポーランドの敵軍に向けて分進合撃するはずであった。しかしポーランドの新軍は呆気なく敗れ、トルコ軍も見かけ倒しであったため計画は失敗した。ステンボックはただ一人大陸にて奮戦することとなった。そして勢いの乗るロシア・ポーランド・デンマーク軍に囲まれたストラルズンドを救うべく行動を開始した。

しかしここでステンボックは大きな失敗をしている。ポーランドの元帥フレミングと2週間の休戦条約を結んだのである(1712年11月19日締結)。おそらくステンボックは兵数に劣る自軍にせめて休息でも与えようと思い、また今後の行動について何らかの指示がトルコから来るのではないかと思ったのだろう。だが、この休戦はストラルズンドを包囲する連合軍に準備する暇を与え、事実上ステンボックはポーランドへ侵攻できなくなったのである。まさにこの休戦条約こそ、外交上手アウグストの本領発揮といった所であった。後年の史家の一部は、もし彼がポメラニアに上陸すると同時に連合軍を攻撃していたら、彼は勝利しただろうと言っている。しかしステンボック軍は前述のように九千であり(その後合流した味方含めて1万7千ないし2千)、敵連合軍にまともに戦ったのでは勝ち目はないと判断した。また、トルコから新たな作戦計画が届くこともなかった。そこで ステンボックはその戦争技術すべてを使って敵連合軍が集まりきる前に各個撃破することを決意し、まだ油断しているであろう西方から進撃中のデンマーク軍を目標と定め、やり過ごすロシア・ポーランド軍の追撃に備えて背後の橋梁すべて破壊し、歩兵を騎兵の尻に乗せるということまでやって西方に進撃した(メクレンブルグ戦役と後世呼ばれるものの始まり)。この行動をロシア・ポーランド連合軍は寡兵故にウィスマルにでも立てこもるのだろうと甘く見ていたが、ステンボックはそれをあざ笑うかのように、1712年12月9日メクレンブルグ公領のガーデブッシュにいたデンマーク、サクソン軍3万に襲いかかったのである。デンマーク軍は堡塁と森により前面には沼地があり非常に堅固だったが、背後からは意図に気付いたポーランドロシア連合軍が迫っていたため、ステンボックはクロンステット指揮する砲兵隊に援護させ、ナルバの戦いの時のレーンスケルド元帥や王のように先頭に立って軍を指揮し、共に突撃した。そして二、三時間にわたる激戦の末ステンボックはデンマーク軍に勝利し、死傷三千、捕虜四千、大砲十三門、その他諸々の戦果を上げるに到ったのである。


ガーデブッシュの戦い

この勝利の報を聞いたカール王は、

「流石は我が麾下也!」

と激賞し、陸軍元帥の称号をステンボックにおくった。レーンスケルド元帥はこの時期捕虜としてロシアにいたため、ステンボックはスウェーデン軍で王に次ぐNo2の座についたのである。

後年かの有名な名将となった、アウグスト王とケーニヒスマルク伯令嬢との間に出来た庶子サックス伯(Maurice de Saxe1696〜1750、1722年クールランド公1743年フランス陸軍元帥、48年最終退役。12才で入隊してからサクソン、ポーランド軍、イギリス、オーストリア軍、フランス軍を渡り歩き、45年フォントノア大会戦の勝利者及びフランドル地方の征服者、46年ネーデルラントの征服者、47年オランダへの侵略者)はこの時16才で騎兵連隊長としてこの戦場におり、大いに奮戦し乗馬を打ち倒されるほどであったという(その後彼は騎兵大佐に昇進を果たす)。彼は後年になってこの戦いの印象を以下の如く語っている。

「戦闘中スウェーデン軍は一瞬たりとも隊列を乱すことなく、勝利が彼らの側に帰した後でも、彼らは目の前に転がる死体を漁り掠奪することなく、祈祷がすむのを整然と待っていた。」

これは未だスウェーデン軍の軍規が大グスタフの時代の如く峻厳であったと言う証拠であろう。

かくして戦いに勝利したステンボックはかねてよりの念願のスターデの復讐を行うことにし、近傍のアルトナという町をその標的とした。アルトナはエルベ河下流にあるデンマーク王の所領でハンブルグにも近く、その港は河幅が大きく大型船が入港でき、王の直轄でもあったため免税などの特権をもち非常に繁栄していた町であった。近くにあるハンブルグのこの町に対する嫉妬はかなりのものであったであろう。ステンボックはこの町に近づくと喇叭手を一人向かわせて市民らに立ち退き勧告を発した。曰く「我が軍は町を徹底的に破壊するものであるから、市民においては家財一式を持って早々に立ち退くがよい」というものである。町役人はこぞって思いとどまるように嘆願し、10万エキュ(フランスの通貨単位)の賠償金を支払うとさえ言ったが、ステンボックは20万エキュそれも即金でと言ういわば、事実上の拒否を示して軍に火を持たせ外郭地帯にまで軍を前進させた。そして1712年12月29日スウェーデン軍は町に火をかけた。寒さを運ぶ北風に煽られて火は瞬く間に燃え広がり町を焦がした。住民らは家財に押し潰されかけながらも丘の上で難を逃れたが、体の弱い者たちはその丘で凍死した。また逃げ遅れた者も多数いた。火は結局夜半から翌朝の十時まで燃え続け、町の多くの家が木造であったことも災いし、ほとんど全て全焼した。生き残った人々は河を渡ってハンブルグに助けを求めたが、この町に対して嫉妬していて、また伝染病も流行っているとも聞いたため町の門が開かれることはなかった。彼らはハンブルグの城壁の下で死んだ。

この行為はドイツ全土の非難を呼び、これ程までの残虐さは復讐の度合いを超えていて釈明の余地もなく、神と人間の怒りを買うだけの愚かな所行と言われた。が、これに対しステンボックはこう答えている。

「我々がこの非常手段に訴えざるを得なかった理由は、あえて主君スウェーデン王に弓引く者に対し、戦争と聞けば直ちに野蛮な行動に走ろうとする弊風を無くし、以後人間の権利を尊重する道を知らせようとしたのである。彼らはポメラニアの全土を焦土とし、十万の無辜の民をトルコに売ったのである。アルトナの劫火はスターデの全市を灰燼に帰せしめたあの忌むべき砲火に対する正当な復讐である。」

想像するにこの時ステンボックは得意満面、誇りに満ちていたのだろう。確かにここに彼の主君がいれば。歴史は変わっていたかもしれない。だが王はトルコにいて帰っては来なかった。敵もまたそれを待ってはくれなかった。彼らはそんな敗北をものともしないだけの物量を持っており、それをふんだんに使った物量作戦にステンボックは次第に追い詰められていった。そして冬を越そうとシュレスヴィヒ=ホルシュタインへ赴く途中アイデル河で二千人もの溺死者をだし、ホルシュタインにあるテニングにおいて包囲されることとなった。それでもステンボックはねばり強く戦いを継続したが、所詮、孤立無援。海路からの補給もデンマーク艦隊によってことごとく封鎖されていたため、リューゲン島からの補給は届かず、糧食は尽き兵士は疲弊し、ついに1713年5月27日、全軍一万千とともに降伏することとなった。
その同時期トルコにてカール王も捕縛されており、スウェーデンの退勢は著しいものとなっていた。

その後ステンボックは捕虜のまま1717年2月23日コペンハーゲンで没した。享年51歳、まだまだ現役ともいえる年齢だが捕虜生活と敗北してゆく味方の報を聞くにおよんでの死だった。

私評

戦争が始まった時、彼はホルンと共に信頼できる若い世代の将軍であった。

しかし1712年の彼の行動は決して褒められたものではなかった。彼は当時軍内にスタニスラウス王(スウェーデン側のポーランド王)を擁しており、彼を立ててポーランド方向へ進撃すべきであった(カール王もそれを望んでいた)。何故なら彼はストラルズンドを囲む連合軍に勝つだけの才能と軍隊を当時保有していたからだ。ガーデブッシュの戦いで証明されているように休戦せず一気呵成に攻撃すれば必ず勝てただろう。また、補給の面から考えても、西への進撃はいささか無謀だった。彼は1708年から1709年にかけてスウェーデン軍が味わった悲劇を思い返すべきだった。リューゲン島には彼を支援するに足る補給物資があったのである。そこを離れ、さらにその補給線を守ることなく、荒れ果てた西へ行ったことが、テニングでの最終的敗北につながったのである。

結局、ステンボックは極めて優秀な戦術家でしかなかった。しかしそれを責めるのはいささか酷である。何故なら彼の失敗の最大の原因は最高司令官が遠くに離れすぎていたことであり、スウェーデン自体が落ち目であったと言うことだからである。ある仮説によると、彼が西へ進撃したのは本土上陸の恐怖醒めやらぬスウェーデンの中産階級がさきにデンマークを打倒して欲しいと要求したと言う。これが真実ならば、ステンボックを一方的に責めるのはどうかとも思うのである。

また本文でも書いたが、ガーデブッシュ以後、王やその他トルコにいた同僚達、ロシアで捕虜生活をしていた同僚達が幾人でもいれば歴史は変わっていただろう。少なくともサックス伯曰く、この時期までスウェーデン軍は精強さを保っていたのである。故にステンボックもあれほど惨めな終わりを迎えずに済んだだろう。しかし彼らは一人としてステンボックの元に馳せることはなかったのだ。

蛇足だが、彼と彼の妻、エヴァ・オクセンシェルナが遣り取りした手紙は1913-14に子孫の手によって出版され、(Magnus Stenbock och Eva Oxenstierna 全2巻)貴重な資料として有益に活用されている。また彼が主君カール12世に1702年から1705年に書き送った手紙も研究に役立てられている。

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