〜人物列伝〜
Carl Gustaf Mörner
カール・グスタヴ・メルネル元帥(1717年昇進)
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[略歴]

小伝

1658年、カール・グスタヴ・メルネルは、ハンス・ゲオルグ・メルネル男爵の子としてマルメで生まれた。母はビエタ・スクルマン[Beata Schulman] 。

ドイツからスウェーデンに移り住んだ移民の子でありながら、軍功を立てて騎兵中将にまで出世し、その功績を持ってカルマルとクローノベリ州の知事などを歴任した軍人の息子として生を受けたメルネルは、父と同じく軍で身を立てる道を選び、1673年、15才の時に、騎兵としてスウェーデン軍に入隊した。

それから2年後、スコーネ戦争[1675-79]が勃発し戦乱の時代が到来すると、17才の血気盛んな若きメルネルも、これに参加をする。そして程なく中尉を経て騎兵大尉に昇進。ハルムスタッド、ルンド、ランヅクローナ等の激戦において戦功を立て、1679年、ドラバント隊の中尉(正規軍の大佐に相当する)に選ばれる。そして翌年、メルネルはドラバント隊の大尉勤務(隊長代理、ドラバントの隊長(大尉)は常に国王)に就任し、栄達の道を歩み始めることとなる。

しかしスコーネ戦争の終結は、軍人にとって冬の到来を意味した。スウェーデンは長い平和の時代に入ってしまい、軍人としてさらなる栄達を望むメルネルが出世するには、この時代の他の軍人と同様に、外国で軍歴を積み、深い軍事的素養を身につけなければならなかった。その中でメルネルは、いずれ来るであろう再びの戦争に備えると言う意味も含めて、当時欧州最強国家の名を欲しいままにしていたフランスに渡った。そして1691年、フランドル戦線において幸運にもリュクサンブール元帥の下で働く機会を得、テュレンヌに匹敵するとも言われた名将の作戦を学ぶことに成功した(〜92年)。

その後、故郷に戻り、1695年、これまでと更にフランスでの軍歴が評価され、エストイェータ騎兵連隊の連隊長(1695-1704)に就任。1700年42才の時には、ついに騎兵少将に任命され、大北方戦争勃発を迎えることとなった。

開戦後、メルネルはエストイェータ騎兵連隊を率いて欧州大陸に渡り、1701年のドヴィナ渡河作戦に参加した。またこの戦いの後、ミタウの占領を命じられた彼は、麾下の騎兵部隊を指揮して迅速な進撃を実施。クールラント公国の首都ミタウをほぼ無血で占領することに成功している。彼はその地で、破壊された建物の修復や治安の回復を行い、行政手腕があることを証明した。そしてその後、主力軍と伴に当時ポーランドと同君連合を組んでいたリトアニアに侵攻した。

この一連の作戦でカール12世の信頼を得ることに成功したメルネルは、1702年3月、リトアニアにおけるスウェーデン軍の司令官に任命され、副司令官の歩兵少将ステンボック伯爵(二人とも少将の位であったが、メルネルの方が先任であったため)と伴にカール12世率いるスウェーデン主力軍から離れ、独立した任務に就いた。彼らは、リトアニアの大貴族サピエハ一族と伴にヴィルナ周辺に残り、Wisenowiecki率いるポーランド王国軍リトアニア軍団とスウェーデン軍に敵対するオジンスキ一族の軍を圧迫し、リトアニアの反スウェーデン勢力を制圧した。

その後、ワルシャワを占領しアウグストとの決戦を目指すカール12世からの命令を受け、メルネルとステンボックの軍は、主力軍の後を追うようにしてポーランドに侵入、ヴィツスラ河をカシミールで渡り、驚くべき急速行軍の末、アウグストとの決戦の前日1702年7月7日、カール率いるスウェーデン主力軍8,000との合流に成功した。しかしこの時、メルネル率いる4,000の兵士は疲労の極にあり、とても戦えるような状態ではなかった。そのためメルネルを含めた将校たちは更なる決戦延期をカールに申し出たが、カールは「飢えた犬ほど凶暴なものだ」と明快にこれを拒否した。こうして1702年7月8日、カールの名声を不朽のものとしたクリッソフ会戦は勃発した。

この会戦においてメルネルは、騎兵少将アルヴィド・ホルンと伴に、騎兵中将レーンスケルド(後の元帥)指揮する右翼騎兵集団の副司令官として、ザクセン軍元帥ステイナウ率いる騎兵の突撃を受け止め、奮戦。レーンスケルドを良く補佐し、この勝利に大きく貢献した。

この戦闘の後、カール12世から戦功を認められたメルネルは、王の側近として、エストイェータ騎兵連隊を率いてポーランドを転戦し、トルニの包囲やエルビングの占領などに関わり、1704年1月(この時、多くの将校が昇進している。メルネルが昇進したのは1月4日〜9日までの間だと思われる。)それらの功績により騎兵中将に昇進すると共に、[Generalmönsterherre] としてスウェーデン本国に帰還し、前線任務から更に高度な行政的任務を任されることとなった。

結果としてこれは、メルネルにとって幸運なことであった。何故ならば、主力軍から離れ本国に戻ったことにより、1709年のポルタヴァ会戦で戦死することもロシア軍の捕虜になることもなかったからである。このスウェーデン軍を1日で壊滅させた惨事の後、メルネルはスウェーデン本土においてステンボックやホルンらと共に軍の再編に力を尽くすこととなり、2年後の1711年には、その功績が認められ騎兵大将へと昇進した。そして翌年、1712年には、スウェーデン本土侵攻を諦めないデンマーク軍のノルウェー方向からの侵攻に備えるため、その進撃路と考えられるヨーテボリ-ボフス[Bohus]州の総督に就任し、本土の防衛を任された。

1715年、カール12世がトルコから帰還しスコーネに戻ると、スウェーデン本土軍は活力を取り戻し、メルネルもまた更に高位の立場から対デンマーク戦に望むこととなる。翌1716年、メルネルは王から信頼を受け、軍再編のため、ハッランド州、ヨーテボリ-ボフス州、エルヴスボリ[Älvsborgs]、スカラボリ州[Skaraborgs]、ネルケ-ヴェルムランド州のすべてを統治する総督に就任し、新兵の徴募にあたった。また同じ年、伯爵に叙され、名実ともに軍の重鎮となった。

そしてその年に行われた第1次ノルウェー戦役において、メルネルは内陸部を進撃する国王軍とは別に、独立した第2軍を率いてノルウェーに侵入。海岸寄りの道を進み、抵抗を排しつつ3月8日Hölenで主力軍と合流し、王と伴にノルウェーの首都クリスチャニア(現在のオスロ)を占領した。しかしこの戦役自体は、補給を担当した海軍の敗北により占領地域の保持にスウェーデン軍は失敗し、メルネルもまた、軍を率いてクリスチャニアからスウェーデン領内への撤退を余儀なくさせられた。

しかし、一連の国内における活動と前線での指揮は、メルネルの評価を不動のものとするには充分であった。1717年、メルネルは遂に陸軍元帥に昇進し、現役スウェーデン軍将校の頂点に立った。

メルネルは、その翌年に行われた第2次ノルウェー戦役にも参加している。そして、フレドリックステン攻囲戦においては、攻囲軍とは別の軍の指揮をヘッセン伯およびホルシュタイン公と伴に執った。この軍は攻囲軍のすぐ側で活動しており、その司令部は、攻囲軍の司令部から1マイル弱程度しか離れていない場所にあった。そのため、この攻囲作戦中、メルネルはカールのいる攻囲軍司令部を頻繁に訪れることが出来、事実、彼はカールに会うために何度もこの司令部を訪れている。そしてそれは、運命の11月30日においても同じであった。この日曜日、メルネルは攻囲軍司令部を訪れ、王と伴に日曜礼拝を行い、食事の時間を伴に過ごした。仮眠を取っている最中には、王自らによって起こされ、今後についての会議を執り行った。会議の後、王は塹壕の視察に出かけ、それが今生の別れとなった。彼は王が死んだ時、攻城陣地の司令部におり、撤退が決まった後、軍を後退させた。

そして王の死の翌年1719年、ノルウェー戦役中ホルシュタイン公と共に行動することが多かったメルネルは、ホルシュタイン派として若きホルシュタイン公カール・フリードリヒのスウェーデン王位継承を画策した。しかしその行動は軍人として彼の生命にとって命取りとなった。ホルシュタイン派とヘッセン派の王位継承をめぐる派閥争いは、ヘッセン派の勝利に終わったからである。そしてホルシュタイン派としてヘッセン伯及び王妹ウルリカ・エレオノーラ(ヘッセン伯の妻で当時女王)と決定的に対立してしまったメルネルは、知事の地位と陸軍元帥の年金を失い、宮廷を去らねばならなくなった。

宮廷における地位を失ったメルネルにはイェンチェピング州のイェータ控訴院長の役職が与えられた。陸軍元帥にまで上り詰めた軍人であり一時は数州にまたがる総督までも務めた彼にとって、これは閑職と言っても良い地位だった。そして2年後の1721年10月27日、ニスタット講和条約の報を聞いた後、メルネルはイェンチェピング州で静かにその軍務に捧げた一生を終えた。

メルネルは、2回結婚しており、1回目は1685年メルネルが27才の時で、相手は財務卿(財務大臣)グスタヴ・ボンデの娘カタリーナ・マルガレータ・ボンデ。しかし彼女は子供を出産した後、体調を崩し死亡した。2回目は1705年、メルネルが再びスウェーデンに戻ってからで、相手はクリスティナ・ビエルケであった。彼女は職務乱用などの嫌疑でカール11世と12世の信頼を失い、宮廷からの引退を余儀なくさせられていたニルス・ビエルケ陸軍元帥の娘である。

また、このメルネルの一族は、1716年に伯爵に叙せられ、領地の名を取ってMorner av Morlamdaと呼ばれている。

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