エリック・ダールベルヒ
Erik Dahlberg
伯爵にして陸軍元帥
1625年生誕〜1703年死去




1625年の10月10日もしくは12月12日(資料によりまちまち。詳細不明、情報求む!)にストックホルムで生まれた。父はヴェストマンランドの州次官(landssekreteraren)だったヨン(Jo:ns)ダールベルヒだった。母はドロテア・マットスドッテル(Mattsdotter)である。

青年期は非常に貧しく、子供の頃から生計を立てるため社会に出て働いていた。彼は最初ポンメルンで公文書関係の公職についていた。その後、彼は軍の下に入り、軍になれるにつれ昇進した。そして主計将軍(generalkamreraren )のレーンスケルドの知遇を得るとさらに多くの実務を経験することとなり、優秀な下士官(実務家?)へと成長した。

30年戦争末期、カール・グスタフ・ウランゲルのもとで働いたとも言われている。

その間、彼は1647年に要塞構築の指揮官に選ばれ、1648年には正式に技官になった。1650年、彼はスイス、ライン川周辺地域、フランスなどに派遣される使節団に加わり、3年間、彼らに随行した。その間、彼は外国で勉強などが許された。そして帰国すると、再び彼は、今度は本格的な教育を受けるためfriherrar Cronstjernaと共に、フランス とイタリアに留学しに行った。そしてその後、彼は軍の命令でコンスタンティノープルやエジプトに引き続き派遣される予定だった。しかしこの計画は、海賊や敵の存在により中止になってしまった。

それから彼は故国に仕えるため、留学を終え、ポーランドに赴く。そして1656年7月17日、彼は名高きワルシャワ大会戦を明日に控えたスウェーデンキャンプに合流する。

彼はそこで兵站総監の副官(補佐)に任命され、この大戦闘に加わった。

その後彼はフランエンブルグ(Franenburg)からエルビング(Elbing)への行軍の最中に疫病にかかり、高熱を発し海辺の町の宿屋に運び込まれた。この時、宿屋の主人はこの外国人に注目し、疫病であると知るや宿屋から追い出し浜辺に打ち捨てた。しかしダールベルヒにとって幸運なことに、瀕死の彼はある漁師に助けられ、漁師のボートに帆を屋根代わりにした隔離所で看病を受けることが出来た。予断の許さない状態が21昼夜続き、しかし彼の病状は改善に向かった。その後彼は漁師の小屋に運ばれ、体調を完全に回復させた。

陣営に戻ったダールベルヒは王の側に使え、たびたび進言し功績を立てた。

中でも名高いのが氷上侵攻のお膳立てである。彼は海峡の氷の具合を調べ、兵士にスキーを履かせ、全軍の教導役を務めた。彼の行動がなければ、後世謳われるカール10世によるコペンハーゲンへの氷上侵攻は成功しなかっただろう。

この行動の後、カール10世はデンマークと一端和睦したが、戦争は6ヶ月後また始まり、カール10世は再びコペンハーゲンを攻撃した。この攻城戦で彼は敵の体制が整っていない今が攻撃のチャンスであると主張、綿密な偵察を実施し、見事な強襲計画を立案、これの実施を王に迫った。

しかしカール10世は他の将軍等の反対するこの攻撃案を退け、遠巻きに包囲する方策をとった。これは結果的には失敗だった。スウェーデン軍は逆に疲弊し、結局敵の体制が整ってしまったところで、強襲作戦に作戦を変更し、大敗を喫した。ダールベルヒはさぞかし悔しかっただろう。

その後カール11世の時代に入ると、奇策をめぐらす将軍から元の実直な兵站畑の実務派将軍に戻り、要塞建築や軍制改革の一翼を担うことになる。この間、彼の声望は高まるばかりであり、特に当代随一の築城家と見なされるようになった。それを証明するようにダールベルヒは8万ダーレル銀貨を費やし多くの要塞を再構築したり、新造した。主にそれはデンマークの侵攻を妨げる目的で本国南方、及び南西部で行われた。もっともダールベルヒとしてはその他の地域も危険な状態であると考えていたため、その他の地域においても大規模な築城計画を立てていた。そして実際それらは1690年代に行われる予定だった。しかしその時期、スウェーデンは大規模な飢饉に襲われており、用意されていた資金のほとんどがその救済に充てられてしまい計画倒れに終わってしまった。

彼が行った要塞建築で主要なものを上げると、カールスクローナの新造、ヨーテボリ、マルメ、カルマルの再構築がある。ドイツ方面ではウィスマル、ストラルズンド、スターデが上げられる。しかしバルト沿海州においては前述のようにダールベルヒが盛んに危険性を訴えていたにもかかわらず、ナルヴァ、リガ、レヴァル、ニュウムンデ、が莫大な資金を投じられて再構築されただけにとどまった。結局、ダールベルヒの壮大な計画は不意の飢饉の影響で100余りの要塞や砦が未完のまま放置されたり、建造されても役立つには遅すぎたりした。この事実は残念なことである。

そんな中、彼は後任者の養育も忘れずに行い、スチュアート将軍に自分の知識を教えた。このスチュアートはその後カール12世の軍事学の教師になり、ダールベルヒの戦争術を未来の王に教え込んだ。またこの時期ダールベルヒはリガの総督になり、元帥に昇進し、伯爵、枢密院顧問官にまで出世、兵站指揮官として要塞建築集団のトップにも付いた。

そして1700年戦争が始まると、サクソン=ポーランド軍がバルト沿海州を攻撃し、ダールベルヒが懸念した通り、バルト沿海州はこの攻撃に耐えられなかった。ダールベルヒはリガの総督として激しく戦い、リガを敵の手から守り通した。

1701年のデュナミンド会戦ではかつて氷上侵攻を支えた奇策の冴えを見せた。ダールベルヒは底の平らな大砲や騎馬を載せるに足る大きな船を沢山集め、また作り、その一方の側面に硬い皮を張った一種の防弾壁を儲け、上陸の時はそれが上陸用の橋の代わりを為すようにした。また、煙による行動の秘匿及び妨害の実務を取りはからった。

そして策は見事に成功、カール12世はハンブベック、ナルヴァに続いて大勝利を手にした。

その後、ダールベルヒは1703年に死ぬまでリガを守り通した。


私評

彼はクリスティナ女王、カール10世、カール11世、カール12世と四君に仕えた希有の、そして真の名将だった。その築城家としての手腕は同時代のウォーバンにも劣らないものであり、もし仮にカール12世が大スウェーデンを維持し得ていたならば、その名はおそらく今以上に知れ渡っていただろう。 また後世に自らの経験したあらゆる戦の資料を残した功績は今なお、彼の著述した資料が一級のものとしてかの国にて利用されていることからも明らかであり、偉大な戦史家であったとも言える。

そして彼の死は、一人有能な軍人の死に非ずして、スウェーデン・バルト支配の死であった。彼の死後、リヴォニア、エストニアでのロシアの跳梁は殊に著しく、またこの結果がカール12世のロシア遠征に多大な影響を及ぼし、ついにはスウェーデンをしてその尽くを失うに至るのである。

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