人物列伝
◆スウェーデン軍元帥列伝◆
Field Marshals of KarlXII's Era
その貴公子がもし本当に優秀ならば、兵卒と伴に過ごした日々はその男をより有能な士官へと成長させるだろう- KralXII -

Erik Dahlberg
エリック・ダールベリィ元帥(1693)
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◆略歴◆

  • 1625 10/10ストックホルムにて生誕
  • 1633 Västerås学校入学
  • 1635 ウプサラ大学入学
  • 1646 5/ ポンメルン地方総督府入庁
  • 1646 ポンメルン地方総督府財務部の財務書記官
  • 1647 6/2築城設計士(konductör vid fortifikation)
  • 1648 築城主任(fortifikationskapten)
  • 1648 技術士(ingenjör)
  • 1656 9/24兵站監補(generalkvarterm.löjtn)
  • 1657 高級副官
  • 1660 セーデルマンラント歩兵連隊中佐
  • 1660 貴族位取得
  • 1669 8/6マルメ要塞司令官
  • 1670 2/23任官承認
  • 1674 9/9セーデルマンラント歩兵連隊連隊長
  • 1674 スウェーデン本国の築城監
  • 1677 2/2陸軍議官
  • 1678 11/6クリスティアンスタッド要塞司令官
  • 1679 12/2ランズクローナ要塞司令官
  • 1687 7/8イェンチェピング州の州知事
  • 1687 8/4歩兵少将
  • 1687 11/24築城総監
  • 1687 12/24男爵
  • 1692 11/5generaltygm
  • 1693 3/11国王参事・ブレーメン=ヴェルデン総督
  • 1693 7/12陸軍元帥
  • 1696 1/16リーヴラント総督
  • 1702 4/7ドルパット及びペルナウの大学理事、同時に総督職から退任
  • 1703 1/16ストックホルムにて死去
[結婚]
1666 8/16マリア・エレオノーラ・Drakenhjelm<生誕1650,8/3,Stockholm-死去1680,9/30,Landskrona 父:財務参事ウィルヘルム・D 母:エルザ・フォン・Btandt>

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◆エリック・ダールベリィ小伝用覚書◆


 1625年の10月10日(12月12日とも言う)に、エリック・ダールベリィはストックホルムで生まれた。父はヨン(Jöns)ダールベリィ。彼は農民であったが学究肌の男で、農民階級の出ながら、ヴェストマンラントやダーラナ、ヴェルムラント州書記官(landssekreteraren)も務めた。母はドロテア・マットスドッテル(Mattsdotter)と伝わっている。しかしエリックの両親は彼が10才になる前に亡くなってしまい、彼は親族の手に委ねられた。
 幼くして両親を亡くしたエリックは、牧師による教育を受けた後、しっかりとした教育を受けるために、まず1633年Västeråsにある学校に入学し、その後、1635年ウプサラ大学に入学した。そして1638年13才のとき、ハンブルクの書記学校に入り、そこでも3年間勉学に励んだ。1641年になり学校を卒業すると、15才の彼は親戚のつてを頼ってポンメルン及びメックレンブルクの上級会計官(generalkamreraren[経理官] or senior accountant)ゲルト・レーンスケルドの下で書記としての仕事を得ることに成功した。これがエリックにとって最初の職業となった。上級会計官レーンスケルドの妻がエリックの親族であった。
 レーンスケルドは彼に書記としての手ほどきをし、彼もまた豊かな理解力を示した。会計官レーンスケルドとの師弟関係にも似た雇用関係はその後6年間続いた。しかしエリックは一介の書記・会計官で終わるような小さな才能の持ち主ではなかった。1643年、レーンスケルドに連れられ、エリックはカール・グスタフ・ウランゲル指揮下のスウェーデン軍に加わり、クリスティアンスピルス(Kristianspriis)の攻撃などに参加した。これ以後、彼の人生の中心となる軍務と工学との出会いであった。
 彼は設計士・工学者としての自分を夢見るようになり、その技能を磨くことを望むようになった。これ以後、彼は書記としての仕事を続ける一方、設計士としての技能の基礎を学び続けた。特に彼は数学を学んだ。これは建築学にも遠近画法にも地図作成にも必須であったからである。後年、要塞築城において、これらの勉学の成果は遺憾なく発揮された。
 1646年になると、これまでの書記としての働きが認められ、彼はポンメルンの財務書記官となるが、既に心は新しい職務に向いていた。同年エリックは、レーンスケルドがスウェーデンからドイツに軍を輸送するために借りた商船に乗って、スウェーデン本国に行くことが許されスウェーデンに帰国した。彼は本国でさらに設計について学ぶと、翌年1647年ドイツに戻り、6月2日、ポンメルンの築城設計士(konductör vid fortifikation)に任命された。彼はコンラッド・マルデフェルトの指導の下で、さらに工兵技術を学んでいった。そして当時のファルツ伯、後のスウェーデン王カール・グスタヴの目にとまり、1648年に築城主任、そして設計士となった。
 しかし戦争が終わると、要塞築城も攻城戦もその必要性を失い、工学技術者として駆け出しであったエリックは、再びかつての書記としての能力を生かして身を立てねばならなかった。
 1650年、彼はドイツ諸地方からのスウェーデンへの戦争賠償金120,000リクスダーレルを受け取るため、フランクフルト・アム・マインへと派遣されるゲオルグ・フォン・スノイルスキの使節団に、補佐官の一人として加わることに成功した。当時からフランクフルトは商業都市として極めて重要な都市であり、スウェーデンの外交にとっては、交渉の窓口でもあった。スウェーデン使節団は様々な外交折衝を行いながら賠償金の受け取りを進めねばならず、そのためこの任務の終了には3年の月日を要した。
 しかし彼はドイツの先進的な都市で過ごすことの出来たこの期間を決して無駄にはしなかった。彼の興味は特に、数学や築城術、遠近図法に向けられた。これらの学問は工学や設計などに当時不可欠と考えられていた学問である。そして勉学に励む一方、周辺への旅行もたびたび行い、見識を広げていった。
 また彼はこのフランクフルト滞在中に、地図印刷を専門に行うメーリアン商会と知遇を得た。このメーリアン商会は、1635年マティアス・メーリアン(the Elder)によってTheatrum Europaeumと言う当時の年代記を出版し続けていることで有名な商会であった。このTheatrum Europaeumと地図印刷の仕事は、1650年にマティアスが死んだ後も彼の後継者たちによって続けられ、1732年まで続いた。特にTheatrum Europaeumの第5巻はグスタヴ・ウランゲルに捧げられた。彼はメーリアン家と親しかった。マティアス・メーリアン(the Younger)は、出版者としての彼の役割はさておいて、肖像画家としての才能を持っており、約50の肖像画を生み出した。それらの中には、一家全員の肖像画やウランゲルの軍に参加していた高級軍人の肖像画もあった。特に後者は、「Swedishes Heldenbuch」と名付けられることになるスウェーデン軍人伝の原型として意図された物だった。
 このようなことからメーリアン家とスウェーデン使節らとの間は親密であり、エリックも彼らが印刷する建物や風景の銅版画に感銘を受け、いつかスウェーデンの風景や城を描写した本を製作したいと考えるようになった。これが後に「Suecia Antiqua et Hodierna(英語名:Ancient and Modern Sweden)」の製作に発展することとなる。

「Suecia Antiqua et Hodierna(英語名:Ancient and Modern Sweden)」とはエリック・ダールベリィによる銅版画集であり、この本には、大国の時代と後世に呼ばれるスウェーデンの街並みや宮殿などの姿がおさめられている。製作作業は非常に長期間にわたり完成したのはエリックの死後であった。前述の通りエリックは、この本を作るに当たって、ドイツ人の出版者マティアス・メーリアンによって発行された様々な地理出版物の影響を受けた。1661年にエリックは、王室からこの本の製作に関する特別な権限を与えられ、銅版画の収集と分類を行った。最終的にこの本は353枚の図板をおさめた3巻組で出版され、現在ではインターネットで無料公開されている。

 エリックは1654年にフランクフルトにおける任務を完了させ、スウェーデンに帰国した。それから彼はクロンステルナ男爵ら2人の若い貴族の家庭教師としての職を得て、彼らの大陸旅行に随行するという幸運に恵まれた。エリックは約2年に及ぶイタリア・フランス留学へと旅立った。この旅行もまた、実りの大きい物であった。先進諸国での勉学は、彼の工学知識を向上させるのに非常に役立ったからである。また、ベニスにおいて彼は、未来の宮廷画家ダヴィド・クレーカー・エーレンシュトラールと出会い、意気投合して生涯にわたる親交を結んだ。ローマではクリスティナ女王への謁見が許されるという幸運にも浴した。
 彼は更にコンスタンティノープルやエジプトへの旅を企画していたが、これは海賊など様々な問題が持ち上がり、加えてスウェーデンとポーランドの間で戦争が勃発したため、取りやめとなった。そしてエリックはそれから直ぐに祖国からの召喚命令を受け取り、ポーランドへと向かった。
 1655年、エリックは旅行を中断し、ポーランドに侵攻したスウェーデン軍との合流を急いだ。彼がスウェーデン軍野営地に到着したのは、ワルシャワ会戦の前日1656年7月17日のことであった。
 その秋、9月24日エリックには中尉の階級を与えられ、カール10世グスタヴ王は彼を国王軍の兵站監補に任命した。しかしそれから直ぐ後、彼はフランエンブルクからエルビングへの行軍の最中にペストにかかり、高熱を発し海辺の町の宿屋に運び込まれ、軍からの離脱を余儀なくさせられた。エリックは、ペストであると知られて宿屋から追い出されて浜辺に打ち捨てられ、危うくのたれ死ぬ寸前まで追い込まれたと言われている。しかし幸運なことに、瀕死の彼は漁師に助けられ、漁師の好意により漁船を隔離所としてもらい、看病を受けることが出来た。予断の許さない状態が21日間続き、彼は病に打ち勝った。そして軍務に復帰した彼は、従軍を続けた。
 彼はトルニ攻城戦においては高級副官として参戦し、ハンガリー公ラコーツィとの交渉では素晴らしい交渉手腕を発揮した。クロンボルクなど各地の要塞の偵察と攻略においてもたびたび功績を立てたと言われている。
 北方戦争における彼の功績で特に名高いのが氷上侵攻の先導隊指揮である。1653年の冬、大ベルト海峡が寒さにより凍結した際、彼は海峡の氷の具合を調べ、兵士にスキーを履かせ、全軍の教導役を務めた。彼の行動がなければ、カール10世によるコペンハーゲンへの氷上侵攻は成功しなかったとも言われている。
 この作戦の後、カール10世はデンマークと一端和睦した。しかし戦争は6ヶ月後また始まり、カール10世は再びコペンハーゲンを攻撃した。この攻城戦で彼は敵の体制が整っていないうちに攻撃するべきたと主張して、綿密な偵察を実施して、強襲計画をカール10世に提案した。しかし、この提案は承認されず、スウェーデン軍は遠巻きに包囲する方策をとった。そしてスウェーデン軍は逆に疲弊し、結局敵の体制が整ってしまったところで、強襲作戦に作戦を変更して大敗を喫した。スウェーデン軍はコペンハーゲンから撤退し、カール10世は失意の中で急逝した。
 1660年8月、ストックホルムに帰還した彼は貴族に列せられ、セーデルマンランド歩兵連隊の中佐に昇進した。しかし中佐の日々は多年に渡たり彼は不遇を託った。その結果、彼は、イングランド王チャールス二世から、極めて魅力的で、断る理由など何もないほどの好条件で英国軍への移籍を望まれた。しかし、彼はそれに応じず、その愛国心が極めて高いことを証明した。
 1661年彼はストックホルムからNyko:pingに移住し、1666年の春、セーデルマンランド州Skena:sに居を移した。この年の夏、彼は結婚し翌年最初の子供に恵まれた。1660年代の前半、ダールベリィは自ら「地誌作成topographien」と呼んだ仕事を始めた。これが前述した「Suecia antiqua et hodierna」となる。1661年3月28日、彼にこの仕事を行うに当たってのスウェーデンにおける王室特権が与えられた。その後の10年間、ダールベリィは、主にストックホルムからその郊外であるメラーレン湖周辺の景色を描写した。1667年〜68年には彼はパリを訪れ、その地で描いたスケッチの幾つかは、「Suecia」に掲載された。
 1669年パリから戻ると彼はマルメの守備司令官に任命された。1674年なると彼は不遇の時代に終わりを告げ、兵站総監および築城総監となった。
 デンマークとの戦争の結果、1670年代「Suecia」の仕事は脇へ追いやられた。戦争において彼は再び優れた働きでこれに応え、1677年ヘルシングボリィにおける攻撃などで見事な働きをした。その結果1678年になると、彼はクリスティアンスタッドの守備司令官となり、翌年のルンド条約に立ち会った。
 戦後になると彼は領土内にある要塞の修復及び強化を指揮した。彼は八万ダーレル銀貨を費やし多くの要塞を再構築し、あるいは新造した。主にそれはデンマークからの侵攻を妨げる目的で本国南方と南西部で行われた。しかし彼としてはその他の地域も同様に危険な状態であると考えていたため、更に大規模な築城計画をバルト海沿岸部などの大陸領土において立案した。計画では1690年代に行われる予定だったこれらの計画は、しかし大規模な飢饉による影響で、用意されていた資金のほとんどが飢饉の救済に充てられてしまい中断された。
 彼が行った要塞建築で主要なものを上げると、カールスクローナの新築、ヨーテボリ、マルメ、カルマルの再構築がある。ドイツ方面ではウィスマル、ストラルズンド、スターデが上げられる。しかしバルト沿海州においては前述のように危険性を訴えていたにもかかわらず、ナルヴァ、リガ、レヴァル、ニュウムンデに莫大な資金を投じられて再構築されただけにとどまった。彼の計画は不意の飢饉の影響で百余りの要塞や砦が未完のまま放置されたり、築城されても役立つには遅すぎた。しかし彼の築城の技術は高く評価されており、築城家としての彼には「スウェーデンのヴォーバン」という称号が歴史家から与えられている。
 1670年代から80年代にかけて彼は7人の子供に恵まれた。しかしそのうちの4人は幼くして世を去った。彼の一家は1680年代の初めにセーデルマンランド州のTuringe教区Stro:pstaに移った。1680年代の中頃、「Suecia」の仕事は再開され、80年代の終わり頃、ストックホルムとメラーレン湖周辺の多くの図板が完成した。1687年ダールベリィはイェンチェピング州知事に任命され、男爵位を与えられた。
 一方で彼は築城総監の地位を保持し続け、少将にも昇進している。1693年になると彼は、王国参事となりブレーメン・バーデン地方総督となり、伯爵位を受け取ると同時に陸軍元帥に任じられた。1696年にはリーヴランド地方総督となり、その年の秋、リガに移り住んだ。
 リガに移り住んでも「Suecia」の作業は往復書簡を通して行われた。1690年代、彼は「Suecia」にスヴェアランドの残りとゴットランド及びノーランドを加えるために作業を続けた。
 1700年に勃発した大北方戦争でも彼は活躍し、1700年にリガを包囲したザクセン軍を撃退し、1701年のドヴィナ渡河会戦でも作戦計画の立案に寄与した。彼は底の平らな大砲や騎馬を載せるのに充分な大きさの船を用意して、船舷の一方に硬い皮を張った一種の防弾壁を設け、上陸の時はそれが上陸用の橋の代わりとなる上陸用船舶を建造した。
 会戦後、彼は体調を崩し、1702年リーヴラント総督職を辞して軍を除隊してストックホルムに帰国した。そして翌年の1703年1月16日、彼はストックホルムにおいて死去した。1703年に彼が世を去ったとき、「Suecia」の仕事はまだ終了していなかった。「Suecia Antiqua et Hodierna(英語名:Ancient and Modern Sweden)」の発刊が終了したのは1716年のことであった。

彼は「Suecia Antiqua et Hodierna(英語名:Ancient and Modern Sweden)」と呼ばれる1660-1716に発行された素晴らしい銅版画集の発行責任者であり、サミュエル・プーフェンドルフの「カール十世グスタヴの歴史」の著述も手伝ったことでも知られている。それら作業と並行して彼は回想録を書いており(1757年発行スウェーデン伝記集に収録)、記録集「カール十世の戦役」(ルンドブラッド編1823年ストックホルム)も残している。中でも特に「Suecia Antiqua et Hodierna」には、大国の時代と後世に呼ばれるスウェーデンの街並みや宮殿などの姿がおさめられており、後世にとって非常に貴重な資料となっている。

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