会戦
◆リガ攻囲戦役◆

攻囲戦
the Siege


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1700年2月1日、この日、全ての当事者たちの想像を越えた大戦争が始まった。後世この21年の長きに渡る戦争はこう呼ばれた「THE GREAT NORTHERN WAR」歴史を変えた戦争である。

最初に行動を起こしたのはサクソン=ポーランドの君主、強健王と謳われた英主アウグスト2世率いるサクソン=ポーランド軍だった。先王の時代にはウィーンを異教徒から救ったポーランド軍と戦乱絶えぬドイツの規律正しきサクソン軍による連合軍はアウグスト誇る精強な軍だった。

そしてその配下には熟達の将と言われる宿将、アダム・ハインリッヒ・フォン・ステイナウ元帥を始めとし、知勇兼備の良将ヤコブ・ハインリッヒ・フレミング(後に大臣)、リヴォニアの風雲児ヨハン・ラインホルト・パトクル、クールランド大公フレデリック等錚々たる面子が揃い、まさに必勝を確信しうる陣容を誇った。

この時先陣切ってスウェーデン、バルト沿海諸州に攻め寄せたのは、フレミング率いるポーランド兵14000(16000とも言われる)である。先ほどもチラリと紹介したが、このフレミングと言う将軍はアウグスト麾下きっての良将であった。しかし節操のない人物とも知られ、新教側からは旧教に変節した変節漢として軽蔑されていた。また、幸運にもリトアニアの高貴な家柄の妻を娶ったことでも有名だった。

この軍の目標はリヴォニア最大の都市リガであった。目的は言うまでもなくスウェーデン・バルト沿海諸州の奪取である。フレミングは前述の兵力に加え、訓練されたサクソン兵による砲兵隊をサクソン本国からダンチヒまで輸送させて軍に合流させ、先遣隊たる4000の騎兵及び龍騎兵をクールランドのミタウに進出させた。この地で彼らは自分らをデンマーク王の軍隊だと宣言し、彼の王に従属するためにこの地を通ると言って本来の目的を隠した。この時リヴォニアには12000のスウェーデン軍が分散配置されているのみで、リガを電撃的に奪取することは簡単であるとサクソン=ポーランド軍首脳陣は考えていた。しかし、リガには恐るべき軍人が未だ意気軒昂に存在していた。彼の名はエリック・ダールベルヒ。伯爵にして元帥、カール10世麾下で鍛えられ、スカニア戦争でも活躍した要塞戦の大家。齢75にして未だ現役のスウェーデン軍随一の将軍。この時彼はリヴォニアの総督という地位にいた。

ダールベルヒは、ポーランド軍来るの報を聞くと、リガより6マイル離れた小さな村の橋に40騎の哨戒隊を派遣して情報を待った。哨戒隊の主目的は敵影確認である。ダールベルヒは自らが守るリガの町の堅固な城壁を深く信頼し、そこで迎え撃つつもりだった。故に恐れるのは奇襲のみだった。

サクソン軍はリガに通ずる全ての道を押さえながら前進し、クールランドのミタウからの兵站線を確保し、武器弾薬はもちろんのこと、攻城戦に必要な物資その他の供給を円滑にせしめた。 そしてその後フレミングの先遣隊は、スウェーデン騎兵隊のいる村を通過しようとした。しかし彼はそこに敵兵がいるのに気が付いた。彼は迷うことなく騎兵隊の一隊を敵陣地に突入させ、7,8騎の損害を受けつつも、40騎のスウェーデン騎兵隊を撃破し、リガの町にサクソン軍襲来の報を知らせるべきトランペット奏者を、トランペットを吹かせることなく捕虜にした。そしてその翌日、フレミングは大胆な挑戦状を持たせ、そのトランペット奏者をリガの町に帰した。それはまるで中世騎士物語の一場面のような話。この大戦争ではとかくこのような時代錯誤的美談が多く見られるのは微笑ましいことである。

本格的な戦闘が生起したのはその小戦の数日後、2月14日である。この日の早朝、サクソン軍2000はリガより3マイル程度離れた小さな要塞(コーバン)を攻撃した。この砦は道幅が狭まったところに建てられた、所謂交通の要衝とも言える場所にあった。しかしダールベルヒは幾分かここの防御を強化していたが、兵数の関係上置かれた兵力は少なく、僅かに1人の中尉と5人の軍曹に指揮された80人の兵員をおくのみだった。唯一サクソン軍にとって脅威だったのは16門の大砲だったが、これも数の力で押し切り、結局30分あまりでこの砦を攻略することに成功した。かくてサクソン軍はリガへの全ての道を切り開いた。

この時フレミングは、周辺住民に向かって自分らの行動の正当性を主張し、貴族たちにはスウェーデンによって取り上げられた特権その他の物を取り返すと宣言した。また、それと同時にパトクルに1500騎の騎兵を与え、周辺の宣伝工作を担当させた。彼にはその部隊を使って周辺の貴族たちを味方に引き入れてくることが望まれた。最も彼自身も、そう言った貴族たちの指導的立場に立ちたいと考えていたと思われる。

パトクルはリヴォニア各地に進出し、サクソン軍に協力すると、人や土地、自由が保護され、駐留する兵士たちの掠奪からも逃れることが出来る、と説いて回り、援助金なども募った。しかし非協力的だったり、反抗した者たちに対しては断固たる処置もとった。つまり掠奪を行い力を誇示したのである。だが、結果はそれほど芳しくなく、状況に聡い者などはスウェーデン優勢と考え依然として密かにスウェーデンに協力したし、それ以外の多くの者たちは、どうせ支配者が変わるだけと考え日和ったようである。とは言え身分の高かった貴族でスウェーデンに特権を取り上げられた者たちはサクソン軍に協力したので全てを失敗と見るわけには行かない。むしろ権力者層には支持されたのだから成功したと考えることも出来る。

かくて各地で宣伝戦が繰り広げられている中、2月16日、フレミング率いるサクソン軍はリガの町を遂に攻撃した。最初に攻撃されたのはリガの町とドヴィナ川の河口との間に建てられていた2つの砦、BelderaとDuina-Munder Schans(デュナミンド?)である。フレミングはそこに3000人を送った。前者はすぐに陥落したが、後者は1000人の精兵に守られていたため、しばらくの間頑強に抵抗しサクソン軍を拘束した後陥落した。この結果、リガの町は海からの支援を受けることが出来なくなってしまった。しかしリガの町に篭もるスウェーデン軍の士気はまるで衰えていなかった。これは推測だが、ダールベルヒらは海からの支援はデンマークが行動を起こすだろうから当分先になると予見し、それならば放棄した方がよいと考えた結果なのかも知れない。

こうしてリガの町は包囲された。しかしダールベルヒはしばしばサクソン軍の包囲網をかいくぐって出戦しサクソン軍を悩ませた。特に3月2日に生起した塹壕の端での3,4時間の戦闘は1200余りの兵力で行われ、サクソン軍に重大な被害を及ぼした。

しかしサクソン軍は反撃に怯むことなく攻撃を続行し続けた。3月5日の攻撃では要塞の2カ所に攻め寄せ激戦を繰り広げた。この戦闘でサクソン軍は1000名の死傷者を出すと言う大損害を被って撃退されたが、その攻撃は翌日にも行われ、遂に激戦の末、ダールベルヒは要塞の堡塁の一つを放棄することを決定し、そこをサクソン軍に明け渡した。かくてサクソン軍はリガの町へ一歩近づいた。しかしサクソン軍の被害は甚大であった。

それでもフレミングは勝利を記念して、その場所を占領するとすぐにその場所を「アウグスブルグ」と命名した。彼はここを死守するつもりだった。少なくともリガの町を降伏させるまでは保持しなければならなかった。しかし最終的にこの場所は奪われることになる。戦争には多くの間違いが存在し、この場所の再陥落もその一つだろう。もっともそれはまだ先の話である。

それはともかく、リガの町で攻防戦が行われている間、サクソン軍は至る所に進撃した。3月14日にはデュナミンドも陥落した。

特にトルンの町には重点的に部隊が配され、防衛強化工事が行われた。なぜならトルンの町はヴィツスラ河沿岸にあり、その河の河口にはダンツィヒ市があると言う地理条件、まさに後方拠点として相応しい地点であったからである。また、河川を利用した機動により、スウェーデン本国からの海からの援軍部隊に対し、迅速に対応することも出来た。

そしてそれとは別にリガの町と海岸線の間の3,4マイル程度の地点に、強力なサクソン、ポーランド連合騎兵隊が配置され、ナルヴァ−フィンランド方面からの援軍に備えた。この結果、リガの町は完全に包囲された。さらにサクソン軍は包囲陣を構成するに必要な全ての必要な地点を確保し、宿営地の防御も強化し、砲兵隊を増強した。増強された砲兵隊の野砲や迫撃砲はリガの町に方向を向け、威嚇射撃を行った。かくて最早、誰もがサクソン軍の優勢を認める状況となったのである。

この段になって遂にサクソンの将軍フレミングはリガの町に降伏を促す使者を送った。使者は言う。

「降伏せよ。さもなくばリガは灰燼となるであろう。期限は5日。賢明なる判断を」

しかしこれは失敗だった。フレミングは猶予など与えるべきではなかった。確かにフレミングはリガに大量の輸出用のタールや麻といった可燃物が沢山あることを知っていて、リガの住民がそのことを熟知するが故にダールベルヒを説得するだろうという予想に自信を持っていた。さらにフレミングは恐怖を煽るために砲兵隊には威嚇射撃を続けさせた。しかしそれでもフレミングはダールベルヒらの老獪さを甘く見ていた。

結論から言えば期限は守られなかった。大量の懇願に折れたフレミングはさらに14日間何もせず無為に時を過ごした。これが何故だかは分からない。一説にはアウグスト王の明確な指示を待っていたためとも伝えられている。確かにリガほどの町である。破壊の限りを尽くすには惜しい町である。フレミングが慎重になったとしても不思議ではない。周辺で行動を続けていたパトクルはワルシャワからの援軍や勧誘した者らあわせて、リトアニア人4000、サクソン人3000の兵力を持って前述した宣伝戦を続行させ、自身はリガの町の包囲陣に加わった。宣伝戦で一定の成果を上げたパトクルはその地位を確かなものにしたが、彼が去った後、この宣伝隊の士気は急速に落ち体を為さなくなった。

さて、この猶予はスウェーデンを極めて楽にした。ゲオルグ・ヨハン・メイデル少将率いる6個騎兵連隊と5個歩兵連隊で構成された援軍がフィンランドで組織され、リガ救援に向けて長躯進撃し、それにナルヴァからの4000の援軍が加わり、5月7日リガへの街道にあるウィンデンに到着した。そして彼らはリガの町と海岸線の間の3,4マイル程度の地点に存在する騎兵隊を攻撃する準備を整えた。この時その場にはパトクルが指揮する1000騎の騎兵が存在したが、パトクルはこの程度の戦力ではスウェーデン軍を阻止することは出来ないと判断し、300騎の騎兵に出来うる限りスウェーデン軍を拘束するように命令してその場に残し、またその他に100人あまりをドヴィナ河にかかる橋に残し破壊するように命じてドヴィナ河対岸に退却した。残された兵士たちは多くが戦死しそして僅かな残りが捕虜となった。一方スウェーデン側の損害は死傷者150名だった。これにより対岸に渡る橋はなくなったが、スウェーデン軍はドヴィナ河の渡河の自由を手に入れた。

そして救援軍は歓呼の声と共にリガへ入城した。それは誰もが勝利を確信する光景で、明日にも近辺に存在するサクソン軍が消え失せ、平和が戻る気にさえさせた。

しかしそれは甘かった。スウェーデン軍は余勢を駆って渡河追撃にかかるべきだったのに、メイデルの上司であるオットー・フィリング大将は追撃を許可しなかった。もしこの時フィリングが追撃を許可していたなら、スウェーデン軍はサクソン軍の対岸にあるサクソン軍の前線拠点を奪取できたし、デュナミンドも取り返せただろう。そしてそれは完全なる勝利を意味しただろう。しかしフィリングはリガを奪取したことに満足し、冒険を行うことを嫌い、リガから軍を動かそうとしなかった。

そしてその間にサクソン軍は体勢を立て直していった。

まず手始めは実質的な後衛指揮官となったパトクルによって行われた。彼は前述のように橋を壊し河を渡りにくくし、対岸に堅固な陣地を構築した。そしていつ敵が来てもいいようにアウグスト王に向けて救援要請の急使を送った。その中で彼は今援軍が大量に到着すればリガの町まで簡単に再進撃できると主張した。アウグストはこの意見に同意し、行動を持って答えとした。後世彼については、能力不足のためポーランドを強国に出来ず逆に不安定にさせたとの評が付いて回るが、少なくともこの時の彼には名君たる素質があった。

アウグスト王は全兵力に近い戦力をリガへ送った。6月30日に8000のサクソン軍が到着し、その後続々と3000のリトアニア兵、ポーランドの近衛龍騎兵2個連隊1200のタタール兵らが集結した。そして7月4日、アウグスト王自らもリガ近郊の宿営地に到着した。その時の軍団総数、22,000。遂にスウェーデン軍に対する数的優勢を取り戻した。そう、次はスウェーデン軍が危機に陥る番だった。

アウグストが行動を開始したのはそれから二週間後の7月18日の夜のことであった。この日17,000のサクソン軍は再びドヴィナ河を越えた。サクソン軍は王自らの指揮に奮い立ちその士気まさに天を突かんばかりだった。渡河はリガより五マイル離れたトロンスドルフと呼ばれる村の近郊で行われた。先陣を切ったのは4000のサクソン兵でボートにそれぞれ乗り河を越え対岸を目指した。渡河戦闘で重要なのは橋頭堡の是非である。防御側は大抵の場合敵に橋頭堡を作らせないようにし、渡河側は橋頭堡を作らねば勝利は手に入れられなかった。サクソン軍は上手い具合にスウェーデン軍の裏をかき、無事渡河を成功させ、橋頭堡となる塹壕を建設した。

裏をかかれたスウェーデン軍は翌日フィリング自らが指揮して現場に急行したがあまりに防御が堅固なるを知り、戦わずに後退していった。そしてこの間にアウグストはボートをつなげた簡易橋を完成させ(これは当時としてはかなりの出来だった)、残りの軍隊と補給部隊を渡河させ、その日の午後には全軍が戦闘態勢を取れる状態となった。

そう、またしてもフィリングは大きな失敗をしたのだ。彼は最も素早く勇敢に行動するべきだったのにそうしなかった。彼はサクソン軍が橋頭堡を確立する前に攻撃できる充分な時間と戦力があったのにそうしなかった。また渡河中の敵を攻撃することもしなかった。大砲を使ってボート橋を破壊することもしなかった。彼は経験豊かで王にも忠義の厚い軍人だったが唯一積極性に欠けていた。この点は、主君であるカールも気になったらしく、彼に宛てた手紙の中で、その消極性を幾分か鋭い調子で指摘している。

ともかくも、こうしてサクソン軍の前進は再開されたのである。

だがこの段になってスウェーデン軍も積極性を取り戻す。ダールベルヒは騎兵の集団を率いてサクソン軍右翼のクールランド公軍に襲いかかる。一瞬虚を突かれたクールランド公率いる部隊は輜重隊と砲兵隊を後退させられ、前進を一旦停止させられた。スウェーデン軍にとっては久方ぶりの勝利だったが、戦力差は如何ともし難いことも熟知していたため、夜半にはダールベルヒの部隊も後退していった。見事なヒット・アンド・ウェイであった。しかしその他の戦線ではスウェーデン軍は至る所で敗走し、左翼指揮するアウグスト王は勝利に酔った。

サクソン軍は2000人を殺傷し捕虜を500人も取ったと主張したがスウェーデン側は死傷800人、捕虜800人の損害だったと言っていて、同程度の被害をサクソン軍にも与えたと主張した。どちらが正しかったのかは不明である。

それは兎も角として、勝ったのは紛れもなくサクソン軍であった。サクソン軍の前進は翌日も止まらなかった。もはやフィリングにこの前進に抗すべき手段はなかった。彼は遂に全面撤退を決意した。この日(7月20日)フィリングは騎兵4000騎、歩兵1000名を率いて上リヴォニア方面に撤退した。この後彼はペルナウにてカール12世と合流し輝かしきナルヴァ大会戦に参加し栄光の一翼を担うが、それはまた別の話。撤退に同行しなかった残りの部隊はその場にとどまり、夜になると闇に紛れてリガの町内部へと後退した。援軍を失ったダールベルヒの行動は苛烈だった。彼は町周辺に未だ残っていた全ての建物を破壊し燃やし、サクソン軍が使えないようにしたのである。

しかしそんな物は正しく焼け石に水だった。26日にはアウグストはクールランド公をともない、親衛騎兵隊を使ってスウェーデン軍の野戦砲陣地を襲撃した。次の27日にはサクソン全軍はリガより4分の1マイルの地点にまで進出し、次の日には本格攻撃が開始された。サクソン軍はドヴィナ河に浮かぶ小さなリュッツェンホルムという名の島も確保し、前述のボート橋も所有していたためクールランドからの補給路も万全だった。

そして同時に(おそらく27日)アウグスト王は、前回フレミングが行ったように、ダールベルヒに降伏を促す勧告をした。返答までの猶予は6日間だった。拒絶は破局に繋がる。それは誰もが理解できることだった。しかしダールベルヒは拒絶した。最後の最後まで戦い抜くと言う決心は揺らぐことはなかった。

8月1日アウグストはペルナウ近辺にいるフィリング撃滅を目的とした騎兵6000騎をラ・フォレスト将軍に指揮させ出発させた。とは言え進攻後(7月27日以後)8日間にサクソン軍が行ったことはこれだけだった。なぜなら3日になるまでサクソン軍の重砲隊が本隊に追いつかなかったからである。しかしその翌日8月4日には全ての準備は整っていた。この事から察するに降伏勧告にあった6日間の猶予とはある意味サクソン軍にとっての猶予であったのかも知れない。まぁそれはともかくとして、遂に両軍共に決戦の準備は万端だった。

しかしここで思いもよらぬことが起こる。それはデンマーク本土へのスウェーデン軍上陸の報であり、その後におきたあまりに早いデンマークの敗北、そして諸外国からの攻撃停止要請だった。8月8日、デンマークはトラヴェンタールにてホルシュタイン公(スウェーデン)と講和した。これは事実上の降伏文書であり、デンマークのあまりに早い敗退を意味した。

この報を聞いたアウグスト王は大変に驚いた。そしてそこに諸外国からの圧力がかかった。オランダをはじめとする諸外国の商人たちはバルト海貿易の要だったリガに多くの商館を置いていたり、商館がなくともそこにいる商人と取り引きし莫大な利益を上げていた。その為、リガの町が灰燼に帰することを歓迎しなかったのである。そしてアウグスト王はその圧力に屈した(表面的には)。

8月8日及び10日、アウグストは自軍の砲兵隊をデュナミンドに撤退させた。多くの者がこれに驚いた。しかしアウグストにとってはこれが最善だった。彼は軍人ではなかった。否、軍人としては無能だった。だが王としては必ずしも無能ではなく、外交家としては飛び切り優秀だった。だから彼は自分の最も得意とする土俵で、最大の利益を得ることに腐心する決意をしたのである。

王としてそして外交家としてのアウグストは、賢く粘り強くしかも二枚舌だった。前述の如く砲兵を下げ砲撃を停止して商人や諸国の圧力を弱め、それでいて右手ではロシアのピョートルに援軍の催促を急がせ、左手ではフランス王ルイ14世にスウェーデンとの休戦の斡旋を願い出る急使を派遣した。そしてロシアとの連絡のため、さらには再度のリガ攻撃のため、コッケンハウゼン(ドヴィナ河河口にある要塞、アウグストは撤退前に最後の攻撃としてここを攻め陥落させていた)、デュナミュンド、コーバンといった要塞を強化した。そうしておいて、アウグストは砲兵隊を下げた後、自軍全てもドヴィナ河南岸に撤退させ、情勢の変化を見守った。

そして完全にアウグストとその軍隊がリガから引き上げたのは結局10月4日のことである。それはカールがリヴォニアのペルナウに上陸する2日前の事だった。

つまり、アウグストはロシア軍とスウェーデン軍の決戦の行方を静観することにしたのだ。そしてもしロシア軍が勝てば、再度年明けにもリガを三度攻撃しようと考え、逆だったならば、カールと和睦をして次の機会を待つつもりであった。アウグストは未だにカールの恐るべき軍事的才能と気違いじみた頑固さを知らなかった。

終(仮)

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