会戦


プウトゥスクの戦い(草稿)
いずれ内容を詰める予定であるが、とりあえず独立した読み物とはなっている。

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 プウトゥスクはワルシャワの北70kmのナレフ河中洲にある。ナレフ河はブク河の支流の一つで、ブク河はワルシャワの近郊でヴィツスラ河と合流している。これは街がリトアニアとポーランドを結ぶ交通路上に位置することを意味していた。このことは街が商人たちによって栄える理由となったが、度々、戦いの舞台となる原因にもなった。1703年4月21日の戦いも、その数ある戦いの内の一つである。
 
 遠征一年目と二年目を勝利の内に終えたスウェーデン王カール十二世は、ポーランド王アウグスト二世の退位を要求してポーランド・リトアニア連合王国に侵入しワルシャワに入城した。そして二人の王は雌雄を決することを望んだので、遠征三年目となる1702年の7月7日にクリソフの会戦が生起した。
 アウグスト王の軍は、自らのザクセン軍にルボミスキ率いるポーランド王国軍8,000が加わったため24,000を数えた。一方カールが率いたスウェーデン軍は、ドイツ領から中将ユレンシェーナ伯爵が率いてくる援軍8,000の進出が遅れていたため、前日に本軍に追いついたメルネル=ステンボック軍6,000を加えても総兵力は12,000でしかなかった。
 このようにアウグスト王軍は兵数で勝り、大砲の数でも勝っていたため、スウェーデン軍は苦戦し、それはカールの従兄弟であり義兄であるホルシュタイン公フリードリヒ三世も戦死するほどであった。しかし、会戦に勝利したのはスウェーデン軍であった。
 カールはこのまま戦争を終わらせることを望んでいたので、スウェーデン・ドイツ領から来援したユレンシェーナ中将の援軍と合流し、退却するアウグスト王軍を追って古都クラクフも占領した。しかし追撃は、アウグスト王を捕らえるまで続くはずであったにもかかわらず、不十分のまま終わってしまった。これはワラキアから新たに徴募した軽騎兵を閲兵し終えたカールが不慮の事故により落馬し、大腿部を骨折する怪我を負ったためである。この負傷により彼はクラクフで八週間に渡る休養を余儀なくさせられた。
 その間にアウグスト王はポーランド東部にあるサンドミエルツで国会を開催し、カールが死亡したとの噂を利用して、ポーランド貴族の支持を集めサンドミエルツ同盟を結成した。しかしアウグスト王はカールが無事であることを知ると、更なる支援を求めるために、そして軍を冬営させ新たに兵士を徴集して部隊を再編するために、サンドミエルツを去って大ポーランド地方の城塞都市トルニへ退いた。
 アウグスト王の精力的な活動に不快感を持ったカールは、傷を癒すと新たな戦役を開始することを決意してクラクフを出発し、まずサンドミエルツを目指した。州の名前ともなっているサンドミエルツはヴィツスラ河畔にあり、アウグストと彼の軍が退去した後、同じくアウグストに付き従ってクリソフから退却したポーランド王国軍総司令官ルボミスキ率いるポーランド王国軍が駐留していた。
 スウェーデン軍の前進は、ヴィツスラ河に沿ってゆっくりと行われた。既に前述したようにアウグスト王がポーランド王国軍の陣営から去っていたため、ルボミスキを始めとするポーランド貴族は動揺し、まず遠方のガリチアとヴォルヒニアの貴族たちの一部がスウェーデン王への支持を示してカールとの交渉を望んだ。そこでカールは11月1日、交渉を円滑に進めるために、クラクフの総督となっていた歩兵少将ステンボック伯爵に二千二百の兵士を与えて、ガリチアとヴォルヒニアへ派遣した。
 カールはポーランド貴族たちの移り気の早さを理解していたので、交渉により結果を得るのは容易いが、彼らをその結果に繋ぎ止め続けることは困難だと悟っていた。そこで交渉の結果を永続させるためには、親しまれるよりも恐れられた方が良いと考え、次のような命令をステンボックに与えた。
「私はそなたが我が軍を支援するために、直ちに数多くのポーランド人を撃滅することを望む。そなたは、掌握できるすべてのポーランド人を、非情な恐怖(直訳:好ましからぬ恐怖)により我々に従うよう強制させなければならないし、我々(直訳:古き紳士)の到来を長らく忘れえぬようにするためにも、そのような方法で彼らを取り扱わねばならない。そなたは、出来る限りのすべてを彼らに強制するためにあらゆる努力を注がねばならない」
 ステンボックは命じられた通りに振る舞った。彼の分遣隊は何度か抵抗を受けたが、その悉くを退けて、抵抗が無駄であることを知らしめた。こうしてスウェーデン人は嫌われるようになったが、同時に非常に恐れられるようになり、遠征四年目の1月になるとガリチアとヴォルヒニアの貴族たちはスウェーデン人の庇護下に入ることを公式に宣言して、スウェーデン軍が欲する物資を提供することを約束した。
 一方サンドミエルツにいたルボミスキ公も、スウェーデン軍の勢威を非常に恐れていたため、彼自身もスウェーデン王との交渉に関心を持った。しかし結局のところスウェーデン軍と共同歩調を取ったり、あるい争うよりも叛乱を起こしたウクライナのコサックを討伐した方が自分たちの利益になると考えて、ルボミスキ公とポーランド王国軍はサンドミエルツを発ち、ウクライナへと向かった。かくしてスウェーデン軍がサンドミエルツに到着した時、すでにポーランド軍は退去しており、カールは無血で街に入ることができた。
 この前進は1月半ばにルブリンへ至るまで続いた。その地でカールはルボミスキ公が所有する宮殿を接収して居を構えた。スウェーデン軍は3月初旬までルブリン近郊に駐留し、この間にガリチアに派遣していたステンボックと分遣隊も合流することができた。
 この情勢を受け、カールの死が噂された頃サンドミエルツやルブリンで、アウグスト王に賛意を示した大司教ラジュースキイ枢機卿は、再びアウグスト王の下を離れ得意の二枚舌を披露して1703年2月28日、ワルシャワにおいて議員を参集した。アウグストもまた、同年3月26日、王国議会をポーランド・プロイセンの街であるマリエンブルクで行うことを宣言し、不平貴族を煽りたてるようなラジュースキイ枢機卿の振る舞いを重々しく批判した。
 これに対してワルシャワに集まった議員たちは極めて重大な決定を行った。彼らは王の議会がマリエンブルクで開催される翌日に、対抗議会をワルシャワで開催することを決めた。彼らは、ワルシャワの議会ではスウェーデン王はどの様な意見の表明も自由であることを約束されたと、対抗議会の自由と正当性を主張した。確かにポーランド王が開催する議会ではこの種の権利は制限されていたが、ワルシャワの議会に参加することが叛逆とほぼ同じ行為であることに変わりはなかった。
 ルブリンでの冬営を終えたスウェーデン軍は、3月、北方への進軍を再開し、ワルシャワ近郊のプラガに到着した。これによりカールは北ポーランドの交通の中心を掌握した。そして議会を経た如何なる抵抗決議の採択をも妨げることができるようになった。
 こうして体制を整えたカールは、すでに強力な一軍を託して北方に位置させていたレーンスケルド中将に偵察隊を幾たびも出撃させ、ザクセン軍の動向に目を配った。
 対峙するザクセン軍は予め前記したようにサンドミエルツを去ったアウグスト王と伴に大ポーランド地方へと退いており、ワルシャワ北西の都市トルニを根拠地としていた。彼らはクリソフ会戦での損耗を回復させつつあった。先の会戦で彼らは大きな損害を被ったが、それでも相当数の兵士は退却に成功していたし、1702年の秋と1703年初頭にかけて兵力の補充が続けられていたからである。
 アウグスト王自身は軍の指揮権を陸軍元帥ステイナウ伯に預け、マリエンブルクでの党派工作に傾注した。ステイナウ伯は二月、反サピエハ党一派のリトアニア軍とスウェーデンバルト沿海諸州へ侵出してきていたロシア軍との連携を考え、歩兵をトルニに残し、八個騎兵連隊を率いてブク河へと進出した。ステイナウ伯の騎兵は良く訓練されており、彼らはその機動力を生かし活発に運動し、多数の小規模なスウェーデン分遣隊に対して脅威を与え続けた。カールはこれらザクセン軍を捕捉し撃破することを待望したが、常に動き回る彼らの位置を掴むのは困難なことであった。
 そこで機会を待つ間、カールは兵の慰労と論功行賞を行い、来るべき戦いに備えた。スウェーデン王は自ら足を運んで到着した艀を査察し、病み傷ついた兵士たちを励ました。レーンスケルド卿を騎兵大将に、リーウェン卿を歩兵大将に、メイデル卿、クヌント・ポッセ卿、ストロームベルク卿、スチュアート卿を中将へと昇進させた。もっとも不幸なことにスチュアート卿の昇進はこれまでの功に報いた以上の何物でもなかった。彼の健康は今やはなはだ悪化しており、その素晴らしい才能がその地で必要とされていたにもかかわらず、彼はクールランドの総督を辞任しなければならなかった。彼の後任にはレーヴェンハウプト伯爵が選ばれた。彼は近年、サラデンにおいてリトアニア軍とロシア軍相手に素晴らしい成功を収めた人物だった。この功績は賞賛に十分値し、総督に就任するとともに少将へと昇進した。
 またこの時、ピョートル帝がインゲルマンラントの2つの小さな要塞を陥落させ、ネヴァ河の河口の海岸に到達したという知らせがカールの下にもたらされた。ピョートル帝はその地に街の建設を始め、彼はそれをサンクトペテルブルクと呼んだ。カールは中将へと昇進させたメイデルに、これらのロシア軍の活動を押しとどめる役割を与えた。
 そうする一方、カールは愛想は良いが二枚舌で、ポーランドに絶対権力を打ち立てさせまいと考える勢力の中心人物であるラジュースキイ枢機卿を訪問し、長時間に及ぶ会談を行った。しかし、二人が理解し合うことはできなかった。彼はまた謁見を熱望する多くの大使団にそれを許し、アウグスト王との早期の和解を勧められた。これもカールはやんわりと拒否した。彼はマリエンブルクで開催されている議会から数名の使節も迎え入れた。彼らには王への謁見が許された。彼らは共和国が平和以外の何者も望んでいないことを宣言したが、同時に、選挙によって選ばれた王への常なる忠誠は変わらないことも宣言した。カールのこれに対する返答は、従来通りアウグスト王の退位要求であり、何の解決も取り決められることはなかった。結局、剣のみがすべてを解消するように思われた。
 スウェーデン王は今や敵に最大限の圧力を加える決心だった。切望していた情報はレーンスケルドが派遣していた偵察隊からもたらされた。偵察隊が得た捕虜からの情報により、ステイナウ伯と彼の主力が今まさにブク河の支流であるナレフ河の畔にあるプウトゥスクにいることが知らされた。カールはヴィツスラ河とブク河の合流点で渡河をすれば、プウトゥスクへ西から接近でき、敵はナレフ河を背後にして逃げ場を失うことになると考えた。そこでステンボックにワルシャワの北方4哩にあるNovodvorにおいてブク河架橋の準備を命じた。
 こうして遠征を行うに当たって問題となっていた必要不可欠な準備が整うや、4月18日午前4時、カールは枢機卿にもピーペル伯にも黙って、プラガを発った。
 カールは、ウップランド歩兵連隊をのぞく麾下すべての騎兵と歩兵を率いた。ウップランド歩兵連隊は移動宮廷や戦場官房、国王軍砲兵隊を防護するためプラガに留まった。また、アクセル・スパレ大佐とクレック大佐も同様にワルシャワに留まるよう命じられた。これは病気療養のためでもあり、ポーランド人らの振る舞いを監視するためでもあった。
 ステンボックは精力的に働き、Novodvorで準備を整えていた。全軍が集結し、カールが到着した4月19日の朝、それは殆ど完成していた。対岸には、ザクセン軍の分遣隊も現れ、塹壕と胸壁からなる小規模な前哨陣地を築いていた。これを見て取ったカールは直ちに野戦砲16門をブク河岸に降ろすと、ザクセン軍陣地を的確に砲撃させ、ザクセン軍をして取りかかり始めたばかりの仕事を放棄せしめた。
 続いてカールは歩兵を渡河させ、彼らを追い払い橋頭堡を固めるよう命令した。まだ橋は完成していなかったため、ポッセ中佐率いる近衛歩兵連隊の500名が数隻の艀に乗り込むや正面から渡河を試みた。ポッセは同じく近衛歩兵連隊の中佐であるジャスパー・スペリング伯爵が率いる1000名の歩兵から支援射撃を得て、何らの被害もなく対岸に進出することができた。ザクセン軍からはどのような抵抗もなかった。森と低湿地に強力な伏兵が隠れていないか探ったが、少数のザクセン軍の前哨があるだけで彼らは全員が騎兵あるいは竜騎兵であるにも関わらず、交戦体勢をとらずマスケットの射程外、少なくとも150歩以上は後退していった。これはこの場所で苛烈な抵抗が予想されないことを示していた。
 カールは敵が戦いを避けようとしていることを直ちに察すると、明日の渡河をより安全なものにするため、敵を完全に追い払う決意を固めた。そして自ら指揮をしようと、ヴュルテンベルク公子や数名の将軍と士官らを引き連れ河を渡ろうとした。途中までは艀に乗って対岸を目指したが、少し流され望む速度で岸に向かうことができなかったため、王は岸から幾分か離れたところで水中に飛び込み、そこから彼の後ろに続いていた部隊を率いた。
 この大胆な行動はザクセン軍を威圧し、彼らは一発の弾丸を撃つことなしに全速力で逃亡した。唯一、馬を探し求めていたわずかなポーランド人をのぞいてスウェーデン軍は彼らをとらえることもできなかった。カールは彼らを半リーグほど離れたPonikowa村まで追撃し、そこに前哨を置いて、夜のうちに公子らや士官たちと伴にNovodvorに帰還した。翌日4月20日、橋は完成し、王は騎兵を率いて河を渡った。
 敵の前哨騎兵を逃がしてしまったため、迅速な行動がスウェーデン軍には求められた。そうしなければステイナウ元帥率いるザクセン騎兵団を取り逃がしてしまう恐れがあった。カールは歩兵を置いていくことを決め、近衛騎兵連隊、スモーランド騎兵連隊、北スコーネ騎兵連隊、バッチワルト大佐の竜騎兵隊200騎を率いて急ぎ東方への道を取った。
 カールとスウェーデン騎兵隊は昨夜に前哨を配置しておいたPonikowaへとまず進出した。村の前には小さく幅は狭いが、非常に水底の深い川が通っていた。川に架かっていた橋は撤退するザクセン軍によって破壊され、対岸には彼らの前哨があった。先を急ぐカールはいかなる代価を払ってでも直ちに渡河したかったが、まず水深を調べなければならなかった。道案内のポーランド人が艀を使い、対岸まで水深を調べて渡ったが、そこでザクセン軍に捕まりそうになった。普通なら見捨てるところであるがカールは牽制のために射撃支援を行い、徴発したもう一艘の艀を用いて彼を救出した。彼は渡河が不可能であることを教え、カールはこの勇敢で貴重な助言を与えてくれたポーランド人に30ドュカードを支払った。
 カールはこの場所での渡河が不可能であることを理解すると、直ちにその村を立ち、半哩離れた風車近くで浅瀬を見つけると自ら水底が固いことを確かめ、真っ先に川の中に入っていった。カールの勇敢な行動に麾下全兵士がすぐさま従った。流れが非常に急であったにも関わらず、数名がおぼれ死んだだけであった。
 それからスウェーデン軍はバッチワルト竜騎兵隊を先頭に、数名のザクセン軍軽騎兵と鼓手を捕らえつつ、一日中、前進を続けた。捕虜たちはスウェーデン軍がこれほど近くにまで進出しているとは到底信じられない面持ちをしていた。さらに途中、ザクセン軍の前衛と思われる竜騎兵隊が駐屯する小村を発見した。気付かれずに通り過ぎることは不可能であった。カールは直ちに攻撃を決断した。奇襲は成功し、彼らの多くを捕らえたが、やはり数名は逃亡に成功し、ステイナウ元帥にスウェーデン軍の迅速な接近を伝えることとなった。スウェーデン軍は彼らの後ろを全速力で追いかけ、その夜の間休みなく進み、道に配された幾つかの前衛を撃破しつつ夜明け前の21日3時半にプウトゥスク近郊に到着した。
 そこはNovodvorから直線距離でも40哩離れていた。実際に瞠目すべき機動だった。北スコーネ騎兵連隊のニルス・ユレンシェーナ中佐は手記の中で次のように回想している。「我々の馬には驚嘆した。我々は55哩に及んで馬を駆り、一昼夜に渡って餌を与えることもなかったが、馬の状態は戦役中きわめて良好であり、野営地から向かってきた敵は我らの進軍から逃れることが出来なかった。しかしすべてが終わったとき、ほとんどの騎兵は徒歩で帰路につく必要があったが」
 常に注意深く堅実なステイナウ伯は、暮刻に前哨の生き残りからスウェーデン軍の接近を知らされると、偵察隊を派遣して状況を確認しようとする一方、念のため麾下全隊に戦闘準備を命じた。彼の手元には竜騎兵4個連隊、胸甲騎兵4個連隊があった。ザクセン軍の定数に従えば総員で3,538名となるが、定員を満たしていたとは到底思えない。
 もっとも彼はスウェーデン軍の規模は大きくないと考えていた。その目的は威力偵察だろうと想像し、精々が大隊・連隊規模であると考えていた。彼にはスウェーデン軍が大規模な攻撃を試みようとしているとは想像できなかったし、ましてやスウェーデン王自身がその部隊を指揮しているなどとは気づきもしなかった。
 それでもステイナウ伯は部隊を戦闘隊形にして、街の西にある丘に整列させ、警戒を密にさせた。また別の場所に駐屯している部隊にも、直ちに合流するように命令を与えた。彼らは命令に従った。しかし今やすべては遅すぎた。
 カールはプウトゥスクの街を視界におさめるや、ザクセン軍が隊形の整列を急いでいるのを認めた。カールは地形と敵情を観察し、迅速な前進がなお求められていることを感じた。そこで、行軍縦隊のままプウトゥスクへと南北に走る街道に沿って闇が許す限り部隊を進ませた後、ようやく数列の横隊に騎兵を展開させた。
 ザクセン軍は丘の上を東西に走る街道と平行に整列して、南から接近するスウェーデン軍を迎え撃つ構えだった。両軍の規模について実際上の記録はないが、双方ともにおよそ3,000程度であったとされている。ただしこの数字は戦闘後半になって現れた隣街に駐留していたザクセン騎兵も含めており、戦闘開始時点においてはスウェーデン軍が数的に優勢であったと思われる。
 こうした状況をステイナウ伯は夜明けに至り、悟ることとなった。彼はザクセン軍を上回る規模のスウェーデン騎兵隊に驚き、急ぎ街へと退却の命令を下した。
 プルスツクは川の中洲にあり、渡された吊り橋は中洲の両岸に一つずつしかなかった。スウェーデン軍が進む街道と、ザクセン軍が平行に布陣する街道は、橋の少し手前で合流しており、橋はステイナウ伯が布陣する丘の下にあった。
 ステイナウ伯は街に逃げ込み、吊り橋を揚げることによりスウェーデン軍から逃れられると考えた。一方、カールもその意図に感づくや、渡河を妨げるため右翼からバッチワルト竜騎兵隊を急ぎ前進させた。また、軍を二つに分けて一つを予備隊にしてリッダーイェルム少将に預けた。そして彼にザクセン軍右翼騎兵の監視を命じると、残りの騎兵を竜騎兵隊に続行させた。
 徐々に明るくなる中で、自分たちの思い違いに完全に気付いたザクセン軍は、橋の付近に展開していた左翼騎兵から、先を争うように、街のある中洲へと退却していった。しかしザクセン軍左翼騎兵が渡り終える前、丁度最後尾の中隊が橋を渡っている最中、バッチワルト率いるスウェーデン竜騎兵隊は到着した。バッチワルトは逃げ腰のザクセン騎兵を簡単に排除して、両軍入り交じるように橋を渡り街門を占領した。
 ザクセン軍に吊り橋を揚げる時間は残されていなかった。彼らは今や全速力で街を通って退却をしていた。スウェーデン軍は逃げるザクセン軍を追撃し、マルクト広場での反撃の試みを粉砕し、反対側の橋に追いつめた。秩序を失ったザクセン軍は橋に殺到した。のみならず逃亡者の群れによって橋の一部が崩れ落ち、多くの兵士が落水し溺死した。橋を渡り損ねた兵士は激しい白兵戦を余儀なくさせられた。結局この戦いはカールの到着まで続いたが、見捨てられたことを悟ると抵抗の力を失い、武器を地面に投げ捨て慈悲を求めた。それらはスウェーデン王により直ちに許された。こうして橋のたもとに取り残されたザクセン兵は降伏した。
 同じように街に取り残されてしまったBeust中将もカールにより名誉ある捕虜となった。彼は副司令官であったが、撤退に間に合わず、少数の竜騎兵と伴にプウトゥスクの水車設備に立てこもっていた。彼はドラバントを率いて街に入城したカールからの勧告に従い降伏した。カールは身分を隠して中将を丁重に扱い、帯剣と行動の自由を許した。
 こうしてカールが街中での騒乱を鎮めたとき、彼はザクセン軍が布陣していた丘の方から新たな喚声を聞きつけた。丘に取り残されていたザクセン軍右翼騎兵が撤退を開始し、それを阻止しようとスウェーデン軍予備隊が攻撃を掛けた音だった。
 予備隊を指揮するリッダーイェルム少将は、日が昇りきるとザクセン軍の右翼が丘から撤退しようとしているのを発見した。そして北スコーネ騎兵連隊のユレンシェーナ中佐と約300騎の騎兵に攻撃を命じた。カールは直ちにドラバントを率いて街を出ると、橋のたもとにいた近衛騎兵連隊の少佐クレッツにも部隊を率いて丘へと駆け上り、攻撃に参加するよう命じた。
 ユレンシェーナ中佐の北スコーネ騎兵大隊はザクセン軍右翼騎兵を撃破し、彼らは森の中へと敗走した。まさにこの時、不幸にも隣の駐屯地から夜半にステイナウ伯から発せられた集結命令に従ってプウトゥスクに前進してきたザクセン騎兵が森の中から現れた。彼らは何が起きているのか全く分かっていなかった。ステイナウ伯の命令に従って前進しているだけで、当初は友軍のただ中にいると信じて疑っていなかった。
 ユレンシェーナの北スコーネ騎兵とクレッツの近衛騎兵はカールと伴にこれを迎撃した。思いも寄らない攻撃を受けて大きな損害を出したザクセン騎兵隊は混乱のうちに潰走した。
 その間にバッチワルトの竜騎兵隊は壊れた橋を修復し終えて、逃げたザクセン軍の追撃を再開していた。しかし彼らの馬は今や非常に弱り切っており、僅かの逃亡兵に追いついたのみで、6哩程度の追撃であきらめ帰還した。
 カールは麾下全兵士の振る舞いに大いに満足していたが、特に竜騎兵の迅速な行動が勝利に繋がったと彼らを称揚し、敵の輜重を鹵獲する許しを与えた。「しかし」とある竜騎兵は不快感を書き記している。「我々が敵を追撃している間に、将軍らとドラバントが何もかも押収しており、我々には無惨なものと役にも立たない多くのもの以外に何も残されていなかったのだ……」と。
 戦いにおけるスウェーデン軍の損害は旗手1名と兵卒17名の戦死であった。ほとんどすべてが竜騎兵であった。
 一方、ザクセン軍総司令官であるステイナウ元帥は橋を渡る幸運を得、さらにイエズス会修道院を通り抜け、退却に成功した。しかしすべての輜重と、5本の軍旗、2組のケトルドラムをスウェーデン軍に奪われた。結局、ザクセン軍はおよそ200名が戦死あるいは溺死し42名の士官と758名が捕虜となった。
 また、この夜、先に述べたザクセン軍のBrust中将はスウェーデン王に拝謁し、その時になって初めて国王その人が自分を捕虜とした人物であることを知って驚嘆した。彼は王と夕食を伴にする名誉に預かり、その待遇はカールが度々行った寛大さを示す実例の一つとなった。
 カールはようやく何も告げずにワルシャワに残してきたピーペル伯に手紙を書いて、勝利を報告した。翌朝4月22日、夜が明けると早くにカールはウランゲル大佐麾下のドラバント隊、バッチワルト竜騎兵隊100名と近衛騎兵連隊の8個中隊に敵の追撃を命じた。カール自身も、事後の処理とプウトゥスクに残る騎兵をリッダーイェルム少将に任せ、ヴュルテンベルク公子らと護衛兵を連れ直ぐさまこの分遣隊に合流した。その日の間中、彼らはどのような敵にも遭遇しなかった。
 カールと分遣隊は翌23日も前進を続けた。そして正午、カールはザクセン軍が今進む道の先にあるOstrolenkaにいると言う情報を得た。分遣隊は行軍の足を速めて夜半にはその町から1哩離れた小村に到着した。カールはそこで、数名の将校とザクセン兵を捕虜とし、リトアニア軍と合流した3,000のザクセン軍がOlinkaにおいて有利な陣地を築いていることを知った。
 分遣隊の戦力は1,000名に足らず、そのような少数で遙かに優勢な敵に戦いを挑むことは大変危険であった。ザクセン軍とリトアニア軍も、敗勢の中で必死の防衛をする決意を固めているかも知れなかった。また例え勝ったとしても、損害は計り知れないものになると思われた。カールは攻撃することを心中では望んでいたが、ヴュルテンベルク公子やウランゲル大佐、バッチワルト大佐、ステンボック伯、そして部隊すべての兵士たちが一致してカールを制止し、馬の疲労も限界に達していたため、ついには攻撃を断念して後退することを決した。
 スウェーデン軍は、その夜のうちに2哩後退し、プウトゥスクから5哩離れた小村で夜を明かした。プウトゥスクまで一気に後退しなかったのは、部隊が休養を多大に必要としていたためである。しかしながら全周に強力な哨兵線を巡らし、分遣隊は奇襲に備えた。もっともザクセン軍もリトアニア軍もあえて出撃して攻撃しようとすることはなかった。明けて24日の9時、恒例の礼拝の後、分遣隊は行軍を開始し、その夜にプウトゥスクへと到着した。
 ここでカールはレーンスケルドからの手紙を受け取った。この暗号化された手紙はトルニのザクセン軍歩兵に関するものだった。ステイナウ伯は麾下の部隊とともに敗走したが、カールはトルニに残る部隊を軽く考えたりはしなかった。そして、もし街とそこに集結する6000名のザクセン軍を、カールの軍とレーンスケルドの軍で取り囲めば、アウグスト王に残される兵力は数えるほどになるだろうと思われた。
 カールの決断はすばやく、必要な準備は既に整っていた。レーンスケルドはトルニに注意を払いつつ、同時にヴィツスラ河沿いにある街Waloclavekの補給倉庫に豊富な軍需品を集積し続けていた。かくして依然としてワルシャワ近郊にいたスウェーデン軍歩兵隊は、カールの命令を受けてNovodvorの橋を渡り、ヴィツスラ川の東岸沿いに行軍を開始した。荷船は川を下り、途中でプウトゥスクで得た捕虜を乗船させ、トルニに向かった。
 カールは4月28日プウトゥスクを出発し、5月14日の夜には荒廃しきったトルニ近郊に偵察隊が進出した。トルニ攻囲戦の始まりである。

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◆この頁の参考文献及び引用箇所◆

引用箇所
  • 制作中

主要参考文献
Adlerfeld, Gustavus. The Genuine History Of Charles XII. King of Sweden.London 1742.
Bengtsson, Frans G. The Life of Charles XII. New York, 1960.
Browning, Oscar. Charles XII of Sweden. London, 1899.

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