会戦
◆ナルヴァ会戦◆

戦略状況
Strategic Situation

1.前戦役の終了2.次なる作戦
3.英蘭との協調4.仏国と計画変更

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デンマーク戦役の終了

 トラヴェンタールの講和は、8月8日にイングランドとオランダが仲介役となって、ホルシュタイン・ゴットルプ公とデンマーク王の間で成立した。
 そしてその第一報がカール12世の下に届いたは、3日後の8月11日の事だった。当初コペンハーゲン進撃を考えていたカールであったが、その講和がスウェーデンにとっても容認し得る内容であると知ると考えをあらため、素早くシェラン島を去り、スウェーデンに帰国することを決意した。
 カールにとっては、デンマークの脅威が去った今、講和条件について交渉をするよりも、当初からの敵であったザクセン選帝候にしてポーランド王であるアウグストに対し、反撃を加えることの方が重要であった。
 もっとも、イングランド・オランダ連合艦隊が、トラヴェンタールの講和を持って任務を果たしたと考え、帰国を要求していたことも、この判断に大きな影響を与えていただろう。何故ならば、もし彼らがこの海域を去れば、スウェーデン艦隊の数的優位は揺らぎ、上陸部隊の帰国が危うくなると言う事態もあり得たからである。
 このような理由に加え、デンマークがスウェーデン軍の撤兵を強く要求したため、カールのスウェーデンへの撤退行動は、望む望まぬに関わらず、迅速とならざるを得なかった。
 トラヴェンタールの講和から約2週間後、8月24日には、すべてのスウェーデン兵がエーレスンド海峡の反対側、つまりスウェーデンに戻った。カールはその最後の便の一隻に乗って帰国している。そして遊弋していたスウェーデン艦隊も、4日後の8月28日、カールスクローナへ向けて去り、さらにその翌日、最後まで仲介者としてすべてを見届けていた
イングランド・オランダ連合艦隊も、遂に帰国の途に着いた。
 かくして1700年8月29日、この日を持って第1次デンマーク戦役は完全に終了したのである。

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アウグストに対する反撃計画

 アウグストに対する反撃は、不思議なことに、夏の間に行われなかった。バルト沿海州に更なる増援を送らねばならないという事実は、言うまでもないことだったにも関わらず、彼らはそれを早急に行わなかった。
 もちろん、兵力がそれを許さなかったということもある。しかし、スウェーデンは、この時すでに戦争を早期に終結でき得る術を編み出し、それを実行に移そうと準備していたのである。故に、彼らは早急な動きをバルト海沿岸で行わなかった。
 そもそもこの戦争の発端は、アウグストがザクセン軍と一部のポーランド人を伴って、リーヴランドに侵攻したことにある。スウェーデン政府は3国同盟のことを、正確には、知らなかったし、ロシアは大した敵対行動を取らないだろうと高をくくっていた(理由は後述)。
 そこでスウェーデン政府は、アウグストとザクセン人を打倒することで、戦争を終結させることができると考えた。と言うのも、彼らは……少なくとも、ベングト・オクセンシェルナを含む多くのスウェーデン政府高官は、ザクセンとポーランドを別にして考えていたからである。
 彼らの考えによれば、ポーランド人すべてがこの侵略に肯定的である訳ではなく、問題とするべきは、アウグストの基盤であるザクセンとそこにいる人々であった(この考えはその後も根強く、カール自身もその考えに理解を示していた)。スウェーデン政府は、その為、ポーランド人と戦うことなくリーヴランドからアウグストの軍を撤退させる方法を探し、そして発見していた。
 幸いなことに、ポンメルン及びブレーメン、バーデンのスウェーデン軍は、ホルシュタイン・ゴットルプ公領を防衛するために増強されており、それは夏になっても続いていた。彼らはこれ利用することにした。つまり、ドイツ・スウェーデン領駐留軍を核とする軍団によるザクセン侵攻作戦を立案したのである。
 それは軍事的にも極めて現実的な作戦案であった。ドイツにいるスウェーデン軍は多く、例え6千を防衛に残したとしても1万の兵力が攻勢作戦に使用することができたのである。それにシェラン島から戻った軍による増援も期待できた。
 更に、この作戦の最も重要な点は、アウグスト軍が後退することにより戦場が、戦いをすることなく、スウェーデン領から敵の領土に移ることであった。この結果リーヴランドは戦災から逃れることができ、スウェーデンの後方地域とすることが可能になるはずだった。
 しかし実施上に問題がないわけではなかった。一番の問題は軍の進路上にあるブランデンブルク選帝候領の扱いだった。ポンメルンやブレーメン、バーデンに駐屯するスウェーデン軍がドイツへ進撃すると言うことは、この地域を通過すると言うことでもあったからである。
 しかし、スウェーデン政府および軍はそれについては極めて楽観的だった。ブランデンブルク選帝候はアウグスト軍の通過を認め、半分敵のような存在であったが、表向きは中立であり、デンマークを脱落させた現状と、スウェーデンが厳格な軍律を維持するという保証をあわせれば、その領域を通過することに関して反対することはないと考えていたのである。
 そして厳格な軍律は、その後にシェラン島で見せたようにスウェーデン軍の自慢の一つであり、同時代人が等しく認めるところでもあった。これらの理由により、カールはこのザクセン侵攻作戦に多大な興味を持った。彼はこの計画をアウグストを「正気」に戻す迅速な案と見なしていた。
 そしてスウェーデンに戻ると直ぐにカールは、この計画を主力の攻撃としても、リーヴランドでの作戦を容易にするための牽制作戦としても効果があると認め、ドイツで指揮をとっていたユーレンステルナに実行を命令した。
しかしながらこのザクセンへの侵攻作戦は、最終的に実現しなかった。
 それは正直に言えば、スウェーデンにとっては与り知らぬ、大きな流れの影響も多分に作用していた。
 そうつまり、イングランドとオランダ両国からの強い反対にあったのである。 当時、スペイン継承問題でフランスとオーストリア(ハプスブルク家)との間の折衝を試みていた両国の立場から見ると、この行動はヨーロッパの平和、特にドイツ方面の平穏をかき乱し、フランス王ルイ14世の戦意を刺激する行為に映ったのである。

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イングランド及びオランダとの協調

 当時、スペイン王カルロス2世の死は既に決定事項であり(事実1700年11月1日(N.S.)に死去している)、イングランドとオランダはスペインを分割することによってルイ14世と妥協し、力の均衡を保とうとしていた。
 この頃、スペイン王位に最も近かったのは、バイエルンの幼い選帝候だった。そしてそれに続いてほぼ同じ位置に、ハプスブルクはレオポルト帝の次男カール大公、そしてルイ14世の子供たちがいた。
 ウイリアムらの当初の考えでは、バイエルンの幼公にスペイン本領と西インドを。ルイ14世の息子、王太子にはナポリやシチリア等を与え、カール大公にはミラノ公国を相続させようとしていた。 しかし、この第1次分割協定案は、死にかけたカルロスの激怒にあい、水泡に帰した。カルロスは、王国が分割されることを拒否し、バイエルンの幼公にすべてを譲り渡す遺言書をしたためた。もっとも、イングランドやオランダにしてみれば、ハプスブルクもブルボンも等しく何も得られないと言う状況は決して受け入れられないものではなかった。こうしてスペイン継承問題は、平和裏の内に解決されるかのように思われた。
 けれど、問題はここからが始まりだった。すべてを与えられるはずだったバイエルンの幼公が、1699年2月に僅か4才でこの世を去ったのである。 すべての交渉が振り出しに戻ったことを誰もが覚らずにはいられなかった。ウイリアムやオランダの主席行政官ヘインシウスは、早速、この問題を紛争化させないために外交努力を開始した。
 彼らは先の分割案に修正を加えた、第2次分割協定案をブルボン家とハプスブルク家に提案した。それは、先の分割案でミラノを貰うことになっていたカール大公に、スペイン本領と西インドを与え、その代わりにミラノ公国はロレーヌ公に相続させ、ルイの息子には以前の提案通りのものを与えると言うものであった。
 しかし、スペインと神聖ローマ皇帝レオポルトはこの計画に反対であり、ウィリアムとルイは、マドリッドとウィーンを制御することに失敗した。これは分割に反対するレオポルトが、いざフランスと戦争をすることとなっても、早い遅いにかかわらず、イングランドとオランダは、フランスに対抗する立場から必ず自分に味方するだろうと確信していたからである(事実それは正しかった)。
 そして無論のこと、スペイン王カルロスが、王国の分割を認めるわけもなかった。
 結局、皇帝の拒否と死にかけたスペイン王の拒否により、第2次分割協定は締結されることはなかった。後は、ルイの子供か孫、もしくはハプスブルクのカール大公か、であった。マドリッドの宮廷はさながら、戦場のようになった。フランス派とオーストリア派に分かれて、自らの推す人物の名を遺言状に記させようと、病床のカルロスに圧力を加え続けた。こうして事態は、ウィリアム3世を悩ませる方向へと突っ走っていった。
 このような状況の中で、スウェーデンとザクセンが帝国領土内で戦争を行うと言うことを、ウィリアム3世が認めるはずもなかった。彼はもしこの行為がカルロスの死によって生じる諸紛争の最中に行われれば、ルイ14世は勇気づけられ、初期の分割案以上の分け前を要求しかねないと考えていたのである。
 それにウイリアムはいざ戦争が始まれば、ルイ14世に対抗する必要から、イングランドとオランダの力を結集し、フランスと戦わねばならなかった。そしてその段に至れば、ドイツからはイングランドとオランダの資金で、外人部隊の基礎となる兵隊を雇うか借りるかしなければならなかった。そんな時、30年戦争の記憶が未だに強く残るドイツで、もしスウェーデンの軍隊が帝国領内で戦っていれば、どのドイツの諸侯が自分の領土の外に自らの兵士を出すであろうか、とウィリアムは恐れた。
 だからウィリアムとヘインシウスにとって、カール12世に直接ザクセンへ攻撃を仕掛けるような真似をさせるわけにはいかなかった。彼らは連合艦隊による海上支援を行ったという恩をスウェーデンに対して持っており、更に言えば、トラヴェンタールの保証人たる立場を放棄する事もできるという切り札も持っていた。
 スウェーデン政府においてもウィリアムとヘインシウスに対する感謝の念は、最上位に位置していた。ホルシュタイン問題での支援に加え、彼らは約束通りスウェーデンに対して友好を示してくれたからである。1月の条約に則った包括的支援、軍服用の大量の衣類、火薬、そしてその他スウェーデンがアウグストと戦うために必要な物資を
彼らはすべて援助してくれた。
 そして、連合艦隊との合同作戦は、時折、その目的の違いにより問題を生じさせたにもかかわらず、スウェーデンにとって、なくてはならないものだった。彼らの協力があったからこそ、デンマーク軍は動けなくなり、スウェーデン軍は、シェラン島を急襲することができた。  と同時に、トラヴェンタールにおけるイングランドおよびオランダの保証が1700年の秋にアウグストに対する種々の作戦の、その基盤を形成したということも否定することはできなかった。

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フランスの態度とザクセン侵攻作戦の中止

 一方、スウェーデンが同様に援助を期待出来るフランス国王ルイ14世の態度は、この海洋列強の積極的な態度とまるで違った。フランスには、1660年のオリヴァ条約(アウグストはリーヴランドに侵攻することによりこの条約を破っている)の守護者たる責務(つまりスウェーデンと伴に戦うこと)を果たす気はないようだった。
 スウェーデンは、ルイ14世に、オリヴァ条約の守護者としてザクセン侵攻作戦に協力して欲しいと申し出ているが、これはフランスの態度を試すものであり、結局、スウェーデンは、フランスが仲介者として以上の行動を起こす気がないことを確認することとなった。 こうしたフランスの中立を保持する態度と、ザクセン侵攻作戦に否定的であるが、援助を続ける海洋列強の態度の双方が、次の作戦におけるスウェーデンの決定に大きな影響を与えた。
 フランスの支援も期待できない現状において、カールには、ザクセン侵攻作戦に強硬に反対するウィリアムとヘインシウスの望みを無視して行動することは出来なかった。その結果、明文化された約束でなかったにもかかわらず、スウェーデンはザクセン侵攻作戦を取りやめざるを得なかった。
 これには、以前のような楽観的態度が、海洋列強の影響力が減少すると、許されなくなるだろうと言う側面もあった。つまり、もしこの状況下でザクセン侵攻作戦が行われれば、デンマークとブランデンブルクが黙ってはいないと改めて予想されたからである。(楽観的態度は、海洋列強の支持が前提だった)
 しかしながら、リーヴランドでの反撃というこの決定を、イングランドとオランダの態度だけによるものであると考えるのは誤りである。つまりロシアの存在である。ちょうど、海洋列強のザクセン侵攻作戦に対する態度が明らかになった頃、インゲルマンラントからロシア軍の侵攻が間近に迫っているとの報告がスウェーデンに届いていたのである。それは、ピョートルの軍が国境に向けて進軍しており、その数は疑いもなく侵攻を目的としたものであるというものであった。
 また、9月の終わりには、ロシアの宣戦布告はカールスハムンに本営を置いていたカールの知るところとなっていた。そして結局の所、これが最後の一押しとなった。
 海洋列強の態度と、フランスの中立、そして東バルト沿海州にせまる2つの敵によりザクセン侵攻作戦は中止された。すべての状況は、冬の到来前に、輸送できる兵力を、すべて、ピョートルとアウグストの攻撃からインゲルマンラントとリーヴランドを防衛するために使わねばならないと言うことを示しており、カールはそのことを良く理解していた。
 デンマークは油断ならず、ロシアも不穏。アウグストは懲りると言うことを知らぬ。かくして戦争は誰にとっても予想外に長引く方向へ進むこととなるのである。

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