年表と暦について

当時の暦についての解説や
本サイトに関連する年表を載せた。
当時の暦は3種類が並列しており、注意が必要である。

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◆暦について◆

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 ユリウス・カエサルの命令により導入された1年を365.25日とするユリウス歴は、紀元前の当時にあって、最も進んだ暦法であった。しかし、小数点以下の誤差があり、1000年ごとに8日の補正が必要とされ、これが16世紀になって問題となった。実際の問題としてユリウス歴は1年間で約11分ずれる暦であった。このずれが重なり、現実と暦の差違が目立つようになったのである。
 この問題の解決を求めたトリエント公会議の決定を受けてグレゴリウス13世は、1579年から暦の改訂研究を始めた。これがグレゴリウス歴の発端である。そして最終的にこの新しい暦は、1582年2月24日に発布され、10月4日木曜日の翌日を10月15日金曜日とすることとした。これによりユリウス歴とグレゴリウス暦との間には10日の、18世紀になれば11日の差違が生じることとなった。
 この決定を受けてグレゴリウス歴は、カトリック諸国、フランス(フランスのみ同年の12月20日から)やイタリア、ルクセンブルク、ポルトガルそしてスペインで導入されていった。そして1584年には、ベルギーとオランダの一部、そしてドイツのカトリック諸侯の領地のほとんどにおいて使用されるようになった。
 スイスでは1583年から徐々にグレゴリウス歴への変換が行われ、その作業は1812年に完了した。また同じくハンガリーでは1587年にグレゴリウス歴の導入を行った。しかし、プロテスタント諸国には、グレゴリウス歴は広まらなかった。
 プロテスタント諸国にグレゴリウス歴が導入されるようになったのは、1700年代に入ってからである。デンマーク=ノルウェーとオランダ全域、ドイツのプロテスタント諸侯の領地では、1700年3月1日からグレゴリウス歴を使用するようになった。しかしそれでも、ドイツのプロテスタント諸侯の領地では、復活祭の日付をグレゴリウス歴の方法に変更せず、1776年までユリウス歴による日付の決定方法を使用した。
 これらプロテスタント諸国の動きに合わせるように、スウェーデンでも1699年11月に、翌1700年からグレゴリウス歴へと変更していくことが決定された。しかし、その導入の方法は、他の国と違って日付を直ぐさま11日ずらすと言うものではなかった。スウェーデンでは1700年から、毎年1日ずつ日付を飛ばし、11年間かけてユリウス歴からグレゴリウス歴に変更することとしたのである。
 この決定に従い、スウェーデンでは1700年の閏日2月29日を飛ばし、この日を3月1日とした。しかし、この改暦作業は戦争の勃発により、更に優先しなければならない問題に取って代わられ、中断されることとなった。そのため、スウェーデンはユリウス歴と1日、グレゴリウス歴とは10日違う暦を使用し続けることとなった。また、1704年と1708年には閏日も挿入されたため、この暦とユリウス歴、グレゴリウス歴との差が変化することもなかった。
 しかしこのスウェーデンでしか通用しない暦を使い続けることは、貿易の面でも政治の面でも不都合であった。そのため、1711年1月カール12世はこのスウェーデン歴を破棄し、1712年の2月に1日を追加することで、ユリウス歴に暦を戻すことを決定した。この1700年3月1日から1711年2月30日まで使われた暦を一般にスウェーデン歴と呼ぶ。
 スウェーデンがグレゴリウス歴に改暦したのは1753年になってからで、2月17日の次の日を3月1日にすることでユリウス歴とグレゴリウス歴の11日間の差を埋めた。
 一方で大北方戦争当時、ロシアやイギリスはグレゴリウス歴ではなくユリウス歴を使用していた。そして前述のようにデンマークや、ザクセン、ポーランドはグレゴリウス歴の使用を始めていた。このため、この戦争の資料には、3種類の日付が入り交じる結果となった。このため、多くの歴史家がこれに惑わされることとなった。
 例としてカール12世がノルウェーで戦死した日を考えると、この日はユリウス歴で言うところの、1718年11月30日であった。しかしデンマーク=ノルウェーが使用していたグレゴリウス歴に従うと、この日は1718年12月11日となる。
 また、ナルヴァの会戦の日付はスウェーデン歴1700年11月20日であるが、この日はユリウス歴1700年11月19日、グレゴリウス暦1700年11月30日でもあるのである。
 同様のことは、ロシアの対スウェーデン宣戦布告にも通じる。この日はユリウス歴(露歴)1700年8月19日であったが、スウェーデンでは1700年8月20日として扱われ、フランスでは1700年8月30日の出来事として記録されているのである。
 本サイトでは、スウェーデンで使用されたスウェーデン歴を主に使い、それ以外の暦を使用する場合は、それについて注釈することを原則としている。

スウェーデンにおける暦
期間
中世〜1700年02月28日ユリウス歴(Old style = O.S.)
1700年03月01日〜1712年02月30日スウェーデン歴
(S.W. = O.S. + 1 day = N.S. - 10 days)
1712年03月01日〜1753年02月17日ユリウス歴(O.S.)
1753年03月01日〜現在グレゴリウス暦
(New style = N.S. = O.S. + 11 days)

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◆GNW年表(未完)◆

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スウェーデン歴にて表記
日付説明
165108月06日カール・グスタヴ・レーンスケルド生誕
166404月06日アルヴィド・ホルン生誕
166505月12日マグナス・ステンボック生誕
167005月22日アウグスト2世生誕
167205月30日ピョートル大帝生誕
168206月17日カール12世生誕
06月25日ピョートル大帝戴冠
168607月ノルコッペンシス(ノルデンヘルム)、カール12世の教育係に就任
168901月0?日リンドスケルド伯、カール12世の傅育役に就任
 スチュアート、カール12世の数学及び軍事教師に就任
09月07日ピョートル大帝、独裁権を事実上奪う
1690
or
1691
6月11日リンドスケルド伯急死。享年46
 ユーレンストルプ伯、カール12世の傅育役に就任
169307月26日ウルリカ・エレオノーラ死去。享年36
169412月23日ノルデンヘルム死去。享年61
1695 トーマス・ポールス、カール12世の教育係に就任
補佐にグスタヴ・クロンヘルム
169601月29日ピョートルの兄、共同皇帝フョードル死去
ピョートル名実共に独裁君主になる
169704月05日カール11世死去。享年42
05月07日三冠城(トレ・クローナ)炎上
07月07日アウグスト2世、ポーランド国王に選出
09月25(5?)日アウグスト2世、ワルシャワにて戴冠
12月14日カール12世戴冠
169906月02日
(4日?)
ヘードヴィク・ソフィアとホルシュタイン公フレデリック結婚
 対スウェーデン3国同盟成立
(ロシア・デンマーク・ザクセン=ポーランド)
170001月10日
&13日
スウェーデン、イギリス、オランダと同盟
02月01日ザクセン軍リーヴランド侵攻開始
02月11日ザクセン軍、コブロン攻撃、同日陥落
02月12日ザクセン軍、リガ到達
02月17日ザクセン軍、リガ攻囲開始
03月06日ザクセン軍侵攻の報告がカールに到着
03月13日
or
14日
ザクセン軍、デュナミュンデを陥落させる
03月11日
or
17日
デンマーク軍ホルシュタイン侵攻開始
03月20日デンマーク軍侵攻の報告がカールの元に到着
04月14日カール12世出陣。カールスクローナへ
05月07日スウェーデン援軍、リガ近郊に到着
ザクセン軍、ドヴィナ河対岸に撤退
06月16日カール12世カールスクローナ発つ。
海峡を突破してヨーテボリへ
06月30日ザクセン援軍第1陣、リガ近郊に到着。
以後、続々と戦力増強
07月18日ザクセン軍、ドヴィナ河を渡河
リガへ向けて進撃を再開
07月25日
(24日の夜:抜錨)
フムレベック上陸戦
a)カール12世:4000 スウェーデン
b)不明:800 デンマーク
c)スウェーデン勝利
07月28日ザクセン軍、リガへの攻撃を再開
08月08日トラヴェンタールの和約
(デンマーク王とホルシュタイン公が調印)
ロシアとオスマン=トルコ講和の報告がモスクワに到着
08月10日アウグスト、トラヴェンタールの和約を知る
ザクセン軍ふたたび撤退を開始〜10/4
08月11日カール12世、トラヴェンタールの和約を知る
08月20日ロシア、対スウェーデン宣戦布告。
08月24日カール12世、シェラン島より退去、ヘルシングボリへ。
08月28日スウェーデン艦隊、カールスクローナへの帰還の途につく
08月29日英蘭連合艦隊、シェラン島沖より本国への帰還の途につく
08月31日カール12世、クリスティアンスタッド近郊に到着。
その後、更にカールスハムンへ移動
この頃カール12世、ロシアの対瑞宣戦布告を知る。
ただし当初楽観的態度を取る。
09月05日ハーグでのスウェーデン−ロシア間平和交渉の席にロシア対瑞宣戦布告の報告が届く
09月21日ナルヴァ攻囲開始
09月24日ピョートル大帝、ナルヴァに到着
09月の終わりカールの下にロシア軍ナルヴァ攻囲の知らせが到着
10月01日カール12世、カールスハムン発つ
10月04日ザクセン軍、リガ近郊より完全撤退
10月06日カール12世、ペルナウ着。ザクセン軍撤退を知る
10月08日レーンスケルド、ペルナウ着
10月16日
or
26日?
カール12世、ウェーセンベルクに移動。
11月13日カール12世、ウェーセンベルク発つ。
11月17日ピヘヨツギ会戦
a)カール12世:400 スウェーデン
b)シュレメーチェフ:5000 ロシア
スウェーデン勝利
11月18日18日〜19日の夜、ピョートル大帝逃亡
11月19日カール12世、ナルヴァ近郊のラゲナ着。
11月20日ナルヴァ会戦
a)カール12世:8000(10000?) スウェーデン
b)ド・クロイ:40000+2〜40000の不正規兵 ロシア
a)損害:死傷2000
b)損害:死傷&逃亡20000及び大砲179門
スウェーデン勝利
12月13日カール12世、ナルヴァを立ち、ドルパット北方ライスへ、後、ライスに到着、冬営に入る。
170101月28日ステンボック主催の音楽祭
06月17日カール12世、誕生日を記してリガへ向けて前進。
07月07日カール12世、リガ着。
07月09日ヂュナミンド会戦(ドヴィナ渡河会戦)
a)カール12世:8000 スウェーデン
b)ステイナウ:20000 ザクセン=ポーランド&ロシア
a)損害:死傷1200
b)損害:死傷2800及び砲26門
スウェーデン勝利
07月11日メルネル指揮下のスウェーデン先遣隊ミタウに侵攻
07月13日カール12世、Rekouに移動
07月14日カール12世、Borkowitに移動
07月15日カール12世、Thomas−Hoffに移動。ザクセン軍コッケンハウゼンから撤退の報を聞く
07月16日カール12世、Lindenに移動。
07月17日Lindenにて休息。
07月18日ホルシュタイン公が国王軍に参加。Neuguthに移動。
07月20日進軍を再開。Kleenbarbeに移動。2日間休息
07月23日Altenradeに移動。数日間休息
07月25日カール12世、ポーランド・グネーゼン大司教ラジュースキィ枢機卿よりポーランドの中立と和議の仲介を示す書翰を受け取る。
07月26日カール12世、Bauskに移動。
07月30日カール12世、ラジュースキィ枢機卿の提案に対し、アウグストの退位要求で答える書翰を記す。
08月11日カール12世、Bauskを出発。
08月12日カール12世、軍から離れ、ミタウを訪問。軍は休息。
08月13日カール12世、軍に帰還。軍はHoff Zom-Bergenに前進。
08月14日カール12世、Dobelnに移動。数日間休息
08月17日カール12世、Dobeln発。Birsten着。数日休息
08月21日カール12世、Blider着
08月22日カール12世、Frauenburgに移動。1日休息
08月24日カール12世、Knockenkrugに移動。
08月25日カール12世、Schrundenに移動。ウィンダウ川を渡る。29日まで休息。
08月29日カール12世、Neuhausenに移動。2日休息。
08月31日カール12世、Hasenpothに移動。
09月01日カール12世、Rauenに移動。
09月02日カール12世、Grubinに移動。これより国王軍は冬営に入る。その後、Grubin近郊のウユルゲンに冬営本拠地を移す。
09月06日ラウゲ会戦
a)シュリッペンバッハ:6000 スウェーデン
b)シュレメーチェフ:8000 ロシア
a)損害:死傷800
b)損害:死傷1000
スウェーデン勝利
11月01日カール12世、400騎をつれリトアニアに潜入。
12月30日エレストフエル会戦
a)シュレメーチェフ:12000 ロシア
b)シュリッペンバッハ:5000または7000 スウェーデン
a)損害:死傷1200
b)損害:死傷1800
ロシア勝利
上同日カール12世、ウユルゲンに帰還。
170201月15日カール12世、ウユルゲンを発ちポーランドへ。
05月06日カール12世、ワルシャワより50哩離れたオストロウに到着

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