カール12世とは?

カール12世の略歴と、その特徴についてを載せる。
また、その名前に付いての考察を載せる。
ただし、更に詳しくは、本サイトの「生涯」を参照。

紹介◆  ◆略歴◆  ◆特徴
カール? それともチャールズ?
綽名「北方の流星王」の話
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◆紹介◆

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カール12世(17 Jun 1682 - 30 Nov 1718)
 スウェーデン王国ファルツ朝(プファルツ=ツヴァイブリュッケン朝)第三代国王[在位1697年-1718年]。ヴァーサ朝以降から数えると第十代スウェーデン国王。
 15才半ばで国王となり、21年の治世の内18年を戦陣で過ごす。早熟の天才として知られ、大北方戦争(1700-1721)において活躍した。兵隊王、軍人王、北方のアレクサンドロス、北方の獅子などの異称を持ち、日本では北方の流星王という綽名で親しまれる。人によってその評価は様々であるが、ヴォルテールなどの紹介も手伝い、彼の数奇な運命は、欧州の人々に知れ渡った。
 なおヴォルテールは「かつて此の世に生を享けた人間のうち、恐らく最も異常な性格の持ち主」とカール12世を位置づけた。これは彼の内に、歴代スウェーデン諸王のみならず英雄が英雄たる所以のあらゆる美質を見出し、それらが極度に至るまで発展していたと感じたからである。しかもヴォルテールは、これら美質の極限が転じてカール12世の欠点となり、堅固な意志は頑迷となり、寛大は濫費となり、勇気は無謀となり、正義の追求は残酷となって、スウェーデンに不幸をもたらしたとした。
 彼の敵手としては、ロシアのピョートル大帝、ザクセン選帝候・ポーランド国王のアウグスト2世(選帝候としてはアウグスト1世)、デンマーク=ノルウェー王フレデリック4世、ハノーヴァー選帝候・イギリス王のジョージ1世、ブランデンブルク選帝候・プロイセン王のフリードリヒ1世(選帝候としてはフリードリヒ3世)が知られている。

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◆略歴◆

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 カール12世は1682年6月17日にストックホルムの王宮で産声を上げた。両親であるスウェーデン王カール11世と、その王妃でデンマーク王姫であったウルリカ・エレオノーラにとって、彼は昨年に生まれたヘードヴィク・ソフィアに続く第2子であり、王冠を受け継ぐことを期待された待望の長男であった。しかも後に生まれた4人の弟が幼くして世を去ったことから、カール12世は唯一の男系王位継承者でもあった(幼い頃のカール12世はこのことを残念がり、世界中を旅してまわるために国に残って王国を治めてくれる弟を欲しがったと言われている)。
 また、このように相次いで4人の王子が失われたため、カール12世とヘードヴィク・ソフィアは末姫が生まれるまで、長いこと二人きりの姉弟となった。そのため、二人の仲は非常に親密となり、ソフィアが誰からも好かれる明るい性格であったことも相まって、彼女はカール12世にとって母と並ぶ憧れの存在となった。一方で王子たちの死という不幸な経験から、幼いカールの健康には過剰なまでの注意が払われるようになり、これはしばしば彼の不満の種ともなった。そして、ようやく少し年の離れた末の妹ウルリカ・エレオノーラ(母と同名)が生まれ順調に成長を続けると、彼女は、子供を失っていた国王夫妻の慰めとなり祖母ヘードヴィク・エレオノーラのお気に入りになっただけでなく、カール12世にとっても、ただ一人の年下の家族として掛け替えのない守るべき存在となった(もっとも、ヘードヴィク・ソフィアが世を去り、トルコでの亡命生活に入るとウルリカを王国の継承者として見なすようになる)。
 このような王室にあってカール12世の幼少期は幸せだったと言われている。確かにホルシュタイン・ゴットルプ公爵家出身の王太后とデンマーク王家出身の王妃との間には政治的な不和があった。また時折ではあったが、王と王妃にも意見の対立があった。しかしそれらが大きな争いに発展することはなかったからである。こうして質素な生活を好んだ両親の元で、カールを含めた三人の子供たちは、ある種の家庭の温もりに包まれて成長していった。
 他方、教育についてもカールは恵まれていた。父カール11世は息子の教育に気を配り、時には自らが教育要領を起草して、神学、古典、歴史、地理、軍事、数学、外国語等を学ばせた。これはカール11世自身が、満足な教育を摂政政府から授けられなかったためである。そして優秀な教師陣に囲まれたカール12世は、父の期待に応えた。彼は優秀な資質を示し、しばしば教師たちを感歎させた。
 またカール11世がそうであったように、肉体の鍛錬も早くから行われた。カール12世は幼くして乗馬の訓練を施され、剣術を学んだ。すでに4才でカールはポニーを御し、6才ごろには乗馬の基本を習熟したと伝わっている。またその頃から父に従って狩りに行き、狐などを仕留めたことがカール11世の日記には記されている。

 しかし幸せな少年時代は相次ぐ両親の死によって終わりが告げられた。まず母である王妃ウルリカ・エレオノーラが1693年7月26日に世を去った。36才であった。このときカール12世のみならずカール11世も王妃の死の衝撃によって熱を出し倒れたと言われている。王妃ウルリカはある種、幸せの象徴であった。国王であるが夫でもあったカール11世は寡夫を押し通し、子供との交流を心の慰めにしながら、更に職務に打ち込んだ。そして体調を崩した。彼は胃ガンにおかされていた。
 王妃ウルリカの死から4年後、1697年4月5日、国王カール11世も妻の後を追うように世を去った。まだ42才であり、カール12世は当時14才でしかなかった。死の床にあってカール11世は母ヘードヴィク・エレオノーラに、妻が死んでから本当に幸せな日々はなかったと告白している。そして成人前の息子の治世を心配し、カール12世が18才となり親政を開始するまで母を筆頭とした6人の摂政によって国政を司るようにと遺言を残した。また親政を開始する際にカール12世に与えるとした遺訓も書き残した。
 摂政には、太王太后ヘードヴィク・エレオノーラの他に、5名の王が信頼を置いていた絶対主義者が任命された。しかしこの摂政たちは、個々においては優秀であったが、投票によって決議する制度と個人的不和や外交政策の違いから、方針決定はしばしば滞りがちとなった。これにカール11世が行った改革に対する反対派の圧力が加わり、遂に摂政団は1年と持たずに実権を未成年の新王に委ねて解散することとなる。
 カール12世は1697年12月14日に若干15才で戴冠して親政を開始した(議会も摂政団もみなカールを王にすることで一致していたが、その思惑は派閥によって大きく違っていたことが不幸の始まりであったかも知れない)。即位した彼はまず、姉ヘードヴィク・ソフィアを亡き父カール11世の希望通り、若きホルシュタイン・ゴットルプ公爵に嫁がせた。その一方で彼はデンマークから提案された結婚に興味を示し、均衡外交路線を進もうとした。この二つの婚姻政策はカール11世の遺訓に書き記されていたのではないかと推測されているが、遺訓自体は現存しておらず、読み終えたカール12世が破棄したと考えられているため定かではない。しかし両国の政治的対立により、縁談は事実上破棄され、デンマークとの関係は悪化した。
 また、この時期カールは結婚のためストックホルムを訪れていたホルシュタイン・ゴットルプ公爵フリードリヒ四世と共に放埒な生活を送った。彼は博打に手を出し臣下から金を借りたり、裸同然の恰好でストックホルムの町をうろついたり、議会で大騒ぎをして、周囲の顰蹙を買った。また宮廷楽師長デューベンの妻との宮廷恋愛の噂も残っている。しかし騒ぎ遊び暮らした日々はほんの僅かな期間であった。公爵がストックホルムを去るとカール12世はもとの謹厳な生活に戻り、楽師長の妻との浮いた噂も大きく発展することはなかった。彼は、信頼する側近と語らい、国王としての職務を忠実にこなした。後年のカールの振る舞いを非難した人間ですら、戦争が起こらなければ彼は良き王となっていたであろうと述べている。しかし運命はカールに別の途を与えた。

 デンマークのフレデリック4世、ザクセン=ポーランドのアウグスト2世、ロシアのピョートル1世が対スウェーデン同盟を組み、かつて奪われた領土の回復を目指したのである。1700年春、スペイン王カルロス2世が死の床にあって西欧諸国が身動きがとれなくなっていたこの時期を狙い、彼らは行動を開始した。大北方戦争の始まりである。
 カール12世はまだ17才だった。しかし戦いに臨んで彼はまったく怯まなかった。彼は群臣の前に出て、正義を為すことを誓い、勝利をおさめるまでは王宮に戻らぬ決意を示した。生活も兵士の模範となるよう心がけ、質素な軍服を纏い、シーツも毛布も使わずに寝るようになった。そして戦場においては常に軍の先頭近くに位置し、勇猛なだけでなく、将帥としての才能も示した。彼は後に書いている。
「私は軍隊と結婚したのだ。幸運な時も不運な時も私は軍隊と共にあり、軍隊と生死を共にするであろう」

 カール12世はまずデンマークに対して反撃を行った。彼は首都コペンハーゲン近郊に急襲上陸を果たすと、素早くデンマークを対スウェーデン同盟から脱落させた。継いで大陸へと渡り、彼はナルヴァにおいて数に勝るロシア軍を相手に勝利を収めた。更に彼はロシア領内への侵攻を計画している。しかし戦力と戦略的情勢が彼にそれを許さなかった。スウェーデン軍は極度に疲弊し、軍営には疫病が蔓延していた。そしてヨーロッパの情勢は遙か西で大きく転換していた。スペイン王カルロス2世が遂に死去したのである。この結果、ザクセンとの和平を保障すると思われた西欧諸国は自らの問題に専心を余儀なくされた。
 1701年、カール12世はザクセン軍を撃退するためにリーヴランドの州都リガへ向うことを決定した。もしもこのリガでの戦いが決定的であったら、延期していた対ロシア遠征を再開するつもりであったと言われている。だがこの要求は過大であった。彼はザクセン軍に勝利したが、この勝利は決定的なものではなかった。そして殆ど無傷に近いザクセン軍を放置してロシアへ向かうことは出来なかった。アウグストの軍はポーランド国会の要請に従いザクセン領内のライプツィヒまで退去していたが、アウグストは戦う気を失っていなかった。しかもザクセンとデンマークの接触が秘密裏に再開されていた。仮にロシアへの遠征をカール12世が行っていたら、ザクセン軍とデンマーク軍は直ちにスウェーデン軍の側背に襲いかかっていたと推測されている。そのため彼にはアウグストの廃位を要求する他に安全を確保する選択肢がなかった。しかしこの要求は、彼をポーランドの泥沼へと引きずり込んだ。1702年以降、退位要求を受け入れさせるためにポーランドに侵攻したカール12世は、再びポーランド進駐を果たしたザクセン軍を相手に連戦連勝を博し、1704年には対立王スタニスワフ・レシチンスキを即位させたが、複雑なポーランド党派抗争の中から抜け出すことが出来なかった。彼はすでにザクセンへの侵攻が最終的解決策であることに1700年の時点で気が付いていたが、対フランス同盟諸国の意向から6年に渡り我慢を強いられた。しかし遂に対フランス同盟軍司令官マールバラ公が収めた一連の勝利が、カール12世に戦略的自由を与えた。1706年、カール12世率いるスウェーデン軍はハプスブルク家領シレジアを通過し、ザクセン選帝候の首都ドレスデンに侵攻した。5年にわたるポーランド戦役はここに終結した。彼はドレスデン近郊のアルトランシュテットにおいてザクセン選帝候アウグストをポーランド王から退位させた。
 ヨーロッパの中心にあって、カール12世は最も栄光に輝く国王と目された。彼は讃えられ恐れられた。しかし、運命は暗転する。1707年カール12世はドイツを去り、遂にロシア遠征を再開したが、そこで大敗したのである。この遠征において彼は焦土作戦にあい、軍を疲弊させ1709年6月28日ポルタヴァ会戦で敗北した。カール12世はその決戦の数日前に負傷しており、もし彼が指揮を執れていたならば勝利していた可能性もあったとも言われている。しかしポルタヴァに追いつめられた時点で、スウェーデンの敗北は不可避であったとする見解もある。そして遠征軍はロシア軍の徹底的な追撃にあい、ペレヴォロチナにおいて全面降伏した。

 しかしカール12世は捕虜とはならなかった。彼は降伏前に遠征軍から離脱していた。彼が向かった先はトルコであった。スウェーデンに戻ることも出来なかった彼は、この場所で優れた外交手腕を発揮した。トルコを対ロシア戦線に参入させたのである。トルコはロシアに対し宣戦を布告し、ピョートルはトルコ遠征を決定した。ポルタヴァの勝利で自信を持ったピョートルは、しかしプルート河の畔で完全包囲された。まるでポルタヴァのカールと同じだ、とピョートルは呟いたと言われている。しかしトルコはロシア側に買収され、ピョートルは危機を脱し、カールの外交努力は無に帰した。
 この取引は、トルコにとって結果的に失敗であったと言われている。この後、トルコは二度とロシアに対して優位に立つことが出来なくなっていくのからである。
 その後もトルコは何度かカール12世の外交努力により対露宣戦布告をなしているが、それが大きな効果を生むことはなかった。逆にトルコ政府とカールとの関係は徐々に悪化していった。カール12世は遂にトルコ政府の手により虜囚の身となり、追い出されるような格好で、1714年冬、2000kmを14日間で走破してスウェーデン領ストラルズンドに帰還した。しかし街は直ぐさま包囲された。対スウェーデン同盟にはイギリス=ハーノーヴァーやブランデンブルク=プロイセンも加入しており、情勢は不利であった。カールは良く防戦したが、防衛の要であるリューゲン島においてナルヴァの再現を試みて敗北を喫した。これは彼にとって戦場における唯一の敗北となった。ストラルズントの陥落は決定的となり、カール12世はデンマーク艦隊の封鎖線をくぐり抜け、スウェーデン本土に帰還した。15年ぶりの帰国であった。

 帰国したカール12世は国内の改革に着手した。官房内に政庁が作られ半近代的な行政執行機関を設立した。軍政も改革し、諸兵科を含んだ恒久的旅団の編制を行った。外交においてはロシアとイギリス=ハーノーヴァーとの間で二重和平交渉を展開し、両国の動きを封じてデンマークとの戦争に備えた。そして彼はデンマーク領ノルウェーに2度侵攻した。
 この戦役でもカール12世は見事な作戦を展開した。1716年の奇襲的な侵攻ではノルウェー最大の都市、クリスチャニア(現在のオスロ)を占領した。しかし海軍と他部隊の敗北により後方連絡線の確保に失敗し、そもそも間近に迫っていると思われた対スウェーデン同盟軍のスウェーデン本土侵攻を予防する作戦であったため、敵の作戦が中止されたこともあり、目的を果たした彼は素早く退却した。1718年の本格的侵攻では、国境に展開したデンマーク=ノルウェー軍を作戦通りの機動により退却させ、要衝フレデリックハルトを功囲した。この攻囲についても、ヴォーバンの弟子であるフランス人工兵士官の指揮により成功は時間の問題であったと言われている。彼は1719年の初頭までにノルウェーを征服し、デンマーク本土へ侵攻するつもりであった。そのために彼は、イギリスに対してはノルウェー領トロンハイムに侵攻中の軍がスコットランドへ向かうと噂を広めた。一方ストックホルムでは対ロシアのための軍と新設されたガレー船団が控えていた。そしてスウェーデン南部諸州では既にデンマーク遠征のための軍と艦隊が準備を終えていた。しかし彼の戦争は突如として終わった。1718年11月30日、攻囲塹壕の掘削作業を視察中であったカール12世は、銃弾で頭を砕かれ即死した。
 享年36才。まだまだ男盛りな時期での不意の死であった。生きていれば如何ほどのことを成し遂げたか、それを思うと残念でもあり、またこれも運命なのかとも思われる。
 後のフランスの大英雄ナポレオンはこんなことを言っている。
「天才とはおのが世紀を照らすため燃えるべく運命づけられた流星である」

 カール12世はそれでであろうか、後世にこの二つ名で呼ばれている。

「流星王カール12世」

 まこと一瞬、欧州全体を照らした、流星の様な生涯だった。

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◆特徴◆

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 特徴を箇条書きにする。

  • 1682年6月17日生誕。1697年戴冠。1718年11月30日死去。享年36。在位21年。
  • 背丈は175cm強、173cmとも言う。
  • 体重の詳細は不明だが、トルコにいた時期を除いて痩せていた。
  • 体は柔軟で、若い頃は駆ける馬に乗りながら地面に落ちている手袋が拾えたそうである。
  • 髪の色は僅かにとび色じみた暗金色(金褐色)。
  • 鼻は少し高すぎ、唇はやや青白く、上唇が少しばかり短かった。
  • 目の色は濃青色(紺青色)。常にそこには優しさがあったが、その奥には激しい炎が見えるようだった。
  • 口の左の角より少し下には小さく赤みがかった母斑があり、顎の裂け目は若い頃はそうでもないが、年を経ると目立つようになった。また11歳の時にかかった天然痘のあとが顔に少しばかり残っていた。
  • 額は広く、20代の終わりからそれはさらに広がり、それにともなって髪の毛は後退し、禿げていった。
  • しばしば怪我や病気にかかったが体は総じて健康だった。
  • 歩く時は前屈みで、大きな歩幅、両手は後ろで握りしめられ、早足だったそうである。人はこの姿を無様な恰好と評したが、馬上においては見事に直立し、「陛下は歩くより、馬に乗っておられた方が素晴らしく見える」とは臣下なら誰もが抱いた感想であった。
  • 話したり聞いたりする時は常に僅かな微笑みを浮かべ、左手は剣の柄を握っていた。また、もし馬に乗っているならば、馬を停止させ、帽子を手に持って応対した。
  • 物理的には休むと言うことを知らない人で、ほとんどの場合何かしら体の一部を動かしていた。しかしその性格は概して穏やかで、動じるということを知らず(と言うより、剛胆すぎると言った方がより正確かもしれない)、楽観的だった。彼が戦争時に時折表した怒気がなかったなら、愚鈍ととられてもおかしくはなかったろう。口数は少なく、直裁的で、我慢強く頑固だった。しかしそれは優し味に欠けるということではなく、臣民に対しては常に慈悲深い男であった。この辺の気質は母から受け継いだものと、彼が好んだ英雄主義によるものである。カールの頭には正義を為すことしかなかったのである(つまり臣民をいじめるのは不正義であると考えたのである)。
  • 腹を立てると、頬に赤いパッチが顕れ、唇を上向きにゆがめ、調子はずれな口調で「何と言った?」と2,3回繰り返すように言うのが癖だったようだ。
  • 趣味は狩りと戦争?、そして音楽鑑賞に読書に観劇、また豪奢な衣装を纏うのも好きだったようである。酒も好きだった。
  • 愛読書は聖書とクルティウスの書いたアレキサンドロスの伝記。戦場においてもカールはポケットの中に金箔の聖書とアレキサンドロス大王伝を入れていたそうである。また戦争中身近にあった中で最も高価な物が、この金箔の聖書である。
  • 肖像画に対する彼の考えは当時としては独特でありのままを書くことを常に求めていた。そのため、カールの絵画は見事に生き生きと描かれている。ルイ14世の絵が美化されすぎていると揶揄されているのとは好対照である。
  • 剣の腕前は、数々の戦場やトルコでの武勇伝からなかなかのものだったと考えられる。
  • フランス語は終世嫌いだったが、フランス文学は好んでいた節がある。
  • ミイラが保存されている。
  • 署名する時はグローブを脱がず急いで書き殴るように署名した。
  • 近づいて人と話している時、制服や聖職者のガウンのボタンをもてあそんだり、レースのカフスを引っ張ったりする癖があった。
  • 荒っぽい乗馬の結果1702年に大事故を起こし、足に大怪我を負った。そしてその結果足を引きずるように歩くようになった。

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◆カール? それともチャールズ?◆

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 カールは、一般に現代スウェーデン語では「Karl」と書かれ、現在の日本でもカールのアルファベット表記はこれに準じている。しかし英米では、カールのことを「Charles」と表記している。これはゲルマン系とラテン系、アングロサクソン系での名称対応表(カール=チャールズ=シャルル=カルロス)による。例を挙げると神聖ローマ帝国皇帝カール5世は、スペイン王カルロス1世となる。
 このような理由から、カール12世の正式な日本語訳は現在に至るまで確定していない。カール以外には、「チャールズ12世」「カルル12世」「カレル12世」などの表記がある。
 但し現在ではほぼカールで統一されている。しかし、依然として「カルル12世」と言う表記はよくあり、発音的にはこちらの方が若干原音に近いとする意見もある。本サイトでは、最も一般的と思われる「カール」を用いている。
 また、カール12世のモノグラム(組文字)を見るとCとXIIを組み合わせたものとなっているが、これは当時のスウェーデン語表記に従うと、カールは「Carl」と書かれためである。
 カロリーネナという言葉もしばしば耳にするが、これは、ラテン語でカールを意味する言葉が「Carlous」であることから、「カールの兵士」をカロリーネナと呼ぶからである。これはノーベル文学賞とったヘイデンスタムの「カロリーネナ」の題名でもある。もっとも、本来の題名「Carolrina」はスウェーデン語版のみであり、英米では「Charles Man」である。

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◆綽名「北方の流星王」の話◆

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「北方の流星王」と言う綽名は、カール12世の綽名としてでなく、作家の田中芳樹氏が書いたベストセラー「銀河英雄伝説」で、マリーンドルフ伯がその娘ヒルダに言った主人公ラインハルトの評価の中で有名である。

その台詞とは「西暦の17世紀に、北方の流星王と呼ばれた小国の王がいたそうだよ。15才で即位し、しばしば隣国の大軍を破り、軍事的天才としてしられた。30代で死ぬまで、異性であれ同性であれ、ついに肉欲と縁がなかったそうだ」(新書版、銀河英雄伝説9巻、回天編、p53) と言うものである。

ここにはカール12世の文字も、スウェーデンの文字もない。しかしこの台詞は、若く優秀で、肉欲にさしたる興味のない主人公「ラインハルト」に似た人物がいたらしいと言うことを読者に教え、少なくない読者の興味をそそった。かく言う私もその一人であった。

しかしここで問題が発生した。これは多少、田中氏にも原因がある。まず小さなものから述べると、当時はバルト帝国と呼ばれた列強国家であったスウェーデンを小国としたことである。これで、少なくとも私は、その「ラインハルトに似た人物」を調べる過程において混乱した。しかしこれはさしたる問題ではない。何故ならば、想像力を働かせれば、今では小国になっているスウェーデンのことを指していると分かるからである。

結局私はその後、学研から発売された「戦略戦術兵器事典 ヨーロッパ近代編」においてカール12世を知り、山川出版の「北欧史」等の歴史書からの情報を総合して、「ラインハルトに似た人物」がカール12世であると確信するにいたった。何かの本で田中氏がラインハルトのモデルについて「若くして功を為した人達、例えばカール12世やアレクサンドロスetc」と語っているのを知ったのも幸いだったと思う。

勿論これ以外の方法でもカール12世=「北方の流星王」と言うものに辿り着いた人達もいるだろう。

しかし、興味だけ抱き、熱心に調べなかった普通の読者は「北方の流星王」と言う綽名からカール12世を調べて失敗した。これが田中氏の最大の誤り、と言うかミスであると私は思う(まぁ小説の中の台詞なのだからしょうがないが)。

私が読んだあらゆる一般的な歴史書には「北方の流星王」と言う綽名が使われていなかったのである。カール12世の綽名として良く目にするのは「北方のアレクサンドロス(アレクサンダー)」や「北方の獅子」、「勇士王」や「戦士王」、「北方の狂人」と言ったもので、そこには「北方の流星王」と言う綽名は存在しない。この事実は「北方の流星王」と言う綽名が、歴史書に多数見受けられ一般化したグスタヴ・アドルフの綽名「北方の獅子王」と違い、一般的でないと言うことである。

では「北方の流星王」とは誰が言い始めたのだろうか?私は初期の頃、これは田中氏の創作であると考えた。小説家なのだから造語の一つや二つそれこそ幾らでも作れるだろうし、何と言ってもこの綽名は格好いい。歴史家が真面目に考えて出てくる綽名ではないのだ。

と、まぁこんな訳で田中氏が作ったのかなと思っていたのだが、浪人時代中、勉強もせずに図書館で本を読みあさっていた時に発見したホルプ社から出ている、「世界伝記大辞典3」のカール12世の項目を読んで、それが誤りであることが判明した。全部で2ページ強の紹介文の最後に参考書が載っていて、そこに「渡辺紳一郎著、スウェデンの歴史を散歩する(1947年 朝日新聞社)、の北方の流星王の章を参考されたい」と書いてあったのである。

そして浪人の時代が終わり、大学のパソコンでの無料ネットやり放題時代が到来するとさらに詳しく分かるようになった。

1947年つまり昭和22年以前にその名もズバリ「北方の流星王」と言う本が発売されていたのである。詳しい販売日は不明なのだが、博文館より、明治44年からおおよそ隔月?(予定だった実際は違う)で刊行が開始された西洋史新話の第8巻である。これは、東京帝国大学の教授で文学博士であった箕作元八氏が西洋の歴史についてもっと手軽に良く知って貰おうと講談小説風に書いた歴史書である。当時のあおり文句には「本書は精到比なき新方式の史書」とあり、出版社の意気込みもなかなかだったのではと想像できる。当初は全10巻の予定であったが、最終的には全9巻となったようだ(最終巻を書く前に亡くなったらしい)。

参考までに1巻から題名を上げていくと、「ギリシャの撥亂」「テーベの勃興」「国士の経綸」「偉傑の雄飛」「偉国民の奮闘」「武士道の華」「オルレアンの乙女」「北方の流星王」「ペートル大帝」となり、有名、非有名な西洋の人物たち(テミストクレス(1巻)、エパミノンダス(2〜3巻)、ハンニバル(4〜5巻)、黒太子エドワード(6巻)、ジャンヌ・ダルク(7巻)、カール12世(8〜9巻)、ピョートル大帝(8〜9巻))を扱っている。このシリーズはよほど好評だったのか、その後、昭和6年には「西洋史新話、上中下」と全3冊の全集となり、博文館文庫として文庫化もされた。

こうして分かったことは、おそらくこの文学博士箕作元八氏がカール12世のことを「北方の流星王」と呼んだ初めての人間(日本人ではない)であろうと言うことである。

と言うのも、外国において「北方の流星王」と言う綽名はまったく見られないからである。英語では専ら「the Northern Lion」と書かれているのをよく見るが流星云々等の記述は見たことがないのだ。そう言ったわけで、「北方の流星王」は日本にだけ通用する綽名のようだ。

しかし、箕作氏が何の根拠もなく綽名を与えたのかと言うと、そうでもないと言うことは知る必要がある。おそらく箕作氏はカール12世が生誕した日の空に、流星やら彗星やら、あるいは突然の嵐やって来たと言う伝説を知り、そこからインスピレーションを得て、この綽名を付けたのであろう。今でも、この逸話を史実と考えて、カール12世の紹介文を書いている日本人の方もいる。実際はどうだったのだろうか?

ともかくも、私が出来る限り遡って調査した結果、「北方の流星王」なる綽名は、箕作元八氏がカール12世に与えた造語らしいと言うことである。

その後、この綽名は伊藤政之助の「世界戦争史」にも多少形を変えて使われ、戦前にはそれなりの知名度を誇ったようである。しかしこの綽名は前述の「スウェデンの歴史を散歩する」で使われて以来、ホルプ社の本の参考書籍欄に僅かに登場するのみのまったく使われない綽名となった。原因は不明であるが、カール12世自体が戦前に比べよりマイナーになったのは原因の一つだろう。 かくして田中氏が1987年に「銀河英雄伝説」で使用するまで、「北方の流星王」なる綽名は一般の人々の目に殆どまったく触れることがなかった。 まったくよくもまぁ、田中氏はこんなマイナーな綽名を見つけてくれたもんである。もしかしたら、田中氏は西洋史新話シリーズを読んだことがあったのだろうか?

なお、西洋史新話を読みたいと考えている方は、私立や県立の中央図書館と言った大きな図書館に行くと、所蔵している場合があります。私の家の一番近くでは、横浜市立中央図書館にありました。それでも見つからない、何処にもないと言う方で、どうしても読みたいと熱望される場合は、取り敢えずご連絡下さい。ちょっち最近忙しくコピー取る暇がないけれど、2,3,6,7,8,9は原本もしくはコピーを持っているので、それをコピーしてあげることが出来るかも知れません。

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