18世紀初頭の欧州


◆ピョートル治下の露国工業化◆

[Back]

 ロシアはピョートル大帝治世後半の25年間(1700〜25)に目覚ましい経済発展を遂げた。本格的な製造業が成長し、新しい産業や流通路が導入され、数千の労働者が新たに雇用された。これにより新たな産業の中心地も生まれた。典型的な例としては外国貿易の隆盛で、アルハンゲリスクを中心とした白海貿易から、新たに築かれたペテルブルグを中心としたバルト海貿易へとロシアの外国貿易は発達している。
 もちろんこれら急成長はそれに先立つ基礎があったからこその賜物で、製鉄所は外国人の手からなるものながら1630年代から設立されていたし、世襲領主、つまり貴族が自分の農奴を働かせた荘園工場もあちらこちらに設立されていた。自給自足は相変わらずだったが地域ごとの産業の特色は徐々に現れていて、小規模な農村手工業や家内工業は時として広い市場を目当てに生産していた。トゥーラとモスクワ地域の鉄製品、トベリとモスクワ地域の亜麻布、ニジニノヴゴロドの皮革、カマ川とボルガ河上流の塩などはそうしたものの一例である。
 このような基礎の元、ピョートルが起こした戦争を主推進力として、ロシアは18世紀初頭にほぼ国家の要求に沿う工業化を成し遂げたのである。
 その段階を簡単に追うと、初期には国家自身が軍事的必要に合わせた多数の企業を設立し経営した。主なものとしては大砲工場と兵器工場が設立され、鉄鉱山、銅山が開発され、また鉱物資源を発見するために調査が行われた。ピョートルの補佐官の一人であるヴィニウスは、ウラル・シベリア地方を調査して、豊富な鉱物資源を発見し、「この世の終わりまで持つでしょう」と報告している。さらに軍服を作るための毛織物工場が、海軍のための装備(帆布、ロープ等)を製造するための工場が造られた。
 そしてそれらは後期、つまり1720年以降になると民間企業家に売却されたり貸与されるようになり、新事業創設に民間企業が果たす役割が大きくなった。もっともその民間企業自体もまた国家によって奨励されて出来たものである。具体的にはロシア人が製造企業を設立すると、その企業に助成金、免税、独占権その他の特権を与え、また新設された工場の製品は大部分国家が買い取るということをした。
 1710年代からピョートルの産業政策は次第に重商主義の影響を強く受けるようになった。工業製品の輸入依存度を減らすため、ガラス、ビロード、錦織、絹などの産業を育成した。これらにはこの時期初めてロシアで製造されたものもある。そして通常の補助金の他に、1724年に設定された関税表のもとで、保護主義的政策が採られ広い範囲の物品に50〜75%の従価課税がかけられた。
 このように見てみるとピョートルが行った工業化は、上から強いた工業化であったと分かるが、それが成した功績は極めて大きい。ピョ−トルが即位したころ21ほど(国営4つ)だった工場は、彼の時代に新たに233個新設されのである。もっとも最近の研究ではその数は少し減り、ある人に依れば、新設工場数178、その内40は兵器工場と製鉄所で、15が非鉄金属精錬工場、製材所が23、毛織物工場15、なめし革工場13となっている。これら企業の半数以上が国営である。
 もっともこれらから生み出される製品の消費者は主として国家であり、その他の需要としては僅かに貴族の奢侈品(これとてピョートルの強引な西欧化政策に賜物なのだが)があるだけだった。農奴制のもたらす低い農業生産性は活気ある国内需要を育成するわけもなく、大衆市場は存在しなかった。ただしこれは仕方のないことではあった。このように非常に遅れた国家が工業化を成し遂げるには、大衆需要、民間国内資本、既存の企業者能力を基盤とした一般的な工業化は起こりえないので、どうしても国家が工業を育成せねばならず、そのために取った手段が逆に工業化を遅らせる力となって新たなる発展を阻害するのである。
 象徴的なこととして、ピョートルは1716年に人頭税を導入し、農奴制をさらに強化した。
 このようにしてピョートルの工業化は国内の購買力を犠牲にして進められたのである。
 以上のような強引な工業化の成果としては特にウラル山脈山岳地帯に鉱山と精錬のための中心地を創設したことと、モスクワ地域の様々な産業の強化(特に繊維業)、ペテルブルグに新たな製造業(造船等)の中心地を作ったことがあげらる。このようにして25年までには軍服用服地は大部分ロシアで作られるようになり、広範囲にわたって輸入依存度は減少した。またペテルブルグには軍需工場だけでなく宮廷需要を賄う工場も造られた。1700年にはロシアは鉄の輸入国だったが1716年には純輸出国になり、その後18世紀の間に世界最大の鉄生産国になった。ウラル山脈では1725年までに76ほどの製鉄所が操業しており、治世末までにウラルでは年間80万プードほどの銑鉄が生産されるようになった。またこの当時までに国営以外の民間企業も現れ、デミドフ家のように大規模に操業したものもある。
 民間企業家はほとんど皆、商人階級のものだったが、ロシアでは常に資本が不足しており、国家は民間企業についても資金援助で大きな役割を果たしていて商業資本主義の段階はまだまだ先であった。また企業自体がそもそも小規模で、ささやかな従業員とささやかな固定資本しか用いていないような場合もしばしばだった。しかしもちろん規模の大きいものもあった。
 例を挙げるならばモスクワのある帆布工場では1162人の労働者が働いていて、ミクライエフの国営の織物工場では742人、シチェゴリンの民間織物工場では730人働いていた。さらに規模の大きい工場はウラルの鉄工業地帯にあり、ペルム県の鉱山では25000人あまりが働いていた。ただしこれらは大規模工場と言うよりはむしろ一人の雇用主のための手工業家内労働者の村と言った方がよい性質が強かった。
 このようにして発達したロシアの工業であったが、それにともなって熟練職人や労働者が不足するようになった。そのためピョートルは1698年にヨーロッパ旅行から帰った時何百という技術者、職人を連れてきて、先端技術の導入に努め(ただし連れてこられた外国人は皆2流3流の者たちだったが)、外国人企業家がロシア国内に企業を作ることも奨励した、労働力不足の問題は乞食や犯罪者などを労働力とすることで当座をしのごうとした。農奴制に縛られたロシアでは工業労働力の基礎となる社会層は存在しなかったのである。またそれだけでは足りなかったので農奴制をさらに拡大することもやった。これによってもたらされた弊害は前述の通りである。どの様な拡大をやったかと言えば、国家の農奴の一部を国営企業や民間企業に配属替えしたり、商人が農奴を買うことを許可するようにした。これは1721年に法律で定められた。しかしこの場合、商人ではなく厳密には工場が農奴を買うと言うことになり、工場主が変わっても農奴はその工場に居続けた。これが占有農奴と呼ばれることになる。彼らの待遇は普通の農奴のそれよりずっと劣悪だったそうである。このような農奴は特に多くの労働力を必要としたウラル工業地帯においては特に必要不可欠だった。
 以上のようにしてロシアは工業を発達させ、ヨーロッパの大国への道を歩み始めたがその一方で農民の社会的地位はさらに低下し、社会構成は硬直化してしまった。市場の力はとても弱く代わりに国家の経済に占める力は限りなく細部にわたって強くなったのである。民間企業は様々な規定によって管理、統制の細部に至るまで国家官僚の介入を受けた。ピョートルの工業化政策や軍事政策は農奴階級の大変多くの犠牲の上に成り立ったものだったのであり、後年の事になるが人頭税は後の農奴解放後30年以上にわたって存続するのである。

Return Top


[18世紀初頭の欧州] [Top Main Page]

Copyright (C) 2001-2007 M.Ota All Rights Reserved.
このページに含まれる全ての文章・画像の無断転載を禁止します。