18世紀初頭の欧州


◆17世紀末ポーランド◆

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(年号日付はポーランドがカトリック国であったことから新暦を使用しています)

 この時代、ポーランドは斜陽とは言え偉大なる東の大国だった。ロシアやスウェーデン、大ドイツ帝国をうち立てることになるブランデンブルグ選帝候と争い、そしてその疾風怒濤の騎兵の軍事的名声は全欧州に響き渡っていた。もっとも1650年代の「大洪水」はポーランドのその後を暗示する出来事として、且つその名声を大きく傷つけるものとして記憶されてはいた。言うなればこの時代は、ポーランド王国にとって最後の栄光の刻であり、悲惨なる未来への序章であった。

 17世紀末のかの国を語るには、その少し前の「大洪水」として記憶されている悲惨な時代を語る必要がある。この惨禍は隣国スウェーデンとロシア、それにブランデンブルグ、コサックの諸勢力による軍事的侵略が大きな原因であった。この侵略の与えた影響は凄まじいの一言で、国土は蹂躙され人口の約4分の1が失われ、穀倉地帯にも大きな打撃が与えられた。

 そして更にそれに欧州市場におけるポーランド産穀物の需要低下が追い打ちをかけた。前世紀、つまり16世紀、西欧州では人口が増加し穀物需要が増え、ポーランド産穀物への需要は右肩上がりとなっていた。こうした背景もあってポーランド産のライ麦、小麦が大量に輸出され、当時の貿易収支は黒字となってポーランドの貴族等を富ませていた。何と最盛期にはポーランドで生産される穀物の約60%が輸出されていたのである。

 しかし残念な事にこの時期最早それは成り立たなくなっていた。欧州各地でジャガイモの栽培が始まり、南欧ではトウモロコシ等の栽培も行われるようになったからである。結果、穀物市場は供給過多がおこり、農産物価格は下落の一途を辿った。また、それは同時にポーランド産の穀物に依存していた各地域がある程度の食料自給が行えるようになったことを意味してもいた。かくして西欧商人たちは次第にポーランド産穀物を安く買いたたくようになり、結果、ポーランド貴族も輸出に興味を持たなくなり、ポーランドの穀物輸出量は激減したのである。こうなるとバルト海における貿易は木材、ピッチ、タールなどの資材が主流となり、貿易で富むようになるのはスウェーデン等の国となった。つまりポーランドは貿易によって富を得ることが出来なくなったのである。

 そうすると今までのつけが表面化した。穀物が儲かると言われていた頃、貴族たちはこぞって領主の土地を、開墾や自営農民の農地を買い取る事によって広げようとした。また、労働力としての農民を確保する為、その権利を著しく狭め、移動を制限し、長時間働かせるように努めた。加えて彼等は国王に窮状を訴える権利すらも奪われたのである。こうして彼等はまさしく農奴となった。

 このような政策は短期的には有効であったが、旧ソ連の生産効率が悪くなったのと同じ理由で、長期的には労働意欲をそぎ生産性を低下させることとなった。さらに得た富の大半が穀物生産に投入されたことから、他業種の発展が他の国々に比べて遅れる事となった。

 貴族はより多くの利益を得ようと西欧州の商人と直接取り引きし、結果貿易商人は力を失い没落し、貿易で裕福になった貴族たちは奢侈品を外国に求め、故にポーランド国内の手工業はまるで発展しなかった。そして悪循環な事にそれでも手工業者は唯一の、何故なら商人たちは没落したから、お得意さまである貴族にもっと利用して貰おうと、都市を離れて貴族の領地に店を移すようになった。これが為都市は発展せず、むしろ荒廃した。

 この戦乱と経済状況の悪化と言う二つが大きく作用して、国家は混乱した。これ以外にも貨幣濫造が行われ、貨幣価値も下落し、また、貴族たちは己の為に農民の重要な収入だった酒の専売に手を染めて、ますます農民の意欲をそぐと言う事までやった。

 総括すれば、貴族たちは己の私利私欲で後先考えぬ領地経営をし、農民は多くが農奴となって辛酸をなめ、為に中産階級も力を持つに至らず、他の地域に比べるのもおこがましいくらい都市の発展は遅々として進まなかった、と言うわけである。

 また、選挙王制の欠点がこの時期から著しく現れるようになった。選挙という形態をとっている為、王の権限は年を重ねる事に縮小され、「大洪水」と言う危機にあっても政府は建て直しに必要な増税も出来ず、少ない財源、少ない権限で頑張るしかなかったのである。

 具体的にその過程を説明すると、貴族の在り方が変わったと言う事から説明すると容易いかもしれない。これは従来の貴族間の平等と言う建前を残しつつ、彼等の間に貧富の差が出てきた事を一因としているからである。

 彼等は大きく、穀物貿易で財を成した大貴族と、農奴を持たぬ小貴族の二つに分けられる。小貴族は次第に大貴族の郎党となり、大貴族は彼等を使って地方、及び全国議会を私物化していった。特に小貴族等を使って牛耳る事の出来る地方議会に政治的権限を多く与えることによって、大貴族は国政を思いのままにした。こうして王権は小さくなっていったのである。

 そして加えて1652年、自由拒否権を貴族たちが持つに至って、王権は徹底的に軽んじられる事となった。この自由拒否権、リベルム・ヴェトは議会において一人でも反対者があればその審議は停止されなければならないと言うもので、かくして議会において、貴族等が嫌がる法案の成立は完全に不可能になり、ひいては国家自体に意志も一つに統一される事がなくなったのである。これでは国王が誰であれ、国家の改革は不可能であった。

 さてこのような絶望的な情勢下にあったポーランドであったが、一人の男の出現によりこの国は最後の栄光を見ることとなる。男の名はヤン・ソビエスキー。歴史家は言う。「ポーランドの栄光はこの王と共に墳墓に埋められたり」即ち、彼の王こそポーランドの最後の栄光そのものだった。

ヤンは1629年8月17日、リヴォフで生まれた。父のヤクプはポーランド王国の軍人で当時はクラクフ要塞で司令長官を務めていた。彼は長じるとまずクラクフにて学び、一定の素養を身につけると兄に従いパリに留学し当時一級の文武を学び、一時はルイ太陽王の軍隊にも在籍した。その後、フランスを離れるとイタリア、ドイツ、オランダ、イギリスに赴き、継いで後に生涯の敵となるトルコに往きて見聞を大いに広めた。

 彼が再び祖国に戻るのは1653年のことだった。当時祖国は「大洪水」時代の初めにあった。この年、ポーランドでは農奴の一揆が起こり、それに乗じてウクライナ・コサックの一党が領内に進出し暴れ回っていた。勿論、その背後にロマノフ家の下列強への道を歩み始めたロシアの姿があったのは言うまでもないことだった。ロシアは当時ポーランド領であったウクライナを欲し、故に彼の地でコサックの反乱を煽動し且つ密かに後援したのである。常々独立心旺盛なことで知られたコサックは、これ以前から幾たびも反乱を起こしていたがその都度鎮圧されていた経緯もあり、今度こそとの一念で、その戦い振りは見事な物であった。この国難にあってヤンは兄と共に時のポーランド王ヤン・カシミール2世麾下の軍に参加し、奮戦することとなった。しかし兄はその間に戦死し、1654年、ポーランドは結局ウクライナをロシアにとられてしまった。これはポーランドがドニエプル河東岸のすべての領土を失った事を意味した。しかしヤンは国を見捨てることなく、次第にその頭角を見せ始めていった。

 その間にも1655年にはロシアばかりでなく、カール10世に率いられた強力なスウェーデン軍がヴィエルコポルスカとリトアニアの二方向から侵攻し、結果、大貴族の裏切りもあって国王はシレジアまで亡命するはめとなった。しかしポーランドは必死の抵抗を続け、ロシアと休戦しデンマークと同盟し、戦局を打開、またスウェーデンが強大化するのを恐れた神聖皇帝やオランダもポーランドを助けた為、ついにスウェーデン軍を本土から撤退させたのである。主戦場はデンマークに移り、スウェーデンの敗勢を見た一度は裏切ったブランデンブルグ候も再びポーランドの味方となって対スウェーデン戦線に復帰した。

 こうした一連のカール・グスタフ戦争(第2次北欧大戦)の時期、ヤンはもう一方の敵ロシアへの押さえとして行動していた。確かにロシアとの休戦も成立し、親ポーランド的なコサックの頭首にも恵まれて、東の辺境は一定の平和を享受していた。しかしスウェーデンがポーランドが撤退すると、1659年コサックは再びロシアと結び、それに伴い対スウェーデンで一致していたロシアとも休戦が敗れる事となった。ヤンはこの対露戦に参加し、1660年ロシアの勇将セレメトフの軍をリヴォニアにて撃って大勝した。こうして彼の武名は満天下に知れ渡る事となる。その後も彼はヤン・カシミール(カジミエン)2世の将軍として立身を続け、宰相に相当する文官としての地位と、元帥の称号を得るにまで出世する。そして1667年、59年にロシアと手を結んで以来関係が悪化していたコサック等が大挙侵入してきた時、彼は陸軍元帥として自費を投じて2万の兵を集めこれを打ち破り、同年アンドルシェフ条約を結び講和した。こうしてその功もあって翌年ヤンはポーランド全軍の最高司令官になった。

しかし主君の治世は上述した理由(自由拒否権等)から戦乱だけでなく内政面でも混迷した。特にフランス人の王妃ルドヴィカ・マリア・ゴンザガの率いる親フランス派閥とイエジィ・ルボミスキーを中心とする派閥との時期王位をめぐる争いは(まだ現王が元気なのにもかかわらず彼等は次の王位について争っていた)、弱まった王権を更に弱体化させた。この争いにまだ何らかの改革的意志があればまだ救われるところなのだが、王妃はフランス生まれなので、次の王にコンデ親王ルイ2世を推しただけであり、ルボミスキーは何らの信念なくこれに抵抗しただけであった。こんな中、王は王国改革案を議会に提出するが、もちろんの事、大貴族等の圧倒的反対に遭い頓挫した。

 そして1664年、王妃の意向を受けて王はルボミスキーを反逆罪で裁判にかけ追放した。結果ルボミスキーはロシアに亡命し改革的思想欠片もない反乱軍を組織して舞い戻り、国土は再び戦乱に叩き込まれた。66年国王軍はモントヴィで大敗し、これまでかと思われる状況にまで国王は追い込まれ遂に和解、しかし翌年ルボミスキーは死に、王妃も続いて世を去るに至って、国王はこの得るところなき苦難続きの王座がいとわしくなり1668年退位してフランスの一教会に逃げ込み更に内政は混乱した。

 突如王を失い、王国は紛糾した。そして1669年(70年?)次に王についたのはミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキーだった。ミハウが選ばれたのは父の功績があったからだった。父イェレミは対コサック戦で勇名を馳せた将軍であったからである。周囲の国々に言いように攻められる中、人々が求めたのは強い国王だったのだ。しかし期待は裏切られる。国王は神聖皇帝レオポルト1世の妹エレオノーラと結婚し親ハプスブルク政策を採ったが結局の所無能だった。待ち受けていたのは更なる屈辱だった。

 それはこう言う訳だった。アンドルシェフ条約後、ポーランド領ウクライナのコサックはタタールと同盟し、且つトルコのスルタンに庇護を求めるようになった。トルコは前後20年以上ハンガリー、ドイツと勢威を伸ばしていた当時一級の強国だった。かくしてその強国がついにこのコサック等の援助依頼を好機にとポーランドに侵攻してきたのである。それが1671年(72年に入っていたとも言う)の事だった。

 この難事にあってヤンは最高司令官としてトルコ軍にあたった。彼はその軍事的才能を遺憾なく発揮し幾度となく奇功を立てて敵を打ち破ったがその数あまりに違い、遂にポーランドは屈服した。72年、ブチャチの地にて国王は講和を結び、ポドレ等東南部の領土をトルコに割譲し、それに加えて高額の貢納金の支払いに同意させられた。

 だがこの屈辱は久方ぶりに王国を一体とする事となった。激怒した議会は大幅な軍事増税を決議し、各地では無力で無能な国王ミハウに対する抗議運動が激化した。

 さてこの内憂外患の時にあってヤンは己の野心と王国へ忠誠との間で非常に苦慮していた。いままで政治的野心が余り強くなかったヤンはこの時期変わっていた。ヤンはこの以前、65年にヤン・カシミール(カジミエン)2世の王妃ルドヴィカ・マリア・ゴンザガがフランスから連れてきた侍女マリア・カジミェラと結婚し、その影響で親フランス派の貴族等と多く親交を持つようになっていた。そしてその過程で野心に目覚めていったのである。実際に69年には国王打倒の陰謀を企て失敗していた。そう言った流れから言えばこの状況はヤンにとってはむしろ好ましいはずだった。しかしヤンは野心とは別に国を愛していた。この状況下で国を乱すのは、本来忠勇な騎士道を重んじる武人にとってあまりにも耐え難い事だった。結局ヤンはどうでも良くなった。すべてを捨ててワルシャワを去り、田舎に隠遁したのである。だが時代の波は容赦なくヤンに降り注いだ。敵対派はこれを好機とばかりヤンを謀反人として訴えるのである。こうなっては身を守るしか道はなかった。ヤンは遂に決意した。味方を連れてワルシャワに出向き、敵対派を押さえ告訴人を死刑に処して、議会に出席、元帥としてかかる屈辱的講和を即刻廃棄し死を決してトルコと雌雄を争わんと発し、増税のかいもあり瞬く間に3万の大軍を集めたのである。まさに眠れる巨人が遂に王国の先頭に立った瞬間であった。

 ヤンはこの軍を率いて1673年、トルコに向けて進撃し11月11日ホチムにてトルコの精兵8万を見事に撃破、これは敵4万を倒す文字通りの大勝だった。彼は勝利に乗じモルタヴィア、ワラキアの地にまで兵を進めてその地よりトルコ軍を追い出すまで追撃した。

 ヤンはその後もあくまで追撃を続けるつもりだったが、ミハウ王が突如急死するという報を聞くや否や、6000の兵をもってワルシャワに急行し、凱旋の余勢を駆って国王選挙の議会に乗り込んだ。最早ヤンの心には己こそが真の国王に相応しいとの一念が宿っており、王座への執着を隠そうともしなかった。しかしライバルはなかなかの強敵だった。オーストリアが後援のロレーヌ公カール5世、フランスが後援のノユブルグのフィリップ、どれも強国の支援を受けた者たちだった。こうした中、ヤンは強く自分を推すのは余り上手い策ではないと思ったようである。かくしてヤンはフランスのコンデ公を類い希な英明な気質を持った人物であるとして推薦したのである。それはかつて王妃ルドヴィカ・マリア・ゴンザガが推した人物でもあった。それの意図するところはつまりは買収だった。そしてその策は成功した。激論の後、フランス派の貴族たちはヤンの支持に周り、対トルコ戦の英雄という立場を持って、当時トルコに攻められていたオーストリア派を説得し、ポーランドを統治するのはポーランド人足らざるべからずと声明を議会に発せさせたのである。こうして1674年ヤン・ソビエスキーは国王ヤン3世となったのである。彼は即位するや否やすぐにポーランド国内からタタールやコサックの一掃に乗り出し、1676年2月2日のクラクフでの戴冠式までにそのすべての目的をほぼ達したのである。

 新たに国王になったヤンは、尊大で頑迷なポーランド貴族で、しばしば国益を犠牲にして自己の利益を追求することもあったが、やはり一級の人物だった。悪い点とて、当時の他の貴族に比べればそれでも清廉な方であった。そして何より久方ぶりの改革的指向の王だった。彼は教育制度を新たにし、軍備を増強した。強い国となるそれは第一歩であった。最終的に、ヤンは前王のそれより3倍の54000の兵を手に入れる事となる。そしてヤン新王の理想は、その軍隊を持って守勢より攻勢に打って出て国土を回復し、往時の隆盛を甦らせる事にあったのである。そしてその目はバルトに向いていた。 しかしその前にヤンにはやらねばならぬ事があった。それはトルコとのいざこざであった。1676年、未だ体制整わぬヤンを攻撃する為トルコ軍は20万の大軍を持って攻めてきたのである。ヤンはこれにたったの2万で対抗し、20日間に渡ってドニエステル河を巧みに利用した防戦を展開し、遂に10月14日、戦い疲れたトルコ軍に突撃し、これを壊乱させて打ち破ったのである。結果、彼はトルコと念願の休戦条約を結ぶ事が出来たのである。ヤンの武名はますます高まった。

 こうしてヤンはバルトへの勢力伸長計画に乗り出す事が出来るようになった。当時、バルト海沿岸においてはルイ14世の三度のオランダ戦争の影響で、フランスが支援するスウェーデンとこれに対抗するオランダ派のブランデンブルグが争う代理戦争の場となっていた。スウェーデンはこの戦争に余り乗り気ではなかったが、多額の援助金に目がくらみ、オランダに援軍を送ろうとしていたブランデンブルグへ戦争を仕掛けたのである。それは1674年の事だった。こうした中で、ヤンは親フランス派の貴族等の意向を受けてバルト海へとその視線を転じていたのである。トルコと講和する前年、1675年7月にはフランスと条約を結んでおり、スウェーデンとはトルコとの講和の翌年に条約を結んで、ブランデンブルク候領への攻撃準備は万端であった。しかしこのような外交を行っているさなか、情勢はもう変わっていた。すでに75年の時点でブランデンブルグ候領へ侵攻したスウェーデンはフェルベリンにて大敗し撤退、デンマークが対スウェーデン戦に参入し、同盟のメリットは消えて無くなっていた。さらに国内では親ハプスブルク派がフランスと同盟を結んでいる事に反感を覚え、ラドジウィル一族とサファピエ一族の支配下にあるリトアニアでも、スウェーデン領リヴォニアの奪回の方がよいと主張したのである。ヤンは王として国を一つにまとめる義務があった。結局、彼はバルトへの進出をあきらめた。かくして彼は矛先を南に転じ、長年の敵ロシアと和解し対トルコ同盟を結び、1682年には個人的な反ハプスブルク感情をしまい込み、ハプスブルク家と対トルコ同盟を結んだ。

 当時ハプスブルク家の領地であったクロアチアやハンガリーでは「クルツ」と呼ばれる反ハプスブルク勢力がトルコの支援を受けて台頭し、ペストの流行も相まってその国情は極めて不安定であった。そしてトルコはこれを逃すような甘い国ではなかった。

 1683年1月トルコは数十年来の宿願を遂げようと「クルツ」の指導者エメリク・テーケイ伯と結託し、宰相カラ・ムスタファ・パシャ自ら軍を率い、25万(15万?)の大軍をもってウィーンに進撃を開始した。これに対抗するハプスブルク軍は僅かに1万6000であった。時の神聖皇帝、(ハプスブルク当主でもあった)レオポルト1世は敵の狙いがウィーンである事をいち早く知ると、単独では到底防ぎ得ないと判断、ポーランドを含む全同盟諸国に援軍を要請した。そして自らはウィーンより退き、軍の司令長官にはかつてヤンとポーランドの王位を争ったロレーヌ公カール(ロートリンゲン公カールあるいはローレン公カールとも書く)を任じた。

無人の野を行くが如きトルコ軍がウィーンに現れたのは7月の事だった。攻撃が始まったのは7月14日の事である。そして8月になるや完璧な包囲陣を完成させ、蟻の子一匹通さぬ構えをとった。トルコ軍は西側からの攻撃を主としながらも、地中を使った坑道戦術も行い徐々にウィーンを追い詰める策、これに対してシュタームベルク指揮下の防衛軍も2度に渡って反撃していたが、ことごとく失敗し落城は間近に思われた。ただしトルコ軍も相応の犠牲は払っていた。10回にわたる強力な波状攻撃を実施し、未だ彼等は目的を達する事が出来ず、死傷者を大量に出していたからである。それでも彼等が以前強力である事には変わりなく、9月9日には再度の大規模な攻撃が行われ、防衛軍は危機だった。

 さて一方、未だウィーンで戦闘が本格化して間もない時期、ポーランドではレオポルトからの援軍要請を受け、援軍を出すか否か話し合いが持たれていた。この席上ヤンはしばし思案した後こう言い放った。「余はドイツに対し何らの恩義もなく、むしろ王選挙に際しては怨恨がある。しかしキリスト教全体の敵であるトルコは撃たねばならない」これから察するに彼は出来るだけ恩義をハプスブルクに感じさせたかったようだ。かくしてヤンは7月20日3万を率いてワルシャワを発して長躯進撃し、9月ヘールプロンにおいてレオポルトとロレーヌ公、ザクセン候、バイエルン候等が率いるドイツ・オーストリア軍4万6000と合した。キリスト教連合軍と後世呼ばれる彼等はその後更に前進し、9月11日ウィーン外縁の丘陵カーレンブルクに到着した。この時ウィーン防衛軍約3万は前述のように追い詰められてた。しかし援軍を見るや勇躍し、益々その敢闘精神を強めた。他方トルコ軍は長い包囲戦に些か飽き、また攻撃の度重なる失敗から士気も落ち気味であった。

 そしてヤンはその事を到着するや見抜いた。翌12日連合軍は軍を大きく3つに分け布陣した。それは左翼にはロレーヌ公を中心とするオーストリア軍を配し、中央にはドイツ軍、ヤン率いるポーランド軍は右翼に陣取ると言うものであった。そして彼等は軍議を執り行い総攻撃は明日13日と取り決めた。

 ヤンはそれに従うつもりだった。敵が戦に疲れ弛緩しているのは見て取っていたが、単独で動くのは危険だと常識的に判断していたからである。しかし明日の為に偵察はするべきだろうとも考えていた。かくして彼は一隊を率いて偵察に出かけ、トルコ軍と刃を交えると自分の観察が正しかった事を確認しながらも、未だ防御は固いとの実感を得た。しかしこの混乱に乗じて忍び込ませた間諜がヤンに敵の主将カラ・ムスタファが華麗なる天幕にて2人の息子とコーヒーを飲みて甚だ油断していると報告し、その位置までも地図に指し示すや、最早迷う余地はなかった。午後5時ヤン率いるポーランド軍3万は黄昏を利用して突撃した。これに呼応して連合軍も突撃を開始、ウィーン防衛軍も打って出てトルコ軍を攻撃した。ヤンはトルコ軍司令部を一気に衝き壊乱させ、かくしてトルコ軍は統一性を失った。しかしそれでもトルコ軍は頑強だった。が、何度かの一進一退の後、トルコ軍は撃破され、包囲陣は崩壊した。ムスタファ・パシャは何とか生き延びたが、彼の包囲作戦は失敗に終わった。

 この戦いは正にポーランド王国最後の栄光であった。ヤン率いるポーランド騎兵は大活躍し、その勇名は全欧州に轟く事となり、ヤン自身も「欧州は辛くも助けられたり、ポーランド王唯一人によって助けられたり」と謳われた。ドイツ諸侯や将軍は感激と感謝で王の顔ばかりか手足にまで接吻したと言う伝説もある。彼はこの時全欧州の英雄となった。

 その後、ヤンはトルコ軍を追撃し。敵の後衛にパルカニで敗れるものの、遂に敵を撃破しグラン市を奪回し、翌年本国に凱旋した。

 王去った後、ロレーヌ公を中心として追撃戦は続けられたが、ハンガリーのブタ府を奪回するまでには至らず、再びトルコ軍が盛り返してきた為、戦局は悪化した。これに際し、ローマ法王主導の対トルコ神聖同盟が組まれ、ヤンもそれに参加した。しかしこれは長期的に見て失敗だった。ポーランドの国力はもう限界だったのだ。

 ヤンはその武名を文字通り「エルサレムの涯て」までも轟かせたが、その実、国内における改革はまったく進んでいなかった。リベルム・ヴェトのおかげで改革案は流れ消え、議会は機能せずすぐ流会、王妃は政争にのめり込み、貴族は諸派に別れてしばしば争った。息子ヤクプに王位を継がせて、強力な世襲王権をうち立てようとするも失敗し、無能で野心家の息子への心労はかさむばかりであり、伝説的な用兵の才もモルタヴィアのドナウ川流域で敗北して陰りを見せ、それで一層彼の国内での権力は低下した。

 そんな頃、具体的には1686年9月、新たな英雄サヴォイ公オイゲンが指揮するハプスブルク軍はブダを奪回した。これによりドナウ河中流の全領域がハプスブルク家の物となり、レオポルトはヤンへの恩義を覚えておく必要をなくした。彼はむしろ彼の強力な軍隊の矛が自らに向くのを恐怖して、ポーランドの国力を落とす事に力を注ぐようになる。キリスト教連合軍にはヤンの居場所はなかった。1690年彼は体調を崩し帰国し、二度と対トルコ戦陣に立つ事はなかった。

 晩年、彼は文学、旅行、哲学になどに慰めを見つけつつもポーランドの未来を嘆き、幾分か願いを込めて言っている。「神は国家の運命を司り給う。故に当路の人とて不正の所行あれば神は必ずその罰としてその国を滅ぼすであろう」暗に忘恩の皇帝を指しての事だった。

 結局の所、彼はポーランドを救えなかった。優秀だったが、内戦を起こしがちな貴族の体質を変える事も、強力な中央集権を成し遂げる事も出来ず、外国からの干渉を弱める事すら出来なかった。否、むしろ諸国に恐怖を植え付けた事で、より一層外国のポーランドへの干渉を強めさせたとも言えた。それはロシア・ハプスブルク・ブランデンブルグ・スウェーデンが、ポーランドの不安定な状態を維持する目的で相互に協定を結んだ事からも明らかである。

こうして、英雄ヤン3世ソビエスキーは1696年6月17日、ワルシャワ郊外のヴィラ・ノヴァにて67才を一期としてこの世を去った。ポーランドの王位を外国の政治力学に委ねたまま。

 さて、ヤン亡き後、ポーランドはお定まりの混乱におちいった。権威が低下していたとは言え、そこは英雄、いるのといないのとでは話が違う。ヤンの抜けた穴はやはり大きかった。何人もの王位継承候補者が乱立し、国王選挙はさながら各国大使が入り乱れる戦場を呈した。貴族は大きく分けて4派に別れた。世襲的王位継承とポーランド人の王を望むソビエスキー派、フランスと近づきたいフランス派、教会の勢力の後押しを受けた教会派、ハプスブルクと近づきたいハプスブルク派である。しかしそれぞれの派閥はやはり皆弱点を持っていた。例えば、親フランス的貴族は2つに割れた。フランス人の王妃が主導するソビエスキー派とフランス人の王位を望むフランス派とにである。こうして彼等は意見を統一させる事が出来ず、支持が分散してしまった。ハプスブルク派でもドイツ諸侯が並び立ってしまいなかなか意見をまとめる事が出なかった。教会はと言えば、適当な人物を捜すのに苦労していた。こうした中、遂に候補者が出そろった。

 1人はソビエスキー派の星、ヤンの長男ヤパン(ジェームズ)王子。フランス人の王妃の支持を受け、初期には信頼できる多数の貴族にも受けが良かった。しかしより強力な競争相手が現れると、彼への関心は低下した。だが母たる前王妃はそれでも出来うる事をして息子への支持を訴えた。もう少し端的に言えば、賄賂をばらまいたのである。しかしそれは他の競争者の物よりも少額で(それでだって破格の量をばらまいたのであるが)、支持を広げるまでには至らなかった。

 2番目の候補は教会派から。ローマ教皇の私生児(甥?)ドン・リヴィオ・デ・オデシャルチ。彼は教会の莫大な金と権力を後ろにもつ大金持ちで、国内の聖職者からの確実な支持を得ていた。しかしながら、彼にはポーランド貴族の人望は集まらなかった。貴族には彼が王座を買いに来た不届き者に見えた(もっとも強ちそれは偏見ではなかった。が、実際すべての候補者は王位を金で買おうとし、貴族もそれを当然と考えていたので、単に彼の地位が気にくわなかったのであろう)。貴族は自らの王様にはもっと地位のある人物が立って欲しいと考えていたので、金を貰う時はいい顔をしたが、それだけだった。

 3番目はフランス派推薦候補。彼は正にポーランド貴族が望む高貴な人だった。フランス王家の流れをくむブルボン・コンデ家の名門コンチ公ルイ・フランソワその人である。ヴォルテールは彼をこう評している「コンチが名声において、たの追従を許さなかったのは他でもない、人の気に入り、また、自分をよく見せる能力を誰よりも身につけていたからだ」しかしこの能力は重要だった。
彼は雄弁で知られたポーランド駐在のフランス大使、大修道院長デ・ポリニヤック師の全面的支援とポーランドの親フランス貴族の援助を受け、次期王位継承者の本命と言えた。血が高貴であったという利点と雄弁と口約束だけで彼はたの候補者を圧倒してたのである。。

 さて、その他にも候補者はいた。ハプスブルク派の推すバーデンの王子やニューバーグ候、ロリアン候である。しかし彼等は金持ちではなかった為(有力候補に比べてである)、支持を広げる事は出来なかった。また、変わり種としては、ヤパン(ジェームズ)の弟のアレキサンダー・ソビエスキーがいた。彼は母親の意向を無視して選挙に乗り出し、やはり、支持を集める事が出来なかった。逆にソビエスキー一族を推す貴族の支持を分散させ、兄の足を引っ張った。

 こうして情勢はコンチ公に有利かと思われた中、意外な伏兵が支持を集め始めた。その男の名はフリードリヒ・アウグスト・フォン・ヴェッティン。当時はザクセン選帝候フリードリヒ・アウグスト1世と名乗っていた人物である。彼は1670年5月12日ザクセン選帝候ヨハン・ゲオルグ3世の第2子としてドレスデンで生まれ、成長すると軍人としての道を歩み、94年兄で当時のザクセン選帝候ヨハン・ゲオルグ4世が子を残さず死んだのを受け、ザクセン選帝候の座を継いでいた。その後96年までハプスブルク軍内でトルコ軍と戦ったが軍人としては無能である事を証明してしまった人物でもあった。初期において彼が支持を集めると考える者はいなかった。何故なら彼はまず持ってカトリックでなければならないポーランド王位をルター派のプロテスタントの分際で望んだからであった。しかし彼にとって宗教は重要ではなかった。彼は彼のドレスデンの宮廷にすら内密に事を進め、そして彼は突然シレジアに軍隊を前進させ、同時に枢機卿デ・サックス・ゼティスによってカトリックに改宗した。このことはザクセンの領民の反感を買ったが彼は気にしなかった。こうしてその後、彼はハプスブルク家の支援を取り付け、ポーランドの親ハプスブルク派ならびに外国勢力(ロシア・ブランデンブルク)を味方に付け、且つ改宗に際して知り合ったポーランド国内の僧侶を味方に付けて教会派を取り込んだ。また一方ではなおも反対する貴族に対してシレジアに進出した軍隊をちらつかせて脅すと言う事も行った。もちろんの事、多額の賄賂が巧妙に有力者たちのみならず、その他の選挙人にも流れた。ヴォルテール曰く選挙人の半分は買収され、もう半分は彼の軍隊に平伏したと言う訳である。

 とは言え、状況はそこまで彼に有利という訳ではなく、コンチ公も負けてばかりはいられなかった。ポーランド国内の親フランス派貴族を結集し、一歩も退かぬ構えを見せたのである。そして結局の所、貴族の多くはコンチ公を推した。1697年6月27日貴族たちは選挙を行い新たなる国王にコンチ公を選出した。これは王国の大司教に認められた正式な投票だった。
しかしアウグストは気にもしなかった。ルイ14世と争っていたハプスブルクもブランデンブルクも、はてやロシアも自分を後押ししてくれたからだ。同じ日の2時間後アウグストはポーランド国内の教会を味方に付け、貴族の選挙場から王冠を奪わせ、別の所に自らの支持者を集め、コンチの投票者よりも少人数で投票を行い、クラクフで自らの支持者たちによって国王に選出された。こうして選挙戦は典型的な2重選挙の様相となった。そしてこうなったら後は強い方が勝ちである。

 一ヶ月後アウグストはコンチ公を先回りするように軍を率いてポーランドに入国し、クラクフで戴冠、9月15日あらためてワルシャワで戴冠式を執り行った。
その間コンチ公も負けてはならじと、急ぎフランスから船に乗ってダンチヒ近郊のオリヴァにまで来ていたが、最早すべてが遅すぎた。オリヴァにはサクソン軍4000がいて、なおも道を行こうとするコンチ公一行に過激な制裁を加えたのである。かくしてコンチ公は船に追い返され、フランスに逃げ帰る事となった。また、国内に多くいたコンチ公支持者もこの流れを受けて徐々に減少し、諦め半分でアウグスト2世と名乗る新王を認めるようになった。
アウグストもまたこれ以上ゴタゴタが続くのを嫌がり、早々と貴族憲法の擁護を打ち出し、貴族の権益を奪わないと懐柔に乗り出した。これには一定の効果があったらしく、遂に国内は安定した。1699年には全欧州にもその王位の正当性が認められ、名実共に彼はポーランド国王アウグスト2世となった。

 一方アウグストは、王になるやすぐに1699年のカロヴィッツ条約で、トルコに奪われていたポドレなどの東南部の領土を取り戻すのに成功した為、その功績を国内で吹聴して回っていた。がしかしこの功績はむしろ前王ヤン3世とハプスブルクの名将サヴォイ公オイゲンのものであり、彼のものではなかった。しかし彼が王になった為の本当の功績もあった。それは両君連合となったザクセンとポーランド両国にもたらされた経済的利益である。とは言えそれは後の戦争の被害を考えるとポーランドにとっては微々たるものだった。また彼は世襲王権に近い世襲の選帝候の家で育った為、その行動は専制的で、ポーランドの風土には馴染まないものだった。おかげでおとなしくなっていた反対派が蠢動を初め、アウグストは何らかの行動で自らの地位を保証しなければならなくなった。こうして彼はスウェーデンとの長い戦いへの道を歩み始める事となる。

 この後ポーランド王国の歴史は暗い。分裂そして滅亡、栄光は二度と王国に輝かなかった

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