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テルシオについて

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これはUkee様のBBSで私が投稿したものである。せっかくだからページに載せておくことにする。

大将軍コルドバがセミナラの戦いでフランス重騎兵とスイス人槍兵に敗北したのが1495年。その後歩兵部隊をスイス人とイタリア人で補充し軍を歩兵主体にかえてチェリニョーラの戦いで勝利したのが1503年。この戦いの結果火縄銃兵の必要性と有効性は確認された。

この戦いの後、1505年コルドバとその他のスペイン軍人らが提唱した4中隊、または文献によっては5中隊からなる連隊(コロネリアまたはコルネラ)を中核とした新部隊(おそらくコロネリアス、またはコルネラスとでも呼ぶのだろう)が作られている。この編成がテルシオの基礎である。その全容は、前記した槍(ハレバルドを含む)、短剣と投げ槍(俗に言う「剣と楯の男」)、火縄銃の兵士たちで、各連隊はそれぞれ砲兵と騎兵に援護された。俗にテルシオと呼ばれることになるスペインの部隊(テルシオス)が創設されるのは1534年である。テルシオは連隊の3倍の規模、約3000人で、「剣と楯の男」たちは消え失せ、そのすべては槍兵と火縄銃兵で構成された。1テルシオは12中隊からなっており、各々の中隊はだいたい250人からなっていた。

しかし3000人と言う規模は大きすぎ使い勝手が良くなかったため、その後改変に次ぐ改変を重ね、1550年代には全中隊にマスケットが導入され、1560年代にはすべてのテルシオが1200から1500人で編成されるようになった。1570年代には各テルシオに単独の射撃隊として2個中隊が配属されていた。全体人数が変わったと言う話はどこの文献にもないので、おそらくこの部隊は実戦時の増強中隊のようなものであったのだろう。そうすると戦術単位としてのテルシオの人数は1700から2000人とでもなったのだろう。

その間中隊の人数は変化せず、テルシオを構成する中隊数を変化させた。

平均的な重装歩兵中隊の場合、約100人の重装槍兵(胸甲を着用)、同数の軽装槍兵(鎧は装備していない)そして20人程度の火縄銃兵、指揮将校は10人程度だった(佐藤大輔氏によると)。こういった中隊と火縄銃兵を中核とした中隊とで一つのテルシオは構成されていたようである。1570年代以降の1200人編成の兵員比率は銃兵1対槍兵2.25であった(増強された2個マスケット中隊は含まない)。

小説家の佐藤大輔氏はテルシオのことを連隊、コロネリアのことを大隊と呼び、各4個中隊でなるコロネリア3個で1個テルシオであると述べている(氏は人員数から見た場合の邦訳で原語の示すそれとは異なると注記している)。私自身はコロネリアは1500年代初期の連隊のことだと考えているので、あまり賛成はしていないが・・・。

ただし上記の編成は3000人編成なので、1200から1500人編成においてどの様になっていたのかは分からない。中隊人数は変わらないので、6個中隊から5個中隊でなっていただろうから、コロネリアの単位は使用されていなかっただろう。兵員比率から銃兵中隊1個に4個または5個槍兵中隊、もしくは銃兵2個に槍4個中隊であったはずである。

注意としては、テルシオとかテルシオスとか言った言葉に正確な邦訳がついていないと言うことで、文献によってはテルシオのことを兵隊一人一人を指す言葉として、テルシオスを従来の部隊としてのテルシオに使っている場合があると言うことである。

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