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ベンデリのカラバリク

こんな文章書いて言うのも何だけど
カール君の部下には絶対になりたくないな。
色々理由付けても、ちょっとキの人です。
まぁ端で見てるのは面白そうだけど。

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世に狂人は多いけれど、部下50人で1万余の敵と戦う者は、そうそういない。世に言うベンデリのカラバリクとは、頭のネジが弛んでいるカール12世の人生の中でも、ピカイチを誇る「お狂い遊ばされた」事件として知られています。

2倍、3倍、果ては4倍の敵にも怯まなかった彼は、ついに200倍の敵と戦いなお怯まなかったのです。こうなると勇気があると言うより、イカれていると言った方が正しいと思うのは何も私だけではありますまい。だって、200倍ですよ。単純に考えてもねぇあなた、1人で200人の破落戸に立ち向かいますか? 断っておきますが私には出来ません。もし出来るという方、貴方は間違いなく勇者です。ランボーです。保証いたします。良い精神科医を知っているので、一度ご紹介いたします。

と、まぁごく一部の方々をのぞいては、皆さん私の意見に同調してくれることでしょう。だって、如何に彼らの祖先バイキングが武勇を尊んだと言っても、これはちょっと行き過ぎじゃないですか。人質立てこもり事件とか、そう言った追い詰められた犯罪者たちの行状ですよ、これは。仮にも一国の王がこれでは従う方もたまったものではありません。

しかし、彼は相変わらず部下に慕われ続けます。と言うよりも「信仰」の対象です。まぁ確かに、これだけのことをやらかしても、殺されていませんからね。私もある意味「尊敬」します。でも、ホント何故、彼は無事だったのでしょうか? と言うよりも、カール12世はこんなイカれ君だったのでありましょうか? あまりの言われようにちょっと哀れを感じ、今回はこの事件をどこまでも、どこまでも善意で解釈したいと思います。

カール12世がポルタヴァで負けて、トルコに亡命したのは、周知の通り、1709年のことであります。そして亡命の王カール君はトルコ軍を立ち上がらせ、1711年のプルートの戦いでトルコはロシアに大勝利します。しかしトルコ政府の大宰相バルタジ・メフメット・パシャはピョートルに買収され、彼を無傷のまま、国へ帰してあげてしまったのです。怒ったカールは、このプルート和約を反故にしようとトルコ政府に働きかけます。すると都合がよいことに、ロシアもロシアで、和平規約をまったく守りませんでした。 流石にこれにはトルコのスルタンも頭にきます。そして賄賂をもらった大宰相の立場は一機に転落します。

1711年11月20日(N.S)ついにこの大宰相は解任され、イニチェリ出身のユースフ・パシャがカールと、その支援者たちによって擁立されます。更にカールにとっての追い風は続きます。同年12月10日(N.S)には、トルコが2度目のロシアへの宣戦布告を行ったのです。しかし喜びは長くは続きませんでした。その後、追い風のように思われたスウェーデン軍ポメラニアに上陸す、と言う情報が、実は長く期待されていた遠征軍ではなく、単なるドイツの諸州を強化するためだけのものであり、規模も大した物ではなかったと言うことが明らかになったのです。

さらにそこに英蘭などの横やりが入ります。彼らはトルコがロシアに勝利し、再び西進を開始することや、スウェーデンがドイツに再び進出する事態を恐れたのです。何と言っても第2次ウィーン包囲は、つい最近の出来事なのです。そう言った恐れはべつに誇大妄想でもなければ、非現実的でもなかったのです。おまけにピョートルにしても散々に終わったプルート遠征の二の舞をする気は欠片もありませんでした。

こうして1712年2月になると、ロシアはアゾフの要塞を手放し、プルート和約で規定した通りに要塞化した各所を破壊すると言う条件で納得し、戦争は取りやめになりました。正確には翌々月の1712年4月16日(N.S) 、コンスタンティノープルにおいて和議は成立しました。ロシアの代表は1711年7月のプルート和約を再確認し、ポーランドからの撤退という条目もあらためて承認したのです。この和約規定によれば、その期限は今より3ヶ月以内となっていました。ベンデリのカール12世とその随行者たちは取りあえずの勝利に沸き返りました。経緯はどうであれ、ポーランドからロシア軍がいなくなれば、戦局は途端に逆転し、さらには亡命生活からもおさらば出来るからです。実際、カールは帰国に備えて荷物の整理を始めました。

しかしです。ピョートルにはまったく、欠片も、ポーランドから撤退する約束を守る気はありませんでした。どの様にして安全に帰国するかと言うカールの抱える問題はこうして依然として残ったのです。そして戦局の逆転という夢も消えました。

今回のことで、カールは英蘭が非常に邪魔であることに気が付きました。彼らはロシアに平和を与え、その平和はカールにとっては敗北に等しい物だったのです。こうして彼はルイ14世の誘いを聞くことが魅力的であると確信し始めることになります。この時期、スペイン継承戦争はその終わりが近づいていて、そのメリットは大きいように思われました。とは言え、このような行動が実を結ぶのはカラバリクの後なので今回は割愛。

さて、話し戻って、1712年5月。カールはコンスタンティノープルの和約が守られ、ポーランドからロシア軍が撤退し、ピョートルのポーランドにおける地位が弱められたかどうか試す決心をしました。彼はベンデリにいるポーランド軍の大部分と相当数のコサック、総勢五千、をグルジンスキー指揮の下、ポーランドに向かわせました。これは、ポーランドからポメラニアに入ることが出来るかどうかという判断をするためであり、またアウグストへのロシアの軍事支援がどれほど奪われていて、スタニスラフの支援にはどの程度の軍勢が必要なのかを査定するための出兵でありました。

しかし、グルジンスキーはプロシアの辺境地域まではほとんど戦いらしい戦いもせず到着することが出来たのですが、そこで彼らは強力なロシア・ザクセン連合軍に出会ってしまいます。そして1712年6月28日(N.S)彼らはクロトシチンの戦いでこっぴどく打ち破られてしまいます。更にその上、ピョートルはこのグルジンスキーによるポーランドへの行軍をロシア軍の駐留を正当化させる方便に利用したのです。

この報はトルコ政府にも届き、1712年4月の和約の違反を見過ごすか、それとも軍を送って対抗するかと言う議論がスルタンの大臣たちの間で数ヶ月間行われることになります。そしてこの議論に終止符を打ったのは、ポーランドに送られていたアフメッド3世の使節です。彼はピョートルが4月の和約を守るかどうか確かめるために送られていて、それにはカールからも随行者が加わっていたと言います。そしてその報告は驚くべきものでした。ロシアの軍はいまだ共和国全土に駐留を続けていると言う当たり前の報告だけでなく、ついに新たなスウェーデン遠征軍がリューゲン島に上陸し、ポメラニアに向かって進軍していると言う報告も入っていたのです。この報にトルコ政府は勢いづきます。ピョートルの信頼を受けていた大宰相ユースフ・パシャは1712年10月29日に解任され、同じ日にトルコはロシアに向けて3度目の宣戦を布告したのです。

さらに今度の戦争はスルタン、アフメッド3世自身の指揮によって執り行われようとしていました。これは過去の受動的態度から考えると注目すべきことです。新しい大宰相ソリマン・パシャは、スルタンの言うなりの従属者でした。 これまでの経緯からアフメッドはピョートルに侮辱されたと感じ、断固たる処置を取ろうと考えたのです。

これはカール12世にとっても大きなチャンスでした。アフメッドはロシアへの対抗策と一つとして、スウェーデン王が自らの軍と合流出来るよう、強力な護衛隊をベンデリに送ると決定したからでです。

コンスタンティノープルにいるスウェーデン使節団の秘書、セルシングは、カールの名の下に護衛のために必要なトルコ軍を集め、旅の準備を容易にするための軍資金を調達するように命令されています。首都にいたピョートルの使節団は監禁されました。

全てが上手くいっているかのようでした。しかしその裏で、すでに崩壊は始まっていました。

それを知るために時を少し戻しましょう。それは運命の転換点となった1712年夏。プロイセンはスウェーデンと協定を結ぼうとしていました。そしてその任を帯びて使節がベンデリに派遣されました。カール自身も1712年5月にフィリングを通してプロイセン王フレデリック1世にプロシア・スウェーデン同盟の提案していたため、この交渉は上手くいくかに思えました。しかし当時、プロイセンはポーランドに駐留するロシアの軍事的脅威の危機にありました。そのためプロシアは、カールの提案に対し、アウグスト率いるザクセン=ポーランドを加えた3国同盟を新たに提案してきたのです。その代価として幾つかのポーランドの領土をプロシアに割譲することがあからさまに暗示され、スタニスラフをアウグストの利益のために犠牲にすることすら言外に臭わされていました。フレデリック1世は明らかに、スペイン継承戦争が終結しそうな気配から、更なる冒険を侵そうとし始めていたのです。けれど、カールはこの同盟の可能性を良く理解し、ある程度の交渉をすればこの同盟は成立しうると考えられました。

けれどアウグストは状況を考え、十分に警戒し、早期の言質を取られることを避けました。彼は他人の主導で為される同盟より自分が主導の同盟を考えていたのです。

ですからアウグストは1712年の夏、更に直接的に動いていました。彼はスルタンがカールに護衛を付けてポーランドに送ることを非常に恐れ妨害する気でいました。そしてその目的のために2人の使節がコンスタンティノープルに送られていました。彼らはアウグストにとって都合の良い形の反ロシア同盟をスルタンとカールに持ちかけたのです。その中には勿論、スタニスラフ王の要求撤回と、カール王の海路、もしくは護衛を連れない穏便な帰国と言った条件があったことでしょう。しかしこういった試みは、10月29日のトルコの対露宣戦布告によって全てたち消えてしまいます。

しかしアウグストの外交手腕は休むことを知りません。彼は9月にステンボックとスタニスラフに率いられリューゲン島に上陸したスウェーデン遠征軍とも交渉を行いました。アウグストは彼らに反ロシア同盟を持ちかけたのです。こうしてポメラニアからポーランドに進出する代わりに、ステンボックとスタニスラフ(フィリングも)はザクセンとプロシアと交渉を始めました。そして1712年11月19日ザクセンの元帥フレミングと休戦を結んだのです。この決定の理由の一つには、遠征軍の補給を担当する艦隊が、リューゲン島上陸以後直ちにデンマークによって壊滅させられたこともあるでしょうが、しかし、やはりフレミングがスタニスラフのポーランド王位請求権の返上を代価にアウグストとの対露協力を彼らに持ちかけたのが原因でした。アウグストにとっても延々と駐留を続けるロシア軍は邪魔で、反ロシア同盟も考えていましたが、今回のこの提案は、どちらかと言えば時間稼ぎの意味合いが強いものでした。 と言うのも、上陸したスウェーデン軍1万7千は、練度も良く装備も整っており、戦って敗北した時のリスクは、致命的だったからです。アウグストは休戦期間中に兵力を増員し、ポーランドではなく、デンマーク・メクレンブルク方面に遠征軍の矛先を向けるように、外交的にも同盟をちらつかせ、し向けたのです。こうしてまんまと騙されたスタニスラフはカール12世を説得するためにベンデリに旅立ってしまいました。彼はもしスウェーデンが対露同盟を手に入れられるならば、自らを犠牲にしても良いと考え、これを受け入れるつもりでした。

カールは手紙でスタニスラフに当初の計画を貫き通すように懇願していますが、それが遠征軍に届くのは遅すぎました。ポーランド王はすでにトルコに向けて旅立っていたのです。更にステンボックにはポーランドへ侵攻する作戦を再開するよう求めましたが、彼は既に西に向け、つまりデンマークとメクレンブルクの方に向けて動いていました。この行動はこれ自身は実に有益でしたが、しかしそれはカールの意向に反していたし、10月29日のスルタンの宣戦を利用することを不可能にしました。この報告はトルコ政府を落胆させ、トルコの対露強硬姿勢は一機に軟化してしまい、戦争も、強力な護衛の話しもたち消えていってしまったのです。

更に悪いことは続きました。アウグストは(彼の使節たちがスルタンにほとんど影響を及ぼさなかったにもかかわらず)、クリミア・タタールの汗との間と、そしてあらたなベンデリの軍司令官イスマイル・パシャとの間に、1712年の夏から秋にかけて接触を繰り返し、重要な成功を得たのです。この2者との接触はあらゆる手段を使って行われ、最終的に、彼らをカールの味方からアウグストの味方に変えてしまったのです。タタールの汗はカール12世のロシアを屈服させる計画のために大規模な協力をすることになると説得され、スウェーデン人とそれの随員たちがベンデリに更に逗留することに嫌気をさしたのです。汗は反ロシアの思想を強固に持っていましたが、スウェーデンよりもザクセン・ポーランドのほうが頼りになると錯覚させられてしまったのです。彼はアウグストを、もしくはアウグストのために話す彼らを信じ始めていました。

しかし汗はアウグストがロシアとの同盟を破棄する気がないことに気が付きませんでした。アウグストがロシアとの同盟を破棄する可能性は、ロシアが大失敗に終わったプルート作戦の再来を行った時だけであり、汗への提案はその充分な保険としての意味合いしかなかったのです。

アウグストの主な関心はカールがポーランドで問題を作るのを防ぎ、そしてもしトルコ政府にポーランド経由でのカールの帰還を拒否する試みが失敗した時には、ロシアの軍を使ってアフメッドの護衛を連れてポーランドを通るカールを捕まえるか動けなくする方策を取ることでした。

アウグストの部下たちはタタールの汗と軍司令官に帰国に際してのカールの護衛を弱めるように圧力をかけ続けました。アウグストはこの方法によって、自らが主導する同盟に頑固なスウェーデン人を引き入れられるかもしれないとも思っていました。そしてそれ以上に、カールが同盟に加わらなければ、汗と軍司令官を使って、カールを捕縛してしまおうと考えたのです。

多くのポーランド人の間で、反ロシア感情は高まっていました。しかしアウグストを支持する人々はカールを捕まえることに反対しませんでした。それはあらゆる交渉に使える切り札になるからです。もし状況がそれを要求していると思われたなら、ザクセンの外交官たちはカールを捕まえる準備を否定すらしなかったでしょう。そしてさらに、アウグストはツァーによって汚い仕事をさせられているというように見せかけました。

ここでアウグストの行動をふり返ってみるとその素晴らしい策略がよく分かります。

アウグストの敵は3つでした。それはロシア、スウェーデン、国内の親スタニスラフ派です。
そして最も重要なのはカールがポーランドで問題を作るのを防ぎ、そしてもしトルコ政府にポーランド経由でのカールの帰還を拒否する試みが失敗した時には、ロシアの軍などを使ってアフメッドの護衛を連れてポーランドを通るカールを捕まえるか動けなくするというものです。
そこでまず国内に依然として駐留するロシア軍にともない増加する反ロシアの機運と同様に彼らの脅威を感じるプロシアと共同で対ロシア同盟をカール12世に提案しました。もちろん国内の親スタニスラフ派を押さえるため、その同盟の代償としてスタニスラフの王位継承要求を破棄するように求めました。(カールがポーランドで問題を作るのを防ぐと言う目的で)
そしてその一方で、カールがトルコの助力を得てポーランドに帰ってくるのを防ぐためにトルコ政府に使節を派遣しました。これは先の同盟を成立させる上でも重要で、何故ならば、それら望みが薄れれば交渉に応じる可能性が出てくるからです。
更にそうした交渉が不首尾であることに気付くと、今度は交渉相手をスルタンからタタールの汗とベンデリの軍司令長官に変え、カールが帰国する際の護衛を減らすように圧力をかけました。(カールが交渉に応じるように、または捕縛できるように)
この時二人には、多額のワイロとポーランドが主導となる対ロシア同盟を提示し、味方に引き入れることに成功。こうしてカール12世がもしもポーランドを通って帰国するならば、捕まえられるように手筈を整え、カールの妥協にも対応出来るように下地を整えた。
しかしその一方でロシアとの同盟を依然として維持しておきます。先の汗に提示した同盟は口約束であり、プルートのような出来事が万が一起きた際の保険でしかありません。
そしてカールの断固たる意志とトルコの対露宣戦を見るに付け、カールの捕縛に力を注ぐようにしました。しかしそれもピョートルに無理矢理やらされているというパフォーマンスを付けてであり、リューゲン島に上陸したスウェーデン軍には、(半分以上その気はなかったにもかかわらず時間稼ぎの目的で)あらためてスタニスラフの王位継承権放棄を条件とした対ロシア3国同盟を提示し、スタニスラフをその気にさせ、カール説得のためにトルコに向かわせています。
この時、アウグストには3つの結果が用意されているように思われました。スタニスラフの王位継承権放棄。帰国途中におけるカールの捕縛。別ルートによるカールの帰国。
これはそのどれが訪れてもアウグストにとっては利益が上がるようになっています。
まずスタニスラフの王位継承権放棄と言う結果は、アウグストのポーランドでの地位を安定化させるでしょう。そしてそこに付随する同盟も問題ではありません。状況次第で幾らでも操作出来、ロシアが優勢ならば破棄すればよいからです。
次にカールの捕縛ですが、もし帰国途中のカールが自らの手中に収まれば、それはとてつもない外交的切り札となり、それはどことの交渉にも決定的な役割を果たすはずです。
最後の別ルートによるカールの帰国ですが、これはトルコがロシアと戦う可能性が限りなくなくなると言う利点がありました。少なくともカールがいなくなればトルコはロシアに敵わないし、刃向かおうともしないはずです。そしてカールがポーランド経由で帰ってこないことにより、国内の親スタニスラフ派の期待はしぼみ、その地位を益々弱める結果につながるはずです。そして更にロシア軍を自国内に駐留させておく必要が減り、ロシア軍をポーランドから追い出す名目にも使えるはずです。
まったく見事としか言いようのないアウグスト強健王の策略です。卑劣と言うよりも、奸智に長けていたと言うべきなのでしょうか?

しかしカールは、自らの捕縛計画が進んでいることに気が付いていました。彼は、汗や軍司令官からのアウグストへの外交文書を、途中で強奪し、全てのからくりを知ったのです。彼は、この証拠を持ってスルタンを説得し、汗と軍司令官を解任し、急速に悪化するベンデリでの地位を確保しようと努力を開始します。実際、彼はスルタンの母との接触に秘密裏に成功し、敵が失脚する望みを得ています。しかしその間にも、少ない護衛で彼がポーランドに追放される可能性は強まっていました。

カールにはもはや選択肢が残っていませんでした。彼は決意します。追い出されれば捕まってアウグストの所へ送られる。それよりはここに留まり、何とかスルタンを説得しよう。

彼は最後の外交努力に打って出たのです。

カール12世は出発を、ステンボックとスタニスラフのポーランド侵攻が確実になるまで延期するように試み、そしてその後、留まる方便として、さらなる出発資金を要求しました。しかし要求した500,000リヒスターレルはすぐにスルタンから王に送られてしまいます。ですので彼は1712年12月29日に地元への借金返済にこれを使ったと宣言し、同程度の融資もしくは彼の軍がポーランドに到達するまで待つ許可を更に求めました。

そしてそのような要求を突きつける一方、汗と軍司令官を蹴落とすための情報をスルタンに届けようと必死に努力を行います。

と言うのも、この時期、メクレンブルクに進出したステンボック率いるスウェーデン遠征軍が、1712年12月09日、ガーデブッシュ会戦において大勝利を得ていたのです。この勝利の知らせと、強奪した外交文書をスルタンに知らせれば、一機にカールの地位は向上するはずだったのです。

しかし汗と軍司令官はそうはさせないと、ベンデリとアドリアノープルにいるスルタンとの連絡を完全に絶とうとし、殆どすべての急使が目的を果たすことが出来ずに、彼らに捕まり、闇に葬られていきました。

もはや事態は時間との競争となってきました。

事情をまったく知らないスルタンは、カールの忘恩のみを知らされ、それに憤ります。そして1713年1月18日、ベンデリの軍司令長官の元に、スルタンからの、カールを無理矢理誘拐し、サロニカに連れて行きそこからフランス船に載せて彼を彼の支配地域に戻すようにという書状が届きます。同様の許可は1月24日に汗に届いた書状にもあり、カールの進退はここに極まったかに思われました。

最も軍司令官にしろ汗にしても軍を使うことに熱心であった訳ではありません。彼らは依然としてスルタンと大宰相が、彼らのアウグストとの交渉を知らないでいて、それがバレたときどうななるかという恐れを持っていまし、更に加えてカールとその仲間たちはイニチェリや地元の人々に人気があり、軍が命令をはね除ける可能性もあったからです。

カールとベンデリの支配者との緊張は1713年1月11日から完全に目に見えるモノとなっていました。この時汗はタタール人による強力な一部隊をベンデリ郊外の王の居住区におくっています。スウェーデン人はこれを3万と信じていますが、まぁそれは多すぎるでしょう。カールはこれらの接近を聞き、防備を固めます。1月13日カールは少数の随行員を連れてトルコ軍に交渉に向かい、「薄汚い裏切り者」の軍司令官の代理人を呼び出すことを、そしてタタールの汗と軍司令官にスルタンからの新しい命令を尋ねさせるべきだと励まし努力するよう訴えました。

ベンデリ館(New Bender)

これは多少成功し、彼らとの間にカールは信頼関係を作ることに成功します。そして1月30日の夜、スウェーデン人たちは朝になったら攻撃が始まると、彼らから知らされるのです。

カールたちは、夜の間中、塹壕を掘り、防塞の設営を行い、戦いに備えました。

そしてついにベンデリのカラバリクが始まりました。

詳細についてはここでは多くは語りません。ただ、それは驚くほどのすごい軍勢がいました。そして午前10時、戦いは始まりました。

しかしながら最初の突撃は、何故か突然開始間もなく中止されます。この最も適当な説明としては、汗も軍司令官も本当の流血なしで彼らの目的を成し遂げたいと考えていたからでしょう。彼らは圧倒的な戦力を見せつけることにより、カールが計画通り彼らの護衛を伴ってポーランドへ去ることを了承するのではないかと、一縷の望みを抱いていたと思われます。すでにポーランド人とコサックは、前者はアウグストとの和解を望んでいたし、後者にいたっては実に明快にスウェーデン側に勝利の見込みが全くなかったために、タタ−ルの汗とベンデリの軍司令官の保護下に入っていましたし、攻撃の以前にスウェーデン宿営地から脱走すら起きていたからです。もっとも、そう言った行動は、王が強奪した往復文書を取り出し、これを使ってこの状況に渡り合う計画を持っていると保証すると止みました。

またそれらと同時に、タタールの汗でも軍司令官でもどちらでも良いから、彼らの保護下に入るべきだとポーランド人とコサックの指導者たちは王に懇願しました。しかし彼らに向けても王は常にこの強奪文書について言及し、勝利の目算はあると譲りませんでした。

後世、彼のこの頑迷な行動は、卑屈な囚人となるよりも「力によって圧倒される」ほうがより尊敬すべきことであると、カールは感じ、無謀にも部下たちを死地に送ろうとした、と評されます。

しかし、それは間違いでした。そうとしか取れないことが起きたからです。

それは、スウェーデン軍の大規模な降伏でした。スウェーデン軍は、成る可く敵を刺激しないように行動し、ついに敵が攻めてくると、多くの士官が部下に「撃つな」と命令し、戦わずに降伏したのです。その数は数百であったと言います。カールから見れば、まさに彼が最も厭う卑劣な裏切りでした。しかし戦いの後、戦いの始まる前に降伏した者たちは、カールから冷たい仕打ちをその後受けたにも関わらず、彼らは一切処罰されませんでした。

これは戦う前に、カールが戦いが始まるまでは残っていよと命令したことにも関係があると考えられています。つまり、カールは問題が大きくなり、スルタンの知りうる所となり、調査に乗り出すような状況を作ることが出来れば、十分だと考えていたと言うのです。

かくして、カールは50人に減った部下を率いて、塀を越え迫ってきた敵を、「王の家」で迎え撃つことになります。後は、出来得る限り時間を稼ぐだけ。既に外交努力は行いつくしています。何十通と送った書状の一つでもスルタンに届けば、状況は逆転するはず。ならば出国の時期を延ばせるだけ伸ばそうという訳。

しかも攻撃するトルコ軍も本気ではありません。砲弾は明後日の方角に飛び、突撃も不真面目。また、家の中からの狙撃は、トルコ軍を怯ませるに十分です。

こうしたため、犠牲者の数は驚くほど少ない物でした。スウェーデン側は12又は13名。トルコ側は40名以下。カール自身も手に深い傷を負っています。とは言え、それが丸二日戦った結果なのですから、局所的にあった激しい時間帯以外は、総じてノンビリと戦っていた、と言うのがカラバリクの真実でした。

カールは2月2日の朝まで「王の家」を保持出来るのではないかと思っていたようですが、2月1日午後の防衛戦闘の後、トルコ兵は「王の家」の木製の屋根に火矢を放ち、万事が潰えました。消火しようとする努力も虚しく天井から下の部屋に向けて火は急速に広がりました。カールたちは炎から逃れるため、扉の前に作ったバリゲートを外し、出撃します。まだ損傷を受けていない近くの建物(内閣の家)に逃げることは、トルコ兵が火にたじろいで「王の家」から少しは引いていたことから、可能のように思われました。しかしながらその瞬間、右に剣を左に短銃を持って走っていたカールが地面に倒れてしまいました。夜の8時でした。疲れ果てていたカールは自らの拍車に足を引っかけ倒れた、と言われています。

こうしてカラバリクは終わりました。カールはベンデリの軍司令官の宿舎に直ちに護送されました。その他の者たちは、金目の物を全て奪われ、捕虜になりました。そして金と信用のある者は自ら、金もなく信用のない者は王から、保釈金を調達し、自由の身になりました。

軍司令官たちはカールをポーランドに追い払おうと考えていました。しかし運命の皮肉とも言うべきか、その直後、スルタンから軍司令官とタタールの汗へ、軍を使ってカールを捕らえよと言う許可を取り消す命令が、ベンデリに到着したのです。命令には1月26日の日付が書いてありました。

スルタンはついに、スウェーデン遠征軍の勝利(1712年12月09日ガーデブッシュ会戦)と軍司令官らの陰謀を知ったのです。

その後の調査により、軍司令官は解任。タタールの汗もその地位から逐われ、4度目の対ロシア戦争が宣言されたのでした。

カールの危機は当面回避されたのです。

と、まぁ完璧なまでにカール君の行動を好意的に解釈したカラバリクの真実は、カール君の外交VSシュタルケ(ストロング)君の外交という、実にすっきりとした構図で説明出来る訳です。この戦いは、実はこの後も続くのですが、それは別の話。

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