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◆カール12世暗殺事件◆

01.背景
02.1718年11月30日
03.暗殺か偶然の1発か
04.容疑者あるいは濡れ衣
05.論争点の整理
06.右からか? 左からか?
07.弾丸の速度と発射距離
08.弾丸の種類
09.結末
10.追記
11.参考文献


えらい長い文章です。
書いておいて言うのも何だけど
まともに読むなら印刷することをお薦めします。

事情通なら、
01-05-09で流れは分かると思う。
そしたら06-07-08の要点だけ読めば良いかな?
あと、どんな状況で死んだのか知らない場合は
02は必須かな。

まぁヒマなときに読んでください。

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背景


 1718年11月30日、日曜日。ノルウェーとスウェーデンの国境に近いフレドリックステン要塞を攻囲中のスウェーデン軍塹壕で、1人の男が弾丸に斃れた。男の名はカール12世。この時36才であった。
 彼の死が実際の所、歴史にどれだけの影響を与えたのか、それは今となってはもう分からない。しかし後世に残された資料から、当時スウェーデン軍が行っていたノルウェー侵攻作戦が、デンマーク本土侵攻とイギリス=ハーノヴァーとの戦争に備えたものであっただろうと言うことは、推測されている。また一方で、ロシアとの講和交渉が、バルト海に浮かぶ島、エーランド島において進んでもいた。この交渉の責任者である「隻眼の奇才」ゲルツ男爵は、数日中にその進捗状況を報告しにカールの本営を訪れる予定であり、あるいはひょっとすると、歴史家の多くは疑問を呈しているが、その報告次第でロシアとの講和が決定するかもしれなかった。国内においても、そのゲルツ男爵が主導した、所得の17%を徴集する所得税の徴収が、来年度に行われることとなっており、新たな戦争の準備は整いつつあった。彼は、この戦争を冗談交じりに「40年戦争」と呼び、「過酷で不安定な全面講和を受け入れることは、この国にとって、国外で長い戦争を続けるよりも更に有害である」と側近に語っている。
 ノルウェー侵攻そのものに目を向けても、フレデリックステン要塞は、あと1週間程度で陥落すると、内外で予想されていた。これはノルウェーの都クリスチャニアへの門が開かれることを意味していた。また、要塞の陥落はトロンハイムに向けて進撃する別働軍を支援することにも繋がっただろう。そしてこの別働軍は、古のバイキングの王、苛烈王ハーラルの様にその地からイギリスへと渡る役割を担う予定だったとも言われている。
 これらは、彼の死が戦争の終結を早めたのではないかと言う推測に力を与えている。カールの戦略に従えば、1718年の12月は、決定的な1ヶ月になるはずだった。そして1719年は、世界がそのあまりに無謀な行動に目を見張る年になるはずであった。少なくともカール12世自身の頭の中では。
 それらが、カール自身にとっても、何処まで本気であったかは分からない。ただ確かなことは、その死により、スウェーデンにそれまであった流れが一変し、2度と元の流れには戻らなかったと言うことである。
 スウェーデンの政策に劇的な変革をもたらしたのは、スウェーデン軍大元帥にして王の義弟、ヘッセン−カッセル伯フレデリック(1674-1751)であった。彼は、ウルリカ・エレオノーラの夫として実権を掌握し、直ちにノルウェーへの侵攻作戦を中止させ、全軍を撤退させた。ロシアとの交渉は破棄され、広く憎まれていたゲルツ男爵は捕縛され、いい加減な裁判の後、処刑された。発布されていた増税も、実効力を持つ前に撤回された。外交ではイギリスとの連携に力が置かれるようになり、その援助を受けてロシアに対抗する方策がとられるようになった。これはニスタット条約以後も続く外交方針となった。
 王位の継承も彼の指導の下で行われた。彼の妻ウルリカ・エレオノーラが王座に就き、彼女は15ヶ月後、王位を夫であるフレデリックに禅譲した。そして王となった彼は1721年ニスタットでの講和に同意し、スウェーデンはバルト帝国の称号を失った。
 カールが生きていたならば、と考えるかも知れない。彼の死がその引き金であったことは間違いないからである。しかし、それには意味がない。むしろ、意味があるのは、彼の死の裏側に何かが存在しているのか、と言うことを探ることである。歴史が偶然によって定まったのか、それとも誰かの決然とした行動によって定まったのか? その死は、その死をもたらした弾丸は、何処から放たれたのか?
 英雄的な王の、それも弾丸の直撃を受けての死は、その後に発生した政治的激変と相まって、300年間に渡って人々にある想像--暗殺の可能性--を抱かせた。
 果たして、それは暗殺であったのだろうか? それとも偶然の一発による神の御業であったのだろうか?

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1718年11月30日

図1.フレデリックステン要塞

 この日、カールの様子は至って普通であった。彼は、1マイル弱離れたヘッセン−メルネル軍の司令部(当時の攻城戦において攻撃軍は、攻城部隊と援護部隊の2つに分けられるのが一般的であった。この時のスウェーデン軍も、そのように分けられており、攻城部隊をカール12世が、援護部隊をヘッセン伯および元帥メルネルが指揮していた)から訪れた元帥メルネルやホルシュタイン公爵、ロシアから帰還した元帥レーンスケルド、そしておそらくはヘッセン伯や側近の将軍たち等と伴に、遅い朝の礼拝を行い、食事を楽しみ、会議をして今後の計画を討議している。ある証言によると彼は悲しげでどこか物憂げであったとされているが、少なくとも表面上、そこには何ら特別に変わったことはなかったらしい。彼がその日、塹壕工事の視察に出かけたのは、すでに辺りも暗くなり始めた頃であった。
 午後4時。カールはシュヴェーリン将軍と彼の副官フォン・カールバーズら数名の将校を連れ、新たな並行壕の掘削作業を視察するために、攻囲軍本営を後にした。
 午後6時。およそ400名の作業隊が塹壕に到着し、彼らは、王の視察する中、フランス人技術士官メグレの指揮を受け、作業を開始した。左側面にあるOverberget堡塁やMellemberget堡塁からの射撃はそれほどの脅威でもなかったが、要塞正面からの激しい射撃は、大きな脅威であった。その射撃は次第に精確さを増し、午後6時からおそらくは午後10時までの間に、作業隊のうち7名が死亡し15名が怪我を負う被害が生じた。カール自身は午後8時頃、一端、塹壕のすぐ側にあるいつもの休息小屋まで戻り、そこで従卒の作った夕飯を食べている。ここで彼は、長年連れ添った従卒に冗談を言いあい、落ち着いた時間を過ごしている。おそらくこれは、彼が最後に感じた安らぎであっただろう。
 夕食を取った後、おそらく午後9時頃、カールは再び塹壕工事の視察に戻った。王の存在を示すことにより、作業隊の士気を高めるのもその目的であっただろう。第1並行壕と掘削作業中の新並行壕に繋がる鋸歯型連絡壕が接合するすぐ近くでカールは、工事の様子を観察した(図2を参照)。彼に付き添っていたのは、技術士官メグレ、フォン・カールバーズ、クヌント・ポッセ大尉、シュルツ大尉、そしてヘッセン伯の副官アンドレ・シクレ大尉であり、少し遅れて塹壕工事の最前線から来た工兵士官カールベリィ大尉が加わった。シュヴェーリン将軍は更に離れた場所にいた。おそらくカールの周囲には9名か10名ほどの人間がいただろう。
図2.王の位置(ある程度正確な推測)

 彼らがいた第1並行壕の造りは、連絡壕や掘削工事中の並行壕とほぼ同じで、少し変わった造りをしていた。それは通常深く掘り下げる所を、わずか地表から50[cm]程度しか掘り下げず、その上に1[m]50[cm]の胸壁を築くと言うものであった(図3を参照)。これは、岩盤の上に土が浅く堆積していたため、壕を地面深く掘ることが出来なかったためである。
 カールは、工事を視察するためにこの胸壁によじ登り、その存在を兵士に見せつけていた。メグレとカールバーズはその後ろにいた。彼らは、自身の頭とほぼ同じ高さに主君の膝があり、王は、肩から上を胸壁の上に出し、左手で頬杖をしながら、要塞の方(左の方)を少し見ていた、と証言を残している。
 その夜はどんよりと曇っていたが、要塞の塁壁には明かりが皓々と焚かれ、時折照明弾も打ち上げられており、周囲は普通の夜と較べて遙かに明るかった。また寒い夜でもあり、カールはいつもの青い外套を纏い、三角帽を被っていた。カールは周囲から胸壁から降りるように懇願されたが「危ぶむなかれ」と短く答えるのみであった。そしてこれが彼の最後の言葉となった。
図3.塹壕の深さと王の頭の高さ

 時刻は午後9時30分のほんの少し前だっただろう。カールベリィ大尉が作業現場から王の側に戻ってから7分程度が過ぎていた。彼らは「思い切り石を沼に投げ入れた」ような、あるいは「二本の指で掌をひと打ちした」ような音を聞いた。「左頬から手が離れダラリと下に垂れ、頭はゆっくり外套の中へと沈み込んだ」とカールベリィ大尉は報告している。足からは力が抜け、しかし身体は胸壁にもたれ掛かるようにして元の位置を保っていたとも報告されている。弾丸は王の側頭部を貫通し、大きな穴が頭蓋の両側に残された。銃創からは血が流れ、帽子には銃弾が撃ち抜いた穴が空いていた(後にその穴の大きさは直径19[mm]の丸形であると計測された)。それは間違いなく即死であっただろう。しかしそれにもかかわらず、カールは剣の柄を握りしめていたと言う。
 絶句の後、カールバーズは「おぉ神よ。王が撃たれた」と叫び、それからカールベリィ大尉にシュヴェーリン将軍の下へ知らせに行くよう命じた。シュヴェーリン将軍の反応もほぼ同じものであった。彼らは一様に衝撃を受け、絶望的な面持ちであったが、大騒ぎすることなく、速やかにその死体を兵士たちに知られぬよう処理した。その中で、シクレ大尉は王の身元を隠すためか、王の頭から帽子を取り、死体の上に自分のかつらと帽子を代わりに載せている。
 王の遺体は担架に乗せられ、2枚の外套で覆うことで身元を隠し、12名の兵士によって半マイル離れた攻囲軍本営に運ばれた。元帥メルネルやホルシュタイン公らは直ぐさま王の遺体の前に集まったが、ヘッセン伯は、当時1マイル弱離れた自らの軍の司令部におり、12月1日の朝日が昇るまで、その場に到着しなかった。彼に王の死を告げたのは、彼の副官であり、王の死に立ち会ったシクレ大尉であった。彼は王の遺体から取った帽子を持って、急ぎヘッセン伯の司令部に赴き、帽子を見せて王の死を告げている。彼がヘッセン伯の司令部に着いたのは、11月30日午後10時少し前であったと思われる。その後シクレ大尉は、その夜の内に、この帽子と伴にヘッセン伯の命令により、王の死を告げる手紙と一緒にストックホルムにいるウルリカ・エレオノーラの下へと送られた。彼は12月5日にストックホルムに着いている。
 王が死んだ瞬間、塹壕で彼の側にいた士官の誰ひとりとして、暗殺の可能性について、少なくとも公式な見解を発しなかった。これは、最も近い血縁者として悲しみをストックホルムの評議会に報告したホルシュタイン公や、元帥としての報告書を送ったメルネルやレーンスケルドについても同様である。フレデリックステン要塞の司令官もまた、攻囲が中断したことに気がつき、重要な人物が自分らの弾丸で死んだのではないかと考えたが、ヘッセン伯、あるいはホルシュタイン公、レーンスケルドの誰かが死んだのではないかと推測し、それが王自身であるとは当初考えなかった。「突然何もかもが静かになり、それはその夜だけでなく次の日も続いた」と彼の日記にはある。それは文字通り、ノルウェー侵略が終わったことを示していた。

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暗殺か偶然の1発か


 未だ決着の付かないナポレオンの死因論争を持ち出すまでもなく、不透明な状況の中での英雄の死には、噂がついて回る。今では全くその力を失っているが、リュッツェン会戦で戦死したグスタヴ2世アドルフの場合にもまた、その戦死の直後、暗殺説が流布している。カール12世の場合にも、暗殺説以外に、生存説がその死の直後に流布し、庶民の間では広くその生存が信じられていたと言う。これらのことを考えると、噂が真実に近い場合もあれば、まるで出鱈目である場合もあると言う、噂の持つ幅の広さが理解できるだろう。
 カール12世の暗殺についての噂が初めて表に現れたのは、その葬儀の場においてであったと言う。そして暗殺説が爆発的に広まる原因の1つを作ったのは、歴史家であり旅行家であったコックスが1784年にフレドリックスハルド(フレドリックステン要塞のすぐ背後にあった街)を訪れて、調査した結果を載せた旅行記である。これには、事件当夜フレドリックステン要塞の堡塁Overbergetに勤務していた90才代の老人の証言として、「この堡塁からはあの夜一発も砲弾は放たれず、すべての砲撃(射撃)は要塞本体から行われた」と言うものが記されていた。今では誤りであると証明されたこの証言は、コックスの旅行記がフランス語やドイツ語に翻訳されて出回ったことにより、ヨーロッパ中に広まった。王の死因は側頭部貫通銃創であることはヴォルテールの伝記により広く知られており、王がおそらくは要塞正面に顔を向けていただろう事から、この証言を知った人々が、要塞本体からの弾丸によって王の側頭部を射抜くことはかなり困難であったと推測し、そこに暗殺の可能性を見いだしたのである。そしてそれ以後、現在に至るまで、暗殺説は常に論争の基となった。
 当時の政府の公式見解は、もちろんこれを否定し、カール12世は、左側からの射撃を受け、弾丸が左側頭部から右側頭部へと頭蓋を貫通したため死亡したとした。そして弾丸の発射元は、遠方の堡塁であるとした。これに対し暗殺説は、色々と説が提示されたが、中でも最も力を持っていたのは、右側からの射撃を受け、弾丸が右側頭部から左側頭部へと頭蓋を貫いたため死亡したと言うもので、それは当時、敵軍の陣地が右側には無かったことを理由(図1を参照)に、その死が暗殺によるものであるとしていた。また一方で、ノルウェー側による暗殺についても考慮するべきであったが、彼の行動を予測する難しさと、ノルウェー側も事態を把握していなかったことから、その可能性は極めて低いとされた。
 18世紀には、カールが剣で殺されたという俗説も出回った。これはカール王の主治医をしていて、その遺体の検死を行い、防腐処理を施した人物であるニューマンの1720年4月14日の夢の内容が混乱したためであると考えられる。この夢の中で、カールは「それは忍び寄ってきたのだ」と言っており、それが「カールは暗殺者を認めると剣を抜こうとした」と言う説を生んだと思われるからである。もっともこの説は広まったり長続きしたりはしなかった。しかしこのニューマンは、暗殺が行われたのではないかと疑問を持ち続けていたようである。彼は経験豊富な従軍医師であり、多くの銃創を見てきていた。その彼は、おおよそ1720年に王の傷についての覚書を、彼の所蔵する本の1冊のカバーの裏に、書き記している。それは次のような文章で終わっている。「神は、弾丸が要塞からの物か、別の場所からの物か、良くご存じである」これを見ると、明らかにニューマンは敵の弾丸によると言う公式発表を全面的に承諾していなかったことが分かる。
 また、この覚書の下には1720年4月14日の夢の内容が残されており、この夢の中で彼は、防腐処理をする机の上に横たわる死んだ王の前に立っていて、王は蘇り、ニューマンの左手を掴み「お前は私がどのようにして撃たれたのか証言すべきである」と言い、苦しんだニューマンが「陛下、宜しければ教えてください。陛下は要塞から撃たれたのではないのですか?」と訪ねると、これに対し王は「違う。ニューマン、それは忍び寄ってきたのだ」と答えている。夢の記録の後、ニューマンは重大な言葉を付け加えている。「唯一、偉大で全能な神[…]すべてを見通す瞳、我らを良く知り、そしてある日、すべては明らかになるでしょう」
 政府はまた目撃者の聞き取り調査を行っている。その中でカールベリィ大尉は「その不運な弾が放たれた場所が、遠くであったのか、近くであったのか、胸壁の下に引き下がっていた我々の誰1人として[…]絶対の自信を持って示すことは出来ない」と述べ、また、砲弾と銃弾が大量に飛び交っていたと証言している。そして彼は、建設中の塹壕で任務に就いていた者たちの幾人かは、第1並行壕の胸壁の上に陛下の頭を見ることが出来ただろうとも述べている。この証言は、どちらの可能性も否定しきれないと言うものである。  しかしその一方で、「弾丸は左から撃たれたものである」と言う見解については、彼を含めた目撃者はすべてそれを認めている。
 カールベリィ大尉は、コックスの記録に拠れば、(イギリス人歴史家ウイリアム・コックスは、カールベリィの死の1ヶ月後にヨーテボリを訪れている。前述のコックスとは別人物であると考えられる)「問題の傷が小銃か短銃のどちらかによって与えられたものだと常に主張していた」と近しい商人に漏らしており、彼自身それが、ノルウェー軍によるものであるとは考えていないようであると記している。これは、先の彼の証言を含めて考えれば、左側の至近距離からの弾丸によりカールは死亡し、敵がそこまで進出していた可能性が極めて低いことから、スウェーデン軍側による暗殺に違いないと、彼が考えていたようにも見受けられる。
右側正面左側
図4.カール12世の頭蓋骨

 暗殺説が力を持ったのは、1746年王の棺が開けられ、遺体が最初に調査された時であった。最も注目されたのは、右側頭部の弾痕が左のに較べて小さかったと言うことである(図4を参照)。右のこめかみには19.5[mm]の穴が、左のこめかみには骨折を伴った、35[mm]の穴が空いていた。当時は、入った側の穴は、出て行ったときの物より小さいと考えられており、もし弾が左から入ったのなら、左の弾痕の方が小さいはずだった。しかし、現実には、右側頭部の銃創の方が小さかった。暗殺説を主張する人々は、そのため、右側頭部から銃弾は入り左に抜けていったとして、短銃あるいはマスケットによる至近距離からの射撃による暗殺に状況は適合するとした。目撃者たちの、弾は左側からのものであった、と言う証言は無視、あるいは彼らの勘違いであったとされ、長い論争の主要問題として、右か左かと言う方向問題が注目されるようになっていった。
 そしてこの暗殺説には、面白い伝説も残っている。右か左、ノルウェーからかスウェーデン側からかは別にして、それは、カールを撃ち抜いた弾丸についての興味深い伝説である。その民間伝承によれば、カールは自身の軍服の銀で覆われた真鍮のボタンによって撃ち抜かれたと言う。この伝承はスウェーデンとノルウェーの広い範囲に瞬く間に広まった。この伝承では、カールはこの世ならざる者の手によって守られており、通常の銃弾では殺すことが出来ないとされていた。確かに、事実4つの弾丸が(ナルヴァ、ポルタヴァ、ベンデル、リューゲン島において)カールを襲っていたが、そのどれもが致命傷を与えることに失敗していた。ナルヴァでは、クラヴァットの布によって巻き取られて擦り傷1つ負わず、ベンデルのカラバリクの最中のものは、頬に掠っただけであった。唯一カールに危うく致命的になる傷を負わせたのは、1709年6月17日彼の誕生日の弾丸で、彼の足を砕いた。リューゲン島の弾丸は彼の胸に当たったが、致命傷と呼ぶには軽すぎる傷であった。まるで見えざる力が、弾丸の勢いを殺しているかのようだと、人々は噂した。唯一重傷を負わせた弾丸は、見えざる力の弱まる彼の誕生日であったからであると言うもっともらしい法則までおまけされ、それですら、足を貫くことしか出来なかったと伝承は語っていた。そして最終的に伝承は、彼を殺すには通常でない弾丸が必要であり、それは王と伴に常にある物を弾丸に使わなければならないとして、彼の銀のボタンがフレドリックステンにおいて彼の命を奪ったとしている。
 これは実に馬鹿げている話しである。しかしそれに従うようなボタンが幾つか残されており、後にその1つは、重要な証拠として提示される運命にあった。

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容疑者あるいは濡れ衣


 暗殺説が唱えられ、それが持続するには、容疑者や動機が必要である。暗殺によって得られる利益や、それを実行するに足る理由と言ったものを現実に享受した人物の存在が、論理的に考えれば、暗殺には必要だからである。そしてカール12世の場合には、それが存在し、その為に暗殺説は常に力を持ち続けた。
 容疑者にされたのは、ヘッセン伯フレデリックと彼の支持者たちであった。ヘッセン伯はこのカールの死について、ごく初期に、敵からの散弾を受けて死亡したとストックホルムに書き送っているが、暗殺説を主張する人間の中でこれを額面通り受け取る者はいなかった。彼には充分な動機があり、しかもカールの死は彼に王冠をもたらしていた。
 当時、スウェーデンには2人の王位継承者がいた。1人はヘッセン伯の妻でカール12世の妹ウルリカ・エレオノーラ。もう1人はカール12世の甥であり仲の良かった姉ヘードヴィク・ソフィアの息子、ホルシュタイン公カール・フリードリヒである。2人の継承順位は定まっていなかった。その為、カールの臣下はウルリカ・エレオノーラを支持するヘッセン派とホルシュタイン公を支持するホルシュタイン派の2派に分かれて政治闘争を繰り広げていた。そしてその戦いは、ホルシュタイン派の優位のうちに進んでいた。
 それはホルシュタイン派の筆頭にいたのが、王の信頼の厚いゲルツ男爵であったからである。彼は、先のホルシュタイン公フーリドリヒ4世の臣下であり、彼が1702年に戦死してからは、ホルシュタイン公爵家の宰相として、その領地を差配し、カールの信任を得てからも、公式にはホルシュタイン家の宰相という地位しか保有していなかった。ゲルツの存在は、明らかにヘッセン派にとって目障りであった。また、当時ゲルツが主導していたロシアとの講和交渉も、ヘッセン派とホルシュタイン派の派閥抗争に影響を与えていた。ヘッセン派は、イギリスと手を組み、ロシアと対抗する道を上策と考えており、ホルシュタイン派は、まずホルシュタイン−ゴットルプ公領の事を考えると、ロシアと講和し、デンマークとの戦いを執り行って欲しいと考えていた。これは伝統的に存在していた、ドイツ方面を重視するのか、それともバルト海沿岸の州を重視するのかと言う外交政策の対立とも言えた。
 そしてゲルツが存在する限り、ヘッセン派にとって敗北は免れないように思われていたと、暗殺説の支持者は指摘する。しかしゲルツの暗殺は困難だった。もしカール12世に気付かれれば、それは恐ろしい結末を呼んだだろうし、ゲルツが死んだからと言って、カールがヘッセン派に優位な行動を取るとも限らなかった。しかしカールが死ねばすべては変わるはずだった。ゲルツほど当時のスウェーデンで嫌われていた人物はいなかった。彼は経済を破壊し、スウェーデンを更なる戦乱に巻き込む外国人と思われており、広く憎まれていたのである。このことは、カールの死後、何の罪もなくゲルツが捕縛され、いかがわしい裁判の後、直ぐさま処刑され、それに対して何の非難も起こらなかったことからも明らかである。
 以上のように、少なくとも結果論として、カールの死によってヘッセン伯フレデリックは、利益を得た。妻を国王にし、いずれは国王というこの上なく魅力的な利益を得ると言う。そして今見てきたように、動機もあった。
 しかも当時、スウェーデン軍司令部の一般的雰囲気は、将軍以下の士官の間において、楽しいと判断できる物ではなかった。彼らは前述のように、ホルシュタイン派とヘッセン派にそれぞれ分かれていた。11月25日にある士官が攻囲軍本営を訪れた時、彼は知り合いの多くが、ジメジメとして寒いノルウェーでの戦争にうんざりしていることを発見している。そこは、栄光を与える戦場とはほど遠かった。訳ありそうな様子で「ただの一発でこの戦争を終わらせられる」とすら裏では言われていた。その為、そう言ったこの作戦に否定的な人々にとって、カールの死は、実に効果的な作戦終結の手段であっただろう。
 そして暗殺説の支持者は、これらの人々が実際の実行犯ではないかと推測した。確かに、首謀者であると暗殺説で名指しされたヘッセン伯であったが、彼には完璧なアリバイがあり、明らかに彼自身が手を下したとは考えられなかった。そこで暗殺説を支持する人々は、別に実行犯と数人の名前を挙げ、中でも少将カール・クロンステッド男爵と、ヘッセン伯の副官であったアンドレ・シクレ大尉は、特に怪しいとして注目された。
 確かに幾人もの目撃者が、強硬なヘッセン派であった少将カール・クロンステッド男爵の10月20日の、「王は来月中に死ぬだろう」と言う発言を聞き、記録していた。そして彼は、11月30日にからわれた時、次のように返答している。「今日はまだ終わっていない」と。
 まさにそれは、暗殺の予告と思われた。その上、このクロンステッド男爵は、暗殺の告解をしたと言う噂の人物であった。これは別々の由来を持つ5つの物が現代に現存している。それらは、それぞれ1768年1772年、1776年、1847年そして1862年に公表されている。そのうち3つの中で、クロンステッドは1750年の死の間際に、カール王を撃ったと懺悔したことになっている。1768年の物は、クロンステッドが暗殺を目的として小銃に装薬と弾丸を込めたことを認めている。そして実際に撃ったのは、マグヌス・スティエルネロース(1685-1762 当時、ドラバント隊の伍長で最終的に将軍にまで出世している)であるとしている。1862年の物は、クロンステッドがスティエルネロースに銃を貸し、彼が銃を撃ったとしている。これらのうち4つは、それぞれが公表される前に別々の家族の手に渡っている。5番目の告白は、ドイツ人のA.F.Busching教授によって取り上げられ、1776年に公表した際に、その起源を彼は明かさなかった。
 しかしその一方で、これを聞いたとされる牧師は、自らの宣誓の中で、これは真実ではないと証言を残していることも忘れてはならないだろう。ハトン教授は、「例えこの告白が本当であっても、クロンステッドにしろスティエルネロースにしろ、11月30日に王が命を落とした場所の近くにいなかったし、両人とも王に忠実だった」と結論づけている。
 一方でシクレ大尉も、暗殺の告白をしたと噂された人物である。彼は、カールの死の瞬間に立ち会い、その帽子を持ってヘッセン伯の下にその死を告げに赴いた人物である。まず持って彼の場合、何故、その帽子をヘッセン伯に届けたのかと言う点が疑われた。汚い仕事をやり終えたと言う証拠品として彼は帽子を持って行ったと言う疑いである。そして彼は、1722年ストックホルムにおいて熱病にうなされていた時、家の窓を開け放ち、カール12世を殺したと叫んでいた。後に病気から回復した彼はその話を聞き、青ざめ、それを否定している。これはヴォルテールも本人から聞いたとして紹介している逸話であり、クロンステッドの告解とは違い紛れもない事実である。しかし、彼とは別に、当時ドイツにいたファブリーズも同様に、鬱病にかかっている時カール12世を殺したと口走っており、シクレがそのようなことを言ったとしても額面通り受け取るのは誤りであるとも言われている。また、シクレの逸話を紹介しているヴォルテールにしても、それが真実であるとはとうてい思えず、シクレ氏は真実、無実であると書き記している。
 しかし、動機や証言から、暗殺の容疑者と思われる人物が存在しており、それが暗殺説が根強く残った理由であったのは確かである。 

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論争点の整理


 動機や暗殺による利益についての論争を検証することは重要であった。しかしそれらは、広範に過ぎたし、多くの異なった意見が並列し、様々な解釈が成立し得た。そのため、この問題は、ヘッセン派は王を殺さねばならないほど追いつめられていたのか? と言う点にのみ集約して考える必要がある。しかしそれでも、万人が同意する動機の解釈は難しいだろう。
 一方で技術的、および資料的な問題は、極めて精緻に調査する必要があり、またそうすることにより、絶対的な事実が、少なくとも幾つかは明らかにすることが出来ると考えられた。
 このことから、動機についての考察は、技術的、資料的調査の後、それらの結果を補強する材料として使うのが、極めて適切な議論の方法であった。そして事実、近年の論争は、その方法に則って行われている。
 まず論争しなければならなかったのは、射撃の方向であった。王の頭には右に19.5[mm]、左に骨折を伴った35[mm]の穴が空いており、側頭部貫通銃創により死亡したことは間違いなかったが、右側には敵の射撃陣地が存在しなかったことから、その方向を調べることは極めて重要であった。
 次に重要なのは、弾丸の速度と発射距離である。王の頭蓋は破砕されず、きれいに撃ち抜かれていることは、すでに明らかにされている。このような傷を作るには弾丸の速度が速すぎても、遅すぎても駄目であることは当然のことであり、それは至近距離からなのか、遠距離からなのかを証明するのに必要であった。そしてもし遠距離であれば、当時の銃の性能を考えれば、暗殺説は成り立たないことになる。また、傷跡を調べることにより、どれぐらいの角度から頭蓋に弾丸が当たったのかも証明できるはずである。
 最後に重要なのは、弾丸の種類と大きさである。ヴォルテールは、弾丸の大きさは、短銃に入るには大きすぎると言っており、この弾丸の大きさや種類を調べることは、側近が隠し持った銃であったのか、要塞あるいはその外堡塁からの砲弾であったのかを特定することに繋がるはずである。
 そして1937年に発表されたGustaf Hultkvist博士の弾道学と法医学に基づいた研究は、以上の3点を極めて科学的に調査したものであった。1917年に王の遺体を調べた際、法医学の専門家らは、射撃の方向は左からであると結論づけていたが、弾道学的にそれは証明されていなかった。Hultkvistは、従来の弾道学検査においては考慮されていなかった王の帽子の存在に思い至り、模型の頭蓋に帽子に相当する物を付加して実験を行い、射出孔よりも射入孔が大きくなる現象を確認することに成功した。
 また、彼は同時に弾丸の大きさは当時のマスケット銃の口径に似通っているが、至近距離からのマスケット銃の射撃を行えば、王の頭蓋は粉々となったに違いないと言うことを実験で確認し、王の死は暗殺によるものではないと結論づけた。
 この調査結果は、極めて優れているとの評価を勝ち得、そして1988年Gunnar Grenanderの研究論文に大きな影響をもたらした。GrenanderはHultkvistの調査結果を基として、「弾道学と地形学的調査」によりカール12世がスウェーデン側からの射撃によって死亡したとする説を誤りだと断言した。彼の結論は多くの研究者に支持され、その後、スウェーデン国立百科事典(Swedish national encyclopedia)は「長い間カール12世は暗殺されたという噂が残っていたが、今ではそれを根拠のない物として扱っても差し支えない」として、その根拠に彼の論文を示し、事実上、暗殺論に終止符を打った。カール12世の伝記として不朽の評価を勝ち得たハトン教授の1968年の著作においても、教授はHultkvistの実験を支持し、エーランド島からのゲルツの報告は、暗殺を決意させるほどの物ではないとする自らの見解を含め、暗殺説を否定している。
 しかし、1994年に発表された論文により、暗殺論は息を吹き返した。この年、ヨーテボリ大学のロルフ・ウップストレムが大学に提出した論文は、従来の流れ弾による戦死という説を真っ向から切り捨てるものであった。これに続いて、1998年歴史家ノルドリングもこの暗殺説を支持する論文を発表した。彼らは、Hultkvistの弾道解析を用いて暗殺の可能性を証明した。そして資料調査と、有り余るほどの動機を考慮し、王の暗殺を見事に流れ弾(偶然の一発)に装うことの出来る士官が司令部に存在していたことから、暗殺説の方が矛盾点が少ないとした。

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右からか? 左からか?


 王の頭には右に19.5[mm]、左に骨折を伴った35[mm]の穴が空いていた。当時、射入孔は射出孔より小さいと考えられていたため、右側が射入孔であるとされて、右側からの射撃説の基となった。ヴォルテールもその著作の中で暗殺説を退けていながら、右側から撃たれたと記述していた。古い伝記ではこの点が常に曖昧であった。しかし、その場に居合わせたすべての士官が、「弾は左側からであった」と証言していることは、無視するには余りにも重要すぎた。
図5.カール12世のデスマスク

 1917年、王の棺を開けて遺体を調査すると意外な事実が判明した。従来、王のデスマスクと考えられていたものが、実は王の顔そのものから取られた物ではないことが分かったからである。測定の結果、大きさがどうにも合わないことが分かったのである。そしてこのデスマスクは右側から撃たれたように微妙に調節されていると指摘された。更に、このマスクを作った芸術家はホルシュタイン派の「王はヘッセン派によって殺害された」と言う噂を広める手助けをし、このマスクは政治的プロパガンダであったとすら提唱された。
 最終的に1937年に発表されたGustaf Hultkvist博士の実験結果により、射出孔よりも射入孔が大きくなることが立証され、王は左側から撃たれたことが確定された。
 しかしそれにより、王の暗殺が否定されたわけではなかった。このことをウップストレムとノルドリングは的確に指摘した。彼らはむしろ、暗殺を隠蔽する必要から、右側からの射撃はむしろ暗殺者たちによって避けられただろうと推測した。
 ノルドリングは自らの論文で以下のように考察している。
『しかし例えもし暗殺の偽装工作が存在していたとしても、それを行うためには相当な技能が必要とされた。ただの一発で獲物を即死させたことは間違いない。後ろから撃てば、たちどころに暗殺の事実がばれてしまうだろう。正面から狙うのは、事前に発見される危険が高い。右からの射撃も同様に安全ではないだろう。新しい塹壕はその方向で掘られており、それ故、王は時折にしろ右方向を観察したからである。さらにまた、その方向には敵の砲門が存在せず、右からの射撃は非難の原因となると考えられた。つまり暗殺者にとって最も安全な場所は、王の左側であった。』
 この意見は極めて常識的で矛盾が少ない説明であり、従来の右側からの射撃を根拠にした暗殺説よりも説得力があった。右か左かの論争は「左から」で決着が付いたが、それにより暗殺説と敵からの流れ弾説の論争に決着は付かなかったのである。

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弾丸の速度と発射距離


 Grenanderは、カールは敵から放たれた、散弾の1つに当たったとした(砲弾の破片や大砲から放たれる球形弾ではない理由は後述する)。そしてこの大砲は、王の左手方向約620mの距離にある「Overberg」と言う要塞最外部の堡塁に設置されていたと推測した。Grenanderは、この距離から放たれた弾が着弾時に持つ速度を、約114[m/s]と算出した(この数値はおおむね妥当であると思われている)。
 最終的にGrenanderは、Hultkvist博士の弾道学と法医学の調査を基として、114[m/s]の着弾速度を持つ鉛弾は人間の頭を貫通するのに充分であるとする結論に至り、19[mm]の鉛玉は、王の帽子と頭蓋を貫通することが出来る充分なエネルギを持っていたとみなした。彼はまた、弾の軌道と水平面との角度を約9.7度と算出し、王は頭を約10度、右に傾けていたと結論づけた。
 Grenanderが基としたHultkvistの論文においても、致命傷を与えた弾丸が300-400[m/s]の着弾速度を持っていたとはとうてい考えられず、それゆえ、王から25m以内の距離から通常の装薬が込められた小銃から発射されたとは思えない、と書かれており、フレドリックステン要塞でカール12世を直撃した弾丸は、当時の小銃弾の大きさと同じであったが、スウェーデン側から発射された物ではない、とする結論に至っている。
 しかしノルドリングやウップストレムは、Hultkvistの実験を調べると、その別の側面も発見できるとした。  Hultkvistは110[m/s]の速度で頭蓋の模型に対して射撃実験を行っていた。しかしその結果は貫通するときもあれば、しないときもあると言うものであったのである。そして、19[mm]の鉛弾が頭蓋骨と王の頭の幅13cmの脳組織を貫通するには、150[m/s]の着弾速度が必要とされるだろうとされていた。
 一方、Hultkvistは225[m/s]以上の着弾速度であると頭蓋は粉々に砕け散るだろうということも発見していた。小銃弾の初速は約400[m/s]であり、それは頭蓋を粉々にするに充分な速度である。
 ノルドリングは『このことが、Hultkvistの軽率な結論を引き起こしたと思われる。しかしながら、114[m/s]の速度で鉛玉が着弾したとしても、王の帽子と頭蓋を貫通することが出来たと言うことが真実であるとは言えない。帽子の抵抗により、素の頭蓋においては充分とされた150[m/s]の着弾速度以上の速度が必要とされたと考えられるからである。』として、明らかに、GrenanderはHultkvistの真の発見について注意を怠り、それよりも彼は、Hultkvistの下した結論を偏った見方を採用してしまったとGrenanderの誤りを指摘した。
 確かに、Hultkvistの実験は王の頭に当たった時の速度は150[m/s]から225[m/s]の間であると言うことを示している。ウップストレムも620[m]離れた「Overberg」は弾丸の発射元としては遠すぎるとしている。
 ノルドリングはこれらを要約して『銃創の穴は、王の頭蓋を通ってOverbergの方向を指し示している。しかしOverbergの大砲は620m離れた人間の頭を貫通させるに足る速度を鉛弾に与えることは出来なかった。』と簡潔に述べている。
 また、彼は、暗殺者は、小銃から撃たれたという真実を偽装するために、通常は16g必要な装薬を3あるいは4gにして、弾道を水平にし、運動エネルギを小さくして初速を遅くし、遠くからの射撃に見せかけることが出来た、と推測した。

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弾丸の種類


 カールが砲弾の破片や球形弾の直撃を受けたという説はない訳でもない。しかし、王を殺した弾丸はその帽子に直径19[mm]の穴を残しており、頭蓋の傷と合わせて、19.5[mm]より遙かに大きい大砲用の球形弾や、円い形にはなり得ない砲弾の破片は、王に致命傷を与えた弾丸には相応しくなかった。そしてGrenanderはその弾丸を鉛の散弾と推測した。
 しかしノルドリングは、『GrenanderはSam Clason博士による鉛の弾丸についての重要な発見を軽んじてしまった』と述べて、この推測に批判を加えた。この博士は、通常の鉛の弾丸は、身体に当たると無数の小片になって残ることを発見していた。そしてその小片の最も小さい物は、骨に食い込み、頭蓋をきれいに洗浄して空にしたとしても、取り除くことは出来ないはずであった。カールの頭蓋のX線写真は、そのような砕片が頭蓋に含まれていないことを示し、一方、1709年に通常の鉛の弾丸を足に受けた際の部分には、それが大量に残されていた。
 ノルドリングは、これを理由として、致命傷を与えた弾丸は鉛ではなく、鉄あるいは銀、あるいはそれらを被覆した被覆弾で作られていたと推測した。
 被覆弾(jacketed bullet)と銀の弾はデンマークを含めたヨーロッパにおいて、当時全く使用されていなかった。しかし、暗殺者は別ではなかったのかと、ノルドリングは考えたのである。
 何故ならば鉄の弾丸は、散弾として使用されていたが、小銃弾としては利用されていなかったし、鉄の弾は重く、450[m]離れた堡塁からも650[m]離れた堡塁からも、致命傷を与える鉄の弾丸を放つ場所としては遠くに離れすぎていたからである。要塞本体から鉄の弾が発射されれば、充分に致命傷を与え、頭蓋を貫通することが出来るエネルギを持っていたが、左側から撃たれたことを成立させるには、長い間、要塞本体に向けてカール王が左の頬を向け続けていたと考えなければならなかった。
 しかも、Grenanderは、1718年11月30日Overbergの砲兵たちは、「cartouch」すなわち鉛の散弾がつまった砲弾を使っていたに違いないとしていたが、1963年にC.O.Muntheは、当時の、19[mm]の直径に近い鉛玉の散弾を撃つことが出来る、すべての軽砲には、普通の球形弾(もちろん19[mm]よりも大きい)のみしか供給されていなかったと言うことを突き止めていた。そして重砲が使用する散弾の直径は30[mm]以上であり、それは明らかに19[mm]よりも著しく大きい物であった。
 さらにまた、デンマーク軍は、直径が19[mm]あるいは20[mm]と言ったような鉄の砲弾を使用してはいなかったという調査結果もある。最も小さな鉄の弾丸の直径でも、21.9[mm]であり、それですら珍しい物であった。しかも、繰り返すが、Muntheに従えば、そのような弾は、当時フレデリックステン要塞に支給されていなかったのである。
 また、ウップストレムはノルウェーで使用されていたマスケット銃の口径は19[mm]よりも小さく、それはスウェーデン軍のマスケットの口径の方がより適しているとしている。
 再びノルドリングの言葉を借りれば、『11月30日のフレデリックステン要塞には、カール王を殺害するに至った銃創を与えることの出来るどんな種類の弾丸も、存在していなかった。』のである。故に、カールが敵側からの流れ弾あるいは、(当時の銃の性能を考えると、例え要塞正面から狙ったとしても、狙い通りに弾丸が飛ぶとは考えにくいが)狙撃弾に当たって命を落とした可能性はあり得ないと彼は結論づけたのである。そして、この状況はむしろ、味方の兵士に紛れて暗殺者が至近距離からカールを射抜いたと考える方が妥当であるとした。
 この推理の中でノルドリングは、暗殺者が使った弾として、鉛を真鍮で覆った被覆弾(jacketed bullet)が最も適切であるとした。もう一つの候補である鉄の弾丸は、重く、装薬を少なくすれば、頭蓋を貫通させたり(もし貫通できず頭蓋に弾丸が残ると、従来鉄の弾丸は使用されていないため、暗殺の可能性が増す)、弾道を水平にする事(遠距離からの射撃に見せかけるため)が困難であると考えられるからである。
 また、純粋な銀の弾丸は、実際にその重さを考えると、有望であると考えられるが、しっかりとした銀の球を作るには特別な鋳造を必要とした。さらに、それには一般的な使用用途がないため、暗殺者の身元が下手をすると割れたり、途中で暗殺の密議が露呈する可能性が生じた。このことは青銅あるいは真鍮でもあり得た。  しかしその一方で真鍮に覆われた鉛の球は、当時の煉瓦職人が使う水平を計る糸の重りとして、使用されていた。また、ポーランドや、おそらくはヨーロッパ様々な場所で、真鍮に覆われた丸い鉛のボタンが、前述の重りと同じ鋳造法で作られ使用されていた。
 ノルドリングは、『このような物体は、入手可能であり、暗殺者は武器の口径にあったそれを見つけることは比較的容易であったと思われる。』と主張した。  そして事実、スウェーデンのVarberg博物館の展示品の1つに、ボタンあるいは重りと思われる直径19.5[mm]の球体が現存していた。この鉛の球を解析するとその金属の同位体から、ドイツかチェコの鉱山からおそらくは産出された鉛であると分かった。当時、多くのスウェーデン兵が外国製の軍服を着ており、それ故に、おそらくこれは兵士の軍服用のボタンであったのだろう。
 しかも、このボタンは、カールその人自身の軍服のボタンである可能性があった。1924年に、ヨテーボリから南東に50kmはなれたOxnevalla教区の砂利採取場の中から発見されたこのボタンには伝承があり、それに従うと、1718年のフレデリックステンから帰還したOxnevallaの兵士ノルドステルナが、これを持ち帰り、隣人たちに王を殺害した弾丸であると告げていたと言う。そしてそれから少し後、彼はその弾丸を所有していることが恐ろしくなり、教区牧師に相談した結果、彼はそれ投げ捨てたと言うのである。しかも、このノルドステルナという人物は、兵員名簿に存在する名前であった。彼はおそらく11月30日の夜、王からさほど離れていない戦場におり、ボタンを発見し、地面に落ちた音を聞いた後に、それを拾ったのだろう。
 Sam Clason博士は、この種類のボタンを使って射撃実験を行っており、彼は、最終的にカールが負った傷と同じ傷を負わせることが出来ると結論づけている。しかし、ハトン教授は、『彼の実験は、医学会の同僚から、疑わしいと受け止められている。』と書いて、懐疑的である。
 ノルドリングにしても『実を言えば、この話しはかなり空想的である。』としている。それでも彼は、『それを完全にあり得ないと断じることも出来ないのである。』と書き、『真偽の程は不明であるが、博物館の展示品として、Oxnevallaのボタンは発見された後、保存され続け』たと続け、王を殺害することが可能であった、種類と直径の物体を確認することが出来たのは幸いであったと書き記した。
 非常に馬鹿げている伝説ではあったが、ウップストレムとノルドリングの説は非常に説得力があり、これに合致する物体として、取り敢えず最新のDNA検査をこのボタンに対して施してみようと言うこととなった。
 その結果2002年6月、ウプサラ大学の博士Marie Allenは、長期間に及ぶOxnevallaのボタンのDNA解析を終了させ、2人の人間のDNAの断片を発見することに成功した。そのうちの1人の断片は、2つの真鍮の殻と塊鉄の間の中に残されており、もう1人の断片は、滑らかな真鍮の表面に残されていた。前者の断片は、カール王の手袋に残されていた血痕から発見されたDNAの一部と合致した。ただし、この断片と同じDNAを、すべてのスウェーデン人の約1%が保有していることも忘れてはならない。ともかくもこれは、極めて意味ありげな数値であった。また、真鍮の殻と塊鉄の間の中にDNA断片を押し入れるには握りしめられたり締め付けたりする力よりも強い力が加えられなければならないと推測された。暗殺説の論客は、着弾時の衝撃がそれには相応しいと考えている。

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結末


 2002年にスウェーデンで発売されたカール12世の最新の伝記「Karl XII En biografi」において、著者Bengt Liljegrenは、Grenanderの仮説は1994年のロルフ・ウップストレムの論文によって完全に論破されたとし、カール12世は暗殺の犠牲者になった可能性が高いと結論づけている。
 ノルドリングは、『犯罪者は小銃を、分岐点にほど近い新たな塹壕の胸壁の上に備え付けることが出来た。それはおそらく、王の左手方向5あるいは10mと言った場所だっただろう。暗殺者は、要塞からの砲撃音を待ち、それを聞くと同時に引き金を引けば良かった。銃口からの銃火は、王の側から後方に退いていた士官たちからは見えなかっただろう。そしてその銃声は、砲声に紛れることが出来た。』と自らの仮説を論文の中で書いている。そして、小銃には僅かな装薬しか込められていなかっただろうという推測は前述した。
『暗殺者は、硬い金属に包まれた銀あるいは鉛の弾丸を用いたと考えられる。このような被覆弾は19世紀中葉に至るまで導入されず、一般に利用されていなかった。硬い包みに覆われた銀あるいは鉛の弾丸と軽い装薬は頭蓋を貫通し、その後には鉛の痕跡を残さず、王の従軍医師による検死によってすらも発見できないほどだっただろう。それ故に、小銃や短銃が使われたという証拠は何一つ挙がらなかったと考えられる。その傷は、敵の散弾(葡萄弾 Grape shot)の直撃を受けたようにしか見えなかったはずである。』とはノルドリングのシナリオが実行された結果を推測した物である。
 しかし、果たしてこのような難しい偽装考察をすることが、当時可能だったのだろうか? 結論から言えば、それは可能だった。噂の人物ならば、間違いなく可能であった。彼は、当時まだ実用されていなかった被覆弾の有効性を認識していただろうし、至近距離からの射撃を遠方からの射撃に見せかけるのに必要な装薬の量も知っていただろう。より精確に、どれくらいの運動エネルギならば人間の頭を撃ち抜き、間違いなく標的の頭に痕跡を残さず殺害することが出来るのかを理解していたはずなのである。
 その男の名は、カール・クロンステッド。男爵にして少将。当時最高の砲兵将校であり、弾道学と兵器改良の大家。ガーデブッシュ会戦における彼の砲兵運用は神懸かり的であり、その後の砲兵運用に大きな影響を与えた人物である。
 しかし果たして、彼は王を殺すことが決意できたのだろうか? ノルドリングは以下のように考察している。
『クロンステッドの場合、それはあり得たのである。1719年1月のゲルツの裁判においても、クロンステッドは「非常に有害なノルウェー戦役」について焦点を置いた発言をしている。明らかに、彼は戦役を終わらせたいと考えており、それには王の死が必要であると理解もしていた。加えて、それはクロンステッドが持つ明確な戦争に対する立場を表明した最初の場ではなかった。陸軍元帥カール・マグヌス・ステンボック伯爵率いるスウェーデン軍が1713年に敵によって包囲され籠城した際に、クロンステッドは、まだ数ヶ月は充分に戦える兵力と物資を持っていたにもかかわらず、ステンボックに降伏するように提案している。』
 そして彼は、前述したように、カールを殺したと告解した噂があり、強硬なヘッセン派であり、ノルウェー戦役中に謎めいた発言をした人物であった。
 もちろん、彼にはその時別な場所にいたというアリバイがある。しかし一方で、その知識を使い、告解にあったように、暗殺者に武器と方法を伝授することは可能だったことも確かなのである。
 フレデリック伯は、カールの死とゲルツ男爵の捕縛から結果的に利益を得た。彼は噂されていたピョートル帝の娘とホルシュタイン公爵との結婚を恐れていて、それにより、公爵の王位継承が確実になると感じたのだろうか? たしかにこの結婚は遙か後に現実化し、ホルシュタイン家はピョートル3世を生み、エカテリーナ大帝の後、その子供(血筋に疑問もあるが)がロマノフ王朝を継いでいくこととなる。そしてまた、ホルシュタイン公カール・フリードリヒの従兄弟アドルフ・フレデリックは、フレデリック伯の死後、スウェーデン王位に就き、スウェーデン・ホルシュタイン・ゴットルプ王朝を開くことになるのは歴史の事実である。
 しかし本当にフレデリック伯は、暗殺を決意するほど追いつめられていたのだろうか? それともハトン教授が言うようにエーランド島からのゲルツの報告は、暗殺を決意させるほどの物ではなかったのだろうか? バルト海世界と言う言葉を広めたKibyはその著作の中で、この交渉について『関係者たちの動因と目的のもつれをほどくことは、簡単なことではなかった。』と述べた。基本的な講和条件、同盟条件での同意は為されていたが、細部の調整は非常に難しかったのである。歴史家たちは依然として、エーランド島の交渉は、ゲルツが生きていたとしても、破綻していた可能性は高い、と見ているようである。
 しかしその一方で、信頼性が不明な証拠として、少将ローゼンハイネ男爵(1685-1738)の死後35年経ってから世に現れた彼の証言もある。彼は、1718年11月30日の午後ずっとフレデリック伯が極度に神経質になっており、おおよそ午後8時ごろにシクレを王の宿舎に送り、シクレが王の死を伝えに午後11時頃戻ってきた時に、やっとフレデリック伯は普段の落ち着きを取り戻したと述べている。しかしながら、これが何処まで信頼できるのか、発表された時期、彼の政治的偏向を考えると、非常に難しい。
 思うに、すべては遅すぎたのである。あらゆる証拠はすでに歴史に向こうに過ぎ去ってしまった。フレデリック伯はフレデリック1世となり、暗殺の可能性に気付いた人々は婉曲にその意見を表明するのがせいぜいであった。そして仮に暗殺者がいても、フレデリックが王である限り、そしてゲルツが憎まれていたと言う記憶が残っている限り、その安全は保証されていた。しかもフレデリックは長生きした。ホルシュタイン公爵よりも長く生き、彼が死んだのはカールの死から32年以上も後のことであった。
 現在、カールの暗殺説を支えている証拠は、Sam Clason博士の鉛玉が当たれば小片が骨に食い込み残るはずであるという物。Hultkvist博士の着弾時の速度の計算。Muntheによるフレデリックステン要塞で当時使用された砲弾についての調査。この3つである。特に、ハトンに非難が載っているClasonの説が実際の所どうなのか、詳しく知りたいというのが私の率直な感想である。果たしてこれらの証拠に粗はないのだろうか?
 おそらく、この論争はまだ続くだろう。2005年6月12日のスウェーデン語版ウィキペディアは、デンマークの歴史家による調査によっても暗殺説は支持されていると記していながら、一方で、実際に何が起きたのかを証明することは出来ないとして次のように述べている。
『唯一確かなことは11月30日にカール12世が死んだと言うことである』
 果たして、カール12世は本当に暗殺されたのだろうか? 
 ニューマンは書き残している。 『神は、弾丸が要塞からの物か、別の場所からの物か、良くご存じである』

2005年に戦死説の有力な本が出て状況が変化している。追記を参照のこと。

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追記


 ウップストレムが1994年に論文を発表して以降、カール12世の暗殺説は一時期の壊滅状態から抜け出し、急速に力を付けている。しかし、まだ全世界に広まるには至っていない。アメリカのウィキペディアは、『根強く流れ弾ではなく、スウェーデン側からの暗殺を意図した弾丸であるとの推測が残っているが(当時彼は長引く戦争による重荷の所為でスウェーデンにおいて人気が無かった)、しかしそれが証明されたことは一度もない』としている。ウィキペディアはその性質上、一般人あるいは趣味人達の共通認識の最大公約数と見なせるので、カール12世の暗殺説が、まだアメリカにおいて一般的でないという証拠の1つになり得る。
 一方、日本において、カール12世の死に関する情報は、極めて不正確であった。1993年の武田龍夫氏の著作「物語 北欧の歴史」では、『1960年代になってスウェーデンの専門医学者たちが遺体を掘り出して調査した結論は、要するに何とも断定できないということであった。銃弾は後方自軍側からではなく、前方から、しかもわずか20メートルの距離からだった。』と記されており、これが広く流布しているからである。しかしこれまで見てきたように、王が左側から撃たれたことはほぼ間違いなく、また、1960年代に遺体を掘り返した(そもそも王の棺は教会内に安置され、土の中に埋まってはいないのであるが)記録もない。王の棺が開けられたのは、現在までに4回であり、それは1746年、1799年、1859年、1917年である。武田氏がどこからこの調査結果を持ってきたのか、知りたいところである。
 1992年に中央公論社から出版された「ピョートル大帝とその時代」においては、『カール十二世は背後からの銃弾に倒れたのである。ながれ銃弾≪だま≫ ではなく、おそらく彼の侍従武官によるものであった。』と、背後から撃たれたことになっていて、盛り上がりつつあった暗殺説の影響を感じさせながら、誤った記述になっている。これは、『弾は背後からうたれた、つまり内部犯行説が有力視されているが、頭蓋骨の科学的調査によっても決着はつけられていない。』と言う1997年に中央公論社から出版された「世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花」において、おそらく彼が書いたであろう文章にも踏襲されている。
 しかし2004年になり、早川智氏の記事「産科と婦人科・第71巻・11号 青い血のカルテ スウェーデン王カール12世の頭部銃創」により、ウップストレムやノルドリングの説が日本に紹介されることとなった。もっとも、この記事の中においても射撃の方向を左側ではなく右側とする誤りを犯しており、完全に正確とは言えない。
 また同年、ディアゴスティーニから出版された「週刊100人 歴史は彼らによって作られた No078 ピョートル大帝」において僅か数行ではあるが、『彼を殺したのは流れ弾ではなく、宮廷での対立を背景とした侍従武官の犯行だという説が濃厚である』との紹介文が載っており、暗殺説が静かに広がりを見せていることを感じさせた。
 ちなみに日本のウィキペディアは、武田龍夫氏の著作をほぼ踏襲しており、共通認識では、未だに暗殺説は打破されたままであることが分かる。もしかしたらこの文章を読んで、両論併記になるかも知れないがまぁそれはそれ。
 しかしDNA検査が正しいとしても全スウェーデン人の内1%が保有する断片が見つかって、カール12世もそれを保有していたってのは、どれぐらいの可能性なんだろうか? 当時から発見されるまであの付近にいたスウェーデン人の総計に1%を掛ければ、そのDNAを保有していた候補者の人数が分かるわけだが、考えると結構な数になる気がする。難しいところだ。

2007年11月追記
 その後"Karl XII:s död - gåtans lösning" (Författare: Peter From, förlag: Historiska Media i Lund, Utg.: hösten 2005).(「カール12世の死−謎は解けた−」)が発表され、「暗殺説」に対する「流れ弾による戦死説」の反論提起が行われた。私の語学力では読めないため、詳しい内容は不明であるが、著者Peter Fromによると、最新の法医学の見地と自身が行った実験調査から、カール12世の頭を貫いたのは、Grenanderが唱えたノルウェー側から放たれた葡萄弾の一発でもなく、ましてやノルドリングらが唱える暗殺者の弾丸でもなく、ノルウェー側から放たれたマスケット弾によるものであることが証明されたとのことである。この説にはスウェーデンの著名な歴史家ペーター・イングルンドも賛意を示しており、暗殺説を上回る説得力を持っているようである。果たして真実はどこにあるのだろうか? 取り敢えずKarl XII:s dödを読まないことには分からない。

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参考文献

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  • Hatton, R.M. Charles XII of Sweden. New York, 1969.
  • Hughes Lindsey. Russia in the Age of Peter the Great. London, 1998.
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  • Liljegren, Bengt. Karl XII En biografi. Falun, 2002.
  • Massie, Robert K. Peter the great. New York, 1995
  • Nordling, Carl O. The Death of King Charles XII . Fornsic Science International 1998+2003.
  • Voltaire, Francois-Marie Arouet de. The History of Charles XII King of Sweden. New York, 1993.
  • Svenska Wikipedia "Karl XII" ver.12 jun 2005
  • 武田龍夫 『物語 北欧の歴史』 中央公論社 1993
  • 土肥恒之『ピョートル大帝とその時代』 中央公論社 1992
  • 早川智 『Essay青い血のカルテ11 スェーデン王 カール12世の頭部銃創』 産科と婦人科,71巻,11号 2004
  • 渡辺紳一郎 『スウエデンの歴史を散歩する』 朝日新聞社 1947
  • 『週刊100人 歴史は彼らによって作られた ピョートル大帝』 DESGOSTINI 2004
  • 『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』 中央公論社 1997
  • and etc..

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