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ナルヴァと攻囲戦術

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 ナルヴァ会戦におけるスウェーデン軍の勝因は、しばしばロシア軍将兵の錬度不足に帰されるが、これは厳密に言えば正しくない。何故ならば幾つかの証拠が両軍の質に大きな差がなかったことを示しているからである。(1)そしておそらく、この会戦の勝敗を分けた原因の大半は、質の差でなく、純粋にロシア軍が採用した戦術に帰せられる。
 ロシア軍は当時の都市攻囲で一般的に用いられていた、対塁線(contravallation)と背塁線(circumvallation)を構築しての二重塁線による包囲方式でナルヴァを攻撃した。この方式は対塁線によって城塞都市を包囲し、攻囲の対象である都市の反対側を向く背塁線によって来援する敵から包囲する軍を守った。大抵の場合、都市外からの救援軍の方が強大な兵力を有しているため、背塁線は結果として対塁線よりも極めて強力な陣地となるように作られていた。
 この時代の背塁線は1522年にプロスペロ・コロンナがビコッカの戦いで用いた全周陣地を嚆矢としているが、攻囲戦に用いられた更に有名な古い例としては、古代ローマのユリウス・カエサルによるアレシア攻囲も挙げられる。そしてコロンナにしろカエサルにしろ、彼らはこの方式で素晴らしい栄光に輝いた。特にアレシアにおけるローマ軍は、都市からの反撃を対塁で防ぎつつ都市外からの援軍の攻撃を背塁で同時に防ぎ、ガリア軍に勝利した。
 このような結果から、二重塁線による都市の攻囲は欧州の戦術家たちの信頼を得て、16世紀から18世紀中葉まで広く使用されることとなった。例えば大コンデの弟子として名高いフランスのリュクサンブール公は1691年のモンス攻囲においてこの方式を用い、救援に現れたオラニエ公軍に対して陣地から出撃して敵軍を迎撃する代わりにモンスの周囲に築いたこの包囲線をフランス軍は堅持するべきであるとして、次のように主張した。「充分な兵力で完全に周りを囲む二つの塁線内に籠もるのであれば、それは優良な陣地から戦術的優位を手に入れる最良の方法であります、しかもこの方法は攻囲の中断も放棄も要さないのです」。ルイ14世はリュクサンブール公の進言を採用し、そしてこのとき、オラニエ公は救援軍を有効に用いることが出来なかったことも作用して、フランス軍はモンスを陥落させた。
 ロシア軍がナルヴァ会戦で用いたのは、この実績にあふれた常識的戦術方式であった。しかしながら実際には、この方式は積極果敢な救援軍に対して極めて脆弱であったのである。当時において既に要塞戦の大家であったヴォーバンは、背塁線はそもそも内在的欠陥を持っていると主張していた。そしてその事実は、既にスペイン軍が1654年のアラスと1656年のヴァレンシアでこの種の陣地を守って大敗を喫していることからも証明されつつあった。
 結局の所、二重塁線による都市の全周包囲には三つの大きな問題があった。まず第一にこの方式の塁線はその性質から長大にならざるを得ず、手薄な箇所をなくすために部隊を全周に配置しようとすれば、厖大な戦力を用意する必要があった。そして第二に、長大な円をなす塁線に離心的に満遍なく部隊を割り当てることは、戦力の集中の原則から外れ、多くの遊兵を作ることとなった。そして最後に、全軍が狭隘な塁線間に押し込められるため、軍の機動は制限され、兵力の優勢を活用することが不可能になった。
 つまり簡潔に言えば、積極的な敵の一点集中突破に対抗する方法として、この方式は不適切であった。カール12世自身も、ヴォルテールの伝記に従えばナルヴァ会戦の直前に、翻意を促す士官に向けて次のように述べている。
味方にとって有利なことが二つある。一つは此の戦闘では、敵の騎兵は何の役にも立たないといふこと。今ひとつは地形が狭隘なため、敵が大軍を擁するのは、却つて混乱を増すばかりだとだといふことだ。かう考へると結局味方が事実上優勢といふことになるだらう(2)
 そして結果はカール12世の洞察が妥当であったことを証明した。同様にカールよりもおおよそ1世紀後に高名を博したA.H.ジョミニは、戦争概論の中で次のように述べて対塁線と背塁線を用いた二重塁線による包囲を批判している。
往昔は、背塁線(circumvallation)と対塁線(contravallation)の中に自らを埋めてしまう、全軍を以てする都市全周包囲の誤った方式が広く行われていた。これらの線には、攻囲そのものと同じだけの、労力と経費が注ぎこまれた。この馬鹿らしい方式を非難するには、延長一五マイルにも及んでいたチューリンの全周包囲線(フランス軍七万の監視する)が、一七〇六年、ユージン王子四万の救援軍勢により、いとも簡単に打ち破られてしまった有名な戦例を引き合いに出すだけで十分であろう。史実は攻囲を援護する最善の途が、これに干渉することのできる敵野戦軍を撃破して、これをできるだけ遠方に駆逐してしまうことにあることを明証している(3)
 ここで挙げられたオイゲン公によるトリノの勝利は、戦術的状況がほぼ同様であるため、そのままカール12世によるナルヴァの勝利に置き換えることが可能である。そしてこれ以降、ジョミニが述べているように、二重塁線による方式は信頼を失い、援護部隊と包囲部隊の二つに軍を分け、敵の救援軍に対しては援護部隊を持ってこれの撃破を目指す方式がとられるようになった。この方式の成否は敵野戦軍の撃破に成功するか否かに左右されたが、ポルタヴァやフレデリックハルトにおけるスウェーデン軍を含め、都市を攻囲する軍はこの方式を採用するようになっていった。この方式の最も偉大な例は、マントヴァを巡る1796年の諸戦闘におけるナポレオンの作戦である。この戦役において彼は時に攻囲を一旦放棄してでも敵救援軍の撃破を目指した。そしてナポレオンはカスティリョーネを含む一連の戦いでオーストリア軍を撃破して、マントヴァを陥落させたのである。
 一方、二重塁線による方式は最終的に1740年代のオーストリア継承戦争最中のネーデルラントにおける諸戦役において完全に各国陸軍の戦術から放棄された。このときサックス元帥は包囲を援護する軍を率いて敵救援軍を打ち破り、数々の都市を陥落させている。
 これらの戦術分析から考えると、1691年のリュクサンブール公が積極果敢なオラニエ公と対決していたら、モンス攻囲中のフランス軍は撃破されていた可能性が高いと思われるし、ナルヴァにおいてロシア軍が陣地にこだわらず野戦を挑んでいたならば、戦力に劣るスウェーデン軍はロシア軍に少なくとも苦戦し、あるいは敗北していたかもしれないと思われる。つまりロシア軍の敗北は、当時の誤った常識を採用したことにより数の優位を効果的に活用することが出来なかったからであり、最初に述べたように決して兵士の質に帰する敗北ではなかったのである。

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◆この頁の参考文献及び引用箇所◆

引用箇所
  1. [本サイト>会戦>ナルヴァ会戦>一般摘要]
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  2. [ヴォルテール『英雄交響曲 チャールス十二世』訳:丸山熊雄 白水社 1942]pp102-103
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  3. [ジョミニ『戦争概論』訳:佐藤徳太郎 中央公論新社 2001]pp99-100
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主要参考文献
Duffy, Chriistopher. Fire and Stone. London, 1975. pp92-94

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