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カール12世と番号
イェート主義の影響

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 スウェーデン王カール12世とは、カールという名を持つ12番目のスウェーデン国王の意である。例えば我々は、フランク王ルイ(ルートヴィヒ)1世から始まりルイ18世で終わるルイという名前を持つフランス国王の事績を歴史的事実として知ることが可能である。しかしスウェーデンにおいて、この実例を当てはめることはできない。歴史上に、スウェーデン国王カール1世が実存しないからである。彼は建国伝説の中でのみ存在する人物であり、しかもその建国伝説は多分に恣意的なものであった。
 なぜならば、ノルウェーやアイスランドではサガ(saga)が豊富にあり、競合国家であったデンマークでは11世紀から北欧神話とサガを援用して建国伝説史が記述されて、12世紀から13世紀にかけてサクソ・グラマティウスがその典型「デンマーク人事跡集」を完成させていたにもかかわらず、スウェーデンにおいては、そのような試みが成果を挙げることがなかったからである。
 スウェーデンで自国の歴史についての記述が盛んになるのは、歴史書が確認され始める14世紀以降となるが、スウェーデンではサガなども盛んではなかったことから利用できる資料が根本的に少なかった。そのため存在が確実視されるウロフ王(在位994-1022?)あるいはその前代の王エーリク(945?-c995)以前の時代について、建国伝説史を創り上げることは、デンマーク側の資料を流用しない限り不可能であった。そしてそれらは、決して説得力があり、民族的誇りを満足させるものとはならなかった。
 しかしそれでも、デンマークからの独立を目指していた15世紀のスウェーデンにおいては、その正統性を主張する意味からも、隣国デンマークに対する反発に端を発する民族的優越の主張からも、建国伝説史は必要とされた。
 そこでスウェーデンでは別の資料に、建国伝説史を求めた。重要視されたのは、従来の北欧神話やサガではなく、後年にイェート主義(ゴート主義)と呼ばれるゴート人とスウェーデンを結びつける資料である。これはヨーロッパ・アジア・アフリカの三大陸を征服したとされるゴート人(ヴァンダル人を含む)の起源をスウェーデン南部のイェータランドとそこの住民であるイェート族に求める思想である。
 この説は、現在ではほぼ完全に否定されているが、6世紀中葉に東ゴート王テオドリックに仕えたとされるカシオドルスや、同時代のゴート人でビザンツの聖職者であったヨルダネスの「ゴート族の起源と事跡」、そしてこれらが著述された当時に広く人口に膾炙した、旧約聖書エゼキエル書第三八章に記載がある北の果て「マゴグのゴグ」をゴートと同一と見なす考え方を典拠にしている。
 スウェーデンにおいては、15世紀中頃ヴェクシェー司教でありウプサラ大司教となったニコラウス・ラグヴァルディがこの説を強く唱えて以後、デンマークからの独立闘争中であったスウェーデンに相応しい、勇壮で栄光に満ちた歴史を与えるゴート起源説は、急速に広まった。1470年頃までには、ウプサラ大学創立者の一人である神学者エリクス・オライが、前述したデンマークの歴史書「デンマーク人事跡集」を援用しながらも、この説に則った建国伝説史を書き表している。
 イェート主義の傾向は独立を果たし、宗教改革によりルター派プロテスタントの教義を国民が奉じるようになっても変化せず、むしろより強まった。グスタヴ1世・ヴァーサの即位により現代へと続く国家として独立を果たしたスウェーデン王国は、強大化していく過程の中で、歴史という厚みをこの説に求めたからである。そしてヴァーサ朝スウェーデン王家は最終的に、ヨハンネス・マグヌス(1488-1544)による「ゴート・スヴェーア諸王紀」の記述を公式見解としての建国史に採用した。
 ヨハンネス・マグヌスはスウェーデン生まれの神学者でウプサラ大司教ともなったが、若くして外国に渡って以後、故郷に戻る切っ掛けを失い、宗教改革によってスウェーデンが新教国家となってしまったため亡命を余儀なくされた人物であった。彼はローマで亡くなるまでの亡命生活の中で、民族的誇りを込めてスウェーデンの歴史を著述した。特に彼は建国史に力を注ぎ、ヨルダネスの「ゴート族の起源と事跡」とサクソ・グラマティウスの「デンマーク人事跡集」を含む多数の史書を利用して、エーリク王に至るまでのおよそ100名に及ぶ虚構の歴代諸王を創り上げた。ここでスウェーデン最初の王として据えられているのは、旧約聖書に記載されているノアの孫マゴグであった。
 この作品はヨハンネスの死から10年の後に彼の弟によってローマで出版され、スウェーデンに送られた。亡命カトリック教徒の作品ではあったが、その内容はスウェーデン人の自尊心を大いに満足させ、しかも説得力があったため、大きな影響力を持つようになった。そしてヴァーサ朝第二代スウェーデン国王でグスタヴ1世・ヴァーサの長子エーリクは、この記述を根拠に、エーリクという名を持つ14番目のスウェーデン国王としてエーリク14世と称して即位した。この結果、ヨハンネス・マグヌスが創り上げたエーリク王までの歴代諸王の物語を含め、「ゴート・スヴェーア諸王紀」はスウェーデンで最も権威ある歴史書となった。(1)
 こうして正式に王国の歴史に取り入れられたイェート主義は、スウェーデンが強国として歩む基盤の一つとなり、大いに利用された。例えばこのおよそ100名に及ぶ虚構の歴代ゴート諸王の中に6名のカール(カロルス)が存在した。そこでヴァーサ朝第五代国王となったグスタヴ1世・ヴァーサの三男カールは、自らが即位する際、兄エーリクに習って彼もまた「ゴート・スヴェーア諸王紀」に数えられる6名の虚構の王に実在する2名の王を(歴史学的なカール1世であるカール・スヴェンケルソンをカール7世とし、カール2世と称していたカール・クヌートソン・ボンデをカール8世として)算入し、自らをカール9世と称した。
 また、グスタヴ2世アドルフも戴冠式の際、ゴート人征服王ベーリクとして振る舞っているし、彼の敵もローマ教皇庁の援助を希う際には、スウェーデン軍はゴートの王アラリックの直径の後継者だと述べ立てたと言われている。
 カール12世自身もヴォルテールによる伝記の第三章によれば、ローマ教皇庁への不満を側近に向けて表したときに、彼の軍がローマ帝国をさえ屈服させた勇敢なゴート人の末裔であるとして次のように語っている。
かつてスウェーデン人はローマを屈服させたことがあり、其後ローマ人は堕落衰亡の道を辿ったにも拘らず、独りスウェーデン人のみは益々優秀な国民として隆盛を極めている(2)
 しかもスウェーデン国王の正式な称号には常に、「ゴート人、ヴァンダル人」の王としての称号がスウェーデン人(スヴェーア人)の次に冠せられていた。これは、ゴート人とその兄弟関係にある民族を含めて、ヨーロッパ・アジア・アフリカを征服したゴート民族の故郷であるスウェーデンの権威の普遍性(正統性)を主張する意味が込められており、この権威は三十年戦争以後、バルト海世界にのみに限定されたが、それでもスウェーデン・バルト帝国を支える世界観となったのである。
 この一つの帰結として、17世紀中葉にイェート主義を体系化したウロフ・ルードベックがいる。彼は、優れた自然科学者でありウプサラ大学で活躍したが、その一方で、カール11世の依頼によって、スウェーデンには日の沈まぬ(白夜の)領土があるがために永遠の繁栄が約束されていることを証明するため、北極圏への探検計画を実施した人物でもあった。彼は、1679年から死ぬまで著述を続けた「アトランティカ」の中で、プラトンが言う理想郷アトランティスはスウェーデンのことであり、全ての高度文明を生み出した民族の起源はスウェーデンにあったと主張し、イェート主義の形成の一つの頂点を極めた。
 このような主張には今では全く歴史的根拠はない。しかしそれでも伝統化された既成事実の影響力により、現在になってもカールの名を持つスウェーデン国王の番号は、「ゴート・スヴェーア諸王紀」に記載されている最初のカール(カロルス)を1番目として採番され続けていることもまた事実である。

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◆この頁の参考文献◆

引用箇所
  1. [本間晴樹『スウェーデン「建国神話」について』史友 第767号 1988年5月]p25
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  2. [ヴォルテール『英雄交響曲 チャールス十二世』訳:丸山熊雄 白水社 1942]p204
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主要参考文献
本間晴樹『スウェーデン「建国神話」について』史友 第767号 1988年5月 pp18-27
伊藤宏二『ヴェストファーレン条約と神聖ローマ帝国』九州大学出版会 2006
ヴォルテール『英雄交響曲 チャールス十二世』訳:丸山熊雄 白水社 1942
エドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史 第1巻』訳:中野 好夫 筑摩書房 1995

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