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行軍速度覚書

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スウェーデン歴にて表記
日付説明
170512月29日ワルシャワ西方Blonieを出発。4リーグ前進しヴィスチュラ河に到達。
12月30日ヴィスチュラ河を渡河。Okumiofを経てMichaelowへと前進。当初、ルブリンに向かうと思われた。
12月31日Stanislawに到着。
170601月01日Stanislawにて丸1日休息。
01月02日5.5リーグ前進し、Wengarowに到着。
01月03日Wengarowにて丸1日休息。
01月04日グロノドへと向かう街道に出て、Korovice村に到着。
01月05日ブーク川の畔にあるKrzimenkaに到着。
01月06日ブーク川の渡河に丸1日費やす。
01月07日ブーク川からPoplavineへと前進。
01月08日Poplavineで丸1日休息。この街はリトアニア大公国のPodlachia宮中伯領内にある。
01月09日Surasの街を経て、Borofskiに到着。その近郊でロシア軍小部隊と交戦。
01月10日Stabudowaに到着。到着できなければ、厳寒によって凍死していたかも。
01月11日Stabudowaで丸1日休息
01月12日StabudowaからKrimriへ前進。12時間(8:00〜20:00)かけて7リーグ前進。
01月13日Krimriで丸1日休息
01月14日Michaloviceの村に到着。グロノドまであと残り数リーグのにまで迫る。
01月15日グロノドから0.5リーグの地点でニェメン河を渡河。グロノドから出撃してきたロシア軍と交戦。
渡河後、Dziswicrow村近辺で露営。(グロノドから0.5リーグ)
01月16日グロノドの防衛線に1/8リーグまで迫る。ロシア軍を挑発するも、ロシア軍は出戦せず。
01月17日グロノドから1/4リーグ離れた地点に下がる。
01月18日グロノドから2.5リーグ離れた場所にあるSkalubwまで下がる。

 Bainは180マイル(288km)17日間の行軍と言った。Hattonは12月29日にワルシャワ西方Blonieを出発し、1706年1月15日グロノド近郊に到着と表現。
 また、Bengtsonは190マイル(304km)16日間の行軍と言い、ブーク川をKrzimecska村で渡り、1月14日、最後の36マイル(57.6km)の前進の後、グロノドの東、ニェメン河南岸に、1,8000名を率いて到着したと述べている。
 Massieはヴィスチュラ河とニェメン河の距離を180マイルと言い、1706年1月15日グロノド近郊に到着。当初4マイルの地点まで前進するも、その後、15マイルの距離に軍を置いたとした。
 Liljegrenは18日間360kmといった。軍の数はスウェーデン軍19,000にポーランド人部隊8,000名。

 オイゲン公子は、1706年6月から9月にかけてイタリア戦線において、大規模な行軍を実施した。彼は最終的に225マイルを約60日間で行進することに成功した(平均1日行程は3.75マイル(6km))。
 一方、マールバラ公は、1704年の5月から6月の間に、オランダからドナウ河にむけての見事な行軍をやってのけた。彼は250マイルを約5週間(35日)で行軍したのである。しかしその一方で、バイエルン救援に向かったタラール元帥も200マイルを36日で踏破する行進を行っている。これもまた充分に、当時としては意欲的な行軍だった。彼はその行軍により、ブレンハイムの敗戦により何もかもが失われたが、数的優勢を持ってマールバラ公とオイゲン公子の軍の後方連絡線を脅かすことに成功した。しかし彼のこの前進は、麾下の軍に大きな悪影響を与えていた。歩兵は疲れ果て、馬の多くは目的地に着く前に鼻祖にかかっていたのである。このことは、マールバラの軍が行軍が終わった後も良好な状態を保っていたこととは、対照的であった。
 上の2つの事例を見ても、当時の軍が1日に10マイル(17km)進むことが非常にまれだったと言うことが分かるだろう。オイゲン公子の平均1日行程は3.75マイル(6km)でしかなかったし、当時において「電撃的偉業」と称されたマールバラの行軍ですら、その値は、7.2マイル(11.5km)でしかなかった。(有坂氏の著作では1日平均12マイルと載っているが、これはkmの誤りではないだろうか?)
 この時代の平均1日行程は5マイル(8km)以下であった。
 これらと比較すると、カール12世が1706年1月に行った平均1日行程10〜11マイル(16〜18km)の行軍は、常識はずれの物であったことが分かる。更に言えば、マールバラ公の行軍はライン河の支援と、良好な気候と豊かな土地に立脚して行われたのに対し、カール12世の行軍は、真冬の痩せこけた土地で行われ、しかも河川を利用した物資輸送の支援も欠いていたのである。

 18世紀初頭、高価な野戦軍が不必要な戦いによって消耗するのを避けるために取られた戦争の形態を機動戦と言う。機動戦と書くと、何やら素早いイメージが湧くが、当時の実態はそれを裏切る物である。彼らの機動は、概してとても遅かったからである。彼らはノロノロと動きながら、敵の後方連絡線を互いに脅かし、戦わずして敵を後退させれば、それが通例、勝利とされた。会戦は、時折、敵よりもほんの少し素早く動け、そして上手く立ち回ることが出来る達人があらわれると生起した。

 24時間以内の行軍行程を1日行程と称する。実際には部隊の大小、行軍時間、道路の状態、天候、一日中の明暗の割合、および季節などによってそれぞれ異なるが、ごく普通の状況のもとでは、徒歩による1日の標準行程は25ないしは30kmである。

 プロイセン・マイル即ち歩行マイル(1マイルは1万歩)で、7532.484m=7.532484[km]

 近代の軍においては、3マイル(22.6km)が昼間1日の標準的な行軍行程である。しかし、行軍長径の大なる縦隊については、この行程は2マイル(15.06km)に減じられねばならない、これは行軍によって痛められた兵と物件とを回復するに必要な休止日を差し加えるためである。
 兵数8,000の1個師団が普通の道路で上記の行軍を実施すれば、平地でなら8〜10時間を要するし、また山地なら10〜12時間を必要とする。なお数個師団が1縦隊を成して行進する場合には、後続師団を逐次に遅れて出発させる時間を差し引いても、これになお数時間を加えなければならない。
 従ってかかる行軍は優に1日を要するし、重い背嚢を背負って10時間ないし12時間の行軍を続ける兵の労苦は、同じ3マイルを徒歩で普通に行進する場合とは、まるで比較にならないことが分かる。実際、単身でなら3マイルの行進は、悪路でない限り5時間もあれば充分である。
 1回だけの行軍なら1日行程が5マイル(37.7km)かあるいはせいぜい6マイル(45km)、また二日以上に渡るなら4マイル(30km)にもなればもう立派な強行軍である。
 5マイルの行軍はすでに途中で数時間の休止を必要とする。兵数8,000の1個師団ならたとえ良路を行くとしても、所要時間は16時間は下らないだろう。数個師団が綜合して6マイルを行進するとなると少なくとも20時間を見込まなければならない。

 部隊を日ごとに集合して数個師団あるいはそれどこらか数軍団を編成せねばならないというのに、それでも全軍の舎営を目的として実施するような行軍は多大の時間を要する。

 7年戦争では今日でもとうてい及び得ないような強行軍が実施されたのである。これを証明する実例として1760年にオーストリアの元帥ラーシがベルリンに迫ったロシア軍を支援してプロイセン軍の牽制を排除するために行った行軍をあげてみよう。この時彼は、シュヴァイドニッツからラウジッツ地方を経てベルリンまで45マイル(338.9km)の道程を10日間で行進したのである。それだから1日行程は4マイル半(33.9km)に達し、兵数15,000の軍団としては、今日でも瞠目に値する並々ならぬ行軍振りであった。

約30マイル(226km)を10日間で行軍している。しかしこれくらいの行軍速度なら、莫大な輜重を携えてザクセンとシュレージェン間を往復行軍したフリードリヒ大王にも良くし得たのである。

 フランス軍は52日間に約70マイル(527km)前進したが、この行軍の間に病兵と落伍兵とにより95,000即ち全軍の1/3を失ったのである。

17c-18cの時代において、行軍速度が遅かった理由は主に次の5つである。
1.大砲の重量と規格の問題
2.民間人の規模
3.補給の方式
4.地図の有無
5.前進の方式
これらはそれぞれが独立した理由ではなく、互いに関連する。
しかしいきなり総合的に考えるのは極めて分かりにくいので、
それぞれを独立して考える。

1.大砲の重量と問題
18世紀前半まで、大砲には野戦砲と攻城砲の区別がなかった。
そのため、歩兵隊に付属される一部の連隊砲を除き、すべての砲は、
攻城用の砲弾や装薬に耐えられるように頑丈に作られていた。
この結果、大砲は非常に重たく扱い難いものとなった。
しかも砲兵には多くの民間請負業者がおり、兵の扱いと同様に、
砲そのものの規格の違いにも悩まされた。
兵士ではないと言うことは、行軍時に逃亡する確率が高いと言うことであり、
規格の違いは砲兵段列の負担の増大・段列の大規模化に繋がった。

2.民間人の規模
18世紀前半にもなると、30年戦争当時ほどひどいものではなくなったが、
それでも、民間人の集団はつねに軍隊に付随した。
彼らは規律を乱し、彼らの持つ大量の荷物は行軍の足手まといとなった。
しかし彼らにしか提供できないサービスは、
当時の兵士たちを戦場につなぎ止めるのに非常に役立ち、
そのため、軍はその集団となかなか決別することが出来なかった。
しかも、身分の高い士官・将校らも自分たち専用の従卒や馬車を保有しており、
それらを軍隊に付随させた。
彼らもまた行軍の大きな足手まといであった。

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