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勝頼の戦略

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これは私が昔書いた落書きみたいなものです。あの頃は戦国にこっていた。ページ作る過程でデータが見つかって懐かしさのあまり載せることにしてしまった。カール君にはまったく関係ない話なので、あしからず。

元亀四年(天正元年)四月十二日以後の武田家の基本戦略方針は織徳同盟に対する攻勢防御であった。
これは武田家総帥、武田信玄の死去と密接な関係がある。 まず軍事的な影響を見てみよう。
これは前年に発動された第三次徳川制圧作戦の中断、と言う形で現れている。
この結果、支配領域を寸断され壊滅的打撃を受けつつあった徳川家は、回復の猶予が与えられ、織田家には、日本の中心領域たる畿内の制圧に十分な時間がとれるようになった。
そして逆に武田家にとっては、作戦が中途で終了したため敵領域に各拠点、つまり味方の城が突出する形となり劣勢に陥ることとなった。
これは、作戦を終了させた主力は帰国するため、これら拠点には最小限の兵力しか存在させられなかった為である。加えて、その中核となる兵力は、最近になって調略され寝返った諸将であり、極めて油断出来ない集団であった。 かくして、武田家の上洛計画は大幅な見直しが必要となり、体制を立て直すため防勢に回らざるを得なくなったのである。
さらに高次の問題も発生した。これは信玄在世中に明らかになりつつあった問題だが、信玄が死んだことによってより顕著に現れた。 それは、武田家の戦略方向が上洛を指向し、織徳同盟との全面対決が決定的になったと言うことである。
これは武田家の外交手腕を著しく縛ることとなった。つまり、信玄流の『戦わずして領土を獲る』が難しくなったと言うことである。現実の方策を述べると、織徳同盟と組んで後北条氏を攻める、という作戦がとれなくなった訳である。
以上が軍事的影響だが、さらに深刻だったのがそれ以外の問題である。
それはまず第一に、若年からくる勝頼のカリスマ性の欠如がある。
一般に、信玄は後世に言われているほど権力を持っていなかった。その為、有力古豪と血縁関係を結んで御親類衆として敬い、何をするのも配下の有力武将らと、合議をもって決めていた。
このことを証明する証拠として、俗に信玄家法と言われる法律にこんな一文がある。
『法度の条文については、晴信(信玄)自身も遵守する覚悟なので、もし違背するようなことがあったら誰でも遠慮なく申し出よ』
これはまだ晴信だった頃のことだが、信玄は終世、独裁権を行使できなかったのは確かである。
その為、信玄はカリスマ性を磨くことによって、家臣の信頼を得ていった。これが後に『鉄の団結』と言われた家臣統率術の元であった。 このような晩年期の信玄のカリスマ性をまだ二十八歳の勝頼に求めるのは酷と言うものだろう。
こうして団結が無くなれば、結果として争いが生まれるのは当然である。 そしてこれに輪を掛けたのが第二の原因である。 これは信玄が、後継者をはっきり決めていなかったと言う問題から発生している。
一般に勝頼陣代説が根強いが、少なくとも元亀二年以降は、勝頼に後を継がせようと努力していたことが確認されている。
とはいえ、それまで他家を継いでいた勝頼は、本家の人間や家臣と面識が少なく、余り歓迎されなかった。また御親類衆には、今まで同列に扱われていたことから、軽んじられていたことが容易に推測されるのである。
これらのことから、信玄の思惑とは裏腹に勝頼を後継者と見る土壌は発生し無かった。これが、勝頼陣代説が発生した元であろう。
このように勝頼は、正式な後継者として信玄の後を継いだにもかかわらず、信頼が伴われていなかった。この結果、勝頼には諏訪時代からの側近を頼るしか道はなく、第三の原因が表に現れてしまうのである。
第三に家臣団の内部抗争である。
武田家の家臣団には、その他多くの組織と同じ様に幾つかの派閥が存在した。それを大まかに分けると、譜代内務臣僚衆、勝頼側近衆、御親類衆、宿老衆(実戦武将派)、先方衆(外様武将派)である。この他に、御親類衆を含む、土豪の集団である国人衆が存在するが、武田家中枢に対する影響力はさほどでもなかった。勿論、末端地域における国人衆の力は武田家の軍事力、警察力として不可欠の物ではある。
この派閥の対立関係は、勝頼新体制側は利害の一致した前二つで、それに対抗する形で宿老衆と親類衆がそれぞれ争い、先方衆は寝返りを含めて様子見、と言った状況である。国人衆は各々の地域の利害によって行動しているため、統一した行動はとることが出来なかった。
つまり、家臣団としての統一行動がとれなくなっていたのである。 これら三つの原因によって、武田家の秩序は崩壊寸前の惨状となった。この中で勝頼は家臣を統率しなければならなかった。そして、勝頼にとって打開策は一つだった。

では、勝頼の実際の行動からその打開策を見てみよう。 これらの状況が表面化したのは、元亀四年(天正元年)五月以降の徳川家の反撃以降であるから、勝頼が総帥としての能力を本格的に見せたのもこの頃からだろう。
この時勝頼は、父を見習うべく軍議を催した。しかし、信玄死亡の衝撃から覚めていない家臣たちは出陣を見合わせ、内政を重視するよう進言した。しかし勝頼は、新参の支城主達の動揺を押さえる必要から出陣を主張、家臣たち、特に宿老衆と対立してしまった。結局、勝頼は中途半端な折衷案を採用した。これは御親類衆を中心とする戦力を出陣させる代わりに、自身の出陣はあきらめ、内政、特に武田家総帥としての立場固めに専念する、と言うものであった。
しかし、結果は散々であった。武田軍は長篠城等を失い、戦わずして逃げ帰ってきたのである。信玄なき武田軍は士気の低下が著しく、中途半端な戦力では使い物にならない事が明らかになったのである。
このままでは、内部規律が回復する前に裏切りが続出し国が滅ぶ、勝頼はそう現状を認識した。
そして勝頼は迅速に方針を決定した。それは重臣の意見を無視し、攻勢をもって支配領域外縁部を守り、その過程において信長との決戦と内部規律の回復を目指すという前述の打開策の実行であった。つまり武田家は、新政権の命運を賭けて攻勢防御という行動に打って出たのである。
かくして翌年の始めから攻勢防御作戦が行われ、その成果として一月から四月の東美濃防衛線の立て直し、五月から六月まで行われた遠州高天神城攻城戦の成功といった嚇々たる戦果を上げるに至った。
これらによって、第三次徳川制圧作戦中止以来懸案だった敵領域内の各拠点の安定化に成功した。
しかし、内部結束は、激しさを増す派閥抗争と、進言を無視する勝頼に対する批判、そして、それに対する信玄賛美の声の前に失敗した。
また財政の悪化も顕在化した。絶え間ない出陣による軍事出費の増加に加え、金山の枯渇と言う問題が発生したからだ。これは動員力の低下に繋がり、大軍の動員が難しくなったことを示していた。
さらに動員力低下の根本原因も露呈した。前述のように確かに金山の枯渇も手痛い打撃だったが、それ以上に深刻だったのが領民が豊かになってしまったということであった。このことは信玄の治世になって領域内での戦闘がなくなり田園の荒廃がなくなり、治水事業が行われ産業が興され農業が盛んになったからである。これにより領民は家族や財産を守るために戦うという意識を失い、兵役を忌避し金で解決したいと思うようになっていた。
それに比べ織徳同盟側の状況は徐々に回復していた。織田家は畿内の制圧に目途をつけ、活発な経済地域を基盤にした軍団を整備しつつあり、また徳川家は、織田家支配領域と言う広大な後方地域の援助が受けられるようになり、戦争に専念出来るようになっていたのである。
だが、勝頼の攻勢防御作戦は失敗した訳ではなかった。そう、この作戦は徳川支配領域を徹底的に寸断していたのである。
もうあと一歩であった。織田家の力がまだ東に作用しきれていないこの時期こそが、徳川を叩く絶好機であった。
だから勝頼は出陣した。
それが天正二年の二度目の出陣であった。
今までこの出陣はあまり重要視されていなかった。なぜなら華々しい同年はじめの高天神城攻防戦や翌年の壮烈な長篠会戦の狭間にあって、それに関する資料も少ないからである。
しかし少ない資料から見るとこの勝頼の軍事行動はあまりに決定的なものだと分かるのである。
それは武田軍の驚くべき情報操作の成果であった。
具体的なそれは伝わっていないが、おそらくそうだろう。
以下は想像である。

始まりは『信玄は確実に死んでいる』という重大情報の流布であったのではないか。
勿論、織徳同盟側の諜報機関は『信玄は多分死んだ』という情報は掴んでいただろう。だが、それは確実な情報ではなかったはずである。なぜなら甲州乱破の厚い鉄のカーテンが、最後の一線を死守していたはずだからである。
しかし、突然それが破れたとしよう。
当然の如く、織徳同盟の諜報機関は、真偽を確かめるために多くの間者を送り込むだろう。
そして次の情報がやって来た。『武田軍、美濃三河国境沿いに出陣』それがその内容。
事実、武田軍主力は姿を消し、その一部は明智城付近に進出しているのが、確認されるはずだ。
こうして家康はおろか、信長までもが騙されたのだ。
確かに二つの情報は真実であった。だから用心深くあらを探しても情報の真実味は増すばかりだっただろう。
そしてそれこそが、勝頼の望んだことであった。 武田軍はもはや無価値となった情報と、今現実に起こっている軍事行動の情報を、大量に流すことによって、その真偽の確認と情報判断者の連想を意図的に操作したのである。
つまり、真実でなおかつ種類と時間軸の違う、そして相手が望む情報を、大量に流すことによって、相手の諜報機関の注目を引き付け、結果として、それら情報を結びつけるようなもっともらしい理由付けを相手自身にさせる、ということである。
これに織徳同盟はまんまと引っかかり、以下の如き思考を辿ってしまったと推測する。『信玄は確実に死んでいる→だからそれを隠すため積極的に部分侵攻を武田はしていた→故に今度の予想より早い武田軍の行動も、情報の漏洩に焦った新総帥勝頼が、武威を誇示するために行った東美濃、もしくは北三河への部分侵攻である→それは情報の混乱が明確に物語っている』それは、今までの武田軍の行動全てを説明できる内容に、仕上がるのである。
結果、信長は長島に出陣したまま岐阜に戻らず、家康も六月の高天神城落城の痛手からの回復のため出陣せず、その対応は酒井忠次と石川数正に六千を預けて、北三河美濃口へと出兵させるにとどまった。
織徳同盟軍首脳部は、長島の一向一揆鎮定後の天正三年こそが決戦の時と考えたのである。彼らは武田軍が年内に決戦を望むとは思っていなかった

これら推理が正しいかどうかは定かではない。しかし現実に勝頼は現れた。天正二年九月七日、そこは浜松から二里の距離だった。遮るものは天竜川のみだった。
徳川軍は相当焦っただろう。敵主力がいきなり正面に現れたからである。さらに加えて味方の兵力はかつてとは比較にならないほど少なく、蹂躙されるままの徳川家に近隣豪族、国人衆も嫌気がさしていたからである。そして信頼に足る部隊は北三河美濃口に釣り出されていた。
しかし武田軍は天竜川を越えることはなかった。通年よりも早い川の増水に遮られたからだ。勝頼の無念はいかばかりであっただろうか?
こうして勝頼は何の成果も残せず帰還し、天正三年長篠において大敗を喫するのである。
もしもう少し川の増水が遅ければ。 はたして歴史はどう変わっていたのだろうか?

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